第二章

第14話 エリュシオン――何もない自由

 薄暗い谷底である。

 わずかばかりの水が足下をチロチロと流れている。

 太陽光が岸壁で遮られているので、松明でも掲げないことには、とわからない。

 耳をつんざく咆哮ほうこうはもう聞こえない。


「慧」

 くぐもった声に慧は振り返った。同行者がタオルを投げて寄越した。

「今治産の逸品だ。相変わらず日本の技術力は素晴らしいな」

「どうも」

「それに君の故郷、福城! ここも素晴らしい。こんなに美しいエリュシオンと繋がっている」

 慧はタオルで身体を拭った。から肌を拭く。汗とともに布地に付着したのはモンスターの血液である。


 同行者が手を差し出してきた。慧は使い終わったタオルをその手に乗せる。血液も立派な、そして危険な素材マテリアルだ。何に使うのか、どんな効果があるのか――それは慧にとって興味がないことであった。

「『サルディリガ』の血液と君の汗。いったいどれくらいの付加価値が付くのだろうね」

「やめろ。気持ち悪い」

 慧は吐き捨てた。同行者はおそらく笑みを浮かべているのだろうが、あいにく、フルフェイスの骨兜ほねかぶとを被っているため表情はわからない。もっとも慧の方も、頭部をすっぽりと覆うタイプの兜を装備しているのでお互い様であった。


 慧たちの前には、巨大なモンスターが絶命し横たわっていた。

 体長十四メートル、体高四メートルのサルディリガ。その姿は、白亜紀に地球上で君臨したティラノサウルスを彷彿ほうふつとさせる。性格はただ一言、獰猛どうもう

 体格差だけを見ても、人間が単独でかなう相手ではない。

 だが、それは地球の――慧たちが普段暮らす世界での理屈、常識だ。

 異世界エリュシオンここでは違う。

 モノを言うのは才能と、運と、そしてだ。


 同行者が慧の腰を叩いた。ふた振りの短剣を収めたホルスターがある。

「どうだった? これの使い心地は」

 にやにや笑いをしていることが見なくてもわかる。

 慧は短剣を取り出した。途端、薄暗闇の中にエメラルド色のほのかな輝きが浮かぶ。同じ色を放つ傷痕がサルディリガの身体中に刻まれていた。

 とあるレアモンスターの素材で作った短剣だそうだが、慧は名前を覚えていない。

 大事なのは名前ではなく性能だ。


 物音がした。

 岩壁の陰から、体長一メートルほどのトカゲが数体現れる。サルディリガの暴虐が去ったので、隠れ家から出てきたのだろう。

 鮮やかな黄色の身体が、薄暗闇の中でも目にえる。

 このトカゲたちもまた肉食であった。

 熱湯から蒸気が吹き出す音のような威嚇の声。群がってくる。

 前脚と後脚、そして尻尾で地面を擦り、ざざざっ――と音を立てながら近づいてくる。


 ざざざっ、ざざっ……ざっ……。

 一分で、元の静寂が戻ってきた。


 最初に立っていた場所から直線距離で四メートル離れた位置で、慧は短剣をホルスターにしまった。

 四メートルの間には首を跳ね飛ばされたトカゲモンスターが横たわり、短剣の刃が描いた軌跡が残像となって薄暗闇の中空に漂っていた。


 同行者が手を叩く。

「お見事。それで、使い心地は?」

「……悪くない」

「それはよかった。約束通り、それは差し上げよう。これからもどんどん狩ってくれたまえ」

 絶命したトカゲの胴体を蹴り上げる。

「こんな雑魚ではなくてね」

「わかってる」


 サルディリガの亡骸なきがらを見る。慧は兜の留め金を外し、脱ぎ去った。「いけないよ」と忠告する同行者を無視して、慧はその場で大きく深呼吸した。

 埃っぽい空気に強く染み込んだえた臭い。ひどいものだ。では絶対に味わえないだろう。

「ここだ」

 無限に広がる自然。

 原始の力が支配する世界。

 現代科学技術がまったく役に立たない自由さ。

 を連想させるモノは、何もない。


「俺の生きがいは、ここだ。俺はここで生まれ変わる」


 仮にサルディリガの命がまだ灯っていたら、慧を目にしてひるんだかもしれない。

 素顔をさらした慧は、壮絶な笑みを浮かべていた。



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