糊のような液体

天池

糊のような液体

 糊のような白い液体に浮かんでいる。仰向けの姿勢を崩さなければ、溺れたり沈んだりすることはない。ただ液面に髪の毛を預け、背中を預け、ずっと上を見ていればいい。空の色は自分の好きなように変えられる。昼でも、夜でも、自分の見たことのある景色ならば一瞬でそれを映写出来る。ぱっと赤に。ぱっと青に。空はこの糊のような液体の色を反射しない。空は空としていつも私の真上にあって、この場所を包んでいる。私は耳が全て浸からない程度の浮力を受けて、ただぼんやりと、小さな波に流されている。それだけでいい。

 ”私”が目を覚ますと、ビデオゲームのコンセントを引き抜いたみたいに全てが遮断されて、また”私”が入眠すると、ぱっと全てが再開される。私はこの場所で、私のあらゆる情報にアクセス出来る。どんな些細な出来事でも、どんな卑小な思考の記録でも、どんなみじめな思いをした日のことでも、どんな美しい感情の揺れ動きでも、どんな刹那的な感傷でも。私は時折空の色を変化させながら、ぼうっと過去のことを呼び起こしたり、手放したりして時間を過ごす。この場所の時間に終わりはあるのだろうか。多分、ある。”私”が時間を手放したとき、それがこの場所の終焉だ。きっと、ゲームかテレビのコンセントを引き抜いたときみたいに、ぱっと消えるのだろうな。

 この場所における実在が遮断された後、また戻って来るとき……

 そのたびに私のアクセス出来る領域は少しだけ広がっている。何か知覚可能な基準がある訳ではないが、どっぺりとした白色に触れる後頭部を通して直感的に分かる。


 私は新しくインプットされた情報をのんびりと覗き込む。真新しい何かがそこにあればじっくりと観察したりするものの、大抵はそれ以前にインプットされた情報で補完されるようなものばかりだ。私くらい長い間一人の人間の「全部」に接していると、その人の新しく「得る」情報がどのようなものであるかくらい、容易く予想がついてしまう。

 楽しさや耽溺、夢中なひととき。そんな興奮状態も、以前に味わったもので置き換え可能なものが多く、私はつい「初めて」の記憶の興奮ばかり取り出して眺めてしまう。とはいえ、ある種類の情熱だけは、毎日毎日変わらぬ熱量でインプットされるのである。

 私の眺めている景色……

 人間の成長が、その人の人生において出逢った事物とそれに関する情動の作用によってある程度定義されるのなら、この静かな場所の実感も空も全ては「今夜」時点での”私”のもう一つの身体だ。――そして「私」こそ。


 無機質なぬくもりと、身体に密着しながらどこまでも広がる静謐さ。私はうつらうつらとあの人の優しい笑顔を手繰り寄せる。そして手、白く美しい手――。

 その手にしがみついて、どこまでもどこまでも付いて行きたい。そんな熱っぽいからの手の記憶。私にあの人の手の感触は分からない。誰にも会わず、何も感じず、どこまでも流されていく、それ故に私は私なのであって。

 私が記憶を引っ張り出したり放り投げたりするたび、私の頭頂の後ろのところにささやかな波紋が刻まれていく。それはすぐに白の圧倒的な質量に溶けてしまって、跡形もなく消えていく。そんな営みが、白色に触れる後頭部を通して直感的に分かる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

糊のような液体 天池 @say_ware_michael

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ