第11話

 3月末、ようやく退院しました。

 迎えに来た母親と一緒に病院を出ると、もう桜が咲いていた。2月になったばかりの寒い時期に入院したので、着ている服が暑かった。

 帰宅する前に寄りたいところがあるので、母親にもついてきてもらう。信濃町から御茶ノ水まで総武線で移動した。

 なぜか線路の南側だけ桜が咲いていて、北側はまだだった。

「ちょうどこの線路の上に桜前線が引いてあるんだよ」と、母親に言った記憶がある。しかし当時の父ちゃんと母ちゃんは、今の俺より若いのか!


 寄った先は神田神保町の三省堂書店。

 信濃町駅駅前の書店には、手塚治虫の本は売り切れていた。だから三省堂書店の本店まで来た。ここに無ければどこにも無いだろう。

(くどいようですが、1989年当時はAmazonはありません。ネットでお買い物なんてまだまだ先です)


 マンガ売場の階まで上がる。隅々まで見たがどこにも手塚治虫の本は無い。

念のため店員さんに訊くと、1階レジ横だと言う。

 そうかまとめて移動したわけか。ならばと1階に駆け下りてレジ前に行ってみると、そこには……


 サインペンで「手塚治虫コーナー」と書かれたA4の紙が貼ってある、天井まで届きそうな馬鹿でかい空っぽの本棚があった。


 あんなシュールな光景は、後にも先にも見たことがない。


 翌日、ダメ元で自転車を走らせ知ってる限りの古本屋を回ったけど、軒並み壊滅。入院前はあんなにあったB5版の「火の鳥」の古本、大都社発行の諸作品、アレもコレも全て街から消えてしまっていた。


 1989年春、日本全てが「手塚治虫だけがいない街」になっていた。

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