　授賞式会場は静（せい）謐（ひつ）としていた。

　巨億の出席者はみな完（かん）爾（じ）としている。

　因（いん）陀（だ）羅（ら）網（もう）の祭典たる授賞式は例年どおりストックホルムのコンサートホールでもよおされた。管弦楽団による瑞（すうぇー）典（でん）国歌演奏が終（しゆう）焉（えん）するとワルツが演奏され受賞者が登壇する。ふたりの物理学者も鞠（きつ）躬（きゆう）如（じよ）としながら登場した。其（それ）其（ぞれ）の受賞者が紹介されてゆくと物理学賞の選考委員がふたりへの授賞を標（ひよう）榜（ぼう）する。いわく〈物質の重力子化およびこれを利用した膜宇宙外における時間遡及を可能にしたことによりノーベル物理学賞をノゾミ・オギワラとガクト・ナカジマ夫妻に授与する〉と。嚮（きよう）後（こう）瑞（すうぇー）典（でん）国王からメダルを譲渡されると絢（けん）爛（らん）豪（ごう）華（か）なる会場には万雷の拍手が響（と）動（よ）めいた。百（ひやつ）花（か）繚（りよう）乱（らん）の授賞式が完遂されると幾（いく）許（ばく）かして受賞者たちの講演会となる。壮年の男性受賞者が跼（きよく）天（てん）蹐（せき）地（ち）として講演をすると愛妻である中年女性の順番となった。〈わたしたちの研究がはじまったのは二〇一一年のトーホク・アースクエイクの直後でした爾（じ）時（じ）わたしたち被災者は極寒の避難所にて絶望の毎日を閲（けみ）していたのです斯（か）様（よう）なる破滅的な環境でわたしの父親カンジ・オギワラはなにゆゑかタイムマシンの製造をはじめました――〉

　その日は到来した。

　京都大（だい）學（がく）ではまたもやノーベル賞受賞者を輩出したことで殷（いん）賑（しん）となっていたがふたりは冷徹だった。瑞（すうぇー）典（でん）での授賞式と講演会を終（しゆう）焉（えん）して帰国すると驀（まつ）地（しぐら）に京都大（だい）學（がく）基礎物理学研究所物質構造研究部門の研究施設に邁（まい）進（しん）し〈それ〉を遂行することとした。嬋媛（おそよか）なる中年女性は被験者の神経経路と接続される特別誂えのタイムスリップ用衣服を纏（てん）繞（じよう）させて堅（けん）韌（じん）なる玻（がら）瓈（す）張りの研究区域内に這（は）入（い）ってゆく。白（はく）堊（あ）の区域内に設置されたスピーカーから檀（だん）那（な）の聲（こえ）がつたわる。いわく〈一応被験者の先輩としていわせてもらうけれど膜宇宙外のアインシュタイン―ローゼンブリッジを通過するときは注意してねすごいことがおこるから混乱するとおもうよきみなら大丈夫だろうけれどね〉と。玻（がら）瓈（す）張りの区域内で愛妻が首肯するとスピーカー界（かい）隈（わい）のカメラが恁（いん）麼（も）の映像を伝（でん）播（ぱ）した。毅（き）然（ぜん）たる愛妻は片手にカプセルを掌握する。カプセル型のタイムマシンだ。タイムマシンを嚥（えん）下（か）すると数時間閲（けみ）して血管をとおし五（ご）臓（ぞう）六（ろつ）腑（ぷ）が重力子化され脳髄から神経系統をたどって肉（にく）軆（たい）と衣服が重力子化される。此（こ）処（こ）まで外貌に変化はないが数時間後儵（しゆつ）忽（こつ）として被験者の風（ふう）丰（ぼう）は消滅する。

　科学者は喫（きつ）驚（きよう）した。

　研究区域から肉（にく）軆（たい）が消滅すると量子論的に脳髄を観測する立場である意識は明（めい）鬯（ちよう）なままであるがゆゑに〈宇宙の外側〉から天（てん）壌（じよう）無（む）窮（きゆう）の世界を俯（ふ）瞰（かん）できた。超紐理論やM理論上の十一次元空間に抛（ほう）擲（てき）されたわけだ。意識が脳髄からも無（む）礙（げ）であるためにプランク単位系レベルで宇宙の悉（しつ）皆（かい）のことわりが理解された。宇宙の根源たるカラビ・ヤウ多様体の群像から窮極集合をなす膜宇宙の歴史のすべてである。科学者は混乱した。ゆゑに計（けい）劃（かく）どおりに肉（にく）軆（たい）の物質化があたわなかった。覚醒するとベニヤ板で囲（い）繞（じよう）された工場の廃（はい）墟（きよ）であった。黯（あん）黮（たん）たる廃（はい）墟（きよ）から遯（とん）竄（ざん）すると髣（ほう）髴（ふつ）とすべき故郷の風景である。恁（いん）麼（も）の時間帯だと目的を達成して亦（また）タイムマシンにより相転移するまでぎりぎりだ。〈あの日〉にきたわけだ。玉（たま）響（ゆら）でも遅延すれば地震に捲（まき）込（こ）まれる。驀（まつ）地（しぐら）にわんこバスの逢（ほう）着（ちやく）地点へと邁（まい）進（しん）した。あねはいた。身長差から跪（き）拝（はい）するかたちで抱擁しながらいう。〈やっと逢（あ）えたねこの日のために生きてきたんだよ〉と。〈今日がなかったことにもできるんだけれどそうするとわたしはわたしの最愛のひとと逢（あ）えないことになるの〉と。〈これが最後のおわかれだけどね〉と。

科学者は遯（とん）竄（ざん）した。

高（こ）句（く）麗（り）蒙（も）古（くり）遁（に）げながら再度タイムマシンを嚥（えん）下（か）する。僥（ぎよう）倖（こう）にも逢（ほう）着（ちやく）地点である廃（はい）墟（きよ）があった。此（こ）処（こ）ならば不審におもわれない。五（ご）臓（ぞう）六（ろつ）腑（ぷ）が相転移しはじめ数時間後九（きゆう）竅（きよう）百（ひやく）骸（がい）の相転移がはじまった。肉（にく）軆（たい）が消滅する刹那地面がゆっくりと震（しん）盪（とう）しはじめた。亦（また）十一次元の膜宇宙外空間に抛（ほう）擲（てき）されてもう一箇所の目的地をめざす。今（こん）囘（かい）は予定どおりの時間と場所に相転移された。新潟県内の中央病院界（かい）隈（わい）の公園である。黯（あん）黮（たん）たる真夜中ゆゑに人蔭（かげ）はない。廼（ない）時（じ）に中央病院に闖（ちん）入（にゆう）し父親の病室へと驀（ばく）進（しん）する。病（びよう）褥（じよく）の父親の界（かい）隈（わい）には過去の自分自身が熟睡していた。自分を覚醒させないように父親と会話をする。いわく〈パパありがとうパパの研究の御（お）蔭（かげ）でタイムマシンが完成したのゆめねえちゃんにも逢（あ）ってきたよ〉と。完（かん）爾（じ）たる父親はいう。〈この日をまっていたよ〉と。愛（まな）娘（むすめ）は此（こ）処（こ）までの一（いち）伍（ご）一（いち）什（じゆう）を伝（でん）播（ぱ）した。遺言書どおりに研究ノートを相続したこと。中島学人と結婚したこと。中島学人が京大研究所の中心人物となってタイムマシンを研究したこと。