第39話 曲がり方にもコツがあるのか?

 下り坂を、思いっきり走る。ペダルを止めていても、充分に加速していく状況。

「気分が良いな。――つっても、往復コースだから戻ってくるときに登らなきゃいけない事を考えると、ちょっときつそうだけどさ」

「まあ、そこまで急激な傾斜でもありませんし、大丈夫でしょう」

 ルリが前に出る。

「コーナリングの基本は、スローイン・ファストアウトだと言われています。つまり、コーナーに入る前に減速して、コーナーから出るときに加速するわけですね」

「なるほど」

 ルリがほとんど速度を落とさないまま、コーナーに入っていく。先ほど言っていたスローインとは程遠い気がする。

「思ったよりブレーキしないんだな」

「はい。無駄に減速すると、タイム的にも体力的にもマイナスになるので、ギリギリまでこらえたいところです。それに下りでの急減速は、スリップを起こしやすいので」

「そうだったな」


 ルリは真剣に、前を見ていた。後ろにいるアキラも気になるが、それ以上にここは公道だ。対向車がいつ来るかは分からない。

 それが、エンジン音を出して接近してくるとも限らない。最近増えたEVや、自分たちと同じ自転車であるかもしれない。あるいは、歩行者や野生動物が来る可能性もあるのだ。歩道は無いし、人里離れた山の中である。

 それでも、速度は下げたくない。

 曲がりながら、ペダリングを再開する。

(ルリ、もう加速するのか)

 アキラも、そのペダルの動きに気づいた。こちらはルリの背中しか見ていない。ルリを信頼しているのだ。

(よし。俺も続くぞ)

 あまりルリから離れすぎると、自分が何をしたらいいのか分からなくなる。だから、ルリがペダルを漕ぎ始めるなら、アキラも漕ぎ始める。

 と、そこでアキラの車体が浮いた。


 ガリガリガリガリッ!!


「うわぁっ!」

「アキラ様!」

「――とっとととと」

 ギリギリでタイヤの向きを調整し、グリップを取り戻す。『車体が流れ始めたら、その方向にハンドルを向けてブレーキを放す』とルリに事前に教えられていたが、

(なるほど、車体が流れるとか、ブレーキを放すとかってのは、こういう感覚なのか)

 自分で体感してみないと分からないことが、自転車には多すぎる。言葉で聞いただけでは理解できず、しかし体感してから改めて考えれば、その言葉が一番しっくりくる。そんな話。

「アキラ様。今、どこを擦ったか分かりますか?」

 ルリが訊く。前を確認することばかりに気を取られて、アキラを見ていなかったのだ。

「ああ、多分……ペダルだ。下げた方の」

 左コーナーを曲がる際に、車体が左に傾くのは当然である。

 その時に、ペダルを回していると、左ペダルが下に来る瞬間がある。地面と接近しすぎたペダルは、そのまま接触するのだ。

「もともと、自転車は前輪と後輪の二か所でしか、地面と接していませんからね。ペダルが接触すると、代わりにどちらかのタイヤが浮きます」

「それで、滑った感触になるわけか」

「はい。浮くと言っても数ミリですから、アキラ様的には『浮いた』より『滑った』というイメージになっているのでしょう」

 どうやら、コーナリング中にペダルを漕ぐのは危険らしい。きちんと曲がる方のペダルを上にして、そのままの姿勢を維持したほうが良い、と――


「ん?待てよ。なんでルリは今、コーナリングしながらペダルを回せたんだ?」

「ああ、それはですね」

 ルリは、そのアキラの指摘に感心した。本来なら呼吸を楽にして体力を回復したい局面だが、あえて声を出して解説する。

「リーンインです」

「お、出たな。その必殺技っぽい横文字。楽しみだぜ」

「必殺技かどうかは分かりませんが、割とシンプルな技ですよ。曲がるときに車体を傾けず、上半身だけを傾けるんです」

 再びのコーナー。今度はさっきと逆。右に曲がる。

 その際に、ルリは右ひざを外側に向けて、おなかを右に曲げていた。腰の角度はサドルと同じまま、ただ上体だけを曲げる。

「今のは大げさにやりましたが、実際にはここまで上半身を曲げる必要もありません。あくまで自転車が傾き過ぎないようにするための技なので、車体を水平にすることを考えすぎないでください」

「ちょっとくらいなら傾いてもいいって事だな」

「はい。特にアキラ様のタイヤは、ですね」

 アキラのタイヤは、接地面トレッドの中心が溝無しの部分。そして両サイドが溝を浅く掘った形になっている。これは、車体が傾いたときにグリップ力を上げるための構造だ。

 直線道路を走るときは、中央の溝無しが路面との摩擦抵抗を軽減し、より軽く速く走れるようにしてくれる。そしてコーナリングで車体が傾いたときだけ、溝がグリップを高める構造だ。

「そういや、ルリのタイヤは完全に溝が無いよな」

「はい。ですが厳密に言うと、私のタイヤもトレッド中央と横で使っているゴムの質が違うんですよ。横の方が柔らかいゴムを使っているので、中央より滑りにくいです」


 次のコーナー。左だ。アキラも身体を左に倒す。

 下り坂で、速度も出ている状態だ。前傾姿勢で乗っていたこともあって、身体を左に『倒す』というより、『出す』という感覚。下げていた頭を左に伸ばして、空気の抵抗も合わせて曲がる。

「なるほど。下り坂での効果はデカいな」

「本来は、どちらかと言えば登りで使うような技だと、私は思っています」

「そうなの?」

「ええ。登りはペダルを止めると失速するので、常にペダルを回していないといけません。それはもう、曲がっている最中も、ですので」

 そういえば、今日の昼だって、峠を上ってきたはずだ。その時はどうだっただろう?

 アキラは記憶をたどる。自分がリーンインを使っていたかどうか、分からない。でも、コーナーでもペダルを漕ぎ続けていたのは覚えている。

「あんまり意識してなかったけど、もしかして……」

「ええ。アキラ様は、無意識にリーンインを習得していましたよ。まあ、ほんの少しそれっぽい事が出来た。というだけで、この速度で同じことが出来たわけでもないでしょうけど、それでも――」

 無意識で覚えていく。それは、長い期間を自転車に乗って過ごしていれば、少しずつ習得できていくもの。

 そもそも、いまルリが解説してくれている数々の技も、先人たちが自転車に乗っていて、なんとなく出来るようになっていった技だ。それに名前を付け、分析した結果に過ぎない。

 独学でも、徐々に自分にあったスタイルを、身体が覚え込んでいく。それは、愛車と自分がひとつになる感覚。その領域は、他人のアドバイスを必要としない。


 近い将来、アキラはルリよりもクロスバイクを――いや、ローマを乗りこなすだろう。そうなったときに、ルリとアイローネが培ってきた技術や知識など、必要なくなるのかもしれない。


「ところで、リーンインがあるなら、リーンアウトもあるのか?」

「ええ。ありますよ。御覧になりますか?」

「見たい見たい。頼むぜ」

 車体よりも上半身を内側に倒すのが、リーンイン。ならその反対は、リーンアウト。

 ルリが車体だけを倒す。自分の上半身は前に向けたまま、

(ん?あれって、曲がり切れなくてぶつかるんじゃ――)

 アキラがそう思った時、ルリの車体が急激に向きを変えた。


 ズバァアッ!


 タイヤとアスファルトが擦れて、大きな音を出す。

「うわっ。びっくりした」

「驚かれましたか?」

 余裕そうに言うルリだが、内心では本人もドキドキしていた。それを隠して強がるように、解説を続ける。

「これがリーンアウトです。体重を内側に寄せて、そこを軸に急旋回します。タイムを縮めるのには有効ですが、コントロールが難しく、スリップや曲がり過ぎる危険があります。本気のレーサーが、捨て身で下り坂を走るときにやるテクニックですね」

「お、俺にも出来るかな?」

「そのうちに。……ですが、その練習はもう少し平坦な場所で、安全を確保したうえでやりましょう。今の速度と傾斜では危険です」




 スタート地点。――タダカツはまだ、走り出していなかった。

 最大までサドルを上げたにもかかわらず、タダカツはそのまま地面に両足を着いて仁王立ちしている。それほどまでに、自転車と身体のサイズが合わない。


「さあ、叔父上。もうすぐ約束の20分でござるよ。カウントダウンするでござる」

 ユイがタダカツにそう伝えた。タダカツはゆっくりと頷く。

「では、10、9、8、7……」

 最初に与えたハンデが20分。そこからさらに、ユイの気の抜けたスタート合図を詫びるために10秒プラス。

「3、2、1、ゼロでござる」

「うむ……」

「……叔父上?スタートでござるよ」

「もう少しだ。ユイ。お前のカウントからさらに10秒待つ」

「律義でござるな。その程度の差など有っても無くても、叔父上が勝つに決まってござろう?」

「そうであっても、だ」

 腕組みしていた両手をほどき、ハンドルを掴む。背中を窮屈そうに曲げて、肩を内側に倒し、ペダルにちょこんと足を乗せる。

「さて、ユイと話しているうちに10秒、とうに経ったか」

 前方を睨んだタダカツは、ペダルに体重をかけた。

 全く下がっていないギアが回転し、その巨体が弾かれるように加速する。まるでカタパルトで射出される戦闘機のように、一気に――

「覇ぁっ!」


 ズギャァァアアア!!


「きゃあっ!」

 近くで見ていたイアが、スカートを押さえた。周囲の空気が震えて、木々がざわめく。それほどまでに爆発的な加速。

「あ、あれ……本当に自転車?」

「うむ。イア殿の疑問もごもっともでの。拙者も自分は速い方だという自覚はあるのでござるが、叔父上を見ていると自信を無くすでござる」

「あー、やっぱり女子高生の中では速いユイちゃんも、男性選手と比べたら遅いってこと?」

 イアが納得するように言うが、ユイは首を横に振った。イアは分かっていないのだ。自分たちの友人が……そしてその叔父がどれほどの乗り手なのか。


「拙者は、男性選手より速い自信があるでござるよ。目指す気になればプロにだってなれるでござろう。ただ、叔父上は人間を超えているのでござるよ」

「ま、またまたぁ。ユイちゃん大げさだよ」

 イアがユイの頬をつついた。それを少し遠巻きに見ていた友人――カオリも、イアの言うことに続く。

「ユイ。そもそも貴女の言う通りだとしたら、タダカツさんは世界チャンピオンにでもなっていないとおかしい計算にならないかしら?」

 そんなカオリの冷静な疑問にも、ユイはとぼけずに答える。

「いやー、叔父上がどれほど特別でも、自転車は特別ではござらぬからな。叔父上が大会で敗北続きだったのは、叔父上の所為ではござらぬ。自転車の所為じゃ」




 折り返し地点の目標であるコンビニを見つけ、その駐車場を利用してUターンするアキラとルリ。ちなみに、大きめに回ったのは意外と理由がある。

「なあ、ルリ。もっと小回りを利かせた方が、短い距離で回れたんじゃないか?」

「まあ、その通りなのですが、今まで溜めてきた勢いも殺すことになります。せっかくなので、減速しないようなラインを取ってみました。……もちろん、無理やり小さく回るのも良い戦法ではあるのですが、状況次第ですね」

「今は体力の温存か」

「ええ。タダカツさんに抜かれることは無いと思いますが、途中で疲れ果ててゴールにたどり着かなかった場合は、私たちの負けになるでしょう。それは避けたいのです」

「油断大敵、ってわけだな」

「はい。うさぎさんとかめさんだって、うさぎさんが負けてますからね」

 ルリがいつもどおり、平坦な声で言う。

「いや、それはあんまりクールに聞こえないぞ」

「!?」

「ルリって、ときどきキャラがブレるよな」

「きゃ、キャラとか言わないでください。クールなのは私の本来の姿です」

「本当にクールなら、それは自分で言わないんだよなぁ」

 サイドミラー越しに、後ろのアキラとの会話。その中で少しすねて見せるように、ルリが正面に向き直る。もっとも、後ろのアキラには何も伝わらないが。

 と、その瞬間だった。


「……!?」


 突如、タダカツが正面からやってくる。そして、一瞬で後ろに消えて行った。

 すれ違いざま、風が吹く。車線ひとつほどの間隔があったのに、その距離ですれ違ったとは思えないほどの風だ。まるでトラックと至近距離でそうしたような……

「今の、タダカツさんか?」

「ええ。ですが、いくら何でも早すぎます。私たちから20分遅れでスタートしたなら、もっと遅いはず……」

 アキラと話すため、サイドミラーを再び見るルリ。その後ろに、タダカツの影が映る。

「アキラ様。左に寄って!」

「え?」

 意味が分からないまま、それでもルリの指示通りに寄るアキラ。その横を、先ほどすれ違って間もないはずのタダカツが通り抜ける。

「もう折り返してきた……嘘でしょう」

 驚愕するルリに、タダカツが並んだ。アキラはそれを、後ろから呆然と眺めているしか出来ない。

「ほう……たかが自転車店の学生バイト風情と侮っていたが、思ったより先へ進んでいたな。認識を改めるぞ。ルリ。アキラ。貴公らは、このアマチタダカツの本気を見せるにふさわしい」

 言い残したタダカツは、大きく車体を揺さぶって登っていく。


 ギュゥン! ギュゥン! ギュゥン! ギュゥン!


 ルリが前に言っていた、振り子ダンシングだ。ただ、その振れ幅や角度は段違い。あまりにも大きく倒している。

「おいおい。いくら何でも振り過ぎ、ってやつじゃないか?」

 アキラでも分かる。通常であり得る角度じゃない。しかし、

「おそらく、タダカツさんの体重が重すぎるせいでしょう。そのバランスをとるためには、自転車も大きく傾けて釣り合いを取る必要があるんです」

「どれほど重いんだよ」

「分かりません。ですが、アキラ様の2倍……いえ、私の3倍はあっても不思議ではありません」

 実際、そのエネルギー効率はさておき、タダカツは高速で登っていく。それは事実なのだ。

 自転車レースは、いくら理屈をこねたところで、最終的に結果が全てである。

 物理エネルギーが無駄。消費カロリーが多い。フォームが雑。重心がブレている。などなど、何を言おうが速い者が正義。それがレースだ。

 ぐいぐいと、距離が引き離される。追走しようと必死になるルリだが、追い付かない。

(やはり、今日の疲れも溜まっていましたか……)


 ルリの疲れの原因のひとつに、車体重量が変わったから、というのがある。今日一日、ルリはずっと荷物を積んで走っていた。そのせいで、ルリは荷物込みのフォームを自分の身体に学習させてしまっていたのだ。

 そのせいで、レース時に荷物を下ろした影響から、普段のフォームに戻すのが遅れた。ルリの学習能力の高さが、今回は裏目に出たのだ。

(アキラ様。今日のレースは、私たちの負けですね)

 と、ルリが諦めてしまったその時、


「おおおおおおおおっ!」


 アキラが、ルリの横に並んだ。

「アキラ様?」

「ルリ。今からでもタダカツさんを抜き返すぞ。やり方を教えてくれ」

「え?……あれを抜くんですか?」

「ああ、なんか、自分でも分からないんだけどさ。ここは譲りたくないんだよ。負けたくないんだ」

 そういうアキラが、さらに加速する。もう彼も体力を残していないはずだ。ルリほどの消費カロリーは無かったかもしれないが、初心者が初めて100km走った、そのあとなのだ。

 なのに、

「ルリなら、何でも知ってるだろ。期待しているぜ。クール&ミステリアス」

「……」

 本当に、アキラの成長速度や、探求心の深さには驚かされる。この状況から、全てをひっくり返そうとしていることも……

 そして、

「アキラ様が望むなら、勝機はあります」

「本当か?」

「ええ。タダカツさんの走りを見ていたら、少し気づいたことがあります。まあ、本来なら喜ばしい事ではありませんが」

「さすがルリ。なんだか解らないけど、すげー観察眼だぜ」


 この状況で万一にも勝つなら、それはアキラにすべてを託すしかない。元の身体的な能力は高いのに、まだ自転車の事を少ししか知らない彼に、

 体力的には限界でも、技術と知識を伝えられるルリが、

「アキラ様。イヤホンと通話用アプリを起動してください。坂道の登り方を教える際に使ったように」

「お、おう。こうか?」

 アキラが、イヤホンを耳にはめる。その際の手放し運転も、前よりずっと安定している。



「それでは、これより私が、アキラ様を勝利に導きます」

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