第1章

空がこんなに綺麗だったなんて

 覚醒しかけたとき、自分がどこかに倒れているということが分かった。

 閉ざされた瞼の向こう側が赤く、そして温かい。

 空気の流れが私の肌を撫でていく。

 そして、「」と直感的に理解した。


 瞼を開けるのが少し怖かった。

 それをしてしまうと、世界の常識がまるごとひっくり返ってしまうような予感さえした。

 だけど、もう自分が戻れないところまで来ているということを思い出し、おそるおそるその扉を開いた。


 まず目に入ったのは青だった。地上が青で覆われていた。

 その青をぼんやりと眺めているうちに、私はあることに気がついた。


 まさかとは思うが、


 私の知るかぎり、空というのは常に白い雲や黒い雲、厚い雲や、あるいは薄い雲に覆われている。

 空が青かったことなんて一度もなかったはずだ。

 太陽がこんなに眩しいということも知らなかった。


 視線を少しずらすと、白い雲が迷子の羊のようにぽつんと浮かんでいるのが見える。白い鳥が、羊を捜す羊飼いのように飛び回っている。


「鳥が飛んでる……」


 私は無意識のうちにそうつぶやき、体を起こそうとしてみたが、そこでようやく地面にみずみずしい植物がたくさん生えていることに気がついた。

 緑色の小さな草であたりは埋めつくされていて、風がその香りを空へ運んでいく。

 生まれて初めてその身に受ける自然の風は、私の迷いを全て吹き飛ばしてしまうほどに心地良かった。

 まるで、心が自由になって体より大きくなったみたいに。


「いつまで、ぼーっとしてんのよ」

「わっ!」


 コウモリがいきなり目の前に下りてきたので、心底驚いた。コウモリはそんな私を見てほくそ笑む。


「ここはどこなの?」

「雨の街を抜けた先にある丘よ。アンタ大丈夫? あなたのお名前は?」

「結原ヒカリ」

「アンタは何しに風の色に来たの?」

「異物混入について調べに来たんだよ」


 私はほっぺたを膨らます。

 忘れっぽいところはあるけど、そんな大事なことを覚えていないわけがない。


「大丈夫そうね……じゃあ、あれを見てみなさい」


 私の膝の上にいるコウモリが、翼で傾斜の下側の方角をさした。


「あれが雨の街?」


 その方角はあたり一帯が白い霧に包まれていた。

 霧以外には何も見えないけど、その先に街があるのだろうか。


「そんで、この丘を登った向こう側が風の色」


 コウモリが翼で私の背後をさしたので、そちらの方を振り返ってみた。


「あっ!」


 今まで気がつかなかったが、私の背後、数メートル先に本物の樹が生えていた。

 幹や枝の部分は深い茶色で、葉の部分は周囲の草と同じように鮮やかな緑色だ。いつも雨の街で見ていた無機質な石像と違い、生命の美しさのようなものを放っている。


 私は胸が熱くなるのを感じた。


 樹の周りには何もなく、緩やかな傾斜の地形が広がっている。


「それじゃあ、そろそろ行くわよ」


 私はコウモリに促されて立ち上がった。コウモリが再び頭の上に乗っかり、私は歩きはじめる。


「コウモリさん」

「何よ」

「ここは、本当に凄いところだね!」

「何言ってんの。本当に凄いのはここからよ」

「本当に?」


 そう言われると、いてもたってもいられなくなり、草が生い茂る傾斜を走って登った。

 そして、一番高いところまで登りきると、向こう側の景色を目にすることができた。


「あれが、風の色よ」


 私は眼下に広がる光景に絶句した。そこには銀色で四角い、巨大な建物がいくつもそびえ立っていた。


「あのいっぱい並んでるやつは街のビルよ。あそこに風の色の奴らが住んでいるってわけ」

「ビルって?」

「建物のこと。そう言えばアンタ、ここの物のこと何も知らないのね。先が思いやられるわ」


 コウモリは呆れていたが、そんなこと言われても知らないものは知らない。


 そのビルとやらを遠くに見ながらしばらく歩いた。

 すると、地面が草地ではなく、黒くて石のように硬くなっている場所に着いた。


「石畳じゃないのに、石みたいに硬い……」


 靴の爪先の部分で硬い部分を蹴りながら感心した。


「アスファルトって言うの」

「アスファルト?」

「面倒くさいから説明しないわよ。ほら、ここから先は道路を歩きなさい」


 風の色の街はもう少し先にあるが、アスファルトの道路は街からここまでまっすぐに伸びている。しかし、道路の先はこの地点で不自然に途切れていて、周りは丘と同じように小さな草に覆われている。

 私はコウモリの言う通り、道路の上をトコトコと歩いた。


 風の色へ近づくにつれて、立ちはだかる建物はどんどん大きくなり、その強大な存在感を誇示してきた。まるで、昔読んだ絵本に登場する魔人の群れのようだ。

 雨の街の建物は最も高いものでも三階までなのに、ここにはどう見ても十階以上の建物がいくつもある。

 そして、それらはただ大きいだけではなく、洗練された造形であり、建物の側面にはガラスの窓と思われるものが綺麗に列をなして輝いている。

 一体どんな技術を使えばこんなものが作れるのだろうと、私はただただ驚いていた。


 青い空の下、朝日に照らされた風の色の街並みが目の前に迫っている。

 私はこんな国で、色々なことを上手くやれるのだろうか。誰も答えない代わりに、靴底とアスファルトの音が同じリズムで静かに鳴りつづけていた。


 道路を十分ほど歩くと、ようやく街に到着した。御丁寧にも「風の色 第四区」と書かれた大きな看板が立っている。

 遠くから見ても巨大であったビルは、真下から見ると頂上が見えないほどに高い。私はただひたすらに頭上を見上げながら歩く。


「ここからは歩道を歩きなさいよ」


 コウモリは私の頭から落ちないように、髪の毛にしがみつきながら言った。私の髪が傷んだらどうしてくれる。


 だが言われてみると、たしかにアスファルトの道路の両脇に一段高くて少し細い道があり、人々はみんなそこを歩いている。私もそれに倣った。


 風の色の住民たちは、見た目はそれほど雨の街の住民と変わらないように思えた。雨の街と似たような服を着ている人もいれば、雨の街では見たことのない服を着ている人もいた。


「まずはコウモリさんの知り合いの工場に行くんだよね」

「ええ、ここいらでタクシーを拾いたいわね」

「タクシー?」

「噂をすればなんとやら。あんたちょっと止まって右手を上げてて」

「……こう?」


 次々に知らない言葉がでてきて、わけの分からないまま右手を上げてみた。すると謎の物体が道路を走ってこちらへ向かって来るのが見えてきた。


 私の知識を総動員してその物体を言葉で表現するとしたら、それは馬のいない馬車というのが最も適切だと思う。

 しかし、形状は馬車と大きく異なる。車の部分には窓がついていて、車輪は黒くて小さめ。中に御者らしき人物がいて、何やら輪っかのようなものを握りしめている。


 その物体は私たちの前で停まり、触りもしないのに側面が扉のように開いた。正直に言って、私は度胆を抜かれた。内部は人が座れるようにソファーの形をしている。


 気が付くと、頭の上にしがみついていたコウモリが後頭部に隠れていた。


「どうして隠れるの?」

「アタシはほら、動物だし」

「別にいいじゃん」

「それより、中に入ったらアタシの言ったことをそのまま繰り返して」

「えっ!?」

「ボサッとしていないで、とっとと乗って」


 コウモリに急かされ、中の座席に座った。

 御者の席には輪っかの他にもよく分からないものがたくさんついている。


「どちらまで?」 御者が訊いた。

「えっと……」 私は困った。

「スパゲッティ工場までお願いします」 コウモリが耳元で囁く。

「スパゲッティ工場までお願いします」


 私はコウモリに言われた通り、同じ言葉をそのまま繰り返した。

 それを聞いて御者が私たちの方を一瞥した。けど、コウモリの存在には気付いていないようだ。


「かしこまりました」


 そう言うと、私たちが乗っているタクシーとかいう物体がひとりでに動き出した。そのスピードは、風の色から物資を運んでくる馬車よりずっと速い。それに合わせて窓の外の街並みが次々に流れていく様に私は感動し、目が釘付けになる。


 風の色は、私の知らないもので溢れていた。

 このタクシーと同じような物体が道路を走り回っている。意味の分からない看板がたくさん立っている。灰色の柱が等間隔に並んでいて、それぞれの上部が黒いロープのようなもので繋がっている。住民たちは傘を持つ必要がないから、随分快適そうだ。

 私はそんな街の景色を飽きることなく眺めていた。


 やがて目的地に到着したらしく、タクシーが止まって再び側面の扉が開いた。


「運転手にこれを渡して」


 コウモリが耳元で囁きながら、小さな紙のようなもので私の頬をペチペチと叩いた。

 私にはわけが分からなかったけど、その紙を受け取り、言われた通りに御者へ手渡した。


「あのっ、これ……」


 御者は小さな紙を受け取り、小さく頷いた。


「さあ、降りた降りた」


 コウモリが急かすので、私はとりあえず御者にお礼を言おうと思った。


「あの、ありがとうございました」


 私がそう言うと御者は微笑んだ。

 扉が閉まり、タクシーは何事もなかったかのように去っていった。


「コウモリさん、さっきの紙切れは何?」

「タクシーチケットよ。アタシの鞄の中に一枚入れておいたの。そんなことより、ちょうど九時頃ね」

「もうそんな時間なの?」


 どこに時計があるのか分からないが、コウモリの言葉に私は驚いた。雨の街の広場で待ち合わせてから四時間が経過したことになる。そんなに時間が経っているとは思えなかったけど、きっと霧の中を飛んでいる時間が長かったか、私が気絶している時間が長かったか、どちらかだろう。


 目的地である場所は、最初に見たビルほどは高くなく、三階建てくらいの建物だ。けど、その代わりに敷地がとてつもなく広いように見えた。


「これからあんたが働く工場よ」

「スパゲッティかぁ、チョコレート工場が見たかったなぁ。チョコレート工場に知り合いはいないの?」

「いないわ。仕事覚えたら転職すれば?」


 それは一体いつの話になるんだろう。


「ところで、住みこみで働くの?」

「住むのはさっき通ったビルのあたりのはずよ。課長に訊かなきゃ分からないけど」


 コウモリは私の頭から離れて、今度はパーカーのフードの中に潜り込んだ。


 なぜ最初からそうしなかったのか。私の毛根に何か恨みでもあるのだろうか。私の毛根が何かあなたの気に障るようなことしましたか?


 そんな私の思いも知らずに、コウモリは甲高い声で号令のように叫んだ。


「さあ、食品工場に行くわよ!」

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