第36話 座ったままでも登れるのか?
『さて、最後になります。シッティングについても説明しましょう』
「シッティング?」
『座って漕ぐことですね』
「それは、普通に走るだけなのでは?」
アキラの疑問をさておくように、ルリはすいーっと坂を下っていく。これで解説3往復目。もともとここまで来たのを含めて4往復目だ。
『この技は、ビンディングシューズと組み合わせることで、もっと大きなバリエーションを持たせることが出来ます。アキラ様が先日ビンディングデビューいたしましたので、店員として使い方をご紹介しようかと』
ルリが、脚を曲げるときに力を入れる。
『通常、ペダルとは上から下に踏むものです。それ以外では力が加わらないとされていますね。ですがビンディングシューズを使えば、真逆の方向でも……要するに、下から上にペダルを上げる場合でも、力が加わります』
ペダルを右足で踏みつけるのと同時に、左足を引き寄せる。ぐんっ、と力が加わり、重いはずのペダルが回る。
『これも見た目では分かりにくいかもしれませんね。ですが、アキラ様の方から見ていて何か気づきませんか?』
「何か……」
アキラはつぶさに、ルリの動きを観察する。そのロードバイクが、わずかに左右に揺れていた。
「あ、振り子ダンシングの時ほどじゃないけど、ちょっと揺れてる」
『そうですね。力が込められている証拠だと思います。座っていても、立っていても、ほんの少しだけバイクが揺れることはありますね』
速度はさほどないが、ルリの息遣いなどから楽に登っているのは分かる。
『これを、引き足と呼びます。もっとも、この引き足を使う際のベストな使い方に関しては、私たちロード乗りの間でも正解が無いのですが……』
「え?そうなの?」
結局、体型や筋肉の特性によって、全く違う個性が出る。なので、ルリ自身も何がベストなのかまだ分かっていない。
『引き足は前から後ろへと引くものであって、下から上へと引くものではないという説もありますね。逆に、ガッツリ下から上に引けと言う人もいます。私はギア比によって使い分けていますが……』
「何か難しいんだな」
『逆に言えば、正解が無いので、アキラ様がどんな走り方をしていても文句は出ないと思います。ただ、引き足は所詮、踏む足の補助だと思ってください』
実際、ルリはしっかりとペダルを踏んたうえで、引き足を軽く使う程度にしている。この技は攻めではなく、守りに使う技といった具合だ。
「ん?でも、サドルに腰を落としているなら、本気で引き足を使っても大丈夫じゃないか。どうせサドルに身体は固定されているんだから、全力を出しても安定するだろ?」
『ええ。まあ、安定感で言えばその通りですが……その……』
「その?」
『……股間にサドルが食い込むので』
やや言いにくそうに答えたルリだったが、それも居心地の悪い空気を作ると判断したため、いつもの口調に戻す。
『ロードバイク用サドルの場合、身体の重心を安定させるために硬く、脚の動きを制限しないように細いサドルが一般的です。なので、食い込むと結構、圧迫感があると言いますか……痛いわけではないのですが』
「あ、ああ、そうなんだな」
『アキラ様も、試してみてちょうどいい力加減を探してください。これも諸説あって、踏み足と引き足が5:5でいいという人もいれば、8:2くらいがいいという人もいます』
「結局、いろいろ解説してもらったけどさ。どれが一番いい登り方なんだ?」
アキラが訊く。
これまで、振り子ダンシング、振らないダンシング。そして数種類のシッティングと、いろいろ教わってきたが、どれが一番なのか分からない。
「これも、結局は人それぞれ、か?」
『いえ、状況それぞれですね』
「いえ、状況それぞれですね」
ルリの声がダブって聞こえた。分身でもしたのかと思ったが、なんてことはない。彼女が坂を下って、近くに来ただけだった。電話越しの声と、本来の生の声が重なっていたらしい。
「ああ、電話を切り忘れました」
「いや、俺もちょっと油断してた」
ロードバイクから降りたルリは、そっとアキラの横に座る。ベンチは長さがあり、二人が間隔をあけて座ってもゆとりがあった。
「で、状況それぞれって?」
「そうですね……例えば私は、普段はシッティングで走り、疲れたら振り子ダンシングに切り替えています。振らないダンシングは滅多に使わない必殺技のようなもので、体力を大きくすり減らしますね。短い坂なら使いやすいです」
「そうなのか」
「はい。でも慣れてくると、振れ幅の調整や、サドルにかける体重の調整などで、それぞれの技の境目が無くなってくると思います。実際、私も解説しながら何度か迷いました。どこまでを違う技として紹介したらいいか、って」
ルリ自身、今回の説明は難しかった。なにしろ、自分でも使いこなせていると思う技ではないのだ。上り坂は得意だが、それゆえにさらに上がいることも熟知している。
つまり――
(アキラ様は、もうこのステージまで来たのですね。私から教えられることが、もうすぐ何もなくなる。そんなところまで……)
追い付かれた悔しさも、こうして教えられる機会を失う寂しさも、ルリは感じていた。同時に、肩を並べて対等に走れる日が近いことも感じて、嬉しくもなる。そんな複雑な気持ち。
「さて、それではアキラ様が忘れないうちに、実践で振り返ってみましょう。私の走りを見るのと、アキラ様が自分で走るのとでは、ずいぶん違いますから」
「あ、待てよ。ルリ」
すっと立ち上がったルリを、アキラが引き留める。
「……どうしました?」
「いや、もう少し休憩していかないか?せっかく自販機もベンチもあるんだし」
「いいですが、私の説明の間も、アキラ様は十分に休んだのではありませんか?」
と、ルリは言う。登って降りてを繰り返しながらの説明は、それなりに時間もかかったはずだ。サイクリング中の休憩なら、程よい時間が流れたはずである。
しかし、アキラが言いたかったのは、
「俺は充分休んだけどさ。ルリは疲れてないかって事だよ。あの走り方、結構な体力を使うんだろ」
「私ですか?」
「ああ。無理して速度も上げてただろ。見栄張ってたのか、それとも俺を退屈させないようにしていたのか、知らんけどさ」
「……」
驚いた。
ロードレースに於いて、相手に疲れ具合を見せないのも戦術の一つである。ルリはそれを得意としていた自覚があった。先ほどの電話越しの声も、息が大きくならないようにこらえたはずだ。そのせいで、普段より疲れたのも確かだが……
それを見抜かれるほどには、アキラもルリに慣れてきていたのだろう。
「そうですね。ではお言葉に甘えて、もう少し休憩していきましょうか」
「おう。何か欲しいものはあるか?いろいろ教えてもらってるし、俺に出来る礼なら何でもするぜ?」
軽く――本当にどこまでも軽く、アキラは言う。ルリが無茶な願いを言わない前提での冗談なのだろうが、仮に何か無茶を頼んでも聞いてくれそうではある。
「本当に、何でもいいですか?」
「おう」
「それでは――」
――ぽすん
音という音もないが、二人の感覚からすればそんな擬音が聞こえたことだろう。ベンチに上体を預ける形で、ルリが倒れ込んできた。ヘルメットを外していたその頭が、ちょうどアキラの太ももの上に着地する。
「え?」
「事後の承諾になりますが、膝枕をお借りして休憩しても、よろしいですか?」
くるりと仰向けになったルリが、アキラの顔を下からのぞき込む。高さや位置を合わせるように身をよじり、結局はアキラの片脚に首を預ける形で落ち着いた。
「ま、まあ、俺の膝なんかで良ければ、いくらでも」
「ありがとうございます」
ものすごく、変な感覚だった。
(おいおい。これ、どんな状況だよって)
アキラの膝の上……その気になればどうとでも出来る場所に、ルリの顔がある。これは――
「思い出しますね」
「え?」
「アキラ様と一緒に、初めてサイクリングした日の事です。あのとき、アキラ様は足を攣って倒れ、熱中症と脱水症状を併発し、気を失っていました」
「ああ。あったな。あの時はルリが膝枕してくれたんだっけ?」
「はい。ユイから借りた扇子で、アキラ様を扇いでいましたね」
「あ、あれユイのだったんだ」
アキラはその扇子のデザインを思い出そうとする。が、今一つ思い出せない。木漏れ日を背にしたルリの、逆光でも綺麗な顔だけは覚えている。
「あの時、アキラ様の事が心配でもありましたけど、同時に少し楽しかったりもしたのですよ」
「楽しかった?」
「ええ。鼻をつまんだり、頬をつついたり、遊びたい放題でしたから」
「遊ぶなよ」
全然気づかなかった。ルリがそんなことをしていたなんて――
「では、仕返しでもいたしますか?」
「え?」
そっと、ルリが目を閉じる。正直目線を合わせているだけでもアキラにとって恥ずかしかったので、閉じてくれるのは助かるのだが……
「どうぞ」
「え?え???」
「……いたずらの仕返しです。さあ、ご自由に」
これは、
(こ、困ったぞ……)
アキラがしどろもどろしているのを、ルリは余裕の表情で楽しんでいた……わけではなかった。いや、表情こそ余裕を見せているが……
(ど、どどどどどうしましょう?何をされるのでしょう?)
何をされてもいい覚悟ではあったが、いざ何かをされるとなると気になる。もちろん怒らないし嫌じゃないのだが、それでも何かされるなら事前に知りたい。
(のに、目を閉じてしまいましたし……ああ、アキラ様。あなたが寝ていた時も、私は決して酷いことはしていないはずで、その仕返し程度のことで留めていただけると助かるのですが――)
鼻か?――そう思えば、何もされていない鼻がむずむずしてくる。
口か?――そう思えば、急に唇が震えそうになる。
おでこか?――そう思えば、わずかに汗がにじんでくる。
顔とも限らない。さすがにあまり変なところは触られないだろうが、今ならどこを触られても平静を装う自信が無いのだ。自分のキャラとしては致命的である。
ざわざわ――
鼻に、くすぐったい感触。手で触られた時のそれではない、もっと柔らかくて繊細な何かが鼻を擦る。
「ふひゃわぇっ!?――え??」
感覚が鋭敏になっている状態で、まったく予想外の道具を使った行為である。飛び起きようとしたルリの背筋に電流が走り、足腰を痙攣させる。全身に鳥肌がたち、身体が熱くなる。
「あ、や、やっぱり嫌だったか?ご、ゴメン」
アキラも両手を上げて見せた。
「あ、アキラ様。いったい何を――」
荒くなる息を無理やりひそめて、努めていつも通りを装いつつ訊ねる。目じりから涙が這うのが分かったが、アキラには気づかれていないだろうと信じたい。
「いや、頭を、撫でようと、思って……ごめん」
「頭?」
最近、髪を切りに行けてなかったことを思い出す。その前髪の長さが、確かに鼻につくころになってきたと自覚はしていたが、
(あー、こんなことになるんですね)
頭を撫でられること自体が嫌かと問われれば、それはルリにもよくわからない。そんな風に異性に甘えた経験が無いからだ。
ただ、アキラにならされてみたい気持ちもあったので、何とも残念である。
(もうこの状況になってしまっては、『もう一度お願いします』とも言いづらいですね)
数分ほどの休憩でそれなりに回復したルリは、すっと起き上がる。
「お、もういいのか?」
「はい。まさかこのまま本格的な休憩をするわけにもいきませんし、これ以上はアキラ様の走りにも影響が出そうですから」
膝枕をしてくれるアキラの脚も心配だが、それ以上にずっとひそかにドキドキしてしまった自分の心臓も不安である。果たして休憩になったのやら。
自分の車体に再びバッグを取り付けるルリ。再びのスタートだ。
「さあ、行きましょう。アキラ様。上り坂の走り方を理解した今なら、きっとこの峠が『楽しい』と思えるはずですから」
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