Épisode 15「彼、わたくしにちょうだい?」


 ***


 コンコン、と部屋の扉がノックされる。

 ユーフェが用意してもらった客間は、さすが伯爵家だけあって、自分の寝室の三倍以上はありそうだ。

 ベッドには天蓋がつけられており、そこから乳白色の天幕が垂れている。ドレッサーやテーブルには、コルマンド伯爵家の家紋である馬の意匠が施されていた。ソファも絨毯も、全てが文句なしのふかふか具合だ。

 部屋は有り余っているという伯爵から、ユーフェたちには一人一部屋が与えられた。

 もちろんレオナールとヴィクトルには、この屋敷の中でも一番広い客間が用意され、夕食まではそれぞれみんな、自分に用意された部屋へと引き上げている。

 ユーフェも、急に襲ってきた様々な出来事を整理するため、今は一人になりたかった。

 が、ノックの音でそれができなくなる。リュカだろうか。自分を訪ねてくるなんて、彼しか思いつかない。

「今開けるわ」

 扉をがちゃりと引いた。

 そこにいたのは、予想もしていなかったフラヴィだ。いや、本当は、頭の片隅では予感を持っていたのかもしれない。

 だから彼女の姿を見ても、そこまで驚きはしなかった。

「フラヴィ……」

「中に入ってもいい? お姉様」

「え、ええ」

 疑問形だったのに、そこには有無を言わさない圧力があった。

 フラヴィは言われるまでもなく、部屋にあるベルベッドのソファに座る。

「お久しぶりですわね」

「そ、そうね」

 自分に与えられた部屋だというのに、ユーフェは居心地悪そうに立ったまま。身体の前で両手を握り合わせて、ひたすら絨毯を見ていた。


 ――〝俯くな!〟


 バッ、と顔を上げる。脳裏にヴィクトルの声が響いて、反射的に背筋が伸びた。

(……そうよ、俯いちゃだめ。俯いたら、また同じことの繰り返しだわ)

 トラウマの元凶がいる今こそ、そのトラウマを克服するのにちょうどいいタイミングではないか。ユーフェ自身が、さっきそう思ったのだから。

 いつまでも逃げ切れるわけじゃない。

 いつまでも逃げたいわけじゃない。

 深呼吸をしてから、口を開いた。

「と、ところでフラヴィ。わざわざ、どうしたの?」

「やだわ、お姉様。本当はわかってるくせに」

 そう言われても本気でわからないユーフェは、困惑する。

「ねぇ、お姉様。ヴィクトル様と、どうやってお知り合いになったの?」

 無邪気な、子供のような笑みだ。変わっていない。

 だからユーフェは悟った。その笑みで何かを尋ねられるときは、必ず最後にこう言われるから。

 ――〝それ、フラヴィにちょうだい?〟

「だ、だめよ」

 考えるより先に、ユーフェは拒絶していた。

「お姉様?」

「だめよ、彼は。そもそも彼は、私のものじゃないもの。だから」

「まあ。ふふ、下手な嘘はよくないわ、お姉様。だってわたくし、見てしまったもの。廊下でキスしていたでしょう? ヴィクトル様と」

「!」

 顔に熱がのぼる。鏡を見なくてもわかる。きっと今の自分は、耳まで真っ赤になっていることだろう。

「たかがキスでそうなるなんて……お姉様、もしかしてとても初心なのかしら。リュカ、だったわよね? あの子と一緒に暮らしているのでしょう? 何もないの?」

 一応、人見知りのユーフェでも、本から得た知識はある。薬草のことだったり、人との接し方だったり、はたまた男女の関係だったり。

 フラヴィの言っていることを理解したユーフェは、首が引きちぎれそうなほど横に振った。

「まあ、そうだったの? でも、彼に助けられたのは事実なのよね? だったら彼には感謝しなくちゃ。だって、おかげでこうしてまた、お姉様とお会いできたのですもの!」

 恍惚と語る妹に、ユーフェは無意識に一歩下がった。

 それを見て、フラヴィが意味深に「うふふ」と口角を上げる。ソファから立ち上がり、ゆっくりとユーフェの許に歩いてくる。

 まるで未知のものに追い詰められていくようで、ユーフェもまた、少しずつ後ずさりしていった。

 が、ついにベッドの縁に足が当たる。かくんと座り込んでしまった。

 フラヴィの手が伸びてきて、恐怖に固まる姉の頬を、彼女はやんわりと包み込む。

「ねぇ、お姉様」

 これは天使の微笑みか。それとも悪魔の微笑みか。

「彼、わたくしにちょうだい?」

「……や……いや、よ」

 ゆるゆると首を振る。

 ユーフェ自身、不思議だけれど、どうしても頷きたくなかった。

 昔だったら文句も言わず、曖昧に笑って、言われるがまま妹の欲するものを渡してきたのに。

 明確な拒絶が自分の口から出たことに、ユーフェ自身が意外に思う。

 しかし、フラヴィはそれを全く気にした様子もなく、むしろ機嫌よく姉を見下ろした。

「ふふ。お姉様がここまで嫌がるなんて、ますます欲しくなってしまったわ。ではお姉様、こうしましょう? 彼のほうがわたくしを選んだら、お姉様は二度と彼には会わないこと」

「そ、んな……っ」

「きゃあ!」

 ユーフェが絶望に青ざめたとき、フラヴィが黄色い悲鳴を上げた。その頬はなぜか桃色に染まっている。

「やだわお姉様! お姉様ったら、そんなお顔もできるの? とっても素敵。わたくし、お姉様のそういうお顔が大好きよ。もっともっと困らせたくなってしまうの。だから、ねぇ。わたくしが我慢できるうちに、頷いて? でないとわたくし、つい口を滑らせてしまいそうよ」

「口を……?」

「お姉様が、魔女だってこと」

「!」

 それは、ユーフェが最も秘密にしたいことだ。特に彼にはバレたくないと思った。

「そのご様子ですと、やはりあの方にはお伝えしていないのね? しかもお姉様は、バレたくないと思ってる」

「フラヴィ、それは……」

「当然ですわよね? あんな凶暴な力が身の内にあるなんて、好きな方には知られたくないですもの」

「……え? 好きな、方?」

 ここで思ってもないことを言われて、ユーフェは目をぱちくりと瞬いた。

「とぼけても無駄よ。だからヴィクトル様を渡したくないのでしょう?」

(好、きな、方)

 フラヴィに言われたことを、もう一度内心で繰り返す。

 それは一種の衝撃をもって、ユーフェの脳を揺さぶった。好きな方、好きな方。何度も何度も繰り返して、その意味を必死に理解しようとする。

(好き……私が、ヴィクトルを?)

 そんなバカな、と思うのに。

 理解した途端、冷めていた熱が、今度は全身に巡った。

「あ、ちがっ、私は別に、そんな……っ」

「だから今さら無駄ですわ。覚えてらっしゃる? お姉様が、初めてわたくしに反抗したお人形のこと。あれと同じですわ。お姉様って、ご自分が執着しているものは意外と渡してくれないの。あれはレオ様からもらったものだったでしょう? 知っているわ、好きでしたものね、彼のこと。そして今は、ヴィクトル様、かしら?」

「っ」

 違う。好きじゃない。あんな優しくない男、好きになんかならない。

 そう言いたいのに、口から出てこない。まるでその気持ちを否定するなと、彼に言われているような気がして。

 でも、今ここで肯定すればどうなるか、わからないほど馬鹿じゃない。

「フラヴィの、思い込みよ」

 必死の思いで否定する。

 けれど、それを嘲笑うように、フラヴィは残酷なほど可憐に微笑んだ。

「なんていじらしいのかしら。わたくしにとられると思って、そんな真っ青なお顔で否定するお姉様は、とっても惨めで素敵だわ」

 頬を上気させる妹が、ユーフェの目には未知の生き物に見える。

 だから、ユーフェは妹が怖かった。未知のものを怖がるのは、人の本能だからだ。

「ああ、なんてかわいそうなわたくしのお姉様。彼は、わたくしとお姉様、どちらをお選びになるのかしらね?」

 艶然と言い残して、フラヴィは部屋を出て行く。

 ざわりと胸が騒いで、ユーフェは咄嗟に彼女を追いかけた。部屋を出て右に、フラヴィの後ろ姿がある。

(止めなきゃ)

 予感があった。フラヴィはきっと、このままヴィクトルに会いに行くだろうと。

 彼女が角を曲がる。その直後、

「きゃっ」

 かわいらしい悲鳴が耳に届いた。慌ててユーフェもそこに向かう。

「これは失礼、オルグレイ嬢。お怪我は?」

「いいえ、ございませんわ。ヴィクトル様は?」

「私もどこも。お互い、曲がり角には注意しないといけませんね」

「ええ、本当に」

 ユーフェは自分の運の無さを呪った。まさか、目当ての彼に会いに行くどころか、偶然ぶつかってしまうなんて。

 ユーフェの目に飛び込んできたのは、恭しくフラヴィの身体を支えているヴィクトルだった。その光景を視界に入れてすぐ、ユーフェはパッと身を翻す。曲がり角の陰に隠れて、ごくりと息を呑む。

(なんで私、隠れたの?)

 自分で自分の行動に疑問を持つ。別にやましいことをしているわけでも、されているわけでもない。

 でもただ、一瞬でも目の当たりにしてしまった二人の姿が、あまりにお似合いで。

 傲慢、尊大、自分勝手なヴィクトルも、顔だけは誰もが称えるほど整っている。社交界に舞い降りた天使と呼ばれるフラヴィと、それはもう違和感なく並び立てるほど。

(フラヴィ、本気なの?)

 背中に冷たい汗が流れる。

 彼女が本気なのは、誰よりもユーフェが知っているはずだ。昔はその被害によく遭っていたのだから。

 けれど、仮にも彼女は、レオナールの婚約者。トネリア王国第一王子の婚約者という立場の彼女が、まさか本気でヴィクトルを狙うとは思えなかった。頭の片隅には、そんな淡い期待よゆうがあった。

 なのに。

「そうだわ、ヴィクトル様。ちょうどわたくし、今からヴィクトル様にお会いしに行こうと思っておりましたの。レオナール殿下のご友人であるあなた様に、少しご相談に乗っていただきたいことがありまして」

「もちろん、私なんかでよければ」

 快諾するヴィクトルに、ユーフェの心臓がツキリと痛む。

(本気、なのね)

 本気でフラヴィは、ヴィクトルを自分のものにしようとしている。彼女の姉だからこそわかる勘が、そう言っている。

 レオナール殿下はどうするの? とか。それでは浮気じゃない、とか。

 そんな建前は、一つも浮かばなかった。

 ただただ、嫌だ、と。

「こんなところではゆっくりご相談もできませんし、わたくしの部屋にいらっしゃらない?」

(っ、やだ、やめて。行かないで……っ)

 だって彼は言った。ユーフェに、俺を見ろと。俺だけを見ていろと。

 でもそこで、ユーフェは気づく。彼は確かに、自分だけを見ろとユーフェには言った。けど、彼もユーフェだけを見ると言ったかというと、そうではない。

 そうではないということに、ユーフェは今さら気がついた。

「……レオナールには?」

「もちろん、伝えていませんわ」

「ふ、悪い子だね。でも、嫌いじゃあない」

「では来てくださる?」

「喜んで」

 二人の艶めいた会話に、ユーフェは呆然と立ち尽くした。

 蘇るのは、昔、見たくもないのに見せられた、レオナールとフラヴィのキスシーンだ。

 記憶の中のレオナールが、ヴィクトルに変わっていく。

「っ、」

 痛い。痛い。心が痛い。グサグサと遠慮なく刃物で抉られている。

 こんなに酷い痛みは、あの頃にも感じたことがない。

 フラヴィの部屋の中へ消えていくヴィクトルを、ユーフェは引き止めることができなかった。


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