第12話:君の匂いは塩素の匂い

『ゆーうーすーけーくーん、あそぼー』

 平和な夏休みの朝早く、窓の外からマミの声がする。

(〜ん、今、何時?)

 僕は枕元の時計を見てみた。まだ八時。夏休みに起きる時間ではない。

『ゆーうーすーけーくーん』

 まだマミが呼んでいる。

 仕方なく僕は窓を開けた。

 開けた途端に外から熱風が吹き込んでくる。僕の部屋にはエアコンがついているから気がつかなかった。今日は暑いんだ。

 天気は快晴。日差しが強い。

 窓の下には野球帽の後ろからポニーテールを垂らしたマミがこちらを見上げていた。手には大きなビニールの手提げ袋、肩にはこれも大きな浮き輪。

「……なに?」

「あ、雄介くん!」

 おーい、おーいとマミが大きく手を振る。

「プール行こうよ、ハイドロポリス!」

「ハイドロポリス? としまえんうちからじゃ遠いじゃん」

 僕の感覚では乗り換えが二回以上の場所は全て遠隔地だ。としまえんに行くには最初に渋谷に出てそこから池袋、さらに乗り換えてやっと到着って感じ。としまえんは遠い。

「じゃあさー、他にどこに行くのさ! わらわは滑りたいのじゃ!」

 窓の下でマミが口を尖らせる。

「……まあいいや、とりあえず上がりなよ。支度するから」

 こうなったマミはもっといい代案を出さない限りテコでも動かない。うちの近所のプールの滑り台じゃあダメなんだろうなあ。

 仕方なく、僕は出かける準備を始めた。

…………


 プールの支度は面倒くさい。ともあれ水着とタオル、それに帰りに濡れものを入れるビニール袋をバッグに押し込むと僕はマミと一緒に家を出た。

「まー、プール! いいわねー、私も行こうかしら」

 母がウキウキと送り出してくれる。

 母よ、あなたはハイドロポリスには年齢制限でたぶん入れません。死なれても困ります。

 とりあえず最寄り駅から渋谷まで。なんとなくプールに行く人が多い気がする。

 しかし、マミの格好の浮つき加減はその中でも異常に目立っていた。

 やっぱり肩から浮き袋はまずい気がする。邪魔だし。

「マミ、とりあえずその浮き袋なんとかしない?」

 手を繋いだまま、僕はマミに囁いた。

「え? なんで?」

「正直、邪魔になってると思う」

「えー、そっかなー」

 そう言いつつも、マミは素直に浮き輪の栓を抜いた。

「膨らますの大変だったんだから。ついたら裕介くんプープーやってね」

「はいはい」

「はいは一回!」

「はい」


 としまえんについたのは十一時前。まあ、いい頃合いかも知れない。

 一度更衣室前で別れてからプールの入り口で合流。

 僕は去年の夏も履いたサーフパンツを履くと更衣室の出口でマミを待った。

 待っている間、ハイドロポリスの注意を反芻する。

 ※事故防止のため、眼鏡、コンタクトレンズ、ゴーグルは必ず外してからご利用ください。

(うわ、めんどい)

 僕はメガネを外すとほとんど何も見えない。と言う事はですよ、僕はあの絶叫スライダーを目隠しして滑るのと一緒ってことだ。スリル二倍じゃん。

 ※水着の材質によっては、まさつ熱で破損することがありますので、ご注意ください。

(溶けるのか……)

 ま、いいか。このサーフパンツも長く履いた。

 僕は最後まで注意書きを読み終えると、マミが着替えて出てくるのを待った。

…………


 そろそろ二十分。

(……来ない)

 待てど暮らせどマミが来ない。

 一体、どうなってるんだ?

「……雄介くん、お待たせ」

 マミはたっぷり三十分近くかけてからようやく出てきた。

 なんかおどおどしてる。

「……ゆ、雄介くん、私変じゃない?」

 マミは水着の上から厳重にパーカーを着て、フードをかぶった上でジッパーを首まで締めて更衣室から出てきた。

「うん。変」

 この暑いのにその格好は変だろう。まるで減量中のボクサーみたい。

「え!」

 マミの顔が赤くなる。

「暑そう」

「そっち?」

 マミは口を尖らせた。

「そうじゃなくて、水着の事だよう」

「そっちはわからない。だって見えないもん」

 僕は正直に答えた。そんなに厳重にパーカーきてたら水着は下しか見えない。

 どうやらひらひらのついたワンピースらしい。マミらしいピンク色。おそらく似合っていると思うけど、こればっかりは見てみないとわからない。

「だって、恥ずかしいじゃん」

「プールじゃパーカー厳重に着ている方がたぶん恥ずかしいよ?」

「そ、そっか」

 ようやく観念したのか、マミはジッパーを下ろした。フードを下ろすと中から綺麗なポニーテールが現れる。

 マミのワンピースは綺麗だった。細いウエスト、長い脚。思ったよりも胸が大きい。

「…………」

 思わず無言になる。

「な、なにガン見してるのよ!」

 額を叩かれた。

「あた! うん、マミ似合ってるよ」

 僕は正直に答えた。

「ほ、本当?」

 マミの顔が赤くなる。なんでかもじもじ身をよじってる。

「うん、本当。行こう、マミ」

 いつもはマミが僕の手を握る。こんな所に来たら率先して走っていきそうだ。

 でも今日はなんだかおしとやかだ。一向に動く様子がない。

「行くよ?」

 僕はマミの手を握るとプールの方へと歩いて行った。


 ハイドロポリスは思ったよりも楽しかった。何にも見えないのは残念(マミの水着は単なるぼんやりしたピンク色の人影だ)だったけど。

「キャー!」

 二人乗りのチューブを六百円で一日借りて、それに乗って二人でいけるスライダーを滑る。二人用のチューブで乗れるスライダーは『リバーランスライダー』だけなので平和なものだ。

「雄介くん、行こ! もう一回行こ!」

 最初は恥ずかしがっていたくせに、マミは興奮しっぱなしだ。すごい食いつき。

「うん。じゃあ行こう」

 チューブを抱えて再び階段を登る。

「ヒャー! わー!」

 前に座ったマミは騒がしい。バンザイして大騒ぎしている。

 スライダーは最後がいつも残念だ。シャワーっと滑ってドボン。

 それでも二人でびしょびしょになりながら随分楽しんだ気がする。


 リバーランスライダーは五回くらい乗っただろうか? だがやがてマミの興奮は覚めていき、最後の回では「わー」って半分お愛想でバンザイしている状態になった。

 これはまずい。

 何がまずいって、マミは常に強い刺激を求めるのだ。

 これは、もっと過激なスライダーに誘われる、なんとかして止めなければと思ったその時……

「雄介くん、あれ! あれ行こう!」

 とマミが僕の手を引っ張った。

「ん? どれ?」

 薄ぼんやりした視界の中に、一際高くそびえ立つタワーが見える。

「そ! あれ! スリルスライドタワー!」

 やっべ。来たよ。来ちゃったよ。

 でも、僕も男だ。マミの手前、怖いからやめようとはちょっと言えない。

 僕は覚悟を決めると

「ん。判った。行こう」

 とマミと一緒にスリルスライドタワーの方へと歩いて行った。


 メガネをかけ直して見てみると、スリルスライドタワーは単なる拷問具のように思えた。そびえ立つタワー、くねくねとした黒いチューブ。中でも一番怖そうだったのが『スピード・スライダー』という奴だ。

 なんて言うのかな、数学のインテグラル記号みたいな形? ん、いや、違うな、あれはそうだ、スキージャンプの斜面の形だ。

 あれはまずいだろ。

 死ぬだろ。

「雄介くん、あれ行こ、あの白い奴!」

 でもマミが指差したのはまさにその恐怖の死刑台だった。

「いや、マミ、あれは流石に……」

 一応止めてみる。

「ダメ! わらわは最高速を求めておる!」

 ダメだ、止まらん。

 まあ、ハイドロポリスで人が死んだって新聞記事もまだ見てないから大丈夫だろう。僕がその新聞記事になるかも知れないけど。そうしたらマミのお父さんがきっと感動的な記事にしてくれるに違いない。『ガールフレンドのために彼氏死す!』とかって。


 スピード・スライダーの高さは二十二メートルもあるらしい。うっかりスペックを確認した僕がバカだった。

 高さ二十二メートルってもうビルじゃん。六階建じゃん。飛び降りじゃん。

 急峻な階段をマミと二人で上がる。メガネをしていないので、マミが手を握ってくれるのがありがたい。

「HAHAHAHAHA!」

「OH YEAH!」

 前の方から英語が聞こえる。

「外人さんも来てるの?」

 僕はマミに訊ねた。

「うん。前の方になんか軍人さんみたいな人たちが歩いてる。やっぱり軍人さんってすごいねー、怖くないんだ。笑ってるよ」

 自分で誘ったくせにマミの声も怯えている。階段を登り始めて初めて高さを実感したんだろう。

 だけどもう後戻りはできない。ここで列を離れて降りて行ったら単なるチキンだ。

 どうやら軍人さんたちはもう先に到着してこれから滑るらしい。

「ICHIBAAN!」やらなんやらはしゃいでいる声が聞こえる。

「あ、軍人さんが滑るよ」

 マミが教えてくれる。

「3、2、1、BANZAAI!」

 と威勢の良い声が聞こえる。だが、その声はすぐに

「OH、OH、OH MY GOD!」

 と言う悲鳴に変わった。

「OH MY GAAAAA〜」

 そのままなんだか女の子みたいな悲鳴をあげた物体がドップラー現象を起こしながら下に落ちていく。

 一緒にいたらしい友達もその後からすぐに落ちて行ったが、どうやら一緒だった。

 へえ。軍人さんでも悲鳴、あげるんだな。

 僕はもう落ち着いた。ここまできたら、あとは落ちるだけだ。

 でもマミは違うみたいだ。メガネのない視界でもマミの顔が青いのがわかる。

「どうしよう、雄介くん、やめる?」

「もう、引けないよ」

「そ、そっか」

 仕方がなく、マミは再び階段を登り始めた。


 こう言う状況では、目が見えないというのは逆に強いと言うことを僕は初めて知った。見えない=高度感がない訳で、もうどうでもいい。

「マミ、先に行く?」

「いえ、雄介くん、お先にどうぞ」

「では遠慮なく」

 僕は雄々しくスライダーの頂点に立った。

「じゃあそこに寝てください。僕が押しますので何もしないでくださいねー」

 と係員のお兄さんが事務的に僕に言う。

「はい」

「では、3、2、1!」


 落下は思ったよりも長かった。すぐに最高速度に達し、かかとが水を切っている感覚が判る。

 背中がスライダーについてない。

 今、僕は落ちている。

 これは自由落下状態だ。

 僕は、スプートニクになった。

 やがて斜面は再び平坦になると、緩やかに水平になった。

 そのまま水切りの小石のように水面を飛んでいく。

「ブワッ」

 最後にドボっと沈むと、僕はプールの端に歩いて行った。

 ここにいたら次の人にぶつかる。

 次の人ってマミだけど。

『はい、3、2、1!』

 係員のお兄さんの声が上の方から聞こえる。すぐに

『ギャー!』

 っと言うマミの絶叫が聞こえてきた。

 ジェットコースターの「ヒャー!」とか「キャー!」じゃない。

 あれは断末魔の悲鳴だ。

『ウギャー!』

 マミの悲鳴がドップラー効果を起こしながら落ちてくる。

 その悲鳴はすぐに「ガボガボドボッ」っと言う水音に変わった。

 どうやらマミは水切りの小石にはなれなかったらしい。


 滑ってみて判ったが、このスライダーは下手に抵抗するとロクなことにならない。水に落ちてもそのままの姿勢で滑って行った方が被害が少ない。そうじゃないと鼻から水が入ってしまう。

 マミはゲホゲホ盛大に咳をしながら僕の座っているプールサイドに歩いてきた。

「……こ、怖かった」

 目が見えなくても涙目になっているのが判る。

「そこ、危ないですからスライダー終わったら上がってくださいねー」

 プールサイドのお兄さんに注意された。

「はい」

 素直に従う。

 ところが、マミはプールから上がろうとしなかった。一応一番端っこまで歩いているけど、水から出てこない。

「す、すみませーん」

 マミが片手をあげてプールサイドのお姉さんを呼んでいる。

 マミは何事かヒソヒソお姉さんと話していたが、やがて

「雄介くーん」

 と今度は僕を呼んだ。

「なに?」

「あのね、お尻、溶けちゃった」

 溶けちゃった?

「穴、開いちゃった。今プールから出るとお尻見えちゃう」

 そうか、溶けたか。

 メガネがあったらガン見したのにな。

「でね、相談したら、そこの売店でサーフパンツ売ってるって。雄介くん、買ってきて♡」

 サーフパンツは現地価格で五千円以上した。としまえん、商売うまいなあ。


 その後は流石に懲りたのか、マミもスライダーに行こうとは言わなかった。二人でマミの持ってきた浮き輪に掴まって流れるプールでしばらく流され、おやつを食べて帰宅。

 帰り、マミの髪の毛はシャンプーの匂いがしたが、身体からは塩素の匂いがした。

 疲れたのか、僕の肩に頭をもたせて眠っている。


 今日はひどい目にあった。

 でも、マミが可愛かったから、なんとなく満足。

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君の顔がみたいから 蒲生 竜哉 @tatsuya_gamo

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