第二十二話 続 カルミア・ラティフォリア

 ベランダで首を吊ったやなはるを見つけた渓人は、数秒間呆然自失していたがすぐに我に返った。心臓が早鐘を打ち、今にも叫び出しそうになった。

 パニックになりながらも、まずやなはるの脈を調べることにした。やなはるの左手を持ち上げ手首を親指で押さえると、脈を打っていることが確認できた。続いて口元に手を近づけると、小さく呼吸をしていることが分かった。

 助かった、と渓人は思った。そして、やなはるの尻が床面に接していて、ロープの張力があまり強くないということに気付いた。きっと意識を失った後すぐに尻が床まで下がり、首吊りに失敗したのだろう。ハサミで慎重にロープを切断した。

 少し迷ったが、救急車は呼ばないことにした。事情を説明すれば、警察が介入することになる。極力それは避けたかった。

 渓人はやなはるを自分のベッドまで運んだ。首にロープの跡が微かについていたが、その他には異常は見られなかった。

 ベッドで横になっているやなはるの顔を見て、渓人は自分がどれだけやなはるのことを好きだったかということを思い知った。やなはるが生きていることを確認できた時は心の底から嬉しかった。今までの人生の中でこれほど救われたことはないというくらいに。

 やなはるが何故首を吊ったのかは分からないが、わざわざ自分の部屋で首を吊ったのだから、きっと自分に原因があるのだろうと推測した。

 確かに最近の僕の態度には問題があった。やなはるが目覚めたら、それについては謝って、二度とこんなことをしないように話をしよう。

 でも……と渓人は思い直した。

 その程度のことで自殺するなんて、いくらなんでもおかしい。やっぱり、首を吊る前に何か特別なことがあったんじゃないのか?

 今は何も分からない。が、ひとまず椅子をベッドの前まで運び、それに座ってやはなるの意識が回復するのをひたすら待った。


 朝になった。渓人はいつの間に眠ってしまっていたが、カーテンの隙間から洩れる朝の光に照らされて目が覚めた。そして、すぐに違和感に気付いた。

 昨夜、渓人は椅子に座っていたはずなのに、今はベッドの上で布団にくるまれていた。しかも、渓人が座っていたはずの椅子にやなはるが座っていた。

「おはよう」やなはるが平坦な声で言った。

「やなはるっ!」渓人は飛び起きた。

「やなはる大丈夫か? なんであんなことしたんだ?」

 やなはるの肩を掴んで矢継ぎ早に問い掛けたが、やなはるは淡々とした口調で答えた。

「渓人の部屋であんなことをしてごめんなさい。もう大丈夫だから」

「僕の方こそ、ごめん。やなはるがあんなことしちゃったのは、きっと僕が悪いんだよな?」

「理由は話せないけど、渓人のせいじゃないよ。でも……」

 やなはるは一呼吸置いた。

「もし渓人が何かを許してほしいと言うのなら、私は許すよ」

 やなはるの声は明瞭であったが、何の感情も込められていなかった。その目は渓人の方を見ていたが、何も見てはいなかった。同じ人物であるはずなのに、今までとは顔付きも話し方も別人のようになっている気がした。

 やがて、やなはるは黒いジャケットを着て渓人の部屋を出て行った。結局、首を吊った理由は最後まで教えてくれなかった。もう、やなはるとはこれで終わりなんだろうな、根拠はないが渓人はそう予感していた。

 時計を見ると、朝の七時になっていた。テレビをつけ、食パンをかじった。ニュース番組はいつものように昨日の出来事を報道し、食パンはいつものように食パンの味がした。


 それ以降、やなはるから連絡が来なくなり、渓人の方からも連絡しなくなった。渓人にとって、やなはるはもう自分が触れてはいけない、遠い存在になってしまったような気がした。渓人の心の中には、あの夜のベランダの光景だけが楔のように打ち付けられていた。

 やなはると復縁することは諦め、目の前にある日々を淡々とこなした。就職先は中堅どころの銀行の営業職に決まり、後は経済学部のゼミの課題を片付けたり、卒業論文の準備をしたりするだけとなった。平凡かつ退屈、しかし正常な学生生活を穏やかに過ごした。

 しかし、ある夏の日、突然訪れる夕立のようにそのメールは届いた。やなはるが渓人に会いたいと連絡を寄越してきたのだ。

 正直なところ、喜びより不吉な予感の方が勝っていた。今頃になって一体何を話すと言うのだろうか。そんな不安を抱えたまま、やなはるが指定した新宿駅東口方面にある喫茶店を訪れた。

 そこでやはなると会った渓人は更に驚愕することになった。やなはるのトレードマークであった、胸まで伸びていた黒く美しいストレートの髪は肩の高さまで切り揃えられ、狐の尾のような明るいブラウンに染まっていた。ファッションや化粧も、社会人に相応しい清楚で落ち着いた装いから、大学生のような若々しい風貌に変わっていた。しかし、決して無理をしているという感じではなく、持ち前の容姿端麗を最大限に活かし、そのようなファッションを完全に自分のものにしていた。

 それに、今のやなはるは何か得体の知れないエネルギーで満ち溢れているような気がした。渓人があの日からやなはるに持っていた印象が、「別人のようになっている気がする」から「別人になった」に昇格した。

 しかも、話を聞くと、やなはるは小説家を目指すために会社を辞め、今は風俗店で金を稼いでいるとのことだった。これには渓人も絶句した。やなはるが勤めていた会社は日本人なら誰でも知っている程の電機メーカーだった。娘がそんな会社に勤めていて、両親も鼻が高かっただろう。いくら仕事が忙しいとはいえ、小説を書くためだけに辞めてしまうなんて、とても愚かなことのように思えた。それに、渓人には一度もセックスをさせなかったやなはるが、風俗店で働いているということも信じられなかった。

「それで、本題というか、お願いなんだけど」

 ブラックコーヒーで一息ついたやなはるが切り出した。

「とりあえず私の第一の目的は小説家になるというか、小説を書くことなの。それも沢山の。しかし、残念ながら一つ懸念事項があってね。母が認知症になりそうなんだ」

 渓人は似たような相談を前に受けたような気がしたが、すぐに思い出した。それは、やなはるが首を吊る前、やなはるの友達の父親が脳梗塞になったと相談された時だ。

 まさかな、と嫌な予感を抑えることができなかった。

「それで、認知症になったら私の目的の障害になるからさ。非常に申し訳ないんだけど、母には死んでもらうことにしたんだ」

 すぐに「まずい」と思った。やなはるが言っていることもそうだが、これは渓人が以前彼女に電話で言った「親を介護しなくて済む方法」そのままだった。

 店内は空調が効いているのに体が汗ばんできた。

「まあ父もいるんだけど、入院してるし、そのことはとりあえず後回しでいい。とにかく、何も殺そうとか、そんな野蛮なことを考えてるわけじゃないの。……。母には自殺をしてもらおうと思うんだ」

 ? 渓人の頭の中に疑問符が浮かんだ。

「別に母に暴力とか嫌がらせとかをして自殺に追い込むことはしないよ。親だからね。母にはあくまで自主的に自殺をしてもらう」

「どうやって……?」

「方法は幾らでもあるんだけど、面白い方法を思いついたの」

「面白い方法だって?」

 渓人は眉をしかめた。

「小説だよ。『小説を書く』と『母が死ぬ』を同時に達成するんだ。その小説には私と母にしか分からない呪詛の言葉が散りばめられていて、それを読みながら私と生活している内に、居ても立っても居られず自殺をしてしまう。そんな小説を書けばいい」

 そんなことが可能なのか? 渓人にはやなはるが何を言っているのか理解できなかった。なんでやなはるはこんな風になってしまったんだ、と目の前が真っ暗になった。

「それで、僕にお願いというのは?」

 とりあえず、やなはるの話を最後まで聞くことにした。

「順を追って話すよ」

 そして、やなはるは奥中成という男と出会ったことについて話した。風俗店の客として来た成が、やなはるのために自殺すると提案したこと。彼の話から、母親を小説で自殺させるというアイデアを思い付いたこと。自殺の方法を二人で考えたが上手くいかず、別の場所で出会ったキオとミチコも連れて自殺旅行に行こうと思っていること。

 渓人はレモンスカッシュを飲みながら話を聞いていたが、さっぱり味がしなかった。味がしないのは喫茶店のせいなのか、それともやなはるのせいなのかは分からなかった。

「自殺旅行?」

「そう、そのメンバーで一回集まって話をしようと思うんだけど、上手くいきそうだと思ったら、皆で旅行に行きたいと思ってるんだ」

「……どうしてだ?」

「多分なんだけど成君、いざ自殺しようとしても怖くて死ねないと思うの。でも、私は成君の自殺に立ち会わなければならない。だから皆で一緒に死地へ赴くんだ」

「なあ、まさかお願いっていうのは……」

「渓人にも一緒に来てほしい」

「マジかよ……」

 渓人は頭を抱えた。

「当然だけど、渓人は自殺しなくていいし、身の安全は絶対に保障する」

「じゃあ何をすれば良いんだ?」

「ただ一緒に来て、旅が円滑に進行するようにしてくれればいい。その都度指示は出すけど」

 渓人は目を閉じて考えた。

「そして旅の最終日、成君が二十六歳の誕生日に自殺をする。私がそれに立ち会えば、私は自分の物語を完成させられるはずなんだ。それが私のただ一つの願いだよ」

 渓人は話を聞きながら、今のやなはるを表現する言葉をずっと考えていたが、やっとそれを見つけることができた。

 やなはるにはもう人間としての心がなかった。心を失くし、ただ自分の願いを叶えるだけの存在となっていた。たとえ自分以外の全てを犠牲にしても。心がないのに何かを願うというのは矛盾しているかもしれないが、とにかくそういう状態になっていた。

 そして、そうなってしまった原因は、あの日僕の部屋のベランダで首を吊ったことだろう。もしかしたら、首を吊ったことによって一時的に脳への血流が止まり、扁桃体か何かに異常が起きたのかもしれない。

 渓人にはそんなフィクションじみた推測しかできなかった。

「それで、来てくれる?」

 やなはるが期待を込めた目で訴えた。

 渓人は観念したように答えた。

「行くよ、やなはる」

 やなはるが首を吊ったことは僕にも関係している、渓人はそう責任を感じていた。それに、今のやなはるを野放しにはできないとも思った。

「あ、そうそう」

 やなはるは思い出したように言った。

「今の私は蒼井やなはるじゃなくて、『渚』だよ。それがお店での源氏名であり、私の新しい名前だから」

 渓人は何かを諦めたかのように小さく笑った。

「分かったよ、

 話が終わると二人は会計を済ませた。渓人は注文したレモンスカッシュを全部飲み干していた。

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