二十七、片翼



 今更ではあるが、蝴蝶フーティエの腹に、不躾にも牛刀が差し込まれた際、助けたのは他でもない、花精ファジンである。

 傷口を縫うためにはチョゴリを脱がせ、肌を見せる必要があった。

 そんな事は互いに忘れ、蝴蝶は勿体ぶって襦の紐を解く。

 その間はというと、花精は蝴蝶に背を向けて、術式をした際は腹の傷にばかり意識がいってしまい、そういえば他の所は目にも入らなかったなあ、なんて事を呑気に思い出す。

 そのため、蝴蝶の言う、診て欲しいところ、というのが皆目検討もつかなかった。


「花精様」


 名前を呼ぶだけの合図に、花精は蝴蝶の方を向く。

 花精が一番に目をやった先は、先日の傷を覆う包帯だ。

 術後すぐは綿紗ガーゼは血を吸う容量を越え、包帯までも赤くしていたが、あれから二日近く経った今では、さすがに包帯は白いままだ。


「では、包帯を取る。痛かったら遠慮せずに言うように」


 花精の伸びる手を視認した蝴蝶は、細く白い腕を上げて、包帯がしゅるしゅると音をたて、外れていく様を見る。

 何度か肌と肌が近くなっては、離れ。近くなっては、離れ。

 そうして長い包帯が何周かすると、真っ白な綿紗が現れた。

 米から作られる糊で貼り付けられた綿紗は、花精の手で丁寧に剥がされる。

 縫合面と接していた綿紗は黄色く変色していた。

 そして次に確認するのは、縫合部。縫合不全や、感染症など引き起こしていないか、目で確認する。

 これといった異常もなく、新しい綿紗をまた貼り付け、上から新しい包帯で巻く。


「よし、私の用事は終わった。それで、診て欲しいという所は?」


 なるべく患部以外は見ないようにしていたとはいえ、やはり蝴蝶の話した診て欲しいところ、というものの答えには、辿り着くことが出来なかった。


「私の背中を」


 蝴蝶は決心をするように、背を花精に向けた。

 夜の帳を編んだかのような黒髪を、蝴蝶の白い手がかきあげて胸の方へ流す。


「熱傷の、痕」


 それは、蝴蝶の右肩甲骨から下へ伸びる、火傷の痕。伸びる長さは花精の手のひらよりも長い。

 うら若き女性にとっては、これが劣等感に繋がるのは頷ける。


「──はい。私は、その、幼少の頃からも恵民署に居まして。それでなんとか、皆の力になりたい、と勝手に厨房に忍び込んだことが」


 そこから先など、語らずとも自明。幼い子供が勝手の分からぬ厨房に居れば、どんな事故に繋がるだろうか。

 その時からの傷跡から察するに、当時は小さな背中いっぱいに広がったのだろう、と花精は瞳を細めた。


「自業自得とは思いますが、花精様の、先日の術式、えっと、しょ、しょく、」

「植皮術式?」


 慣れない舌回しに苦戦する蝴蝶と、それを優しく見つめながら正しい答えを提示する花精。


「そうです、その植皮術式を見て、この痕は消えるかもしれない、と思いました」


 蝴蝶は、常に完璧を目指すのだ。己に完璧を求め続けるのだ。

 その心の有り様は、背中に抱えるこの消えない傷を許した筈が無い。


「そうだね、これを消す、なんて事はきっと、この国では私以外の誰にも出来ないだろう」


 随分と回りくどい言い回しではあるが、それはつまり、自分ならこの傷痕を消す事ができる、という意味でもある。


「でも、駄目だ」


 「どうかお願いします」と蝴蝶が頼もうと口を開く前に、花精は断ってしまった。慌てて花精の顔を伺う蝴蝶の表情は、疑問で歪んでいる。


「この方法をとってしまえば、きっとお前は私を許してくれないだろう。」


 自分を助ける行為に、何を咎める事があるのだろうか。

 そう問いただそうと、蝴蝶は花精の顔を、改めて見つめる。

 しかし、そこには問いただそうという気力さえ打ち消す、物憂げに下を向く花精が居た。


 花精は、今日の王宮にて、死体となったあの男にメスを入れた時、同じように死体を囲う医官達から向けられた視線を、思い出していた。

 人体の解剖は、医学の知識を広める上で、避けては通れない道程だ。

 しかし、花精も死体に刀を入れることに、思うことがないわけではない。だからこそ、医療の礎として、肉体を差し出してくれる協力者には最大限の敬意と、埋葬を行う。

 それでも、人体に刃を入れない医療が土着した間王国では、真に理解を得るのは難しかった。

 医療の発展のために、と覚悟した王宮に務める指折りの医官達でさえ、やはり、拒絶の色は濃かった。

 彼女にまで、あのような、人殺しを見るような目で見られてしまうと、などという想像を描く。

 そう思われるような事をしておいて、そう思われる事を否定するなど、身勝手でしかないのだろうが。

 それほどまでに、花精の覚悟と、この王国の人々の道徳は乖離していた。


「というわけで、見方を変えよう」


 なんとか顔を上げた花精は、また、いつものような、貼り付けた笑みを浮かべてしまった。

 人々からの偶像に擦り合わせるためではなく、ただの、強がりで。


「見方?」


 先程まで美しい顔に憂いを乗せていたというのにも関わらず、今度は痛々しい笑みを浮かべる花精に、蝴蝶は言葉をそのまま復唱して返す。


「そう。この背中は、まるで天使の羽のようだ。」


「天使」


「──この国では、天女?に近いものかな。たぶん。まあ、とにかく、この雲の上の存在で、背中に羽をはやしている。」


 突飛もない話をしだす花精は、天井を指さす。

 つられて蝴蝶も天を仰ぐが、木造の無骨な屋根が見えるばかりだ。


「天使は、場合によっては美しい人を例える事もある。つまり、蝴蝶はまるで、片翼を失い地上に舞い降りた天使のようだ、というわけだ」


 全て言い切った後で、花精は満足気に、やっと硬い笑みが少しばかりほぐされて、柔らかくなる。


「──莫迦莫迦しい」


 花精の頭の中では「そうですね、そう思う事にします!」と喜ぶ姿か、「そんな考え方もあったんですね」と諦めたような姿を想像していた。

 厳密に言えば、もう何種類か想像をしていたが、花精は結果を見るよりも先に有り得ない、とすぐに打ち消したものだ。

 ただ、蝴蝶はその想像のどれとも違う反応を見せた。

 そっぽ向いて、そそくさと襦を着込んだままこちらを向かなくなってしまった、蝴蝶。


「蝴蝶?」


 気に触る事を言ってしまい、蝴蝶の逆鱗に触れた時とはまた違う。

 逆鱗に触れて一度厨房から追い出された経験者は、分かるのだ。

 しかし、今までの、どの反応とも違う蝴蝶の態度に、花精は戸惑う。


「もう!夕餉が冷めてしまうではないですか!」


 突然に今までの話題をぶった斬り、夕餉へと意識を逸らそうとする蝴蝶の頬は赤く熱を持っていた。


「なんだ、照れたのか。可愛いやつめ、それならそうと言えばよいのに」


 花精は蝴蝶の動揺をからかうようにして、笑いながら指摘する。


「あぁ、このまま花精様と居ると怒りで傷が開きそうです!」


「わかった、わかった、退散するから。ほら、夕餉だ。」


 にやにやと、悪戯っ子のように白い歯を見せながら立ち上がり、膳を蝴蝶の側へ置く。

 そして、部屋の戸を開き、出ていくのかと思うと、外から顔だけ覗かせ、


「私の今の言葉は全部本心だから、存分に喜んでいいぞ」


 花精がそう言い切るか否かというところで、耐えきれなくなった蝴蝶が枕を、戸に向かって投げつけた。

 既のところで閉められた戸だけが枕をぶつけられた悲鳴をあげる。

 蝴蝶はというと、真っ赤な果実のように頬だけならず、耳まで紅潮させている。


「はあ、はあ──。あんな顔でそんな事を言うなんて」


 言うなんて、なんて、なんて、罪深いのだろう。


「でも、そっか、天使、か」


 そこから続いた言葉は置いておくとして、見方を変える、というのは蝴蝶にとって、新しい発見だった。

 これまで数年間、彼女は自身の背中の傷痕を呪ってくるばかりだった。

 自分を誰よりも愛している自信のある彼女だが、どうしても好きになれなかった傷痕。左手で肩を抱き、少し笑顔を綻ばせる。


「───羽のようだ、と言われてすぐに出てくる夕餉が、鳥の肉汁スープだなんて、笑えないけど」


 蝴蝶は複雑な面持ちで、銀の匙を掴んだ。



────────────



「そんなつもりなどなくても、あのような反応をされては、僕まで恥ずかしくなってくるな」


 病室を後にする男の白い頬にも、僅かに朱が刺していた。






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