より本格的な走り方に挑戦しましょう。私も練習中ですが

第35話 登りはどうやって走るんだ?

 週末。

 アキラは、いつものように自転車店に向かっていた。

 ピッチリしたジャージに、流線型のヘルメット。少し気合の入り過ぎた格好は、カジュアルなクロスバイクを急にレーシングマシンに変える。ライダーの格好がむき出しの自転車は、その服装だけでも印象が変わるのだ。

 それは、周囲から見ても恰好の良いものだっただろう。いつも浴びている視線より、今日の注目度は高い。

 対向車のドライバー。遊びに行く子供たち。道端で話し込む主婦。それらすべてが、アキラに注目しているように思えた。

(やっぱ、買ってよかったな)

 ほんのわずかな照れくささと、それを上回る誇らしさに、アキラは酔いしれていた。ついでに平均速度も、少し上がっている。せっかくの恰好なのにゆっくり走っていたら勿体ない。そんな気がしたからだ。

 それだけでも気分が良いというのに、今日はルリとデートである。

 今のアキラは、自分が世界の中心にいるかのような気分になっていた。まあ、ある程度いつもの事である。



(たしか、足首をひねって、踵を外側へ……っと)

 ビンディングシューズをペダルから外すため、靴をひねる。――のだが、

(あれ?外れな……っと危ねぇ!?)

 クロスバイク自体が軽いので、車体の方が浮き上がりそうになる。こういう時、足に力を入れようとしてはいけない。それをすれば、ますます車体が足と一緒に動くからだ。

 体重をしっかりと車体にかけて、そのうえで足を軽くひねる。大事なのはどれだけの力強さで足をひねるかではなく、どれだけしっかりと車体の方を押さえるか。


 ――ガシャン!


「よし、外れた」

 そのまま足を着いて停車。ルリとの待ち合わせ場所である、トアルサイクルにやってくる。

 今日は、ルリの方が早く来ていた。

「お待ちしておりました。アキラ様――と言っても、まだ待ち合わせの時間より早いですが」

 いつもの無表情に、いつものノーメイク。そして、いつものと言えるほどに見慣れてきたジャージとヘルメット。今日もそのボディラインを余すところなく見せる、ピッチリした格好のルリだった。

「ルリ早いな。俺、これでもちょっと飛ばしてきたんだけど?」

「では、待ち合わせ時間より早く集合したことですし、休憩しましょうか。飛ばしてきたアキラ様もお疲れでしょうから」

 そう言うとルリは、愛車であるアイローネのホルダーから、ボトルを取り出す。よく自転車乗りが使う、握るだけで水を出せるボトルだ。いちいち栓や蓋を気にしなくていい。

「先日、アキラ様にお勧めするのを忘れていた、と思い出しまして……ですが私のアイローネには2本ボトルが入りますし、共有していきましょう」

「共有……」

 それは間接キスなのではないかと一瞬考えたが、2本持ってきてくれたのだから勘違いだろう。とはいえいつもルリが使っているボトルかと思うと少しドキドキするような気分になりながらも、彼女に視線を向ける。

 ルリは既に、水を飲み始めていた。

「って、今から飲むのかよ。早くないか?」

 まだ集合したばかりで、出発前である。

「いえ。そんなことも無いと思いますよ。喉が渇いてから飲んでも、最高のパフォーマンスは発揮できません。胃に入ってから、どのくらいの時間で細胞まで届くかを計算しましょう」

「そういや、そんなことを前にも言ってた気がするな」

 なんとなく思い出す。

「水ですと、だいたい30分ほど前を意識して飲んだほうが良いです。もっとも、それを予想するのが難しいですし、無駄に飲んでも尿意を誘発したり、単にボトルの中身が無くなって切ない思いをするだけなんですけどね」

 と、ルリ自身の失敗からくる経験も交えて語る。長いサイクリングの中で、ルリも様々なミスをやらかしているわけだ。



「それでは、出発しましょう。目標地点は、県を横断した向こうですね。狙い通りのタイムが出せれば、海に沈む夕日を見られますよ」

「おう……夕日?」

「はい。今日は一日がかりで、片道100kmのライドに挑もうと思いまして……楽しい旅になりますよ」

 見れば、ルリの自転車はいつもと様子が違っていた。シートポストにはキャリアが搭載されて、そこにパニアバッグ――後輪を左右から挟むこむようなバッグが、それぞれ搭載されている。大荷物だ。

「マジで?」

「マジです。ああ、ちなみに、帰りは電車を予定していますのでご安心ください。楽しい旅になりますよ」

 先に言ってくれれば、アキラだってそれなりの覚悟をしてきたのだが……

「ルリ。わざとだろ」

「はて?何がですか?」

 心なしか少し楽しそうな――なんと表現すればいいか、『作り慣れた無表情の作り方を基礎から練習し直した』かのような――

 そんなルリを見て、アキラは

(まるで悪戯が成功したときの子供だな)

 と、おそらく彼女が装いたかったクールでミステリアスなキャラと真逆の印象を抱くのであった。




 走り出してから2時間。ルリ達は坂道に差し掛かっていた。

「アキラ様。頑張ってください」

「が、頑張ってくださいじゃねーよ……もう、無理」

 アキラがビンディングを外して足を着く。

「なあ、ルリ。この峠、どうしても越えないとダメか?」

「ええ。このコースを想定していましたので」

 上り坂……それも長い距離となると、まともに登るのが難しくなる。

 たとえ変速ギアが付いていたとしても、ペダリングを止めたら進まなくなってしまう。そのため絶え間なくペダルに力を込めなくてはいけないのだが、これが体力的にきつい。

 脚が痺れて、息も上がる。

 速度が落ちれば、バランスも崩れる。

 いくら軽量のアルミフレームとは言っても、重力に逆らえるわけではなかった。


「せめて、もっと楽に登れる方法は無いのか?」

 アキラがダメ元で訊くと、ルリは当然のように

「ありますよ」

 と答えるのだった。

「え?あるの?」

「ええ。それを今日は紹介しようと思いまして」

 あるのなら、せめて疲れてしまう前に教えて欲しかったものである。

「それでは、アキラ様は座って休憩でもしながら、私の走り方をご覧ください」

「見てれば分かるのか?」

「いえ。その都度、私の方から説明を入れますが……」

 言って気づいだ。アキラにリアルタイムで声を届ける方法がない。

「……アキラ様。スマホの通話アプリを使いましょう。そうすれば、走っている最中の私の声を届けることが出来ます」

「え?ルリは走りながら通話するのか?」

「はい。こんなこともあろうかと、Bluetoothのヘッドセットを持ってきています。……場合によっては、ワイヤレスのサイコンと干渉してしまうのが玉に瑕ですが」


 最近は危険運転の代表格のように扱われているイヤホンだが、実は法律で禁止されてはいない。そもそもこれを禁止してしまうと、自転車便などが滞るからだ。

 それを差し引いても、通話をしながら運転するのが危険かどうかは、腕前と注意力によるところが大きい。電話していて事故を起こす人は、たとえば自動車で助手席に乗っている人と話していても事故を起こすだろう。

 それはもう本人の問題であり、システムの問題ではない。

(ペアリング、完了)

 ルリがスマホを、上腕につけたホルダーにしまう。画面は見られないが、音だけをワイヤレスイヤホンに送る方式だ。



『アキラ様。聞こえますか?』

「おう。よく聞こえるよ。ちょっと風の音も入るけどな」

『もし聞き取りづらい時は言ってください。すぐに対処法を考えますので』

 アキラは今、自動販売機の横に備えられたベンチに座っている。横にはアキラの自転車と、それからルリが持ってきた大荷物のバッグが置かれていた。

『それでは、この道路を何往復かしながら、私が走り方を見せます。その中で疑問などありましたら、そこはまた解説しますね』

「それって、ルリが何往復もするだけで疲れるんじゃないか?」

『そうかもしれませんね。ですが、アキラ様に伝えたいことなので、ぜひ360°ぐるっと、全方向からお楽しみください』

 緩やかなカーブの、アウトコース側のベンチ。ルリが下から登ってくるのを正面から――そして通り過ぎていくのを真後ろから眺められるロケーションだ。


『まずは基本的な技術。振り子ダンシングをお見せします。漫画などでも有名なので、アキラ様も知っているかもしれませんが……』

 ルリがせっかく登って来た坂を下っていくのが見えた。声だけは、電話越しに聞こえる。

「ああ、それなんだけど、俺あんまり漫画とか読まなくてさ。分からねーや。ごめん」

『はい。それでしたら、いちから説明しますから大丈夫です』

 坂を下りたルリは、登り始める。とはいえ、まだ説明は始まっていない。

 ボトルホルダーからボトルを取り出した彼女は、これから自分が走るところに水をまいた。路面が濡れて、アスファルトが黒く染まる。

「今のは何だ?」

『後で説明しますが、タイヤ痕を分かりやすく残すための工夫です』




 再びUターンして下っていくルリ。その姿が見えなくなった。

『それでは、最初は振り子ダンシングです。ロードバイクを左右に振りながら走る技で、登りでも重いギアを使いたいときや、瞬発力を必要とするときに使われます』

 ルリが自転車を左右に倒しながら、登ってくるのが見える。

『右ペダルを踏むときは、左へ自転車を倒します。逆に左ペダルを踏むときは、車体を右へ』

 ペダルを踏み込むのと同じペースで、ぶんぶんとハンドルを左右に揺らす。この時、ハンドルの中心軸であるヘッドは曲げていない。ハンドルを切っているのではなく、車体全体を傾けてバランスを取っているのだ。

 その二の腕に挟み込まれた胸が、

(すげーことになってるな)

 左右に揺さぶられて腕に食い込み、弾むように反対側に戻る。左右に揺れるというより、八の字で円を描くような……

『アキラ様。きちんとご覧いただけていますか?』

「み、みみみみ見てないぞ。何も見てない」

『しっかり見ててください。そのための実演なんですから』

「お、おう。そうだったな。あ、あはは」

『?』


 さきほど濡らした路面を通過して、タイヤを湿らせる。その後しばらくは、タイヤが通った後がくっきりと残る。

「こうしてタイヤ痕をみると、そんなに左右に大きく揺れるわけじゃないんだな。だいたい2、3cmってところか?」

 タイヤ幅と同じ程度の揺れ幅しかない。

『目的としては、あくまでペダリングを補助することですからね。例えばここで無駄に横移動すると、パワーロスが上がります。つまり、体力の無駄になってしまいます』

「基準は、やっぱり数センチくらいなのか?」

『ええ。その人の体格や、使っているバイクの大きさによりますが……それでも大きく倒せばいいというものではありませんからね。バイクの中心がブレないように意識してください』

 すいすいと登っていくルリ。その腰はペダルの上下に合わせて縦に、ペダルの前後に合わせて左右に揺れる。

『腕の筋肉にばかり意識を向けがちですが、あくまで腕は補助です。大事なのは、強くペダルを踏み込むこと。そのためには、お尻の筋肉に意識を持って行ってください』

「お尻?」

『はい。人間の体の中でも、最も大きい筋肉は大殿筋だと言われています。これを使うために、骨盤を意識して回していくんです。まあ、本当に腰から回してしまうと、腹筋を使うことになりますので、腰の中央は動かさずサイドだけ動かす感じで……』

「な、なんだか分からないんだけど、どんな感じだ?」

『ちょうどアキラ様の位置から、私の後ろが見えていると思います。お尻の動きに注目していただければ、左右で別々に動いているのが理解できるかと――いかがですか?』

「あ、ああ……」

 自転車の勉強。あくまで自転車の勉強なのだが、

(女の子が自分のお尻の感想なんて訊いてくんなよ)

 程よく筋肉質なのか、その形が変わるほど揺れるわけでもないが、細い腰と相まって人目を引くセクシーなお尻でした。アキラより。


「それにしても、難しそうだな」

 アキラが話を変える。ルリはそれを聞きながら、自転車を停めた。後ろから車などが来ていないことを確認して、Uターン。今登って来た道を下る。きちんと車線変更するのは彼女の性格ゆえだろう。

『まあ、この技は自転車に於いて、基礎の中の基礎とも言えるんですけどね』

「そうなの?」

『はい。自転車とは、常に片方のペダルを踏むときに、それと同じだけの力をハンドルにかけてバランスを取るものです。だからこそ、ハンドルから手を放して漕ぐのが難しいんです』

「あ、そういう仕組みだったのか。意識したことが無かった」

『ええ。そうですよね。例えば普通に歩く時に、どのタイミングで膝を曲げるのか、とか、つま先と踵のどちらに体重を書けるのか、とか、意識する人は少ないですから』

 無意識にやっていることにも、いろんな技が詰まっているらしい。

『今回のダンシングは、その延長線にしかないんですよ。だから車体を振る事より、いつも通りの力を出すことを意識してみてください』

「ルリに言われると、やれる気がしてくるよ」




 坂を下り、再び方向を変えたルリから、アキラに通信が入る。

『次は少し応用編。振らないダンシングをしてみましょう』

「あ、あるんだ」

『はい。ありますよ』

 ルリがブレーキレバーの下に指をかける。しっかりと握り込むように……

『アキラ様。突然ですが、もっとも強くペダルを踏むには、どうしたらいいでしょうか』

「え?……あー、クイズか。そうだな。全体重をペダルにかける。――って、それじゃあ右ペダルを踏んだ時に右に倒れるんだっけ?」

 先ほどのルリの説明から、体重移動の限界を理解する。

「じゃあ、全体重の半分を右ペダルにかけて、もう半分を左ハンドルにかける。さっきの振り子ダンシングって、そういうことだろう?」

『はい。アキラ様の覚えが良くて、私としても実演のし甲斐があります』

「へへっ」

『でも、もっと強くペダルを踏む方法があるんですよ』

「え?」

 ルリが再び坂を上ってくる。そのギア比は、先ほどより重い。にもかかわらず、ペダルの回転数は落ちていない。

(は、速い!?)

 ここが急激な上り坂であることを忘れさせるような速度で、まっすぐ進んでくる。


『ハンドルを自分の身体に近づけるように、引っ張ります。それでも車体は浮き上がらないので、相対的に自分の身体が沈み込む形になりますね』

 ハンドルを引くルリの身体が、ぐいっと下に沈み込む。

『この時に脚を使って、大きくペダルを踏みます』

 ペダルを強く踏んだ反動で、身体が浮き上がろうとする。その反動を腕力で……いや、背筋や胸筋も使った上半身全部で、抑え込むのだ。

『本来なら人間の脚力は、自分の体重を持ち上げて余りあるほど強いんです。だからこそ、走ったり跳んだりできるのですよ』

 その加速を見れば、どれほどのパワーが出せているのか想像もつく。だからこそ、アキラは素直に驚いた、が……


「それ。見ているだけだと分かりにくいんだけど……」

『……そ、そうかもしれません』


 先ほどの振り子ダンシングと違い、その筋肉の収縮は見た目から分かりにくい。ルリもこれに関しては実演してもあまり意味が無いかもしれないと、今更ながら思った。

「ちなみに、それって思いっきりハンドルを引き付けても大丈夫なの?」

『いえ。これもあくまで、メインはペダルに力を加える事。ハンドルはその補助と考えてください。あまりやりすぎると、今度はまくれます』

「まくれる?」

『えっと……前輪が浮き上がり、後輪側にひっくり返ることを『まくれる』と言いますね。ウィリーの失敗バージョンみたいな形です。前輪が浮いた時点で、自転車を支えるグリップ力が無くなりますから、急に前輪だけ滑ったような感覚になりますよ』

 もちろん、ルリも以前やらかしたことがある。リアルな失敗談だ。

「なんだか、危ないテクニックだな」

 アキラが言うと、ルリも頷いた。もっとも、そのころにはルリはアキラの目の前を通り過ぎてしまっていたが。

 電話越しで、声だけが聞こえる。



『自転車にしても、その他のスポーツにしても、失敗や怪我はつきものです。どんなに自信があっても、初めて挑戦する技は、人通りのないところで安全に行ってください。

 そして、挑戦することを諦めないでください。

 私もまだ、上を目指している途中です』

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