ヒーローのうた

伴美砂都

ヒーローのうた

 飽くことなく数十分も続く田舎道を車で行くと、工業地帯に差し掛かる。半多製薬と大きく書かれた看板を左折すると職場に着く。ウェルライフ西浦。福祉器具のリースやレンタルを取り扱う会社だ。職員用の駐車場に車を入れて社屋に向かうとき、ぽつりと額に雨が落ちた。



 昼休みになるころには、外はひどい雨だった。夕方のような暗さ。こんな雨の日にはあたたかな室内にいても、なんだかうすら寒いような気持ちになる。休憩室には賑やかな笑い声が満ちて、少し安心する。仲のいい人たちと近くの席を陣取って、お弁当を広げた。


 「まおちゃん、これよかったら」


 同じ契約社員の坂田さんが、パンダの顔を象ったクッキーを渡してくれた。


 「えー坂田さんどうしたんですか、かわいい」

 「行ってきたのよ、上野動物園、息子がパンダパンダってうるさいもんで」

 「いいなー動物園」

 「それが雨でもう、寒かったのよ」

 「さかちゃん雨女だからぁ」

 「ちがうわよ旦那が雨男なのよ」

 

 クッキーの箱と一緒に向こうへ回って行った会話を聞くともなしに聞いて、パンダの耳を齧った。茶色の耳は、一応ちゃんとココアっぽい味がする。パンダの顔はにっこり笑っていた。


 5時ちょうどに仕事を終える。正社員の人たちには専用のパソコンとデスクがあるけど、契約社員は業務端末と呼ばれる何台かのパソコンを共用で使っている。きちんと電源を落として、ディスプレイのスイッチも切った。

 正社員の定時はわたしたちより遅い。デスクの並ぶ横を、お疲れさまでしたー、と挨拶しながら通り過ぎる。社員のななちゃんがこちらを見て、お疲れさまでした、と言いながら胸もとで手を振った。小さく手を振り返したとき、ななちゃんの向かいの席の加藤さんがちらっとこちらを見、目が合った。加藤さんはすぐパソコンのほうへ視線を戻し、たぶん、お疲れさまでした、の、さまでした、のかたちに口を動かしながら、ぱんっとひときわ大きな音を立ててパソコンのキーを叩いた。

 管理職を除けば、事務担当の正社員はふたりだけだ。ななちゃんとは名前で呼び合ってたまに遊んだりするほど仲良くしていたけれど、加藤さんのことは少し苦手だった。加藤さんも、もしかしたらわたしのことをあまりよく思っていないのかもしれない。まあ、わたしの思い違いかもしれないし、もし思い違いじゃなくても、特に困りはしないのだけれど。どこの職場に行ったって、ひとりぐらい苦手な人もいるだろう。部長をはじめとするほかの社員さんたちは皆、優しかったし、契約社員の同僚たちもいい人ばかりだ。

 仕事は難しくない。単純な事務仕事だ。福祉に関する専門知識が必要なわけでもない。お給料は安いけど、残業も休日出勤もない。職場は数人の正社員のほかはわたしのような契約社員だから、肩身が狭いこともない。毎日、朝8時半に出勤して、5時に帰る。



 外に出た。雨はまだ降っている。風も強くて、同僚と手を振り合って足早にそれぞれの車に向かった。エンジンをかける前に、スマホで母にメッセージを送る。今から帰ります、帰りにイオン寄るけど、何かいる?

 数十秒でメッセージは既読になり、おつかれさま、じゃあドーナツ買ってきて~^^、と返信が届く。オッケーマークのスタンプを返して、メッセージアプリを閉じた。



 ショッピングモールの駐車場に車を停める。ミスタードーナツでドーナツを買って、少しだけお店を見て歩いた。ユニクロの前まで来たとき、あ、ちがう、と思った。ちがう、8個じゃない、と思った。ドーナツは、3の倍数でなければならないのだ。


 通路の真ん中に備え付けられたベンチに腰を下ろして、もう一度母にメッセージを送る。もうちょっとお買物と、お茶して帰ってもいい?今度は母からオッケーマークが届く。ゆっくりどうぞ、雨ひどいから、帰り気をつけて。返信が届いたことを確認して、立ち上がった。



 兄が自死したのはわたしが高校二年のときだった。

 警察官になって二年目だった。年の離れた兄だったけれど、小さいころからわたしのことをかわいがってくれた。とても気さくで、頼りになる兄だった。子どものときから、正義感の強い兄だった。正義のヒーローに憧れて、警察官への道を志した。

 兄の死は、少しだけニュースになった。職場でのパワハラや、上司からの苛めがあった。同じような事件は世間でいくつも起こっていたから、ワイドショーで知ったような顔のコメンテーターがちょっとだけ嘆かわしいような顔をして、すぐ忘れ去られた。

 

 兄が死んだあと、母はひどく情緒不安定になった。毎日、たけるがいない、健がいない、と言って泣いた。父のことも、わたしのことも、まるで見えていないようで、悲しいとか寂しいとかより、わたしは怖かった。

 兄はすべてにおいて優秀だったが、わたしは成績はイマイチ、運動もそこそこ、何の取り柄もない娘だった。人気者でもないけど仲間外れでもない、一等賞を取るわけでもないけど、ビリでもない。劣等感をもたなかったといえば、嘘になる。でも、それ以上にわたしは兄のことが好きだったし、父にも母にも、何の恨みもなかった。ただ、特に何の期待もかけられず、何の取り柄もないまま、ふつうに生きてきた。

 わたしが就職活動を始める時期になって、一度凪いだかに見えた母の心はまた乱れた。真生まおも死んじゃう、真生も死んじゃう、と言って母は泣き、わたしが公務員試験の準備をやめ、正社員の就活をやめ、契約社員として就職することを決めると、やっと落ち着いた。地元の人は兄のことを知っていたから、実家から通えるギリギリ遠くの会社を選んで、面接を受けた。

 何の期待もされていなかったわたしの人生には、元気に生きること、楽しく生きること、そして、毎日定時に帰ること、という期待がかけられるようになった。



 さっき一度小降りになったかに見えた雨は、また強くなっていた。濡れながら車に戻って、ドーナツの箱を開けた。

 わたしが就職したころから、母は兄のぶんのご飯を作るのをやめた。お仏壇にお花とお菓子を欠かさないのは今でも変わらないけれど、兄のところに供えたものは、そのあと家族で分けて食べるようになった。だからドーナツは三の倍数が正解なのだ。 それまで、兄のぶんのご飯は、わたしたちの分とは別に作られ、四人掛けの食卓の兄の席に置かれ、そして、食べられないまま片付けられていた。兄が使っていた茶碗に真剣な面持ちでご飯をよそう母を見たら、なにも言えなかった。

 ドーナツをふたつ食べた。ポンデリングが一瞬、喉に詰まって、鈍い痛みと一緒に胃に落ちていった。


 就職してふた月もしないうちに兄は変わった。笑わなくなり、口数が少なくなり、そして、帰宅して食事が出てくるのが遅いとか、お風呂がわいていないとか、そういうことでものすごく怒って母を罵るようになった。毎日夜遅く帰ってきて朝早く出勤していくから、仕事が忙しくて疲れてイライラしているのだと思った。けれどそれを叱った父に陶器の花瓶を投げつけたのを見て、これはおかしい、と思った。

 休日もほとんど出勤していて、たまの休みには夕方まで泥のように眠っていたと思えば、ぎゃあああ、と大きな声を上げながら階段を駆け下りてきて、寝ちゃった、寝ちゃった、勉強しないといけないのに、なんで起こさなかったんだ、と言って暴れ回って怒った。

 なぜ兄がそんなに怒るのか、そのときのわたしにはわからなかった。わたしは兄のことを避けるようになり、だんだんと、兄が家にいるときも、顔を合わせないようになっていった。



 箱の中に残った6個のドーナツを少しずつ動かして、最初から6個入っていたみたいに見えるようにした。箱を閉じて、袋に戻す。フロントガラスを打つ雨は激しく、前が見えない。グローブ・ボックスから一冊の大学ノートを取り出した。これは、兄が持っていたもの。部屋のドアノブにネクタイを結んで首を吊っていた兄を、わたしが見つけたとき、兄の隣に、落ちていたものだ。

 ノートの前半には、なにかの勉強をしたような痕跡があった。階段を駆け下りてきた兄が、しなければいけないと言って怒っていた勉強だろうと思った。それが警察官に必要なものなのか、わたしにはわからなかった。

 後半の十数ページには、ただひたすら、頑張る!という言葉が書かれていた。頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張る!頑張 最後のページの半分、鉛筆の芯が折れたような跡があって止まっていた。兄は鉛筆なんて使っていたんだろうか。筆圧は濃く、ところどころページの裏側へ突き抜けているほどだった。


 最後に兄と話したのは、兄が死ぬ一週間前だった。日曜日の、昼間だった。水泳部の練習から帰ると兄が食卓に座っていたので、一瞬、足がすくんだ。あんなに好きだった兄のことを、わたしは怖がるようになってしまっていた。しかし兄は怒ってはおらず、頬杖をつくような姿勢で、じっとしていた。わたしが部屋に入って行くと、ゆっくりと振り返った。そして、久しぶりに、本当に久しぶりに、まお、とわたしの名前を呼んだ。


 「まお」

 「・・・」

 「俺は」

 「・・・うん」

 「・・・俺な、ヒーローになりたくて、警察官になったんだよ」

 「・・・、うん」

 「・・・このまえな」

 「・・・」

 「・・・秋のさ、こ、交通安全運動、があるんだ」

 「え、・・・うん」

 「交番ごとにな、検挙数、・・・検挙ってわかるか、違反した人をつかまえた数だ、それをな、競うんだ」

 「・・・」

 「俺、・・・俺、それでな、このまえ、・・・違反してない人をな、・・・捕まえた」

 「・・・え、」

 「・・・」

 「・・・」

 「・・・」

 「・・・え、でもさ、・・・でも、・・・誰だってさ、間違えるよ、おにい」


 はは、と小さく笑って兄は向こうを向き、黙った。続きを話すことはなかった。兄の死後、兄の部屋からは、大人用のおむつがたくさん発見された。兄は勤務中トイレに行かせてもらえず、おむつを着けて勤務していたのだった。

 一度だけ、兄が務めていた交番の前まで行った。兄を殺した人たちは全員、懲戒処分になった。でも、どこかで生きている。わたしの手で殺してやりたかったけれど、どこにいるのかわからなかった。だから、せめて兄を苦しめた交番を燃やしてやろうと思って、家のストーブ用の灯油の缶から、ペットボトルに灯油を入れて持って行った。途中のコンビニで百円ライターを買って、持って行った。

 兄のいた交番は、普通の交番だった。兄がここで殴られたり蹴られたり暴言を吐かれたり、たくさんのひどいことをされていたのだということを、うまく想像できなかった。兄は間違えたのではなく、きっと脅されていたのだろう。違反していない人を、嘘をついて「検挙」しないと、もっとひどいことをするぞと言われて、つい、悪いことをしてしまったのだろう。わたしは、兄にそう言えなかった。あのときそう言えたら、それでもしかたないよと言えたら、おにいは死ななかっただろうか。灯油を撒くこともできず、帰った。



 ノートはだれにも見せずに、こっそりわたしが持っていた。頑張るが頑張 で止まった最後のページに、折り畳まれた紙が一枚挟んである。このノートを破りとったものではなく、どこか別のところから来たルーズリーフ一枚。手書きで、ヒーローのうた、という詩のようなものが、書かれているそれを開く。

 兄の字であることは間違いなかった。でもこれが兄の作った詩なのか、ほかのだれかが作った詩なのか、わたしは知らない。生前の兄が本を読んだり詩を書いたりしているようなイメージはあまりなかったけれど、わからない。わたしは兄のことを、本当はよく知らなかったのかもしれない。ずっと大事にしてくれていた家族にあんなに怒って暴れるほど、兄が追い詰められていることに、気付かなかったぐらいに。



 ヒーローのうた


 愛と正義の名のもとに

 たくさんのひとを殺し

 それがただしい人生だろうか

 求めるばかりの人たちに

 食われ

 それが幸福な人生だろうか

 他者の幸福はぼくの幸福か

 ぼくの不幸は

 他者の幸福だろうか


 みんなの夢を守るため

 ぼくは夢も見ずにねむる

 みんなの愛を守るため

 ぼくはたったひとりねむる

 わたしより知らないだれかのほうが大事なの

 そう言って君は去った


 いつか

 ぼくがだれも守れなくなっても

 いつか

 ぼくが敵を倒せなくなっても

 そのとき

 だれかぼくを愛すだろうか

 老いてたったひとり居るぼくを

 だれか守るだろうか

 愛と正義のために殺した

 たくさんのわるものの亡霊が

 ぼくを連れに来るだろうか



 老いることなく兄は死んだ。あかるく優しかった兄は、倒したわるものに連れて行かれてしまったのだろうか。ほんとうはそんなことはないのに、兄を殺したのは、そんなものじゃないのに、真面目だった兄は、そう思ってしまっただろうか。ルーズリーフを元通りふたつに畳み、ノートの最後のページに挟む。たくさんの、頑張る!、に擦れて、裏側は少し黒くなっている。

 ノートを閉じて、グローブボックスに戻す。エンジンをかけて、ワイパーを動かした。じゃぶ、と音がして視界がひらけた。前を見て、横を見て、ゆっくりとハンドルを切って、車を出した。

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