第28話 あり得ない邂逅

 明依が振り返る。

 永慈が顔を上げる。

 二人の兜に水飛沫がかかる。

 言葉を失う。


 ――巨大な蛇が、水上で頭をもたげていた。

 前にり出した二本の角から、水が滝のように落ちる。身体は白銀色で、腹の部分には紫水晶が体毛のように生え揃っている。

 その存在感は平穏な泉の空気を変えた。単なる『美しい景色』が、神々の鎮座する荘厳な謁見の間へと変化する。美しくも恐ろしい脅威の塊。下々の者を睥睨へいげいする強者の威厳。


 こちらと視線が合った。

 明依が後退し、尻餅をつく。永慈は駆け出した。『老化』した身体は思うような敏捷性を発揮してくれない。自分の心臓の音が聞こえた。耳元で大きく、しかし意外なほどゆっくりとしたリズムの脈動だった。五十メートル走のときとはどこか違う。


 巨大蛇型モンスターは頭を近づけてくる。

 明依を後ろから抱え上げ、その尻を叩く。

「行け」

「おっ……父さ……!」

 よろめく明依とは別の方向に移動する。モンスターの視線は永慈にロックされていた。永慈が移動した分だけ、頭の角度を変えてくる。


 本当に凶暴な個体なら、この段階で咆哮のひとつでも上げてこちら威嚇、威圧してくる。だが、


 よく見れば、片側の角にはヒビが入っている。手負いだ。誰にやられたのだろう。

 たけり狂っていてもおかしくない状況なのに、あの落ち着き払った態度。


 ――待て。

 今初めて気がついた、おのれへの疑問。

 ――俺は何を冷静に考えている。


 武器はない。防具もレンタルの汎用品。身体は衰えている。対して、相手は一口でこちらを飲み込んでしまえるほどの巨体。しかも馬鹿正直に突っ込んでくる脳筋ではないことも。今のままでは明らかに勝ち目はない。

 勝ち目? 戦うのか? 俺が? この神のような偉容のモンスターと?

 戦うのか。相対するのか。


「ふー……ぅ。ふー……ぅ」

 永慈は深く長い呼吸を維持していた。不快な汗の冷たさと、全力で血液を送り始める心臓の動きとを、まるで他人事のように感じる。思考が切り離され、肉体が戦闘状態に移行していく。

 敵が近づく。永慈を見下ろす姿は、まるで『そのザマは何だ』と言わんばかりで。


「お父さん!」

 悲鳴にも似た明依の叫びが聞こえた。

 巨大モンスターの側頭部に投石が当たる。

「こっちよ化け物!」

 敵の視線が明依に向かう。初めて唸りが聞こえた。永慈は叫んだ。

「よせ明依。早く逃げろ!」

「嫌だ! 協力して、二人で切り抜けるの! お父さんも手伝って!」

「手伝う、だって?」

「集落の反対方向におびき寄せてからやり過ごすの! こんな奴、皆のいるところまで連れて行ったら大変なことになる!」


 永慈は目を瞬かせた。

 自分の娘がいつまでも親の背中で震えているような子ではなかったと理解する。

 不覚だった。戦闘モードだった思考が一気に切り替わる。

 こんなときでも――いや、こんなときだからこそ、嬉しくなった。


「――すが」

「なに!? 何か言った!?」

「さすが俺の娘だ! 恐怖に固まらずよく周りのことを考えられてる! 父さん嬉しい! でも無茶は駄目だぞ!」

「そんな暢気のんき言ってる場合じゃないでしょバカーッ!」


 炸裂音。

 目が眩む一瞬の閃光に次いで、爆煙が辺りに広がった。悲鳴が聞こえた。

 銃弾が次々と巨大モンスターの身体にヒットする。硬い角や胸部の紫水晶に当たった弾は、火花を散らして明後日の方向に跳ねる。跳弾の一発が永慈の側をかすめた。

「な、なに!? 何が起きてるの!? ――きゃあ!」

「明依、下がれ下がれ!」

 永慈が明依を背にかばう。


 そのとき、モンスターの口元が発光した。銃弾の発射元に顔を向ける。直後、紫電をまとった光弾を吐き出した。

 離れた岸辺に着弾すると、光弾は周囲に雷の嵐をまき散らした。耳をつんざく轟音がこちらまで響いてきた。

 だが銃声は止まない。


 永慈の鋭敏な感覚が、向かいの森の奥から高速で近づいてくる気配を捉えた。

 青々とした空に向けて跳躍する人影。手に持った短剣から光の残像が虹のように尾を引く。

 頭上からの斬撃。モンスターは素早く角で受け止める。

 襲撃者はモンスターの頭部を蹴り、草地へ軽やかに着地した。相当な高さだ。生身なら下半身に重大な怪我を負っているはず。だが襲撃者は事もなげに立ち上がった。装備も、扱う者の才能も、そして何より胆力も、並ではない。


 モンスターの決断は早かった。

 後退あとずさるように泉の中央へ移動すると、水中に潜っていく。それきり姿を見せなくなった。

 銃声が止んだ。


 襲撃者は短剣を腰のホルスターにしまう。フルフェイスの兜で顔はわからない。だが、永慈は強い既視感を抱いた。背にまとう雰囲気、立ち方、少しうつむき加減の仕草――。


「慧?」

 永慈と明依の声が重なった。


 襲撃者はおもむろに兜を外す。微風に乗って艶やかな髪がわずかに揺れ、晴天の陽光が流麗な横顔を映えさせる。

「……大丈夫だったかよ。明依ねえ

 視線を合わせず、少々ぶっきらぼうに口を開いた青年は――間違いなく、慧であった。

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