Épisode 07「まさかユーフェ、君が……」
そのあとは、野菜やチーズ、その他日用品を買って、ユーフェは帰宅の途についた。
予定ではかぼちゃのポタージュと野菜のチーズ焼きを作ろうと思っていたけれど、せっかくいい牛肉が手に入ったのだ。この際使わないともったいない。
お昼は簡単なものを作って、夜に特別凝った料理でも作ろうか。牛肉の赤ワイン煮なんかどうだろう。
庶民の中でも富裕層しか手が出せない牛肉は、たとえ祝い事でも食卓には上がらない高級食材だ。
(あの人はきっとあの女の人のところに帰ったでしょうし、リュカと二人で堪能しちゃおう)
そうしよう。それがいい。
無理やり気分を上げて家の扉を開ける。
いや、開けようとドアノブを回したとき。中から聞こえてはいけない声が聞こえてきた。
「リュカ、ユーフェが見当たらないんだが」
「それよりこれ、なに?」
「ん? 見てわからないのか。肉に野菜、チーズ、ソーセージ、その他食材諸々」
「それはわかるけど……。なんであなたが?」
「世話になる礼だ。遠慮はいらない。俺の金じゃないし」
「……」
じゃあ誰のお金なの。とリュカが目で訊いていたけれど、ヴィクトルはにんまりと口で弧を描くだけで、答えようとはしなかった。
けれど、ユーフェは知っている。
(絶対あの女の人のお金よ……!)
扉の隙間から「最低男!」と罵ってやりたくなったが、彼がいてはユーフェは家に入れない。どうしようかと悩んでいたところ、誤って扉を少しだけ押してしまった。
ぎ、と軋む音が響く。
(しまった!)
中の二人の会話が止まる。
見なくても、二人の視線がこちらに向いたような気がして慌てた。
「誰か客人か?」
そう言って、ヴィクトルが近づいてくる気配がする。
(ど、どうしようどうしよう)
パニックになったユーフェは、考えるより先に呪文を唱えていた。猫に変身するための呪文だ。扉が開く。
「ああ、ユーフェか。やっと帰ってきたのか?」
中からヴィクトルが現れた。
彼は見慣れた黒猫を見つけて、嬉しそうにその小さな身体を抱き上げる。
「おかえり、
「みゃ⁉︎」
出迎え頭に変なことを言われて、ユーフェは仰天した。それだけじゃなく、額に口づけまで落とされるから、ユーフェはついにぴしりと固まる。
「遅いから心配したぞ。どこぞの雄猫に求愛なんぞされてないだろうな?」
「みゃ、みゃーっ!」
(されるわけないし、それあなたに言われたくない!)
どこぞの女性とよろしくやっていたのは、ヴィクトルのほうだ。ユーフェはそう言いたくなって、早く降ろしてという抗議の意味も含めて、腕の中で暴れた。
「はいはい。大丈夫だから、大人しくしような? ――ん?」
すると、ヴィクトルが玄関先に落ちているかごを見つける。
「これは……」
つい、と彼の視線がユーフェに向いた。
その瞬間ぎくりと身体を強張らせたユーフェに、ヴィクトルは「ぷっ」と小さく吹き出す。
「不思議だな。このかご、俺が今日町中で見かけた女性のものと似ている気がするが……」
ぎくぎくっ。彼女の身体が面白いくらいに跳ねる。
「ああそうだ。この中にあるこの肉は、俺が彼女にあげたものだ。間違いない」
ふしゃっ。今度は尻尾がぴんと伸びた。
いちいち反応するユーフェに、ヴィクトルは笑いを嚙み殺すのが大変だった。
「これはどういうことだろう。俺が彼女にあげた肉がここにあって、でもいたのは猫のユーフェときた。まさか……」
ごくり、とユーフェの喉が鳴る。
正体がバレるはずがない。そう思うのに、じーっと見つめられて、その自信がなくなってくる。
「まさかユーフェ、君が……」
「みゃ、みゃみゃみゃっ」
違うわ。そんな意味を込めて、咄嗟に首を横に振る。
ヴィクトルは何も言わない。
「みゃっ、みゃーみゃ、みゃあっ」
本当に違うのよ。そう言いたくて、必死に否定した。
なのに、ヴィクトルの疑うような眼差しが、まだユーフェに突き刺さる。
「み、みゃ〜……」
お願いだから気づかないで。思わず、そんな切実な鳴き声が口から出た。
じわりと涙が滲む。こんなことで泣きそうになる自分に、嫌気が差した。けど、ヴィクトルの視線があまりに痛くて。否定しているのに、彼は全然信じてくれなくて。
秘密がバレるかも、という恐怖で、ユーフェの瞳は潤んでいく。
その、潤んだ瞳を見たヴィクトルは。
(ああ、たまらない……)
ぞくぞくっと身体を駆け抜けた快感に、背中を震わせた。
(たまらない。ここまで俺のツボを押さえてくるなんて!)
恍惚とした表情を浮かべる。
それを見て、またユーフェが怯えたように瞳を揺らす。
(ああ、なんっていじりがいのある生き物なんだ!)
心が逸る。鼓動が高鳴っている。ヴィクトルは、己の身体の変化をしっかりと自覚していた。
自分の言葉に動揺する彼女を見て。
自分の言動に馬鹿みたいに振り回される彼女を知って。驚くほど高揚している。
こんな感覚は初めてだった。
本当はもう少しいじめてやりたいところだが、やり過ぎて嫌われても困る。こういうのは、さじ加減が大事なのだ。
「いや、そんなはずはないか。まさか、人が猫になるなど。俺もなかなか突飛な想像をしたものだ」
「! みゃみゃっ」
まるで「そうよ。そんなはずないわ」と言うように高速で頷く黒猫に、危うくヴィクトルは吹き出すところだった。
なんとか堪えて、では、とわざとらしく首を傾げる。
「となると、どうして彼女にあげた肉がここにあるのか、という疑問が残るわけだが」
ユーフェは目を逸らした。
「うーん……ああ! わかったぞ。もしかして彼女は、遠慮深い人だったのかな」
「みゃ?」
これまたわざとらしく声をあげたヴィクトルに、ユーフェは素直に疑問符を浮かべた。
「だってそうだろう? あまりに高い肉を渡したから、気が引けてしまったに違いない。だからこうしてわざわざ返しに来たんだな。うん、それしかない。きっとそうだ。おまえもそう思うだろう? ユーフェ」
同意を求められて、
「み、みゃみゃ、みゃ!」
思うわ。きっとそうね! なんて。
どう誤魔化すか悩んでいたユーフェは、ヴィクトルの勘違いに一も二もなく頷いた。
その、想像よりも素直過ぎる反応に、わざとそう言ったヴィクトルは、ついに「ぶはっ」と吹き出した。
「あはははは! だめだ、おかしい。単純すぎる。なぜこれで生きてこれたんだ」
遠慮も何もなく笑い続けるものだから、ユーフェはぽかんとする他ない。
その笑みは、あのからかうような笑みでもなく、何か悪巧みを考えているような笑みでもなく。
つまり、純粋と言えなくもない笑みで。
ちょっとだけ、きゅんとした、なんて。
(気のせい気のせい、絶っっっ対に気のせいだわ)
とりあえず、いくらなんでも笑い過ぎじゃないかと、ユーフェは彼の手を軽く噛んで拘束から逃れるのだった。
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