底の見えない情念たち

紺野透

本文


 気がつけば冬も近く、夜ともなればとんと底冷えする。どうせ室内にいる時間の方が長いだろうから、なんて薄着で来たことが悔やまれた。祝日ダイヤでいつもより早い終電を逃した俺は、行くあてもなく、地下鉄の待合室に寝転がっていた。じきにその駅最後の電車もホームから滑り出て行き、抵抗虚しく、俺は点検に来た駅員につまみ出された。

「暴れたりゲロったりする訳じゃなし、一晩くらい寝かせてくれたっていいだろーが!」

 仕立ての良い長袖の制服に、社章入りのマフラーを纏った職員は、淡々と俺を引っ張って階段を上っていく。俺のベルトに付いたICカードも、俺の意志とは裏腹に、無慈悲に改札処理をこなす。

「安全上の観点からご理解ください」

 丁重な言葉とは裏腹に、俺は結構な力で駅前に放り出された。振り返って恨めしい目を向けてみても、事務室に引っ込む駅員の背中が見えるだけだった。ブラインドから漏れる事務室の明かりはさぞや温かそうで、ますます腹がたつばかりだ。

 視線を戻した目の前の駅前広場は、暗く静かだった。開いている店がほとんどなく、自動販売機と街頭しか目立った光を発さない。舌打ちしても一人、だ。確かこの辺りはベッドタウンだから、終電も終バスも過ぎたこんな時間には人も寄り付かないのだろう。タクシー乗り場なんて上等なものは勿論ない。そんな上級市民の乗り物はこんなところに客を運ばない。本当に、仕事がなきゃこんなイナカ駅来るかと言いたい有様だった。

 しかもその仕事というのが、また旨味の少ないものだった。規制の緩いチャットアプリで適当に見繕った客だったが、思っていた以上にプロフィールとのギャップがあって、詐称といって良いレベルだった。大手サイバーインフラ企業S社勤務、などと華やかに書いてあったのに、蓋を開けてみたら保守点検の肉体労働者、しかも非正規とは。マニュアルの指示通りに住宅過密区域のコードを拭くだけじゃないか。お陰でこんな僻地に呼び出されて、ホテル代さえケチった自宅プレイだ。しかも一丁前に妻子があるようなことを仄めかしておいて、しばらくあいつらは実家に帰ってるから心配ない、と抜かす。素直に出ていかれたと言えばまだ可愛いものを。本来ならそのまま家に泊まる予定だったが、あまりに興が冷めたので、体調不良ということにさせてお暇した。電車ダイヤさえわかっていたら、もう少しうまいしのぎ方を考えたものだが。

 人気のない大通りをしばらくフラフラ歩く。野良猫が道をよぎっていく。車も走らない道を冷えた風が抜けていく。一件ぐらい開いている飲食店があるんじゃないかと淡い期待を抱いていたが、これはダメそうだ。歩くのもだるい。冷気を吸った鼻が痛い。俺は大通りから枝分かれする細い路地に舵を切った。電線が頭上を覆う裏路地は生ぬるい。立ち並ぶ排気口からは常に複雑な臭いの温風が出る。不本意だが、路上よりはマシそうな寝床だった。

 手近なゴミ袋を一つ枕がわりとし、できるだけ綺麗な場所に腰を下ろした。幸い、明日も休日だ。多少無理をしたって構わない。俺は油だまりに気をつけながらその場に寝転んだ。

すると、男と目が合った。

「あ……」

 路地の前、俺が歩いていた通りではない方の入り口に、一人の男が立っていた。男は路地に入るつもりではなかったようで、顔だけをこちらに向けている。この辺りに住んでいる人間と見受けられた。

 あえて何か返す必要もないと思った。俺はそのまま目を逸らし、改めて横になる。上着をささやかな掛け布団として、目を閉じる。足跡が俺に歩み寄る気配がしても、瞼を開けなかった。宿無しがそんなに珍しいのか。しばらく待ってみても、気配は立ち去る気配がない。見せもんじゃないと怒鳴りそうになった頃だった。

「あの……すいません。ここで寝るんですか? 酔ってるなら、手をお貸ししますよ」

 ぱち、と目を開くと、男の顔が近くに見えた。俺は一目で、優男だと思った。真面目そうな短く黒い髪、やや垂れた目元、品の良さそうな黒コート。柄も汚れもない灰色のマフラーが目の前で揺れる。比較対象が悪いのは承知しているが、先の酷い客よりもよほど身なりのいい男だった。

「……俺に何か用で?」

 うっすらと笑みを浮かべてそう尋ねてみる。

「自力で歩けなくて困っているのかと思って」

 言動まで品のいい男だった。こんな賎民を気にかける余裕があるなんて、ありがたくて涙が出る。そう優しくされると、少し俺に欲が出るのも致し方ないことだ。

「そんな……お気持ちは嬉しいですけど、悪いです。それに手を貸してもらっても、今日は帰るあてもありませんので……」

 目元をかすかに拭いながら、俺は自分の薄い上着をぎゅっと抱いた。遠慮がちに目を伏せる。なるほど革靴も、使い込まれているが味のある美しさをキープしている。これは信用できる。はあ、と熱い息を口元に寄せた指先に吐きかけた。男の善良そうな瞳が揺れる。

 俺はこの男の部屋を想像した。指輪をしていない彼の家に、ベッドは一つしかないだろう。でもそれは、清潔で羽毛で温かいものだろう、と自然に思われた。不快でない程度の汗の匂いもするかもしれない。客人用の布団だってあるかもしれないが、彼となら隣で寝てもいいだろうと俺は判断する。あれこれ思案する間にも、俺は彼と言葉を交わしたが、そのイメージは変わらなかった。

 男から、よければうちに、と引き出すのにもそう時間はかからなかった。


「シャワーまで借りちゃって、どうも」

 肩ほどまである髪を後ろで手早くまとめながら、俺はリビングに声をかけた。

「そんな気にしないでください。えーと、使い終わったタオルは洗濯機に入れておいてくれれば」

 食器を洗う小気味よい水音とそんな声が奥から帰ってくる。夕飯まで簡単にご馳走してもらって、至れり尽くせりだ。メニューは癖のないシンプルな味付けの豚肉野菜炒めで、また真面目なものを作るなと思った。

 烏の行水ながら水回りも拝見させてもらった。タオルも一枚、歯ブラシも一本だけ、何もかも必要最低限のものしか置いていない。他人の影のない空間だった。しかし一人暮らしにしては、かなり手入れが行き届いている印象を受ける。シャンプーもボディソープも無香料だが安物ではなく、鏡はよく磨かれて水垢の一つもない。白を基調にした洗面所は、黒ずんだところが見当たらなかった。まめな男だ。

 タオルを胸に巻き、リビングに裸足で戻る。

「あれ、洗濯機わかりませんでしたか?」

 湿ったタオルを纏う俺を見て、彼は洗い物の手を止めた。軽くタオルで手を拭くと、俺を一瞥する。風呂上がりの紅潮した頰で、俺は曖昧に肯定した。男は顔色を変えず、俺の横をすり抜けて風呂場へ向かう。その後ろをついていく。二人して洗面所兼脱衣所に入ったところで、俺は後ろ手でそっと引き戸を閉めた。

「ここの蓋を開けたところに、」

 丁寧に洗濯機の蓋を開けてみせた男は、そこでやっと違和感を覚えたようだった。

「……タオル入れておいてくれれば」

 こちらを見たまま、しかし疑問を口にすることもなく、ただ困ったような顔で止まった。その初々しい視線に答え、俺もはにかんだ笑みを見せた。

「わかりました、後で入れておきます。……でも」

 俺はそこで言葉を切った。適度な間をおいてから続ける。

「こっちばっかりこんなに親切にしてもらっちゃって……、なんだか申し訳ないくらいで。その、すごく……お優しいんですね? 俺、嬉しいです」

「いや、そんな、お気になさらず……」

 気持ち離れようとする彼の白いシャツを引いた。警戒されないよう、極めてソフトに。きゅ、と軽い音を立てて、距離が縮まる。彼が軽く身じろぎするのが伝わってくる。

「あの、もう夜遅いし、お仕事終わりでお疲れかと思って」

 空いた手で、彼の冷えた掌に触れた。水仕事をしていたからか手は湿っていて、湯上りの俺にはひんやりと心地よい。指が逃げないのは、嫌じゃないからだろうか。指先を擦り合わせながら、俺はそっと囁いた。

「俺にはこのくらいしかできませんけど……。自分でよければ、お背中、お流ししましょうか?」

 そこで、それまで黙りこくっていた男が口をやっと開いた。一言男がいいと言えば、シャツのボタンを外すつもりだった。しかし、そうはならなかった。

「……お気持ちは嬉しいんですけど、俺まだ学生で、そういうのは駄目で……その、すみませんが」

 その発言で、俺はあっけに取られた。

「……学生?」

「ええ、はい」

「学生って、じゃあ大学生?」

「そうですね」

「……はあ? 年下ぁ?」

 本日二回目の詐称に合った気分だった! 俺は手を解いて、男をまじまじと見つめた。確かに言われてみれば、まだ若い様子だが、どうしても納得いかない。

「じゃあ何、お前無職でこんなとこ住んでんの?」

 というのも、このマンション自体が相当上等な物件なのだ。それに加えてあの仕立ての良い、恐らくはセミオーダーのコート。大人びた革靴。それらに浮かない腕時計。値段的にもセンス的にも、大手企業肝入りの新人か、名家のボンボンだと思っていたのに。

「はあ、まあ、大学からの補助金には色々お世話になってますが……職業は学生です」

 興ざめもいいところだった。

 まあ確かに、こんな土地には見合わない高級マンションだとは思ったが、学生向けなら納得もいく。大学生ともなれば、それこそ政府のお膝元でじっくり育てられるんだろう。この辺りは条例で大学生の風俗サービス利用も禁止されているくらいだ。下賤なサービスは触れることもなく、清く正しく政府の犬に育つのだろう。ゆくゆくは、俺みたいな中卒のスラム育ちを救貧する、画期的な公共プロジェクトでもやってくれるかもしれない。とにかく住む世界が違すぎて話にならなかった。あわよくばこの流れで常連客に、なんて考えたのも馬鹿らしい。

「色目使って損した……」

 俺はタオルを剥ぎ取って洗濯機に放った。一瞬男が動揺するが、きちんと下は履いている。脱ぎっぱなしだった衣類をひっ掴み、ずかずかリビングに帰る。そしてベッドソファと思しきサイズのソファにごろんと横になった。男が後から戻ってくる頃には、衣服を乱雑に胸にかけ、寝る体勢になっていた。解かれた髪が、ソファからさらさら垂れた。

「気が変わったんなら、いつでもどーぞ追い出してください。それまではここで寝させてもらうから」



 結局俺は朝までそこで眠ることができた。ソファだというのに、寝心地は十分だった。ただし寝返りで衣類は全部下に落ちていた。代わりに、大きめの膝掛けが腹にかかっていた。

「……ご親切にどうも」

 寝ぼけ眼でそう低く呟くと、昨日と全く変わらぬ男の声が返ってきた。

「よく眠れたならよかった。路上よりはいいでしょう?」

 それは嫌味なのか? と訝しみつつ、俺は拾った服に袖を通す。皺が寄ってはいるが、着れないほどではない。寝癖のついた髪を適当に結び、昨日と同じ服装に戻った俺は、内ポケットの現金が減っていないことを確認してからソファを立った。

「一晩お世話になりました。それじゃ」

 軽く頭を下げてから男に背を向けた。

「えっ」

 男の間の抜けた声が後ろで上がった。カチャカチャと食器が配膳される音がする。ついでに、コーヒーの深い香りも鼻をくすぐる。

「朝ごはん二人分作っちゃったので、よければ食べていきませんか?」

 あまりに都合のいい話だった。逆に不安になる扱いだ。俺が答えに窮している間にも食卓にはトーストと目玉焼きが並べられ、後から大きめの器に盛られたサラダが出てきた。こいつは見ず知らずの娼夫と野菜をつつき合うつもりらしい。正直、反応に困った。そのため、俺が何か言うよりも、腹の虫が先に返事をした。


 ダラダラと食後を過ごし、二度寝もし、気づけば午後になっていた。俺がどれだけソファを占領しようと男は何も言わず、向こうで教科書とノートを広げてキーボードを叩いていた。打鍵音は環境音として心地よく、眠気を誘う一因だった。俺が再び目を覚ましたのは、彼がひと段落ついてコーヒーのおかわりを淹れる頃だった。

「ああ、コーヒーもう一杯飲みますか?」

「いや、いい。もう帰るから」

 三食世話になるのは避けたかった。罪悪感のためではなく、大きすぎる貸しを作る不安に駆られたためだった。彼が俺にお返しを期待しているとも思えなかったが、不安になるのはもう癖だ。素っ気なくリビングを抜け、短い廊下を進み、シックな玄関で靴を履いた。

 こうしてお互いの靴が隣に並んでいると、貧富の差がえげつないくらいにわかってしまうから、嫌いだ。お洒落さ以外の様々なステータスも、足元から滲み出てしまう。中年男性のすり減った革靴を見栄えさせるような、ワインレッドのヒール低めなブーツは、彼の靴とはまるで持つ意味が違う。慣れた足つきでもって、爪先をコンコンと床で鳴らす。見慣れないドアチェーンを外そうとしていると、不意に俺の背後から声がかかった。

「あの、連絡先とか交換しても」

「なんで?」

 振り返らずに返事する。だが男は退かない。

「いや……これも何かの縁かと思って」

「俺なんかのアドレス、なんのツテにもならないけど」

「何かを頼むつもりじゃないです。ご迷惑はかけませんから」

「仕事以外のことで人に返信したくない」

「じゃあ返信なくて大丈夫です。無視してもらって構いません」

 他にもいくつか理由を述べてみたが、様々な条件をつけてなおも男は食い下がる。これまでの奉仕的な雰囲気からは予想できないほどに、俺と押し問答を繰り返した。やがて俺の方が根負けして、渋々連絡先を交換する運びとなるのも当然と言える。お互いの電話番号とチャットアドレスを端末に登録しながら、そこで初めてお互いの名前を知った。

「吉野さん」

「俺苗字呼び嫌いなんだ、宮田クン」

 処理を終えた端末を尻ポケットにしまい、俺はドアノブを掴む。

「ああ、じゃあええと、隼人さん」

「何? 翔クン」

 今度こそ外れたドアチェーンがぶら下がり、眩しい昼の日差しがドアの隙間から差し込んでくる。

「また寝るところに困ったら遊びに来てください」

 やはりそれは嫌味でもなんでもなく、本当にまた会う時を楽しみにしている口ぶりだった。俺は家族でも恋人でも友人でも客でもなく、まだただの知人に過ぎないのに。

「宿に困ることが二度とないよう努力するよ」

 最後にちらりと後ろを振り返り、翔の顔を視界に入れた。柔らかな笑顔で俺を見送るその姿を、もう一度見ることはあるのだろうか? 純然たる好意みたいな、無垢なこの男の顔を。

 俺は、――できれば無いといいと思った。



 何故、もう会いたくないと思ったのかといえば、とても簡単な理由だった。捕まると思ったからだ。何らかの規律に引っかかってお縄になる、という意味ではない。いや、学生に対するあの過保護な条例を考慮するとそれも十分にありそうだが、そうではなく。

 俺がこの優男に捕まるということだ。

 例えば、飯を奢られて宿を用意されて至れり尽くせりの状態に慣らされた後で、毎日連絡を取り合う仲になるとか、ただいまとおかえりを言い合う雰囲気になるとか。そういう恋仲の真似事に縛られるのは避けたいことだった。しかし、かといって、毎日尽くされれば舌が肥えるのも道理で、もしそうなった時、俺は逃げられるのだろうか? と不安だったのだ。

 だから正直に言えば、こいつは俺のことが好きなんだろうと自惚れていた。顔か声かそれ以外の何かか、それはわからないが、どこかが彼の琴線に触れたのだと。だって、ただの親切とは思えなかった。あんなに食い下がって連絡先を交換したがるのだから、多少気があるんだなと思ったのだ。

 善良そうな顔ながら、むしろ釣った魚は逃さない性格なのかと少し白けるほどだった。

 なので、それから二週間何の連絡も来なかった時は、腹が立った。連絡先を交換した男が音沙汰なしになることは珍しいことではなかったが、そういう時は大抵アドレスを交換する段階で予想がつくものだ。連絡が来たって嬉しくはなかったし、さほどの待遇も期待していなかったが、予想がここまで大きく外れたのは初めてだったのだ。

「隼人くん、彼氏いたの?」

 耳のすぐ後ろから、揶揄するような声がかけられた。不躾な視線が俺の手元に注がれているのがわかる。

「まさか。俺はず~っとフリーですよ」

 急いで端末を鞄に突っ込むと、俺は客に抱きつくようにしてよく跳ねるベッドに飛び込んだ。

 あと一手でそのアドレスを消すことができたのに、悪運の強い奴だと脳裏によぎった。


『RE:今日の夕飯はエビフライにします。多めに作るので、気が向いたらまた食べに来てください。』

 駅前でネットワークに接続すると、そんなメッセージが真っ先に画面に表示された。何の話だ? 送り主を見ると、件の優男だった。返信のようだが、思い当たる節がない。不審ながらもチャット画面を開いてみると、奇妙な光景があった。

 ただ一文字、エビフライの絵文字が送られていた。

 ……しばらく考えてから、先程乱雑に端末をしまったのを思い出した。絵文字の履歴一覧を見ると、もちろんエビフライが一番上にある。キーボードは絵文字用になっている。そしてあの時開いていたのは、真っ白なこいつのチャット画面だ。

 間違いなく俺からの誤送信だった。我ながらうんざりした。しかも、どうしてこう都合よく飯の絵文字を送ってしまうのか。これが中指を立てた手の絵文字なら良かった。そうすれば、こんな温情まみれの返信も見ることがなかったのに。二週間前と寸分違わぬ彼の態度に、やはり腹が立った。

『お前の家どこだか忘れた』

 そう返信すると、まもなく既読のマークがついた。

『××駅北口から大通りを真っ直ぐ行ったマンションです。駅前まで迎えに行きましょうか?』

 返事はしなかった。地下鉄に乗って電波が切れたからだ、そういうことにしよう。

 ホームに続く階段を降りながら、しかし俺は、打算的に彼の顔を思い出してもいた。余計な穴の空いていない耳や、白く伸びたところのない切り揃えられた爪。清潔、悪くいえば潔癖そうな彼の一部が脳裏に蘇る。

 いいじゃないか。もしこんな地下鉄で隣に座っていたら、下賤なのがいくらでももたれかかってくるだろう。売る方でも買う方でも、あいつになら文句なしに寄っていく。俺はホームに溢れる降車客を掻き分けて、なんとか座席にありついた。座った途端に、疲れが体に回ってくるのがわかった。腕を組んで少しでも冷えから自分を守る。隣駅に着く前には、すっかり眠気に襲われていた。

 あれほど清廉な男が、何のつもりで俺など気にかけるのか。彼の考えることなど、俺には一生わかる気がしない。しかし彼もまた、自身の価値など理解していないだろう。手垢知らずの黒髪が、俺と違ってどれだけ美しく見えることか。太く節ばった指で掻き撫でられたことなんて絶対にないだろう。その濡れ羽色の髪を、嫉妬に汗ばんだ手で毟り取ってやりたくなる。

 カラス、カラスか。真っ暗な瞼の裏に、ゴミ捨て場でよく会う黒い鳥が浮かんだ。暗闇に、雨に濡れて鈍い光を反射する輪郭が佇んでいる。あいつらはそんなに綺麗な羽を持っていただろうか。今度会ったら近くでよく見てやろう。そしてそのご自慢の羽を悉く毟って丸焼きにしてやろう。俺は味の違いなどわからないから、ニワトリもカラスも舌の上では同じに違いない。もしそれが温かいところでぬくぬく育ったカラスなら、なおのこと美味しかろう。

 もちろん、この手で鳥を〆るなんてぞっとしないが。

 巨大な地下鉄環状線に揺られながら、朧げな意識は闇に飲まれていった。



 駅前にあるアナログ式時計の針が重なった。真っ直ぐに頂点を指す黒く鋭い針は、月の光がない夜でも白い盤面にくっきり映る。今はデジタル式時計が主流だから、こんな時計は一周回って寂れたこの駅の見所かもしれない。

 駅前で誰かを待つのは初めてだった。なので、暇つぶしの本でも持ってくれば良かったと強く思った。もうここに来て五時間になる。温かい缶コーヒーなどを買って寒さを凌ぐにも限界だった。原付のハンドルにかけられたレジ袋からいくつかの青い缶が覗く。駅前のゴミ箱は、管理が行き届いていないのか、捨て口から缶が溢れて転がっていたので、空き缶さえ捨てられない有様だ。

 ここに来てから、何度地下鉄が過ぎ去って行っただろうか。降車客が駅前に吐き出される度に、隼人さんの姿を探している。金髪のような、見方によっては銅色のような長い髪を、スーツばかりの黒い海の中で目を凝らして探す。努力虚しく、あの煌めく人は姿を見せなかった。今頃家でエビフライが冷めている。もし終電でも隼人さんが来なかったら、明日の弁当に詰めて処理しよう。そうして明日の弁当の具材を考えている時だった。しんと冷えた駅の方から、聞こえてくる罵声があった。

「なんでこんな駅が終点なんだよ! もっと線路は奥まであるだろ!」

「車庫が当駅にございますので」

「……これだから土地しか余ってない田舎は!」

 舌打ちする隼人さんが駅員に放り出されるのが見えた。原付を押して近くに行く。隼人さん、と声をかけるより前に、向こうはこちらに気づいていたが、彼はギリギリまで俺に気づいていないフリをしていた。顔を背けられる。

「こんばんは。迎えに来ました」

 正面に回り込み、視線をしっかり合わせて言った。隼人さんは不機嫌そうな顔で俺を睨んでいる。いや、しかしその表情にはどこか見覚えがあった。確か、彼が泊まった翌朝の顔だ。

「もしかして寝起きですか?」

「……よくわかるもんだな。そんなに俺の顔見てんの?」

「どうでしょうね。でも隼人さんの表情って、はっきりしていて結構わかりやすいですよ」

 ふうん、と気のない声を返される。彼は俺の原付を眺めていた。特に、空き缶がたっぷり詰まったレジ袋を気にしているようだった。もしかして隼人さんは、俺を待たせたことを申し訳なく思っているのだろうか。それならなおのこと、家でリラックスしてもらいたかった。時間など気にせず好きにくつろいで欲しい、と当の俺は思っているのだから。

 行きましょうか、と横から声をかけると、隼人さんは適当な返事をした。予備のヘルメットを渡すと、それもすんなり受け取った。口角こそ上がらないが、彼は別段嫌がってはいないようで、少し安心した。夜風が冷たかったが、二人乗りをしているとそれも少し和らいで、背中側がほんのりぬくかった。残念ながら厚着だったので、背に掴まる指先の温度まではわからなかった。


「酒ある?」

 目の前に並べられるエビフライやサラダの皿を見て、一番に発されたコメントがそれだった。

「うーん、フライに合うようなものはないですね。すみません」

「そんなちゃんとしたヤツじゃなくていいんだけど」

「あまり飲酒は趣味でないので……」

 すると隼人さんは席を立ち、フラフラとキッチンに吸い込まれていった。しばらくの間、冷蔵庫や戸棚を開け閉めする音が聞こえてくる。泥棒の家捜しはこんな感じかもしれない。

「あるじゃん。読めないけど」

 戻って来た隼人さんが手に持っていたのは、なんと料理酒の瓶だった。正確には、料理酒として使っている赤ワインだった。ラベルはイタリア語表記なので、自分にも仔細はわからない。バイト先のバーで、余ったからと言ってたまたま譲り受けたものだ。不味くはないと思うが、味がイマイチだったために余っていたものと見受けられる。それでいいのかと問う前に、隼人さんは蓋を開けて、ガラスのコップになみなみとそれを注いでしまっていた。実際、隼人さんは酒についてその後文句を言わなかったため、この心配は杞憂だったのだが、その代わりにエビフライについては文句を言った。

「もっと尻尾まで衣つけて揚げろよ」

 それは少々予想外な文句だった。衣のつけ方や揚げ方には多々未熟なところがあったと思うが、俺には尻尾は上手くいったように見えていた。

「なぜ?」

 隼人さんは俺には目もくれない。添え物のプチトマトを頬張りながら答える。

「その方が食感が好きだから」

 それを聞いてから、やがて隼人さんの眉間に皺が寄るまでの間に、俺には察するものがあった。

 隼人さんにとって尻尾は食べるところなのだ。そして彼からすれば、尻尾を飾りとして揚げた俺は、何か多大に気に食わない所があった風だった。しかし、食べ物を粗末にするなだとか、そういった文句は一言もなかったために、彼の眉間の皺は殊更に深くなっていった。彼はただ一言、ポツリと呟いた。

「やっぱなんでもないわ」

 隼人さんはいくつかのエビフライの尻尾のうち、一つだけを食べて、それ以外はもう口をつけなかった。下げた皿から尻尾を生ゴミに捨てる間、俺は迷っていた。もし次にエビフライを作るとしたら、尻尾はどうしたらいいんだろう。彼の好みを汲むことは、ここで正しい行いなのだろうか?

 今更、彼の飲む酒について何か話す気にはなれなかった。だから、そんなに飲んだら悪酔いすると、忠告するのも忘れてしまっていた。

 

 度数の高い酒だったが、隼人さんは平気で飲んだ。頰から耳まで赤くなりながらも、取り乱すようなことはしなかった。だが、確かに口数は増えていた。酔いが回ると喋るタイプらしい。俺はといえば、一時を回って少々眠くなってきたところだ。つまみのピーナッツを頬張る手が鈍る。

「ナッツお代わり」

 最後のいくつかをまとめて口に入れた隼人さんが、空の皿で俺を小突いてくる。隼人さんはソファに足を伸ばしていて、先ほどからトイレ以外に自分の足で立つことがない。俺はソファの端っこを借りて座り、皿やつま先でつつかれる度に、つまみのお代わりを持ってくる役だ。給仕には慣れているが、この様子だとウェイターとさえ思われていないだろう。しかし、残念ながらその役目もこれで終わった。

「今ので最後ですよ」

 そう宣告すると、隼人さんはほのかに充血した目を擦りながら、ジッと俺を見据える。そんなに見られても、ないものは出せない。薄い茶色、光の加減によっては橙色に華やぐ瞳を見つめ返す。

 暫時視線をぶつけていると、向こうが先に折れた。背中からソファに倒れ込み、あとは寝るだけと言わんばかりの体勢だ。ソファの灰色の生地の上に、零れた金糸のような髪がよく映えた。パラパラとまとまりなくほどけた長い髪は、よく見ると所々で色が違っていて、鈍い金色と、その下によく磨かれた赤銅のような茶髪が覗く。茶髪の方が地毛で、それを金に染めていたようだ。今は二色が不規則に混じり、夕暮れ時のような濃淡のある橙色を醸している。瞳の色と相まって、そこだけが暮れなずむ西の空のようだった。

「なに? 黙ってりゃジロジロ人を見て」

 左腕を枕にした隼人さんが、脚を俺の太ももに乗せる。踵でトントンと俺の脚を叩く。足癖の悪い人だ。日に焼けていない白い裸足は、退屈そうに足の指を絡めてはほどいている。

「その髪って、染めてるんですか?」

 すると隼人さんは、一瞬こちらに気を向けた。だがすぐに意識は前髪の毛先に移る。右手で髪をいじりながら彼は答えた。

「そうだよ。金髪の方がウケがいいから」

 仕事柄なら仕方ない、と思いつつ、完全な金色には染まりきらない今の彼の状態を、俺はかなり美しいものだと感じていた。いつか染め直されるのだろうが、どこか勿体無くて惜しんでしまう。俺がしげしげと彼の髪を眺めていると、そんな内心が視線に現れていたのか、隼人さんに茶化された。

「そんなにこの髪がいい? 一晩くらい好きに触らせてあげよっか」

 手でお金のジェスチャーをしながら、隼人さんが営業的な笑みを向けてくる。丁重に断りつつ、しかし、もし触れたら一体いくら取られるんだろうと考えずにはいられなかった。少し硬質で、長く胸まで伸びる髪。人の髪を手で梳いたことはなかったから、感覚は想像もつかなかった。それは楽しいことなんだろうか。嬉しいものなんだろうか。未知が俺の頭をいっぱいにする。そこへ、隼人さんが言葉を付け添えた。

「お前になら、髪をどんな風に撫でられても引っ張られても良いって思ってるんだけど」

 髪と同じく、隼人さんがそんなことを言う様も想像がつかなかった。けれどもこの返答は迷わなかった。頭の中に、そんな俺の好き勝手を許す彼の姿は全く思い描けなかったからだ。

「それは嘘ですね」

「本当だよ」

「いや、嘘ですよ。隼人さんはそんなに俺のこと好きじゃないでしょう。客としても見たがってない」

「俺のこと嘘つきだって言うの?」

「そうですね。嘘をつくのが悪いとは思いませんが……」

 そこまで言うと、隼人さんは案の定笑顔を剥がした。

「お前訳わかんないよ、気持ち悪い」

 俺は困り果てた。自分でも表情が曇るのを感じる。返す言葉がなかった。俺の中に回答はなかった。

「俺みたいなのを拾って恩売って連絡先まで聞いたのに、それ以上何もしない。こっちから誘ってやったら断る。でも俺の言うことはポンポン聞いて、お前って何がしたいの?」

 吐き捨てるように隼人さんは捲し立てた。目元を苛立ちに引きつらせながら、穴が空くほど俺を見つめている。

「俺は……ただ……なんとなく放っておけなくて……」

「『放っておけない』? いい響きじゃん。放っておいて他人に盗られたら気が済まないの? 呆れた独占欲だ」

 そういう意味じゃない、とその一言が出なかった。俺自身、どうしてこうも彼を気にかけてしまうのかわからなかったからだ。すなわち、独占欲でないと断言するには不安定だった。

 もちろん親切心と呼ぶには、どこか利己的に感じられた。しかし、他人に盗られるどうこうなんてことも、一切考えていなかったのだ。俺には、彼が誰かのものになるところがどうしてもイメージできなかった。俺のものにも決してならない。そうとわかっても、いや、わかるほどに俺は彼に尽くすのをやめられなくなっていった。こんな短期間でそこまで重症化してしまった。

 何なんでしょうね、と俺が漏らすのが先だったか。

「お前俺のこと好きだろ、なあ?」

 隼人さんがそう言うのが先だったか。どちらとも言えなかった。ただ、隼人さんが唾を吐きかけるように一言付け加えたのは、その後だった。

「まあ、俺は主体性がないヤツって嫌いだけど」

 言わずもがな、それは俺を指しての言葉だった。嫌い、と率直に示されると鼓動が重くなる。俺に向けて放たれる鋭利な言葉は止まる気配がなかった。

「人に媚びて、機嫌取って、相手の言うことなんでも聞いて。俺がいつもやってるのはこういうことなんだなーって思うと、サイアクな気分になれる。お前には想像もつかないだろうけど。お前をひん剥いて泣くまでいたぶる趣味が俺になくてよかったな」

 俺はそれを、ただ頭を垂れて受け取るしかできない。俺はどうすれば彼に喜んでもらえるのかわからなくて、隼人さんがしたいように傷つけられることしか選べなかった。彼の言う通り、俺が隼人さんのことを好きだとして、俺はそうして人を好きになった時の振る舞い方を何一つ習っていなかった。奉仕することと相手を好くことの線引きさえできない。自分の空っぽさが申し訳なくなる。

「すみません……」

「そう思うなら、俺の言うことの一つでも断ってみたら?」

「断る……ですか」

 確かに、それは主体性があると言える行動、かもしれない。

「でも」

「うん。そんなことされたら、俺はムカつく。お前のことをもっと嫌いになる」

 クスクスと笑いながら、隼人さんは俺の脚を軽く蹴る。これがダブルスタンダードか、と俺は身をもって感じた。嫌われないように主体性を見せれば、もっと嫌われる。つまりどうしようもないと言いたいのだ、彼は。お前のことを嫌うつもりしかないよ、と俺に忠告してくれているとも取れる。

 そんなことは俺もわかっていた。好かれたいなんて夢を見てはいない。けれど、嫌われようが罵られようが俺は隼人さんを嫌いになれない、と吐露したら、気味悪がられるだろうか。自分の中にこれほどの執着心があったことに、我ながら驚く。彼のことを好きなのかは未だわからなかったが、彼のことを嫌いになれないのは確かだと思えた。いくら嫌われても、俺は俺にできることをしたい。それがこき使われることでも、傷つけられることでも、俺は抵抗がなかった。彼のこととなると、まるで痛覚が壊れているみたいだ。

「断ってみたら? っていう誘いを断るのは、主体性に含まれるんですか?」

 隼人さんの耳がピクリと動き、瞳に暗い色が差す。色濃い嫌悪が澄んだ橙を蝕んでいく。

「……そういう答えが一番ムカつくんだよ」

「そうですか、じゃあ次に何か言われたら断ってみます。できれば、隼人さんをムカつかせないように」

 言い終わるか否かという時に、俺の額に衝撃が走った。気付いた時には、白い小ぶりな皿が俺の膝の上に落ちていた。皿に残っていたピーナッツの塩が服に零れる。

「何それ? 煽ってんの?」

「そういう訳じゃ……」

 当たったところが後からじんわり痛くなる。出血はないが、痣くらいにはなりそうだった。まだ脈拍が速い。びっくりした。皿を拾い上げて、破損がないか確認する。

「煽ってない? じゃあもっと嫌そうな顔しろよ! 暴力はやめてくださいとでも言え!」

 隼人さんは顔を歪めて俺のことを睨みつける。この暴力を断るには、何と言えばいいのだろうか。この場合、何を言ってもムカつかれるだろうな、と直感的にわかった。断るというのは難しいものだ。せめてオウム返しにはならないようにと、俺はたどたどしく言葉を選んだ。

「ええと……ものを投げるのは危ないから、しないでください。あと暴行されるのは嫌で……そうだ、明日もバイトがあって、傷が目立ったら恥ずかしいので……。うん、やめて欲しいです。ダメでしょうか?」

 少しの間、沈黙が流れた。その間、燃え盛るように嫌悪を醸していた隼人さんが、見る見るうちに鎮まっていくのがわかった。

「……お前、本気で頑張ってそれ?」

 頷くと、隼人さんは長く大きなため息をついた。それから、脱力してソファに転がり直すと、猫のようにごろんと丸まった。彼は俺に完全に背を向けて、それきり口を閉ざしてしまった。しばらく待ってみたが、もう動く気はなさそうだ。一瞬のやり取りだったが、これは暴力を断るのに成功した、と言って良いように思われた。

 隼人さんの呼吸音は徐々に落ち着き、それからゆっくりと寝息に変わっていく。俺は皿を流しに置き、代わりに毛布を持って来た。なだらかな背中にそれをかけてやると、すぐに彼は毛布を巻き込むように丸まった。毛布にくるまれた巨大な塊は、もぞもぞと身をよじって寝る体勢を整えている。そして目立った動きもなくなった頃に、毛布の奥から低い声が漏れてきた。

「お前って、人を萎えさせる天才だな。……呆れてものも言えない」

 俺が返答に窮していると、返事なんていらないと言わんばかりの綺麗な寝息が聞こえてきた。隼人さんも疲れていたのだろうか。俺も実は眠くて眠くて、もう一歩も動ける気がしなかった。



 翌朝、というには日が高く昇り過ぎていた。俺が目を覚ました時には、正午過ぎの白い光がカーテンからいく筋も差し込んでいた。ソファにもたれかかって寝落ちてしまうなんて久しぶりだ。伸びをして背筋を伸ばすと、首の付け根を始めとした節々が痛む。そこで何気なく隣を見やると、意外なことに、もぬけの殻だった。隼人さんは遅起きな印象だったから、一緒に朝食兼昼飯でもどうかと誘おうと思っていたのに、アテが外れた。自分は彼のことを全然わかっていないのだ、と再確認する。ああ、でも、出て行く時に毛布を俺にかけるなんてしない所はイメージ通りだった。

『駅までお見送りもできなくてすみません』

 コーヒーを淹れながら、そうメッセージを打ってみる。寒くて指先がかじかんだ。コーヒーを注いだマグを両手で持つことで、なんとか震えを和らげる。

 主体性。メッセージ画面を見ていると、昨日の隼人さんの言葉が思い出される。もしも、まだ隼人さんに致命的に嫌われていないなら、次会う時はもっと好ましい振る舞いをしたい。でも、主体性のある振る舞いって、一体何だ? 一晩明けても、俺には皆目見当がつかなかった。


「そりゃお前、そっちからデートにでも誘ってこい、ってことじゃないの?」

 店長はそう言って俺の前髪を整える。店長の短い無精髭が目の前にちらつく。しかし、そんな垢抜けない髭とは対称的に、黒いエプロンには皺一つなく、真っ白いシャツからは甘いシナモンの香りさえする。さっきまで今日のデザートを仕込んでいたのだろう。バーなのにデザートに力を入れるのは、彼の趣味に違いない。

「よし、これなら痣もそんなに目立たんだろ。しっかし強烈な子だなあ、お相手さんは」

 一瞬、この痣のことを言っているのかと動悸が走った。しかしすぐに、主体性がないと宣告された件へのコメントだと気づく。俺の痣は、課題中舟を漕いでいた時に机にぶつけて出来たことになっている。

「そう……ですね。手厳しい人だと思います」

 前髪を崩さないように気をつけながら、俺は床の掃き掃除を始めた。木目調のフロアを軽く掃きながら、俺は続ける。

「でもデート……ご飯に誘って欲しいなんて、向こうは思ってなさそうで」

「いやに悲観的だな。お前が思うほど嫌われちゃいないと思うがね」

「どうですかね……」

 僅かなゴミをちり取りに集め、ゴミ箱の上でパラパラと放す。店長はグラスに曇りがないか念入りに眺めながら、俺に語りかけた。

「普通嫌いな相手なら、主体性なんてないままでいてくれと思うよ。でもそう言ってくるんだから、何かしら構って欲しいんだろ」

 俺はメニューを書いた立て看板を店頭に出し、CLOSEDだったボードをOPENにひっくり返した。慣れた開店の流れだった。そしてそれは、ぼちぼち雑談の時間が終わることを意味している。

「まあ、ちょっとお前から話しかけてみたらどうだ? 相手に何か言われる前に」

 店長は、いつの間にロッカーから取り出していたのか、俺の通信端末を投げて寄越した。ぎこちなくそれをキャッチすると、店長は重ねて下手くそなウィンクをかました。

「まだピークには早いし、お前が三十分くらい後ろに引っ込んでても誰も困らないさ」

 頑張れよ、と背中を叩かれて、少しよろけた。ありがとうございます、と月並みな返事をして、俺はロッカールームに下がった。古典的な応援だと思ったが、後押ししてくれるのはありがたい。試しに、アドバイスを実践してみることにする。

『また今度うちに来ませんか』

 壁にもたれ掛かりながら、シンプルなメッセージを打った。俺から誘うといっても家に呼ぶくらいしか出来ないので、それしか言えなかった。選択肢の幅の無さが恥ずかしい。代わりにと言ってはなんだが、しばらく考えた末にこんな文句を添えてみた。

『夕飯や朝食のリクエストがあれば、教えてください』

 これで、純正和牛のステーキや、本格マグロ寿司と言われたらどうしようかと、少し不安でもあった。そもそも返信なんて来ないことも十分にあり得る。落ち着かないまま室内を歩き回っていると、やがて店の方にも人気が出てきたことに気がつく。そろそろ手が回らなくなった店長が呼びに来るかもしれない。戻ろう、と端末を鞄に入れた時だった。端末の画面が光った。

『明日二十三時駅前』

 それは、簡素どころではない返事だった。しかし、予想外に早い返信に、俺はかなり嬉しくなる。わかりました、と返事を打っていると、更にもう一件メッセージが届いた。これは驚くべきことだ。

『これいつもの朝メシ』

 その下には、いつ撮られたものなのだろうか、ゴミで溢れかえるテーブルを背景に、ペットボトルのコーヒーと空になった煙草の箱の写真が付いている。テーブルの向こうに僅かに覗く室内には、万年床と思しき布団が二組写り込んでいた。その周りに散乱するゴミが何を意味するのか、詳しく考えるのは躊躇われた。



「隼人さん、灰」

 吐き出した紫煙の向こうに翔が霞んで見える。あれから何度かこいつの家に来ているが、年末になっても学生は忙しく、いつものようにパソコンでレポートを書いている。俺の方に向き直っているのは今だけだ。視界の隅で灰が傾き、煙草の先端から零れ落ちそうになるのがわかったが、俺は動くのを億劫がっていた。単純に疲れていたからだ。三連勤の後は手足が動かない。でも弱ニコチン中毒の俺の脳は煙草を求めてやまない。喉と鼻に抜ける苦い風味を感じながら、自分を哀れむ。

「聞いてますか? 危ないですよ、灰が落ちそうで」

 片腕をだらんとソファからはみ出して寝転がる俺を見て察したのだろう、翔がガラスの灰皿を持ってこちらに歩いてくる。学生は原則禁煙の決まりだから、こんなところを誰かに見られでもしたら、厳重注意ものなのではないだろうか。灰皿を持って部屋をうろつくなんて。

「はい」

 翔が真新しい灰皿を目の前に出した。お陰で、耐えきれず落ちた灰の塊は、ガラスの上に落ちて儚く崩れた。灰が取れた煙草の先端から、オレンジ色の火が覗いた。俺の呼吸によってそれが明滅する。残り幾ばくもない煙草が、息をする度にじりじりと縮まっていく。いつもならもう吸い終わる長さだったが、今日は俺の怠慢で長く燃えていた。翔は依然そこに立っている。

「吸い終わるの待ってる?」

 大きく息を吐き出しながらそう聞いた。煙が翔の頰をくゆる。

「今日の隼人さん、最後消し忘れそうですから」

 よく人を見ている。前にもこんな疲れた日があって、あの時は危うく火災警報器が作動するところだった。あの時の、少し焦った顔の翔は見ものだった。ここで煙草を吸っているとバレると思ったんだろうか? 魚を焦がした、とでも言えばいいのに。

 かといって翔は、俺に禁煙を要求する訳でもなかった。こうして寝タバコをしていても、文句一つない。カーペットを焦がしたことも一度や二度じゃないのに、こいつは健気に焦げた箇所を修繕するだけだ。

「じゃあ消そうかな」

 甘い奴だった。禁煙を求めなくても、自分がその分世話をすればいいと思っているのだろうか。ここ最近こそ、一緒に飯を食おうだのと誘って来るようになったが、文句を言われたことは未だになかった。そういう所が人を苛立たせるとわからないのだろうか? シュタイセイ、なんてそれらしい言葉を無理に使ったのが良くなかったかもしれない。面倒見の良い彼氏ヅラをしておきながら、犬みたいに言いなりになる所が癪に障る、とわかりやすく言ってやるべきだった。お前の存在の何もかもが目障りだと。

 無性に、そして理不尽に腹が立っていた。疲れているせいもあって、それで余計にムカついてしまった。俺が全面的に悪いのは百も承知だ。俺は体で稼ぎながら、人の不興を買っていつも誰かに蔑まれる身分で、今は更に、同棲中の男がいながら若い無垢な青年にも寄生する畜生だ。悪役として役満だ。誰からも非難されて当然だし、その事実はこいつにも開示している。それなのに、一番に非難して当然のこいつからだけ、好意を施される俺の惨めさといったらない! いつも俺の手の届かないような恵まれた所から与えるだけ与えて、俺と同じ土俵には決して降りてこない、さながら天使みたいな男。卑しい俺には、何もかもが疎ましい。

 気がつけば、手が滑っていた。

 それは、じゅ、と小さな音がしただけだった。煙草は翔の親指の付け根あたりに押し付けられていた。灰皿を支える手が、驚いて跳ねる。直後、痛みに息を飲む声がして、俺は煙草を持ち上げた。跡に、小さな円形の赤い腫れが残っていた。

「……わり」

 言葉が出たのは一瞬後だった。顔を上げると、翔の複雑な表情が目に入った。引きつった、笑みとも苦しみとも言えない顔。いつも穏やかな翔の、初めて見る姿だった。それを見た俺もまた、同じような表情になっている気がした。少なくとも、笑みが漏れたのは確かだった。

 怒った? 俺のこと嫌になった?

 そう尋ねてみたくて、脳内に自分の声が反響した。ぶん殴られてもよかった。ぶん殴られたかった。でも、そうは聞かなかった。答えを聞いたら虚しくなると、どこか自分は冷静な判断を下していた。

「……大丈夫です、冷やしてきます」

 翔はそう言って俺から離れていった。その時、答えを聞くまでもなく虚しくなるのなら、聞いてしまえばよかったと思った。その判断の下手くそさが、俺の馬鹿なところだった。

 どうしてこんな、一番嫌なタイプの男に構ってしまうんだろう。食い物でも金でも貢がせて、あとは放っておけば良いはずなのに。煙草を持つ手が震えた。今まで関係を持ったどの男達にも感じなかった情動――耐え難い嫉妬の念が、俺の中でゆっくりと燃え広がっていた。消し損ねた火がここまで厄介だと誰が思っただろう。ほとんど指に接する所だった煙草の火を、乱暴に灰皿に押し付けて潰した。

 悪魔の本分は、あの憎たらしい白い奴らをこの手で自分と同じ高さまで貶めてやることだ。それは他のどんな利益にも不合理にも勝る原始的な衝動で、きっと本人達も理由なんてわからないのだと思う。俺は宗教になぞ明るくないが、そういった構図には図々しくも共感した。傷つけるだけでは飽き足らず、むしろ渇くようなその感覚。あの男の優しさ、寛容さ、底知れない好意、そんな尊いもの全てをドス黒く侵蝕してやらないと気が済まない。そのためなら何だってしてしまいそうなほどだった。

「冷やしたら大した怪我じゃなさそうでした。あれ、……どうかしましたか」

 平気そうな顔をして帰ってきた翔が、俺の視線に気づいて言う。

「別に」

 ただ、どうしたらお前のその顔が怒りや憎悪に歪むのか、考えていた。


 俺から翔に何かを尋ねることはほとんど無かった。こいつの家にいてわからないことは殆どなくなったし、翔の暮らしぶりになんて毛ほどの興味もなかったからだ。たまに、大学はどんな所なのか、親はどこにいるのか、などとつついてみるが、その返答はあまりに空虚なものだった。大学のパンフレットからそのままコピペしてきたかのような学校生活と、絵に描いたような豊かな両親が浮かび上がるだけだった。何の弱みにもならないばかりか、この男の人間的な側面がより薄っぺらく見えるだけだった。生臭い所が欠片もない人工肉みたいな清潔さは、翔の異常な奉仕心を薄気味悪く裏打ちする。側から見て、誰もこいつを不気味がらないのが信じられない。

 こいつに執着している身からすると、こんな奴危ないに決まっているのだ。底抜けの献身がいつ何に変性するかなんて誰にもわからない。俺にもこいつ自身にもそれはわかりっこない。俺は藪をつついて蛇を出そうとしているが、蛇なんかじゃ済まないかもしれない。そう思うからこそ、こいつが傍からは藪に見えないのが不愉快でならなかった。藪の分際で、わざわざ俺にだけつつかせようと近づいてくるなんて、いい度胸というものだ。献身も愛情も痛みを耐える顔も、全て俺だけ、俺にだけ見せてくる。俺の見たことのない翔の表情はまだ翔の中に存在していない感情なのだと、高慢な錯覚をするほどに、こいつは俺に曝け出してくる。

 どうして俺なのだろう。そう考えるたびに、いつも同じ仮説が立った。彼の見た人間の中で、俺が一番卑しいからだ。一番施しを与えるべき人間だからなんだ。

 翔が本当にそう思っているかなど、疑わしいものだった。しかしそうでもして理由を付けないと、俺はこの大きすぎる優しさで潰れてしまいそうだった。憎い。妬ましい。そうやって翔を目の敵にしていないと、俺はもう流されてしまいそうで――いよいよ根幹まで彼の甘さに侵されてしまいそうで、吐き気がした。

 俺にも、今まで散々な人生を送ってきた自負があった。それがこんな理不尽な男に絆されてしまったら、俺はもう何のために生きてきたのかわからない。

 そうした葛藤の中で、翔のバイト先の話を聞いた。今までの話の中で、一番人間味がありそうな所だと思った。


「どんなバーで働いてんの」

 そう尋ねた時、翔は色々なことを描写した。店内は白をベースに様々な植物とボトルが置いてあって、むしろカフェのような明るい雰囲気なのだと。

 実際に店の前に立ってみると、まさにその通りで、カフェやレストランといった佇まいだった。親子連れこそ少ないものの、一人客もカップルも男女半々ずつくらい入っていて、ドアが開く度に店内の洒落たBGMが漏れ出してくる。自分には似つかないその店の雰囲気に、ドアを押す手が躊躇われた。

 客層もあれこれ聞き出してみたが、男も女も品の良さそうな客ばかりで、泥酔客なんて見たこともなさそうだった。あんな退屈な駅のどこにこんな人間がいたのか、と不思議なほどに、店内は身なりのいい落ち着いた成人で埋め尽くされている。

 そこは居酒屋の雰囲気ではなく、お酒と軽食のお店、と翔は形容した。甘いもの好きで気さくな店長と、行儀よく皿を出す小綺麗な店員、接客されればありがとうと言うような客たち。俺の知る酒場とはかけ離れていた。喧騒とも犯罪とも無縁の世界で飲む酒は、さぞや美味かろう。俺にもその味の違いがわかればいいのに。そう笑いながら、俺はシックな木目調のドアを強く押した。チリンチリンと可愛らしいベルが揺れる。

「いらっしゃいま……」

 黒髪の男性店員がこちらを振り返る。なかなか様になる風貌だ。白いシャツに黒いエプロン姿の翔は、そのまま入り口を向いて凍りついた。硬直したまま、俺のことを上から下まで眺めて目を丸くしている。入店ベルが鳴り終わる前に、俺は半音上げた声で愛想よく喋りかけた。

「喫煙席一つ、空いてます?」

 お前のことなんか知らない、という顔で、俺は微笑んだ。翔もまた、ハッと我に返って緊張した笑みを返す。

「あ……はい、ええと……こちらどうぞ」

 このご時世にこんな店では、煙草を吸う奴さえ珍しいのだろう。店の隅に申し訳程度に据え付けられた換気扇の隣が、俺の席だった。オモチャみたいなサイズの灰皿が、調味料の瓶に並んで収まっている。

 ファー付きのロングコートを椅子に掛けて、煙草を咥えた。いつも雑に結んでいる髪だが、今日は珍しく高い位置で華やかにまとめているため、コートを脱ぐとうなじに外気が触れる。僅かに汗ばんだ肌がひんやりと冷まされるのを感じた。

「お決まりの頃にお伺いします」

 俺は翔からメニュー表を受け取ると同時に、ライターの火を灯した。カチ、と軽い音がして、青い炎が目前に浮かび上がる。煙草の先を炎で包んでやると、じきに赤く燃えて煙を立てた。

 翔は少し離れたところに立っていて、店内全体に気を払っているようだった。しゃんと背を伸ばして立つ様は、初めて会った時の印象に近い。しっかりしていて、誠実そうで、本当よりずっと大人びて見えて、そして俺みたいなロクデナシとは付き合わないように見える。

 翔の手元に目線を落とすと、薄い手袋をしているのがわかった。滑らかそうな黒の手袋は、制服と調和して目立たない。客の気を引くこともさしてないだろう。――うまく隠している、と俺は一人ほくそ笑んでいた。その後火傷の経過はどうだろうか。まだ治っていなくて、不自然な腫れが残っているんじゃないだろうか? 一体どんな言い訳をして手袋を嵌めているのだろう。洗い物などしたら痛むかもしれない。そうだ、額の痣はどうなった?

 翔がしているだろう、周囲への隠し事を考えるだけで、幾分胸がすく思いだ。


 安い酒を頼んで、俺はダラダラと店に居座っていた。近くに他の客が座ることもなく、俺だけが穏やかな空気から閉め出されているようだった。事実、俺の周りにだけ紫煙は漂っており、店の隅でくすぶった仄暗い雰囲気を醸している。酒瓶もとうに空になって、灰皿にはギチギチに吸い殻が溜まっていた。そろそろが頃合いだろう。

「すみません」

 俺は軽く手を振って、翔に優しく声をかけた。

「灰皿を取り替えてもらっても?」

 ぴく、と翔の体が震えた気がした。けれど彼は、その震えをおくびにも出さず、次の瞬間には笑顔で答えた。

「はい、少々お待ちを」

 翔が裏方へ引っ込むのを横目に、俺は店の様子を伺っていた。話通り気の良さそうな店主がカウンターの奥に立っており、常連客と思しき壮年の男性と世間話に花を咲かせている。他にもフロアには、凝ったデザートを囲む女子のグループや、酒を飲み交わす父子と思しき年の差の二人組など、様々な客がまだ残っている。多幸感に満ちた空間だ。煙草になんて頼らないでいい連中ばかりだ。そんな呑気な彼らは――俺達のしている火遊びに気がつくだろうか?

「お待たせしました」

 俺がフロアに向ける視線を遮るように、翔は戻ってきてそこに立った。フロアの逆光を受けて俺を見下ろすその眼は、影になってより黒々と佇んでいる。真っ暗な瞳の中に、俺と煙草の火が映り込んでいる。

「どうぞ」

 替えの灰皿を差し出したその手は、何故か素肌だった。青紫色の血管がうっすらと走っているのがわかる。その手に火傷痕はない。

「……手袋はどうしたの?」

 なくしちゃったの? と俺はわざとらしく聞いてやる。彼は極めて穏やかに答えた。

「借り物を焦がす訳にはいかないので」

「律儀だね。自分より手袋の方が大事?」

 すっかり縮んだ煙草を手に取り、灰皿の方に近づける。粉になった灰が、灰皿の縁にかかった。まだ熱い灰は、今にも翔の手に落ちそうである。しかし彼は灰皿を放そうとしない。

「……何を待ってんの?」

「隼人さんが、煙草の火を消すのを待ってます」

 何度か煙草を揺らして灰を落としてみる。やがてほろりと崩れたそれは翔の肌に落ちた。何の音もしなかった。痛がる素振りもなかった。差し出した手は引かず、ただずっと俺の前にある。

「消さないんですか」

 頭上からかけられる声は酷く穏やかで、かえって冷たいくらいだった。顔を上げると、どこまでも暗い双眸が俺を捉えていた。こいつの立ったところから、俺達は賑やかなフロアから切り離されていて、辺りはとても静かだった。俺が唾を飲む音が聞こえる。翔は小声で俺にだけ囁いた。

「どうぞ。どうせなら、左右対称の方が見栄えがいいかもしれないし」

 この辺りですかね、と翔は親指の付け根を指先で叩く。確かにそこは、俺が前に煙草を押し付けた箇所に相違なかった。彼はその間も微笑みを絶やさなかったが、その笑顔はどこかぎこちなかった。不安、恐怖、痛みへの嫌悪感、それらは声色から完全に排除されている代わりに、ありありと目元や口元に滲み出ている。そういう感情が存在するのに、こいつはそれを押し殺している、と一目でわかった。けれど彼は、フロアにそれを一切悟らせないよう、背を向けて俺だけにその表情を投げかける。

「隼人さんそのために来たんでしょう。わかりますよ、いつもより吸うペースが早いから」

 陰った笑みは、それでもまだ俺への愛情を含んでいた。健気に、痛々しいくらいの従順さで、煙草を押し付けられるのを待っている。

「……来てくれて嬉しいとか、思ってんの?」

 俺の方が酷く声が震える始末だった。一時的に忘れていた腹ただしさと、初めて感じる衝撃――彼への畏怖が、俺の頭をいっぱいにしていた。遅れて、そんな怯えを彼に抱いたことがショックだった。

 俺は勢いよく煙草を灰皿に押しつけた。

「帰る!」

 慌ただしくコートを掴んで席を立つ。代金を机に叩きつけて、翔が何か言うのも聞かず俺は店を飛び出した。心臓が早鐘を打っていた。

 駄目だった。駄目だった。失敗した。彼の痴態を衆目に晒してやろうと思っていただけなのに、見せつけられたのは俺だった!

 深すぎる慈愛は、突きつけられる刃物と同じだった。俺はもう、脅される段階なのだ。鋭利な刃物でもって、骨の髄まで刺される目前にいる。築き上げてきたプライドをへし折られる寸前だった。怖かった。心が砕けそうだった。遠い日の記憶の中で、忌々しい親父の影が揺れている。

 怖いなんて、もう誰にも思わないはずだったのに、どうしてあんな男にその姿を見出してしまうのだろう。うずくまる自分の前に立つ親父の顔は、いつも逆光で見えなくて、その光景は奇妙に翔とダブった。親父には似ても似つかない端正な輪郭が、暗がりの中でぼやけて重なっていった。



 今日は慌ただしい一日だった。隼人さんが出て行った後も客足は途絶えず、金曜の夜ということもあって、閉店間際まで動きっぱなしだった。隼人さんはあの後どうしただろう。やはり怒らせてしまっただろうか。何とメッセージを送ればいいのかもわからず、家に着くまで一文字も打てなかった。俺は彼の機嫌を損ねてばかりだ。

 店を出て行く寸前の隼人さんの顔は、見たこともないくらい悔しそうなものだった。しかし同時に、初めて隼人さんの心に触れられたような気がしていた。いつも飄々として、俺のことなど認めてくれないような人だから、悔しがるなんて顔をすることが驚きだった。それが良いことなのか悪いことなのか、俺に断ずることはできないけれど、俺の方から彼の感情を一つでも引き出せたのは大きな進歩だ。これなら主体性があると言ってもらえるかもしれない。もちろん、また新しいダメ出しをされるだけでも俺は構わなかった。

 そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、いつの間にか自分の部屋の前にいた。もう日付を跨いでいるだろう。早くシャワーを浴びて、隼人さんにメッセージを――。

 そこで初めて気づいた。鍵を回してもドアが開かない。妙に思って逆方向に鍵を回すと、今度は開いた。つまり鍵は最初から開いていたということだ。おかしい。今日家を出る時はきちんと閉めたはずだ。もしかして、と思い、俺は玄関から暗い室内に声をかける。

「隼人さん、来てるんですか?」

 合鍵を渡した覚えもないが、スペアの鍵を隠しておいた訳でもない。ドア横に備え付けられたフックに無防備に掛けていただけだ。玄関の小さな照明を点けると、案の定スペアの鍵は消えている。

「隼人さん? いるんですか?」

 先程よりも声を張って呼びかけてみる。相変わらず返事はない。仕方なくリビングまで歩いていく。フローリングの床が微かに軋む。そんな音が聞こえるくらいに静かだった。人気がない。今更ながら、空き巣だったらどうしようかと心配になった。やっぱり俺が戸締りをし忘れただけなんだろうか。そんな折だった。

 びちゃ、と足先が濡れた。驚いて思わず後ずさる。咄嗟に、何か液体を踏んだと思った。右靴下が湿ってひやりと冷たくなる。暗い中目を凝らすと、その液体はトイレのドアの隙間から漏れ出ている。水回りの故障か? とにもかくにも俺はドアを開けた。

「……隼人さん?」

 一瞬、何が転がっているのかわからなかった。しかし慌てて電気を点けてみれば、そこに寝ているのが隼人さんだと容易にわかった。銅色の長い髪が肩を伝って床に広がっていたからだ。つい数時間前まで綺麗に結われていた後ろ髪は、見る影もなくぐちゃぐちゃになって、今は床の液体に浸っている。

「どうしたんですか、大丈夫ですか」

 便器の横で丸まる隼人さんは身じろぎ一つしない。不安になって抱き起こそうとすると、かなり彼の体温が下がっていることに気がついた。それにとても酒臭い。胸こそ微かに上下しているが、呼吸音は弱々しく瞼も開かない。大体、いつもの隼人さんなら「触るな」と言って手を払いのけて来るはずだ。恐らくは危険なレベルの泥酔だ。

 こういう時、どう対応しろと習っただろうか。

 必死で、バーでの研修を思い出す。酔いつぶれた客がいる時の介抱の仕方を教わったはずだ。……そうだ、なんとか体位。少しずつ思い出して来た。横向きに寝かせて、顎をあげさせて、脚は組ませるんだっけ……。救命……いや、改善……回復……思い出した、回復体位だ。朧げな記憶を頼りに、マネキンにやったように隼人さんを横にする。隼人さんの口元は半透明な液体で汚れていて、そこでやっと床の液体が隼人さんの吐瀉物であるとわかった。ほとんど酒か水のようで、不快感が少ないのは幸いだった。あとは救急車を呼ぶべきだろう。急いで通信端末を取り出すと、丁度狙ったようなタイミングで隼人さんが酷く咳き込んだ。

 げぽ、と音を立てて、黄ばんだ胃液が口から押し出された。頰から床まで泡立った液体が垂れていく。何度か丸まった背中が震えて、その度に床の水溜まりを広げていく。隼人さんは蛙が鳴くような声で繰り返し喘いだ。いつも自在に動いて俺を嫌ってみせる口が、嘘のように頼りなく顎を震わせていた。必死に息をしようとしてはえずき、吐き気の波に抗えずに舌と胃液を出す。もう吐けるものもないだろうに、必死に口を開けて浅く呼吸する姿は、見ていては申し訳ない程に哀れだった。思わず目を逸らすものの、嫌でもその呻き声は俺の耳に入ってくる。いつもの隼人さんからは想像もつかないような弱々しい水音。それを聞いているとどうしても放っておけない気持ちになって、罪悪感を感じながらもますます耳をそばだててしまう。それに、しばらく声を聞いていてわかった。隼人さんは何かを喉に詰まらせている。吐瀉物が喉に詰まって窒息死、というのもあり得る話だ。後々のことを考えると気は進まないが、でも、やる理由はいくらでもあった。できれば俺がどうにかしたかった。……俺にやらせて欲しい、と思ってしまった。

「……ごめんなさい、失礼します」

 先に謝ってから、俺は隼人さんの顎を片手で支えた。そして、噛まれることを覚悟で、二本の指を口の中に滑り込ませた。反射的に隼人さんは身じろぎする。が、まだ目は閉じたままだ。歯が弱く手の甲に当たったが、微々たる抵抗だった。

 こんな状況でなければ、隼人さんの髪に触れられることは嬉しかったかもしれない。飲み込みそうになっている長い髪の毛を咥内から出してやる。髪の毛も口の中も唾液まみれで、俺の手はあっという間に隈なく唾液で濡れた。口の中は体表に比べてかなり熱く、冷えた指先は彼の舌の上で溶けそうに感じられる。既にかなりの罪悪感で、動悸が激しい。内心何度も頭を下げながら、俺は口の奥の方 まで指を進めた。人間の舌というのは想像しているよりもずっと長く、境目がないまま喉の粘膜に繋がっていく。指先はすんなりと、咥内とは質感の異なるやわらかい喉の肉に触れてしまう。隼人さんが嘔吐反射を起こしてえずいた。俺の手のひらと彼の下唇の間から、飲み込めない唾液が垂れていくのがわかった。隼人さんはもう顎から喉までべたべたに汚れている。当然ながら、咥内に溢れる唾液は否応なく俺の指先にも絡みつき、作業を難化させた。苦しげな声が自分の手元から上がっているのだ、早く終わらせなければならない。

 幸いにも、すぐに指先にそれらしき物が触れた。固形で、柔らかい人工物のようだ。ぬめりと戦いながら、俺はようやく一つを喉から引きずり出す。唾液が太く糸を引いて、指と唇の間に弧を描いた。こんなになるまで一体何を飲み込んでいたのか。喉から取り出したものを、粘液を払ってよく見る。

 やはり、最初は目を疑った。それは煙草だった。それも、吸い終わった吸い殻だった。いくつかのちびた吸い殻が互いにべっちょりとくっついて、ちょっとした塊になっている。なんでこんな物が喉に?

「う……」

 隼人さんの呻き声で俺はハッと我に返った。煙草をその場に取り落とし、ゆっくりと俺は顔を上げる。罪悪感がいよいよ喉までせり上がってきていた。

「……お前……」

 伏せ目がちに、しかし隼人さんの瞳孔は確かに回って俺を真っ直ぐに捉えていた。あれだけ吐いたからだろう、生理的な涙をたたえた眼は、死んだように黙って俺を見上げるだけだった。

 ごめんなさい、と咄嗟に言えなかった。喉に物がつかえたように、様々な感情が一斉に湧き上がって気道を詰まらせていた。だから、永遠にも感じられる一瞬の沈黙の中で、先に言葉を発したのは彼の方だった。

「も、っかい」

 くぐもった声で、隼人さんはか細くそう言ったのだ。聞き間違いだと思いたかった。呆然と彼を眺めていたから、再び彼の口が力なく開くのがスローモーションのように見えた。俺は何も考えられなかった。何も謝れなかった。それなのに、自分の手が操られるように彼の口元に引き寄せられていくのが見える。全てがゆっくりと、脳に焼け付くが如く詳細に映る。

 指先が不安げに彼の唇に触れ、拒まれないことを確認してから、歯の隙間を潜り抜けて口の中に入っていく。隼人さんの荒い息が手の甲で鋭敏に感じられる。再び舌の奥に手をかけると、今度ははっきりと隼人さんの嘔吐反射がわかった。おえ、とえずく隼人さんに、俺は不規則に何度も手を噛まれた。今にも閉じそうな彼の目が幾度となく見開かれ、狭いトイレにただ苦しげな喘ぎと唾液の水音だけが響く。明確に苦しむ隼人さんを間近で見下ろしながら、俺は暫くの間ひたすら煙草を喉から取り出し続けた。二本の指先が唾液でふやけても、構わず喉に手を突っ込み続けた。多少首を振られても、強引に口をこじ開けて事を続けた。彼にそう強いられている気がしたのだ。謝りたくてしょうがない俺の心を置いてけぼりにしたまま、俺の手は床に煙草の山を築いていった。


 一体どのくらいの間そんな事を続けていたのだろうか、やがて隼人さんはこれまでになく思いっ切り俺の手を噛んだ。思わず声が出るくらい痛かったし、そこから手を前にも後ろにも動かせない程に歯でしっかり止められた。一分間くらい全力で噛まれた後で、やっと俺の手は解放された。素早く手を引っ込めたが、綺麗な歯型が手の両面についていた。

「ざまあみろ」

 隼人さんはトイレの床に吐瀉物まみれで横たわったまま、クスクスと笑っていた。いつもの調子が戻ってきたようで、俺は少し安心する。しかしほっとすると、途端にその場の臭いや汚さがわかるようになってきて、俺は次第に眉を顰めた。自分の手も酷い臭いだし、隼人さんを可及的速やかに風呂場に連れていくべきだと思われた。

「とりあえず片付けましょう」

 俺は、床の汚れを広げないように慎重に隼人さんの手を取る。彼も大人しく俺に掴まる。そのままなんとか彼を抱き起こすことに成功し、俺達は風呂場に場所を移した。汚れた服をバケツに入れてから、俺は念入りに手を洗って隼人さんにタオルを押し付けた。下着姿のラフな彼を見るのはこれで二回目だ。

「服はこっちでどうにか洗ってみるので、隼人さんはとにかく風呂に入ってください」

 それだけ言って、脱衣所に背を向けた。凄惨たるバケツを洗面所に空け、汚れた箇所を水で念入りに流す。流水の音に混じって、背後で浴室のドアが開く音がした。

「ほんとお前ってさあ、言われたら何でもするんだな」

 扉の向こうから、浴室に反響した声が不意に話しかけてくる。直後シャワーが勢いよく床に当たる水音がして、俺の返答は未然にかき消された。

「すごく頭おかしいよ」

 そう辛辣な言葉を吐く隼人さんは、俺の勘が正しければ、きっとこれまでで一番笑っていた。本当に笑っているのか、実は怒っているのか、はたまた泣いているのかなんて、姿が見えないからわかりっこない。だから、いかようにも解釈できた。ずるい言い方だった。じゃあ俺がさっきの事を謝れないのも、俺の頭がおかしいから、という事にしていいのだろうか。



「遅い」

 相変わらず寂れた駅前に俺は立っていた。俺を見て、開口一番翔は目を丸くして言った。

「どうしたんですか、その髪」

 俺の長い後ろ髪はすっかり短くなっていて、うなじが見えるようになった。自分でカットしたから、出来はご愛嬌だ。

「ボサボサになったから切った」

「なんで急にボサボサになったんですか」

「鷲掴みにされる取っ組み合いしたから」

「その怪我も、それで?」

 自分からは見えないが、俺の左頬には酷い青痣があった。かなり腫れて、きっと左目まで充血している。俺は翔に数少ない荷物を押し付けた。

「そう。出て行くって言ったら元同棲相手にぶん殴られたの」

「……ちなみに、何て言ったんですか?」

「もうお前に興味湧かない。売りもやめる。短い間だったけど、今までどーも」

「他には?」

「下半身以外にも取り得見つけた方がいいんじゃない?」

「……それは殴られるでしょうね」

 翔は呆れながら俺にヘルメットを渡した。無理矢理荷物をくくりつけられた原付は、頼りなく傾いている。本当にこんなんで走れるのか疑問だったが、俺は大人しく座席に跨った。翔がすぐ前に座り、原付はゆっくりと駅前を離れる。走り出してみると、案外安定するものだと思った。

「前から思ってたんですけど」

 夜半の風を切りながら、翔は俺に聞こえるギリギリの声量で尋ねた。

「隼人さんって、誰でもいいから怒られたいと思ってます?」

 相変わらずつまらない質問ばかりする男だと思った。俺はわかりきった答えを返す。

「そんな訳ないじゃん」


 記憶の中の親父はいつも酒を飲んでいて、よく俺を殴った。アルコールに震えた拳で、まだ小学生だった俺を躊躇いなく殴ってくる親父だった。俺のことなんか嫌いで、出て行った母さんのことも嫌いで、だからうまくいかないこと全てを母さんに似た俺にぶつけてくるのだと、当時はそう思っていた。

 でも今は少し違う印象を抱く。最低な親父だということは変わらないが、その拳には迷いがあったかもしれない、と思うのだ。無理矢理俺に酒を飲ませて、煙草の吸い殻を食えと言って、トイレで泣く俺を吐かせたけれど、もしかしたらそこには迷いが残っていたかもしれない。俺が子だから、そうあって欲しいと望んでいるだけかもしれないが。

 翔に親父らしさを感じてしまうのも、そんな理由からじゃないかと考えている。迷いながら、でも俺のことをめちゃくちゃに殴りかねない不安定さは、素面の親父に近い。親父にあそこまでの愛情は感じられなかったが、まあ、でも似ていなくはない気がする。

 親父といる時は、あの髭面が憎くて怖くて堪らなかった。いつまたキレて俺の胸ぐらを掴むかわからないからだ。でも、殴られているその間は、いくぶん気が楽だった。何故だろう、今でもその安心感は感覚として自分の中に残っている。昔と今ではその安心のニュアンスも随分違うが、やはり大きいのは、無力感を得られることかもしれない。今も昔も、もう何もしたくないのだ。抵抗だってしたくない。何をしても俺の生活は変わらない。ならいっそ、何もかもをなすがままにされて、俺の全部を決めてもらいたい。全部の責任を渡して、俺の全てを奪われたい。生きることのつらさをも持って行ってくれたらいい。相手に全てを委ねる心地良さは、結局暴力を振るわれるその瞬間にしか見出せなかった。

 翔はどうだろう。俺がやれと言ったら、気絶するまで殴ってくるだろうか。下手に加減されると余計に痛いので、本気でやるようよく言い含めないといけないかもしれない。この前の、あれ本気で殴ってたの? 冗談だろ? 俺馬鹿だから、もっと痛い目に合わないとわかんないわ、なんて言ってみようか。

 殴られる度に、何度も何度もこんなやり取りを繰り返したら、いずれ気絶や骨折じゃ済まない怪我を負うかもしれない。翔を見ていると、そう遠くない未来にそうなる自分が見える。俺がそうしろと誘えば、翔はやる。そんな気がする。でもストッパーが動いていないのは俺も同じなのだ。俺も翔も、坂を転げ始めたら止まれないタイプで、落ちていく浮遊感やスピードが癖になってしまう欠陥品だ。お互いに怖いと思いながら、俺達はきっとどこまでも傷つけ合う。少なくとも、俺はその覚悟がある。

 お前のことが大嫌いだから、俺は躊躇わず自分を投げ出せる。


 その日は眠れなくて、明け方まで起きていた。二月の冷え込む朝は厳しく、俺は毛布にくるまりながら、ソファ近くまで引き寄せたヒーター前に陣取っていた。最低限の指先だけを出して、いつもの銘柄を吸う。小ぶりな灰皿は既に吸い殻で溢れかえっていて、細くたなびく白煙を上げている。これ吸い終わったら寝よう、と思っていても、目は冴えていた結果だ。俺が寝るより一箱なくなる方が先だろう。俺は煙草の吸い口を噛み締めた。歯ごたえのない、葉が潰れる感覚がした。食べても美味しくないことは俺が一番知っている。俺は苦々しく煙を吐き出した。ちょうど紫煙の奥に、大きく伸びをする翔が見えた。

「レポート終わったみたいだけど」

「何とか、まあ。結局隼人さん起きてたんですね」

 パソコンを静かに閉じ、残ったコーヒーを一息に飲み干すと、翔はふらふらとこちらに寄ってきた。俺の隣、少し離れたところに腰を下ろす。ヒーターに手をかざしながら、しばし無音の時間が流れた。そしてどちらからともなく会話が始まる。

「寝ようと思ってたのに寝損ねた」

「あんなにコーヒー飲むから」

「お前のキーボード音がうるさいの」

「じゃあ寝室で寝れば良かったじゃないですか」

「無理。あんなやわい枕じゃ逆に寝れない」

「この間買ったのが下の棚にありますよ」

 何を言っても言い返してくるようになって、本当に生意気になった。いつの間に俺用の枕を買っていたのだろう? ともかく、煙草が短くなるまで、そんな下らない言い争いをしていた。もちろん、俺にとって内容はどうでもよかった。

「まあいいや、灰皿取ってよ」

 それを聞くと、翔は暫時俺のことを見つめた。何か言いたげにも見えたが、俺は無視して早くと急かす。

「はい」

 翔は、手の平を上にして俺に差し出した。寒さからか、僅かに震えている。その手の平の所々についた火傷跡を眺めていると、惚れ惚れとした。

「ほんと、すっかり悪い子になっちゃってさ」

 じゅ、と、聞き慣れた熱い音がする。相変わらず、手が跳ねる反射は残っているものの、最初より随分動かなくなった。反射まで押し殺そうとするなんて、いじらしい努力だ。

「……あなたがそうさせたんでしょう」

「じゃあ嫌がればいいのに」

 すると、翔は眉を顰めてかぶりを振ってみせた。

「俺は嫌がってるつもりですよ」

「ふーん。ならお前が嫌がるの下手ってことだ」

「でも隼人さんはそういう俺を見て楽しそうですね」

 翔が低い声で呟いた。少し疲れた目が俺をじっと見据えている。前より、どこか光を欠いた黒い瞳だ。単に今はレポートを終えた疲労のせいかもしれないが。ふふ、と自然に笑いが漏れた。

「どう? 俺のこと嫌になった?」

 わざとそう聞いてみると、翔も微かに笑ってみせた。

「殴りたいくらい嫌になって欲しいですか?」

 吸い殻を持った方と逆の手が、俺の胸ぐらを掴んだ。ぐい、と引っ張られて上体を軽く起こされる。こういう時だけ、こいつ俺より体格いいんだっけ、と思い出された。釣られて不意に、彼と出会ったばかりの頃を思い出す。いかにも純粋そうで、見ているだけで劣等感を煽られるような男だった。何をしても自分が嫌になってくる、憎々しい男。あの頃の面影は、今なお彼に残っている。人を殴ろうとして狙いを定める目の奥に、まだ俺を不安げに見る愛情が感じられるのだ。

 つくづく甘い奴だと思った。彼の憐れみを受ける度に、俺はこいつが嫌いだと、内心で悪態をついている。なんて、翔は知っているだろうか。優しくするばかりで、自分からはなかなか近づいてこない卑怯者だと、声高に罵っていると。

「……本当に、悪い男になっちゃって」

 でも今は、今だけは俺を殴ろうとしている。俺が肯定すれば、その途端きっと俺を殴るだろう。俺が殴れと挑発するから。翔は素直でいい奴だ。俺のようなどうしようもない人間のために、頑張って尽くそうとしてくれる。涙が出るくらい嬉しい。お前みたいな人間が、俺みたいなのを殴るほど落ちぶれるのが。俺にこんな形で手を出してくることが。どこまでも俺を追ってくることが。

「俺はお前のこと殴りたいくらい嫌いだけど、お前もそうだろ?」

 自虐的な笑みを浮かべて、俺は彼に殴ってくれと頼んだ。

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底の見えない情念たち 紺野透 @navy_vio

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