第二十八話 本物の闇

 私が死んでも、空はいつまでも私たちの頭上にあり、

 花は新たな種を次の世界へ残していく。


 その言葉を見て、やなはるの背筋に電撃が走った。

 

 私が渓人の部屋で首を吊る前、自殺サイトに残した言葉だ。だけど、成君の扇子に書いた覚えはない。なんか字も汚いし。これは成君が書いたのだろうか。この言葉を書いて、私が寝ている間に扇子をすり替えることは一応できる。

 やなはるは一度深呼吸をした。そして、脳をフル稼働させようとする。

 となると、疑問なのはどうして成君がこの言葉を知っているのかということになる。私は成君の前でこの言葉を口走ったことがあるが、それは新宿の喫茶店で一回きりだ。それだけで記憶していたとは考えづらい。とすれば、成君は自殺サイトの書き込みの方を見たはずだ。だけど、当時の書き込みと今の私を関連付けるのは成君には無理だ。あれは「やなはる」というハンドルネームではあるが、名前以外には今の私に繋がる痕跡を残していない。私の本名を知らない成君では、あのハンドルネームが私だと知ることはできない。そうなると、残された可能性は一つしかない。渓人が私の本名と過去を成君に話したんだ。それなら、この言葉が私のものだと成君にも推測することができる。私が寝ている間に免許証を見ても本名は分かるが、そこまでしてこんなことをする意味はないと思う。そう、とりあえず方法は分かったから、あとは理由だ。なぜ成君はこんなことをしたのか。多分、私の過去を知ったことに関係しているのだろう……。

 そこで、自分の過去を成に知られたことが一つの事実としてやなはるに重くのしかかった。別に知られたところで何がどうなるわけでもないが、複雑な気分になった。蒼井やなはるという人間が脆く、空虚でもあり、許されないことをしようとしていたのは確かだが、人づてに聞いた成に何か誤解をされるのは嫌だった。どうせなら自分の言葉で伝えたいと思った。

 成君と話がしたい。

 やなはるはそう思った。実に身勝手で都合のいい話だが、そう思ってしまった。

 自殺することを提案したのが成君の方だったとはいえ、私はそれに立ち会ってしまったのだ。立派な罪人だ。そして、その光景は私の心と網膜に深く刻まれた。今ならその恐ろしさを百の言葉で言い表すことができる。私の目的は達成された。もし成君が生きることを選択し足掻いたのならば、あのロープを切ることができたのかもしれない。樹海の地に落ちて、まだ息をしているのかもしれない。しかし、私は成君が首を吊った後、怖くなってすぐに逃げ出してしまった。ロープが切れたかどうかまでは見届けていない。ならば、なぜロープに切れ目を入れたのか? それは私自身も上手く説明することができない。私の心のがそうさせたのかもしれない。だけど、今ではそうして良かったと心から思っている。もしそれをやっていなかったら、まさに死ぬほど後悔していたと思う。

 やなはるは再び扇子を眺めてみた。扇子は元々、メモ帳として使われていたものだとミチコが言っていたが、その情報だけでは何も分からなかった。

 この扇子の意図も成君に直接訊かなきゃ分からないな……。

 そして、やなはるはある無謀な賭けを思いついた。それはどう考えても、成功する望みが果てしなく薄いことだった。

 成君がどうなったのか今から確かめに行くか――。だが、私にそんなことが可能なのだろうか。今から行ったら、樹海に着くのは夜の九時頃になる。夜の樹海で一つの地点を目指しながら歩くなんて不可能なんじゃないのか。

 やなはるは口元に手を当て、落ち着いて考えてみた。

 いや、成君は自分のスマホが鳴った後、樹海に投げ捨てていた。そして、それは首を吊った地点とそれほど離れていなかった。感覚としては平坦な地面をほぼ直線的に歩いていたし、成君のスマホに電話を掛けながらなんとかそこまで辿り着ければ、可能性はあるかもしれない。どうしようか。なにもわざわざ夜に行かなくても、明日の朝まで待つという手もある。だけど、今行かないと永遠に成君とは会えないような気もする。今行かないときっと後悔するだろう。やっぱり、会って、私の過去のこととか、扇子のこととか、きちんと話がしたい。

 成君……。成君、成君、成君、成君、成君、成君、成君、成君。

 やなはるは決心した。

 会いたいなら、会いに行くのが私だ。それに、私が買った扇子は結構気に入っていたんだ。だから、あの野郎から取り返さなくちゃいけない。

 やなはるはさっき出した荷物を戻し、家の中にあった懐中電灯もリュックサックに入れた。そして、母に現金を渡した。

「ちょっと忘れ物取りに行くから、今日は戻らない。明日帰って来る」

「……いってらっしゃい」

 母はいつもの口調でそう言った。


 帰宅時と逆の順序で樹海へ向かう旅が始まった。

 北朝霞駅と隣接する朝霞台駅から電車を乗り継いで新宿まで行き、今度はチケットが買えたので新宿からは高速バスで河口湖へ向かった。

 全く、一日で樹海と自宅を一往復する時が来るとはね……。

 やなはるはもうすっかり暗くなった山間の景色を眺めながら、自分の行動に呆れていた。

 河口湖駅へ着いた時にはもう夜の九時を過ぎていた。売店でパンと飲み物をいくつか買い、駅前に戻った。

 富岳風穴へのバスはもう運行が終わっていたので、タクシーを拾う。

「風穴の入口までお願いします」

 そう告げると運転手はあからさまに心配そうな顔をした。地元の運転手なら、そこが樹海のすぐ近くということは当然知っているからだ。

「自殺志願者じゃないですよ。風穴前の売店の従業員なんですけど、大事な物を忘れてきちゃったんで、取りに行きたいんです」

 我ながらいい加減な嘘だなと思ったが、運転手はしぶしぶ出発してくれた。

 走り始めて数分してから運転手が訊いた。

「忘れ物って、何なんですか?」

「スマホと……あと、扇子です」

「扇子?」

「お土産なんです。大切な……友人からの」

「はぁ、そうですか……」

 運転手はそれ以上何も訊かなかった。そして、目的地に着くまで会話のないまま走り続けた。


 富岳風穴の近くに到着し、代金を支払った。

「ここで待ってましょうか?」

 運転手が訝しげな表情で言った。

「いえ、ちょっとやることがあって時間が掛かるので結構です」

 そう言うと運転手もとうとう諦めたようだ。タクシーは去り、やなはるは誰もいない夜道に一人取り残された。月の光が世界をほのかに照らしている。

 懐中電灯のスイッチを入れ、歩き出した。


 森の中へ入ると濃密な暗闇に包まれた。しかし、まだ遊歩道の上だから、自分がどこを歩いているのかは分かる。遊歩道から外れる地点までは、今朝来た時と同じように辿り着けるだろう。

 樹海は相変わらず沈黙を守り、気温もそれほど低くないはずなのにどこか肌寒い。やなはるは光と音のない道に足を取られないよう、慎重に歩を進めた。

 ほどなくして、成とやなはるが遊歩道から外れた立ち入り禁止の看板がある地点に着いた。ここまでは道を辿って歩いただけであったが、ここから先は道なき道を進むことになる。やなはるは方位磁針で慎重に方角を定め、歩き出した。

 平坦な地面であっても木は不規則な位置に生えるため、どうしても歩き易い箇所と歩きづらい箇所の差がある。方角に注意しながら、歩き易い道を行けば、ある程度は近いルートを行けるはずだ。しばらく歩いたら電話を掛け、まずは成のスマホを見つけなければならない。こんな耳障りなくらいに静かな場所であれば、スマホの着信音も多少は響くだろう。

 やなはるはそんな藁にもすがるような戦略書を頭に描きながら、目の前の暗闇に目を凝らしていた。

 遊歩道から外れて二十分程経ったところで、一度成のスマホに電話を掛けてみた。画面を見ているとちゃんと相手に発信していることが分かる。どうやら、まだ故障したり電源が切れたりはしていないようなので、ホッと胸を撫で下ろした。

 スマホを顔から離し、どこかで成のスマホが鳴っていないか聞き取ろうとしてみる。しかし、聞こえるのはどこまでも無機質でソリッドな静寂と、それとは対照的な小さな風の音だけだ。フィクションのキャラクターのように、遠くの音を聞き取る能力はやなはるには備わっていないようだ。

 諦めて電話を切り、再び歩き出した。あとは、歩いては電話を掛け、歩いては電話を掛け、を小刻みに繰り返すだけだ。これで何も見つからなければ一度撤退した方がいいだろう、やなはるはそう決めた。

 しかし、いくら電話を掛けながら歩いて行っても、状況は一向に変わらなかった。やっぱり無理だったか、とやなはるは諦めかけた。今日は移動ばかりであったから疲労も蓄積している。それに、これ以上進めば戻るのが不可能になるかもしれない。

 最初に電話を掛けてから二十分経ったところで、一度立ち止まった。成のスマホを見つけるのが困難だと分かったのもあるが、それより、これ以上先に進むことが恐ろしくてたまらなかった。まるで、巨大な怪物の腹の中を歩いている気分だ。時間が経てば怪物に消化されて、この暗黒と同化してしまうかもしれない。

 成君……。

 やなはるは目を閉じて、成の顔を思い浮かべた。

「なるーっ!」

 大声で叫んでみた。この闇の向こうまで届くようにと。

 しかし、何も起こらなかった。生きていた成に声が届いて、呼び返してくるというような奇跡も起こらなかった。やなはるの叫びは巨大な暗闇に飲まれ、無に帰った。存在するのは静寂と懐中電灯の光だけだ。

 やなはるはそこで、もう完全に諦めることにした。どうせ駄目元だったんだ、無理ということが分かっただけでも良かったじゃないか、そう自分に言い聞かせた。

 方位磁針を確認し、今度は北に向かって歩き出した。

 樹海を出る頃には何時になっているだろうか。まあ無人島じゃないんだから、樹海さえ抜ければどうとでもなる……。

 疲弊した体をなんとか動かしながら、ゆっくりと歩いて行った。


 引き返してから五十分経ったところで、おかしいと思い始めた。往路より長い時間歩いているのに、樹海から出られる気配がなかった。

 スタートと同じ地点じゃなくても、北へ向かって歩けば道路か遊歩道のどこかに辿り着くはずなのに……。もしかして迷ってしまったのか。

 やなはるは焦り始めた。さすがに甘く見すぎていただろうか、と冷や汗を掻いた。どの方向を見ても同じ景色で、気が狂いそうになる。この世にこれほど絶望的な景色があるとは知らなかった。

 私はこんなところで野垂れ死ぬのだろうか。

 歩いても歩いても、どこにも辿り着かない。それどころか、歩けば歩くほど深みにはまって、自分が現実世界から遠ざかっていくような気がした。懐中電灯で暗闇を射抜いても、その先には何も見えなかった。

 これが闇だ、とやなはるは思った。

 アニメやテレビゲームでよく闇という言葉が使われるが、あんなのは本来の意味じゃない。闇という言葉が一人歩きしてるだけだ、闇って言いたいだけだ。本当は、闇っていうのはを指すんだ。部屋の照明を消すのとはわけが違う。これが本物の闇だ。

 それから、どれほど歩いても状況は好転しなかった。同じところをぐるぐる回っているような気さえした。

 もしかしたら、私は助からないかもしれない、やなはるはそう思い始めた。

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