カタリィ・ノヴェルと憎悪の書物

神辺 茉莉花

第1話カタリィ・ノヴェルと憎悪の書物

 森の中、カタリィ・ノヴェル、通称カタリはいつものように道に迷っていた。早いところこの詠目で読み取り、具現化した物語を受取人の青髪の大魔術師クオンに渡さなければならないのに、くねくねとした道が続くばかりだ。

「まいったな」

 現実の書物が長い時をかけてぼろぼろになるのと同じように、詠目で読み取って具現化した物語も早くて数日、どんなに長くても数カ月で崩れてしまう。今、鞄の中にある物語も崩壊が始まっていた。

 急ぎ足で数歩歩く。

 近くの茂みが揺れた。

「あれ……」

 何かいる? そう思った瞬間、野鳥のさえずりが警戒音に変わった。

 ギュギギギギ……!

「うわぁぁっ!!」

 野犬、いや、魔犬と言ったほうが正しいか。闇よりも黒い体色に緋の目、そして鋭い爪と牙。あ、と思った時には押さえ込まれていた。物語が入っている鞄が吹っ飛ばされる。

 殺意を含んだ生暖かい吐息がカタリを襲った。首に凶牙がズブリと……

 思わず目をつぶる。

 ……痛みは訪れなかった。代わりに地面が少し揺れた。

「ねぇっ、大丈夫?」

 どうっと倒れ込んだ魔犬を押し避けて身を起こす。地面にぶつかった衝撃か、少し頭がくらくらした。

「ふわっ……ほぇぇ……?」

「あ、良かった。無事だ」

 青い長髪と、魔術師であることを示す銀のブローチ。歳の頃は十五、六か。

「もしかして……『青髪の大魔術師』クオン?」

「そうだよー」

 立てる? と、クオンはカタリに向かって手を伸ばし、人の良い笑みを浮かべた。

 ピ……チチチチ。

 難を逃れた鳥が再びささやき始めた。

 伸ばされた手を握ってほっとする。これでようやく物語を届けることができる。カタリはそう思った。



「ほんと、全然見つからなかったんですよ」

 気さくなクオンに、カタリは頬を膨らませて軽く拗ねた。

「ごめんごめん。魔犬避けに認識を阻害する魔術をかけていたんだ。家が襲われたらコトでしょ? だから、一面が森に見えるように……」

「うう……」

 しばらく唸って、はぁ、と諦めの溜息を吐く。大魔術師ともなれば魔犬だけではなく、その力を利用しようとする不埒な人も寄ってくるのだろう。欺くための自衛の策ならば仕方がない。こんな山奥にしては不釣り合いなほど大きい玄関のベルも侵入者対策か。

「まあ分かりました。で、今日ここに来た理由なんですが……」

「うん、大体予想は付いてる。『物語』を届けに来たんだよね?」

 さすが大魔術師。そう言いたくなるくらいのスムーズさで、クオンはカタリの目的を看破した。

「差出人は『救国の賢者』メイシーかな。先日殺害された……あれは本当にかわいそうだった。最期の思いを受け取るのが僕で本当に嬉しいよ」

 貰える? とクオンはカタリに向かって手を差し出した。ほっそりとしたしなやかな手だ。

「ああ、はい」

 頷きながら、カタリは微かな違和感を覚える。亡くなったのは確かだ。ではこの違和感はなんだ? あんまり悲しんでいるように見えないからか?

「んん? どうしたの?」

「ああ、いや、なんでもない」

 半ば無理やり違和感を追い払って、鞄の奥にしまい込んだ一冊をクオンに渡す。彼の髪と同じ、青に染まった表紙だ。光の角度か、きらきらとパールみたいに輝いている。

「時間が経っちゃって、少し傷んでいるけれど……」

「いいよ、大丈夫」

 クオンのなめらかな手が物語に触れる。

 よし、これで任務完了だ。これだけ綺麗な表紙だし、過去の例から見ても死の間際に遺した物語はひときわ感動にあふれている。だからきっと今回も……。

 遺された想いの花がひらく。

「ぐ……ぎゃぁぁぁ!!」

 開いたページから溢れ出す青白い光。それは物語に込められた高純度の殺意の奔流だった。大事な人に向ける思いでは決してない。

「え……?」

「ぐぅ……っ、ぐがぁぁぁ! 顔が……焼け……」

 青い髪を振り乱して逃れようとするも、青白い殺意はクオンを放そうとはしなかった。ぐぅ、とうめいて顔を押さえる。

 ぐじゃり、と顔が崩れた。押さえた指の間からぼたりぼたりと肉が剥がれ落ちる。

 自らにかけていた認識阻害の魔法が強制的にはがされたのだ。

「ひえっ……!」

 思わずカタリの口から漏れたのは恐怖の叫びだった。

「くそが……メイ、シー……! やはりとどめを、刺すべきだった。……俺がクオンになり代わっていることを知って、あいつは、ここまで読んで……」

 低い呪詛の言葉がクオンの口から発せられる。

 いや、それはもはやクオンではなかった。剥がれ落ちた仮面から、クオンとは似ても似つかぬ顔が覗く。ぎょろりとした目。分厚く、がさついた唇。頬に走る傷痕。

「殺して、やる。メイシーの思いを殺して……俺が、支配者に……!」

 マグマに似た憎悪が元、クオンの体からほとばしった。特徴のある禍々しい瘴気。

 メイシーがその生涯をかけて倒そうとした……。

「滅国の黒魔術師、ヘンリー!」

 獣に似た咆哮に、カタリの背に冷や汗がつたった。



 絶対零度に冷えたメイシーの殺意と、絶対熱に高まったヘンリーの憎悪がぶつかった。

 ヘンリーの体はすでに無数の傷でおおわれている。

 食器棚がビシビシ、ピキピキと悲鳴を上げた。あと少しの衝撃で割れることは確実だ。

「老いぼれの魔術師は……死ねっ!」

「……まずい!」

 裂帛の気合い。黒魔術師、ヘンリーが纏う憎悪が膨れ上がった。物語からほとばしる殺意を無理矢理押さえつける。

 ほんの少し、ヘンリーへ向けた殺意の光が弱まった。

「くそがぁっ!」

 また少し、光量が弱まる。

 軋む家屋。

 外ではムクドリがギャーギャーと騒ぎ立てていた。

「これで……終わりだ!」

 ひしゃげた声で、ヘンリーがメイシーの意志を力づくで押しつぶした。

 青白い光が、ふっとよじれて消える。

 一つ、ヘンリーが疲弊のこもった深呼吸をした。

 これで滅国の魔術師を縛るものはいなくなった。

「さぁ、全ての終わりを始めようか」

 ニィ、とヘンリーは底の見えない昏い笑みを浮かべた。



 数分後、カタリは後ろ手に縛られたまま、部屋に転がされていた。

 目の前には苦痛と恐怖に負けて詠み、具現化してしまった一冊の書物がある。ヘンリーの世界を滅ぼしたいという思いが込められたものだ。そして、受取人もヘンリーだ。

 つまり、世界の生殺与奪権はヘンリーひとりに委ねられているということになる。

 ふとヘンリーがカタリを見た。

「そうだ。カタリ、テメーに最初のページを開く名誉を与えてやろうか? 物語を作れるんだ。当然その物語のページを開くことも可能だろう?」

 世界中の物語を……その書き手をも救う、そういう使命を帯びた存在であると知って、あえて世界崩壊の道を選ばせる。

 そういう人物だ。このヘンリーという存在は。

「絶対……いやだ」

 横倒しになったまま、首を振る。

「へっ、意気地なしが。じゃあ俺がやってやるよ」

「駄目だ。開くな!」

 叫びは……渾身の思いで発した叫びは届かない。

 野太い指が革の表紙をめくる。

「やめろぉぉー!」

 全てを焼き尽くす地獄のフレアがほとばしった。世界に憎悪と裏切りと絶望が溢れ出す。

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 獸の狂乱する叫びが聞こえた。

 野鳥がもがき苦しみながら鳴いた。

 植物が瘴気に当てられてしおれ始めた。


 世界が「死」という一点を目指して走り始めた。


「世界はもっと明るくて暖かいものなのに……」

 カタリが呟いた。後ろで戒められた手をぎゅっと握りしめる。手首の痛みくらい、心の痛みに比べればささいなものだ。

「もうすぐ全てが終わる」

 ヘンリーの冷笑が突き刺さる。

 カタリの目にうっすらと涙が浮かんだ。

「さて、そろそろテメーの役目も終わりだ。せめて縄をほどいてから楽に死なせてやるよ。優しいなぁ、俺って」

 言うやいなや、ヘンリーはナイフでカタリの縄を切り始めた。

「さぁて……」

 ヘンリーのニタニタとした笑い。

 カタリはふらりと立ち上がった。よろめきながらも鞄を持ち、玄関まで移動する。

「逃げるのか? ああ、いいぜ。逃げるなら逃げてみろ。まあ、ラビットハントにしかならねぇがな」

「誰が……」

 下唇を噛んで、ふらつく体に気合を入れる。

「誰が逃げるかよ!」

 言って、玄関に設置されていた来訪者を告げるベルを取り外した。

 リリリー……ン。

 澄んだ音が鳴る。

「東洋の国では……」

 腰に巻いていた付箋の束を比礼に、帽子につけていたブローチを鏡に、鈴を魂を揺り動かすための道具に見立ててカタリは口角を上げる。

「こうやって、ある呪文を唱えると死者も、滅びたものも蘇るって……そう言われているんだ」

 物語のなかにはもう一本の木しか残っていない。それ以外はヘンリーの憎悪に飲み込まれてしまった。

 鈴を鳴らす。

「ひと……」

 木が、ざわめいた。 

「ふた……」

 木の上に光が差した。

「み……」

 光の下で新たな植物が育った。

「よ……」

 植物を食む小動物が集った。

「いつ……」

 小動物を狩る肉食獣が現れた。

「や……やめろぉぉぉ!」

 ヘンリーの叫び。

 それでもカタリの詠唱は止まらない。

「む……」

 男が現れた。

「なな……」

 女が現れた。

「や……」

 子ができた。

「ここの……」

 安全に暮らす住まいができた。

「たり」

 世界に、笑顔がよみがえった。

「ふるべ ゆらゆらと ふるべ」

 光が満ち、ますます輝き、幸せはさらなる幸せを呼んだ。



「本当はね、活字はあんまり得意じゃないんだ。なんで『詠み人』に選ばれたのかも分からないくらい。でもね……」

 顔をゆがめ、悔しがるヘンリーに相対して、カタリは柔和な笑みを浮かべた。

「のめり込むほど好きじゃないからこそ、何もこだわりなく相手の物語に入っていけるんじゃないかなって。こういう、世界が破滅しそうなときのために選ばれたんじゃないかなって最近はそう思ってる」

「じゃあ……破壊をつかさどる俺は消されるのか?」

 カタリはゆっくりと首を横に振った。

「小さな挫折とか、悔しい想いとか、悲しみとかは人を成長させるからね。だから……一緒に生きよう」

 木造のドアノブに手をかける。

「じゃあ僕はまた新しい依頼人に会いに行くよ。さよなら」


 ――かすかに開いた扉から、眩しい日の光がさした。


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