#36





「男の家からどうやって、自分たちの別荘に帰ったのかはよく覚えていません。妹も同じだと思います。私たちはずっと口をきかず、手を握り合っていました。

 両親のもとに帰ると、私たちは熱い抱擁を受け、それぞれ風呂に入らされました。でも私たちは一瞬でも互いから離れることを頑として拒みました。だから母は私たちと一緒に風呂に入りました。そして私たちは同じベッドで抱き合って眠りました。

 それから私たちは、時々自分がリエなのかエリなのか、分からなくなることがありました。今にして思えば、精神的なトラウマのせいだと思うのですが。そして私がリエのつもりで過ごしたり、妹が私のつもりで過ごしたりを繰り返しました。

 そのことに気づいた両親はそのたびに私たちの混乱をやさしく正してくれました。でも彼らにその原因を尋ねられても、私たちは一切返事をしませんでした。心が閉じて、その部分の記憶がすっかり消えていたからです」


 そこまで話すと、話の先が空中に消えてしまった。その先になにを言えばいいのか、不意にわからなくなった。エリは虚ろな目をして、先生を見た。

 先生は、エリの手を取った。

 先生の手は、冷たかった。とても冷たく、そして骨ばっていた。力をかければすぐにでも折れてしまうような気がした。


「安心しなさい。その男はもうずっと遠くに離れた。もう誰も、君も妹さんも傷つけられない」


 その手の冷たさと、正反対の温かな言葉に、エリはこの雨の海岸に戻ってきた。ぶれていた自分の輪郭を取り戻し、普段の自分に帰った。


「ありがとうございます。あなたに縛っていただいた時、いろんなものがいっぺんに押し寄せて、胸の内に留めておけなくなりました」

「私はその心のおりを取り出す役目なのだね。良いワインを熟成させるためには時々そうやってあげることが必要なように」


 エリは不意に寂しさに襲われた。

 先生は役目を終え、エリの前から去ろうとしているように思えたからだ。


「嫌です」と、彼女は言った。「まだ私はあなたに抱いてもらってさえないのに」

 先ほどのプレイの中で、先生は挿入をしなかった。するそぶりさえ見せず、エリを何度も逝かせただけだった。


 ふふ、と先生は微笑んだ。微笑んだように見えた。


「心配しなくてもいい。きっとそのうち、君のその忘れ物をきちんと届けてくれる人が来るよ。それは残念だけど私ではない。でもこうして君にめぐり会った私は、私にできる精一杯のことをするよ」


 そう言って先生は、傘をその場に捨て、エリをやさしく抱きしめた。エリも先生の身体に手を回す。

 銀色の糸のような雨が、音もなく、砂浜で抱き合うふたりに降り注いだ。


 先生が死んだのは、それからほどなくしてのことだった。




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