旅立ち

 町長さんは絶句した。

 私自身も、いざ言葉にしてみると現実味に乏しいことのように思えてきた。


「い、いや。ダメだよ、そんなの」

「そこをなんとか」

「どうして、君がそんなことをしなければならないんだい?」


 少し迷ったけど、大雨の夜の出来事を話した。この異物混入事件が私の失くした記憶に関係していると。


「うーん」


 町長さんは首を捻った。


「というわけで、私が風の色に入国して働いてもいいように、頼んでくれませんか?」

「にわかには信じられないな……」

「本当ですって」

「やっぱりダメ」

「そこをなんとか!」

「……実は、街の住人が風の色に入国するのは不可能なわけじゃない。色々と手続きは必要だけどね」


 町長さんは一呼吸置いた。そして、言葉を慎重に選ぶようにして話を続けた。


「でも、風の色には雨の街のことを良く思っていない人もいるらしいし……」

「アタシが言っておくわ」


 今まで寝そべっていたコウモリがいきなり口を挟んだ。


「いいの? コウモリさん」


 私は頭の上に向かって問いかけた。


「アタシの知り合いが仕切ってる工場で、人手が足りないところがあるの。そこの世話になればいいわ」


 人手が足りないと聞いて、きつい仕事なんじゃないかと不安になった。

 町長さんはそんな私を見て心配そうに言う。


「コウモリさんが口添えしてくれるなら大丈夫だと思うけど、本当にいいのかい? 風の色で働くとなると、しばらく街に戻ってこれなくなるよ?」

「いいんです。今は街の人の生活が最優先でしょう?」

「たしかに、この問題は早急に解決しなければならないけど……」


 町長さんは目を閉じて何かを考えていた。そして、何かを決心したかのように言った。


「仕方ない、すぐに手続きをするよ。出発は一週間後でいいかい?」

「はい、ありがとうございます!」


 私は町長さんに頭を下げた。コウモリは器用に私の髪の毛にしがみついている。


「コウモリさん、風の色への案内を頼んでいい? 僕は風の色までの行き方を知らないんだ」

「分かってるわ。アンタは今日中に風の色への文書を書いときなさいよ。あっちに戻るついでに渡しといてあげるから」

「今日は大忙しだな」

「どうせ暇なくせに」

「コウモリさん、あんまりそういうこと言ったらダメだよ」


 見兼ねた私は注意した。


「ヒカリは一週間後の朝五時に広場に集合ね」


 その言葉を聞いてギョッとした。早起きはあまり得意ではない。


「なんでそんなに朝早いの?」

「風の色は遠いのよ。起きれなかったら、この話はなかったことにするからね」

「はあい」

「それはそうと、このことは保護員には話してあるのかい?」


 町長さんが訊いた。


「あっ、まだです」


 なにしろさっき思いついたことなので、当然のごとくおじさんにはまだ話していない。

 やっぱり、いきなり町長さんのところへ来たのは急ぎすぎただろうか。おじさんは私が風の色へ行くことをなんて思うだろうか。


「君は学校を卒業しているから、保護員は君が出ていくのを引きとめることはできない。けど、お世話になった人なんだから、ちゃんと話をしておくんだよ」

「分かりました」


 私がこくりと頷くと、町長さんも同じようにこくりと頷いた。とりあえず話がまとまり、町長さんは革の椅子の背もたれにその肉塊を深く沈めた。そして、再び口を開いた。


「コウモリさん、風の色の暮らしとはどんなふうなんだろう?」

「そうね、雨の街とは何もかもが違うわよ」


 私は更に心配になってきた。衝動に身をゆだねて決めてしまったことだが、どんなところか分からないような場所で一人で暮らしていけるのだろうか。

 そんな不安を察知したのか、コウモリが頭上から言う。


「あんたはお金と必要最低限の着替えだけ持ってくればいいわ。それ以外のものは風の色では必要なくなるから」

「わかった。ところでコウモリさんは、私があの夜に女の子に会った話についてはどう思う?」

「にわかには信じられないわね」

「……あっそ」


 こうなってしまえば、あとはもうやるしかないか。どうせ街にいたところで、雨に濡れながら食べ物におびえる生活しかないのだ。


 私は町長さんとコウモリに改めてお礼を言い、役所を出た。



 家に着きダイニングを覗くと、おじさんは台所でお昼ご飯を作っていた。


「おう、何も言わずに出てったから家出したのかと思ったぞ」


 おじさんは特に心配していた様子もなく、いつもの淡々とした口調で言った。そして、テーブルに苔スパゲッティの皿を二人分置いた。


「あのね、おじさん、話があるの」


 私はおじさんの目をじっと見て、おじさんは私の目をじっと見た。


「まあ、とりあえず座れや」


 椅子に座り、私は今日の出来事をゆっくりと話して聞かせた。私の言葉と同じ速さで、窓についた雨粒が滴り落ちていった。

 おじさんは苔スパッゲティを食べながら黙々と話を聞き、私が話し終わるころには二人のお皿の上は空っぽになっていた。


「……そういえば、このスパゲッティにも金属のちっこい欠片みたいなのが入ってたな」

「えっ!?」

「茹でる前に気付いて捨てちまったけどよ」

「そういうことは食べる前に言ってよ!」

「他には入ってなかったんだから、別にいいだろ」


 間違って飲み込んじゃったら、どうするつもりなの……。


 そう思ったところで、自分は既にチョコレートに入ってた異物を飲み込んでしまっていたことを思い出し、体に害がないのかまた気になりだした。


 その不安を払いのけるように、とりあえず話を本題に戻すことにした。


「私、風の色に行ってきてもいい……?」


 私がおそるおそる訊くと、おじさんは少しばかり黙って考えていた。


「ダメだ」

「そこをなんとか!」


 私は自分の語彙の少なさを恨めしく思った。


「あの女の子の言っていたことが本当かどうか確かめたいの」

「……その話も、にわかには信じられんな」


 なんで、どいつもこいつも同じ反応をするんだろう。


「が」


 おじさんは私の目をじっと見た。


「お前がいつかそんなことを言う日が来るとは思ってたよ」

「うん」

「ダメだって言っても無理矢理行くんだろ?」

「うん」

「うんじゃねえよ」

「えへへ」

「んじゃあ、勝手に行け」


 おじさんはニヤリと笑った。


「……ありがとう!」


 私はおじさんに向かって頭を下げた。


「私、風の色で上手くやっていけるかな?」

「さあな、あそこがどんなところか俺も知らないからな」

「知りたいとは思わない?」


 私の問いにおじさんは頭を掻く。


「まあ、気にならないこともないけどよ。この街から出たいとは思わないな」

「そう……」


 それから、おじさんは保護対象が保護員の元から離れるための手続きについて説明した。

 手続きと言っても煩雑なことはなく、離脱届という紙切れ一枚を書いておじさんに提出すればいつ家を出てもいいとのことであった。家に残した私物は、次の保護対象のために使われる。それで終わり。

 私はおじさんの話が終始事務的であったことを少し寂しく思った。



 私は出発の日までの一週間、自室のものを整理したり、見納めに街を歩いたりしながら気ままに過ごした。

 風の色から入国の許可も下りたとコウモリが教えてくれた。その話は瞬く間に街中に広まり、人々は私に励ましや感謝の言葉を贈ってくれた。


「ヒカリちゃん、仕事が見つかってよかったじゃない」


 文房具屋のおばさんはなぜか食べ物の問題を解決しに行くことより、私が働きに行くことを喜んでくれた。


「だって、人手が足りないらしいから」

「いくら人手が足りないからって、雨の街の人間を雇うなんてどうかしてるわ」

「じゃあ、おばさんの店で働かせてよ」

「うちは見ての通り、やることないよ」

「やっぱりそう言うの」


 そう言って私たちは笑った。街に降りしきる雨音も、小さな笑い声のように聞こえた。



 出発の前日になると、私の部屋は綺麗さっぱり片づいた。

 一生懸命書いていた履歴書は、これまでの灰色の日々と一緒にゴミ箱へ捨てた。


 自分でも密かに集めていた混入物のコレクションを証拠品として持っていくことにした。ネジとか紙片しかないけど。


 出発の準備が終わると、目覚まし時計の時計用ゼンマイと目覚まし用ゼンマイをしっかりと巻いておいた。

 時計の針は夜十時をさしている。コウモリが五時に広場に来いと言っていたので、目覚まし時刻を四時に合わせ、ベッドに潜りこんだ。そして、風の色のことを想った。


 街で過ごす最後の夜に、最後の雨が奏でられた。



 翌日、朝四時に目覚まし時計のベルが鳴った。手を伸ばしてベルの音をとめ、開かない目をこする。

 こんな早い時間に起きるのは初めてだ。なんだか肌寒い。


 私はなんとかしてベッドから這い出ると、身支度をととのえる。服は一番気に入っているパーカーとチェックのスカートを選んだ。


 必要最低限の着替えや日用品は、お金と一緒に鞄の中に入れてある。

 昨日おじさんが特別にお金をくれて、それと今までに貯めたお小遣いを足せば、一か月以上は生活できると聞いた。もちろん、働いてお金が貯まったらちゃんと返すつもりだ。


 やかましい目覚まし時計は置いていくことにした。きっと次の住人がゼンマイの続きを巻いて、新しい時を刻みはじめるだろう。


 一階へ下りると、おじさんがもう起きていて、私のことを待っていてくれていた。


「もう、行くのか」

「うん。おじさん、今までお世話になりました」

「気をつけろよ」

「おじさんも体に気をつけてね」

「ああ」


 それっきり、おじさんは何も言わない。雨音だけが二人の沈黙を埋める。


「それだけ?」

「ああ」

「あのさあ」


 私はとうとう呆れてしまった。


「六年間育ててきた娘みたいな存在が家を出ていくんだから、もっと言うことないの?」

「んなこと言っても、保護対象が出ていくのは今までに何度もあったしな」


 おじさんはそこで、私の瞳に浮かぶ寂しさのようなものに気がついたようだ。


「ったく。わかったよ」


 おじさんは私の肩に手を置いて、私の目を見てくれた。


「辛くなったら、いつでも帰ってこいよ」

「うん」


 私はおじさんの胸に顔をうずめる。


「それだけ?」

「それだけだ。甘えんな」

「まあ、許す」


 私はおじさんから離れて、玄関に立った。自分が育った家の居間を見渡した。思い出をひとつひとつ拾い集めるように。


 六年分の思い出を拾い終わると、おじさんに向き直った。


「おじさん、今までありがとう。元気でね」


 おじさんに手を振った。

 おじさんは手をふらずにじっと私のことを見ていた。


 そして、私はドアノブを握りしめ、次の世界への扉を開いた。

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