第二十七話 生かすための罠

 土の匂いと草の香りが鼻孔をくすぐる。

 吹き抜ける風が木々を微かに揺らしている。

 空気は母親の胎内のように温かい。

 どうやら自分は子供のように眠っているみたいだ。

 夏の光が眩しくて、瞼を開くことができない。

 この夢は永遠に終わらないようにも思えた。


 成は目を覚ました。眩暈がするが、視界が徐々に開いていく。腰を地面に打ったらしく、鈍い痛みがまだ残っていた。首が締め付けられるような感覚があり、思わず顔をしかめる。

 仰向けになったまま頭上を見ると、木の枝にロープがぶら下がっていて、それが途中で切れていることが分かった。どうやら自殺に失敗したようだ。

 こんなロープでも切れるなんてな、となぜか他人事のように思った。そして痛む腰に鞭を打ち、何とか起き上がった。

 まさか首吊りに失敗するとは……。俺はどれくらい気絶していたんだろう。

 成はポケットに手を突っ込んだが、スマホはもう捨ててしまったことを思い出した。空を見上げたが、日の当たり具合は首を吊る前とほとんど変わらないように見えた。

 まあ、気絶していたのは数分程度なのかもしれない。こうして生きているということは、首を吊っていたのはほんの数十秒なんだろう。そういえば、渚が「首吊りで失敗すると後遺症が残ったり、植物人間になってしまうこともある」って言ってたっけ。新宿の喫茶店でそんな話をしたのが随分昔のことのように思える。実感としては何も変わっていないと思うけど、自分で気付いていないだけで、本当は脳細胞が死んで別人のようになっているのかもしれない。

 成は自分が失禁していないか確認したが、災厄は免れたようだ。そして痛んだ首を捻ると、まだ自分の首にもロープが巻かれていることを思い出した。

 途中で切れたロープを首から外して、切れ目の部分を見てみる。すると、鋭利な刃物で切れ目を入れた痕跡があった。

 ロープを用意したのは渚だ。そのことに思い当たったところでようやく、渚がいなくなっていることに気が付いた。

 渚はどこへ行ったんだろう。俺の自殺に立ち会って、満足して先に帰ったのだろうか。それとも、気が変わってこのロープを切断したのだろうか。

 成はもう一度ロープの切れ目を見た。

 いや、首を吊った後に切断したのなら、断面全体が刃物で切られているはずじゃないのか。この切れ目は、一部だけ刃物で切って、残りの部分は重さに引っ張られて千切れたような感じだ……。つまり、どういうことなんだ?

 成はしばらく考え、ある結論に至った。

 首を吊った後に切ったのでないのならば、この切れ目は予め入れてあったことになる。渚はきっと、俺が生きようとして足掻いたらロープが切れるようにしたのではないのだろうか。俺がすんなり死を受け入れていたら、ロープは切れなかったのかもしれない。渚は、本当は俺に生きてほしいと思っていたのか?

 成は自分が首を吊る前に見た渚の顔を思い出した。

 あいつは俺が首を吊る直前に涙を流していた。もしかしたら自分の心を取り戻していたのかもしれない。

 成は背後の木に寄り掛かり、目を閉じた。

 そして、ふと自分も渚の持ち物に仕掛けをしていたことを思い出した。昨晩、ケイトとの電話を終えたあとのことだ。

 しかし、それは仕掛けというほど巧妙なものでもない。仕掛けというよりは“想い”と表現した方が適切であろう。

 まあ、俺のは回りくどすぎて意味分かんないだろうなぁ……。

 成の抱えた想いは樹海の木々の間をふわふわと漂い、時間だけがむなしく過ぎていった。

 たとえ何も分からなくても、成は今からある決断をしなければならない。それは、自分がこれからも生きていくのか、それともここで死ぬのか、そういう二択だ。

 死ぬことは簡単だ。切れたロープを固く結んで、もう一度首を吊ればいい。もう切れ目はないから失敗することもないだろう。さっき首を吊った時のことを思い出すと、相当の覚悟は必要だが。

 切れたロープの断面をじっと見てみる。そして、もう一度渚の顔を思い浮かべた。

 俺達はお互いを、生かすための罠に掛け合ったのだろうか。生きていてほしいとお互いに想い合えたのだろうか。

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