Épisode 33「君の涙は甘いな」



 女のすすり泣く声だ、とヴィクトルは思った。

 不思議と無視できない泣き声で、嗚咽の合間に何かを呟いている。


 ――……ル、おねが……死な……いでっ。


 必死に懇願する声は、ヴィクトルの心をざわつかせた。

 こんな泣き方はさせたくないと、自然に思った。

(そうだな、泣かせるならもっとこう、怒りながら目尻に涙を溜めるような、そんな泣き方をさせたいな。からかいがいがある)

 どこまでいっても鬼畜は治らない。

 また聞こえた女の泣き声に、ヴィクトルは苦笑した。

 本当は初めからわかっていた。それが、ユーフェの泣き声だと。彼女が自分の名前を呼んでいることにも。

 でも鬼畜な彼だから、少しだけ聞いていたかったのだ。彼女が、自分のために泣く声を。

 聞いてみて思ったのは。

(これはよろしくない)

 全然、ひと欠片も、嬉しくなんてなかった。嬉しいよりも、罪悪感で胸を焦がしそうだ。誰かに申し訳ないと思うなんて、ヴィクトルにとっては彼がレオナールに謝罪するくらいあり得ないというのに。

 次第に、身体が温かいものに包まれる。

(仕方ない。君を遺して逝くわけにはいかないし、起きてあげようじゃないか)

 どこまでも尊大な態度だ。

 でもその顔は、驚くほど甘く優しく蕩けている。こんな顔を彼の従者が見れば、間違いなく正気を疑われるだろう。

 声の導く方へと、ヴィクトルは手を伸ばした。




「――ああ、君の涙は甘いな」

 開口一番にそんなことを言う彼に、いつもなら怒ってみせるユーフェも、今だけは怒る気にもなれなかった。

 ただでさえ涙でぐしゃぐしゃの顔を、さらにくしゃりと歪める。

「目覚めの、気分は、如何ですか、王子さま」

 嗚咽を漏らしながら、彼女は笑おうとして失敗した、下手くそな笑みで問いかけた。

 その瞬間、ヴィクトルが勢いよく身を起こす。

「まさか君からキスしてくれたのか⁉︎」

 さっきまで死にかけていたとは思えないほどだ。

 どうやら気を失っていた時間はそんなに長くなかったらしく、彼は時計台から外に出たところで寝かせられていた。なんと、ユーフェの膝枕で。

 視界に入った時計台は、町のシンボルというには無残な姿になっている。おそらくダニエルが暴走させた魔法のせいで、時計台が崩れてしまったのだろう。

 周りを見渡せば、ヴィクトル以外は全員無事のようだった。皆一様に、ヴィクトルの目覚めに安堵の表情を浮かべている。

 しかし、何かが引っかかった。ヴィクトルは目を細める。

 まるで、安堵の表情の中に、隠しきれない悲しみの色まで滲んでいるような気がして……。

「いいの、ユーフェ?」

 ここにはいなかったはずのリュカの声が、ふいに耳を震わせた。

 よくよく観察すると、レオナールに肩を抱かれるようにして、フラヴィもいる。

 自分だけが状況についていけていない現状に、ヴィクトルは困惑よりも苛立ちを募らせた。何か大事なことを隠されている気分だ。

「フランツ、何があった。説明を――」

「あ、あのねっ、ヴィクトル。こんなときにあれなんだけど、聞いてほしいことが、あってね?」

 遮ったのは、若干の涙声で、それでも妙に明るく振る舞うユーフェの声だ。

 まるで葬儀のような雰囲気に、さらにヴィクトルの苛々が増していく。

「私ね、本当は魔女なの。何を今さらって思うかもしれないけど、ちゃんと言っておきたくて……。それで、じ、実は私っ、ヴィクトルのことが、好き、みたいで……っ。自分でもびっくりなんだけど、なんかいつのまにか好きになってたらしくって。ほんと、趣味悪いよねっ。ヴィクトルなんて、勝手で、強引で、優しくなくて、人前でも遠慮なしにキスするような、最低男なのにね?」

 早口でまくし立てる彼女は、きっと気づいていない。

 その翡翠の瞳に、じわじわと新しい涙が溢れてきていることに。自分の呼吸が、だんだんと荒くなってきていることに。

 彼女を見つめるヴィクトルの瞳は、刺すように鋭い。

「でもね、あなたに出会えてよかった。あなたが私を救ってくれた。意外とその強引なところ、嫌いじゃなかったの。優しくないくせに、本当は優しいから、そんなところも好きだった。最低だけど、私にとっては最高の人だったの。だから、ありがとう。あなたは王子様だから、えないかもって思ってたけど……聞いてくれて、ありが――」

 全てを言い終える、その直前で。

 ユーフェの視界が反転した。背中には柔らかい土の感触がある。

 視界の先には青空と、それよりもずっと綺麗な湖面の瞳があった。

 驚きすぎて、ユーフェは目を瞬かせる。

 ヴィクトルはやはり忌々しげに顔を歪めていて、一つ舌を鳴らすと、懐から取り出した小型ナイフで何のためらいもなく己の腕を切った。

「飲め」

 頬に彼の血が滴り落ちていく。

「飲め!」

 苛立たしげに彼が叫ぶ。

 驚きに固まっていたユーフェは、力なく首を横に振った。

「いいから飲め!」

「や……絶対に嫌っ」

「くそっ。おかしいと思ったんだ。リュカは泣きそうな顔をしているし、おまえの妹なんか目も開けられないほど腫らしてる。極めつけは俺だ。は、どう考えても無傷で済むようなものじゃなかった!」

 ユーフェの顎を無理やり掴み、ヴィクトルは己の血を飲ませようとする。己の――ル・ルーの一族の血を。

 けど、ユーフェは頑なに口を開かない。いやいやと首を横に振り続ける。

 そんな彼女に、ヴィクトルはさらに自分の腕を近づけた。

「やっと全てが繋がった。君が癒しの女神なんだろう? そうすれば俺の無傷も納得がいく。馬鹿か。誰が無傷にしろと言った?」

「ば、バカはあんまりじゃない⁉︎」

「ああ、ああ、君は馬鹿だ。何度でも言ってやる。俺に死んでほしくなかったんなら、死なない程度に治せばよかったんだ。それをものの見事に綺麗にして、自分が死にかけてたら意味がないだろう⁉︎」

「仕方ないじゃない! だって怖かったんだもん! あなた全然目を覚まさないし!」

「君が俺を想って泣くから悪い!」

「何で私のせいなのよ⁉︎ だいたいそれだって仕方ないでしょ! 私は、あなたが好きだから……っ」

「だったら飲めと言っている! 俺に置いて逝かれるのが怖かったんだろう? 死なれるのが嫌だったんだろう? 俺に同じ思いをさせるつもりか⁉︎」

「っ、」

 はあ、はあ、と互いに肩で息をする。

 ユーフェは弱々しく「でも」と口を開いた。

「でも、だって……」

「味の文句は受けつけない」

「違うわ! そうじゃ、なくてっ。だってあなたは、餌なんかじゃ、ないのにっ……」

「!」

 そこでようやくユーフェが渋る理由に思い至ったヴィクトルは、はぁーと長い長いため息を吐いた。

「なんだ、そんなことか」

「そんなことじゃない!」

 思わず噛みついたユーフェである。が。

「残念ながらそんなことだ、俺にとっては。そんなことより、君に死なれるほうが困るんだ」

 思いもよらない告白に、ユーフェの涙がぴたりと止まる。

 だって、自分を見つめる彼の瞳が、あまりにも優しくて。声には切実な響きが伴っていた。

 どんどん顔に熱が溜まっていく。その熱を逃がそうと、無意識に口をパクパクさせていると。

「隙あり!」

 途端瞳を煌めかせたヴィクトルに、無理やり彼の腕を口に突っ込まれた。雰囲気も何もあったものじゃない。

「とにかく飲め。零すなよ。零したらお仕置きだからな」

「⁉︎」

「別に俺だって、全ての魔女が憎いわけじゃない。俺が憎いのは古の魔女だ。こんな馬鹿げた一族を作り上げ、今も作ろうとしている連中だ」

 ヴィクトルの話を聞きながら、勝手に流れ込んでくる彼の血を、ユーフェはこくりと嚥下した。

 すると、身体中が歓喜に震えた。

 足りない魔力を補おうと、本能はさらなる血を欲する。抗いがたいその衝動を、怖く思うと同時、その甘美さに酔いしれる。

 彼の血は甘かった。極上の蜜のように、その甘さが心にも沁み込んでいく。

「だからリュカや、君のような魔女は嫌いじゃない。それに俺は言ったな? 君に恋をしていると」

 彼の言葉を聞きたいのに、初めての蕩けるような感覚に、次第にユーフェは夢中になっていく。

「せっかく惚れた相手が自分にも惚れてくれたんだ。みすみす逃すわけがない――って、聞いてないな」

 陶然と自分の血を飲むユーフェに気づいて、ヴィクトルは眉尻を下げた。彼にしては珍しい、何の邪気もない表情だ。

 けど残念なことに、今のユーフェは気づかない。

 結局、彼女が満足するまで好きにさせた結果、彼は従者におぶられるという、彼にとっては屈辱的な状況に陥る羽目になったとか。

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