エピローグ

後奏曲

 電車のブレーキの揺れに、由香は目を覚ます。朱色に染まった見慣れた街並みが、窓の外に見えた。アナウンスが駅に着いたことを知らせる。由香は、膝の上に置いた就活用のカバンを手に取った。


 ホームに出ると、黄砂を含んだ風が鼻の奥をイタズラに撫でる。ムズムズとしたかゆみから逃れようと、小鼻を指で軽く擦った。喉の奥で噛み殺したくしゃみが、嫌な痛みを鼻の奥に残す。


 コートがなくては、まだ少し肌寒さを感じる。履き慣れないヒールで、パンパンになった足をなんとか動かして、三段ほどの階段を下る。西日に照らされた長い影が、阪急稲野駅の小さな駅舎に向かい伸びていた。


 なんとなく、真っ直ぐ家には帰りたくない気分だった。肩にかけたカバンの持ち手を強く握る。ひんやりとした革が、由香の手の温度にあてられ少し湿った。あてもなく、家とは反対方向に足を進めた。


 踏切を越え、ぼーっと歩いていると、いつの間にか、つかしんにまで来ていた。夕暮れに差し掛かったせいか、食料品売場の方は少しばかり賑わいを見せている。


 子連れのお客が多いのは、広場で子ども用のヒーローショーが行われているからだろう。由香は遠巻きに、舞台の上の様子を眺めていた。悪そうな怪物が出てくるやいなや、子どもたちの泣き叫ぶ声や怪物を罵倒することを響く。それをあざ笑うように、怪物たちは舞台の上から子どもたちを威嚇していた。


 そんな悪い怪物を倒すため、正義のヒーローが現れる。すると、子どもたちから次々と声援が飛び交った。ヒーローを見つめる子どもたちの真っ直ぐでキラキラした目が、妙に胸に刺さる。


 きっと、あの時の自分もあんな目をして彼の弾くピアノを聴いていたのかもしれない。懐かしい思い出の引き出しを開けば、あまりに無邪気な自分の表情を切り取った写真が収められていた。ごちゃごちゃと、考えている自分が不思議と馬鹿らしく思えてくる。


『素直になる』


 昔に汐織に言われた言葉が思い浮かぶ。あの時の自分は、素直だったのだろうか。彼に会いに東京まで行き、思いを告げたあの日。後悔などない。懸命に正直に、思いの丈を話した。そして、いやというほど泣いた。それでも、忘れきれないのは、どうしてなのだろうか。鮮明に瞼の裏にこびりつく、思い出を拭い切ることが出来ない。


 ヒーローショーの盛り上がりから逃げるように、由香は外に出た。つかしんには、商業施設を二分する形で小さな小川が流れていて、その土手はレンガ調に整備された遊歩道になっている。均等にベンチが設けられており、由香は疲れた足を休ませようと腰掛けた。


 川沿いには、これでもかというほど、綺麗に桜が咲き誇っていた。見渡す限り一面がピンクに染まる。わずかに散った花びらが、川の色を薄く染めていた。その薄桃色の淀みが、西日に反射してキラキラと春の鮮やかさを放つ。一羽の水鳥が、なにかを拍子に飛び立った。無数の波紋が、その淀みを打ち壊す。途切れ途切れになる光の筋を、由香は逃さないように必死に目を凝らした。瞬間的な、その鮮やかさが、どことなく懐かしいものに思えた。


 熱くなった目頭を抑える。その指差しがわずかに濡れた。喉の奥が熱くなり、堪えきれない声が漏れそうになる。由香は、カバンからスマートフォンを取り出し、イヤフォンを耳に入れ、音楽アプリを開いた。


 先頭に来ていた曲をタッチする。優しくなめらかで、鮮やかな音楽が鼓膜を刺激した。そのピアノの旋律に、由香は親しみを感じる。心地よく、包み込んでくれるその優しい音色に由香は心を預けた。


 一歩踏み出さなくちゃいけない。そんなことは分かっている。大人になるということは、どういうことなのだろうか。彼を忘れて新しい恋をするということなのか、疑問を持たず就職活動に励むということなのだろうか。どれも正解であり、不正解のように感じた。


 由香は、カバンの中を覗き込む。ピンク色の小さなケースが目に入った。コンビニに来てくれていた彼女が、いつも買っていたものだ。大人になれる気がして買ってみたが、結局、自分には合わなかった。というより、背伸びしているだけに思えた。封の切られたそれが、どこか甘い匂いをカバンの中に漂わせていた。


 イヤフォンから流れる音楽が唐突に切れる。代わってすぐに、着信音が流れてきた。


 就職活動のせいで電話には、敏感になっている。由香は、慌ててイヤフォンをスマートフォンから抜き取ると、緑色の応対ボタンをスライドさせた。


「もしもし、」


 緊張した由香の声は、随分と軽いトーンで遮られた。


「もしもし、由香? 今、大丈夫?」


「なんだ、奈緒美か」


「何だ、ってなんなん? 親友からの電話が嬉しくないわけ」


「はいはい。嬉しいですよ」


「感情こもってないわー」


 電話越しに、奈緒美が嫌味たっぷりに微笑んでいるのを感じる。自然と、由香の顔も綻んだ。


「それで、どうしたの?」


「あ、そうそう、明日、汐織と甘い物でも食べに行こうってなってんけど、どう? いかん?」


 一瞬、由香は考えた。どうすればいいだろう。なんでもない選択肢に迷う。こういう時、少し寂しくて、どうしようもないのは自分だけだろうか。春色の風が、桜の木を揺らす。まだ散るわけにはいかないと、懸命に花びらは枝にしがみついている。


 ふと、思う。大人ってみんなこんなことを考えているんじゃないか。大人びたように見える人もみな悩み苦しみ、やるせない思いを抱えている。


 こんな風に思うのは、子どもっぽいけれど、きっとみんなそうなんじゃないだろうか。やがて消えて弱くなってしまう思い出に心を預けながら、見えない未来を歩いていく。


 がむしゃらに、懸命に、まるであの時のように。


 由香は「うん」と、素直に一言返した。電話越しに奈緒美の明るい声が弾む。


 電話を切れて、真っ黒になったスマホの画面に、夕陽を反射した薄桃色の花びらが映り込む。


 桜色に染まったそれは、ピンクの煙草に似ていた。

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pianissimo-ピアニッシモ- 伊勢祐里 @yuuri-ise

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