第三章その2

 さすが大神先生だ、テニス部顧問で体育担当だから体力も凄い。

 花崎千秋は走りながら横目で見ると、既に春菜は息苦しそうにスピードを落とし始めていた。

「ぜぇ……ぜぇ……もう無理……走れない」

「ちょっと春菜! あんた息上がるの早い!」

「だって……こんなに……長く……速く……走り続けるの……無理!」

 そうだ忘れてた! 春菜はスピードとパワーを活かした短期決戦タイプで持久戦が苦手な方だった。対する千秋は長時間のラリー戦で相手を負かすのが得意だからスタミナは春菜より遥かに上だ。

「ハハハハハハどうした花崎、桜木! 苦しそうじゃないか! そうだ! 俺がテニス部で鍛え直してやろう! それがいい!」

 追いかけてくる大神は余裕の暑苦しい笑み、二月の寒い持久走大会の時にタンクトップで先導してたほど走るのも好きな先生だ。人混みに突っ込んで逃げたいところだが、千秋も春菜も背が高い方から目立つ――そうだ!

 目立つなら逆に利用すればいい! 千秋は一緒に人混みに突っ込んで掻き分けながら手短に言う。

「春菜! ここから二手に分かれよう! 私が注意を引く!」

「どうするつもり!?」

二兎にと追う者は?」

 春菜ならきっとわかるはず、期待を込めた眼差しで先を促すと春菜は手を合わせて謝る。

「ごめん! あたし現国苦手なの! この前も赤点ギリギリだったし!」

 それで千秋は派手にずっこけてクラッシュしそうになる。

「二兎追う者は一兎いっとも得ず! 今の私たちは追われてる二匹のうさぎよ! 私が囮になって回るわ!」

 そうだ! 春菜は勉強が壊滅的に苦手で期末テストの時もひぃひぃ言っていた。

「わかった、捕まるなよ!」

 狭い路地の角を曲がると、路上に止めてあるSUVの下にスライディングで潜り込む、ほんの数秒間が長い。大神先生の走る足音が通り過ぎる瞬間、素早く這い出て立ち上がりながら叫んだ。

「大神先生! こっちですよ!」

 自分でもドン引きするほどの猫撫で声で大きく手を振ってアピールすると、大神先生は振り向きながら立ち止まる。

「花崎、捕まえて欲しいのか? 捕まったらテニス部復帰だぞ!」

「捕まってから考えます!」

 千秋は来た道を戻って逃げる、大神先生のノリのいいところに感謝しながら走る。いざ追いかけられると、肺も心臓もテニスの試合の時みたいに悲鳴を上げる。

 だけど絶対に負けられない追いかけっこだ!

 千秋は狭い路地を右に曲がり、また右に曲がり、また右に曲がるとさっきの場所に戻って交代だ。

「大神先生! あたしを忘れてないですか!」

 隠れていた春菜が挑発しながら大胆にも先生の背中にタッチすると、そのまま離脱する。大神先生は春菜を追いかけながら恥ずかしくて、熱苦しくて、クサい台詞を叫ぶ。

「忘れる訳ないだろ! お前たちがテニス部をやめたあの日から、お前たちのことを一日たりとも忘れたことなんてない! お前達! なにもSNSでテニス部復帰に×印つけることはないだろ!」

 いやそういう意味じゃねぇから! 聞いてるこっちが恥ずかしい! やっぱりバレてたじゃない! 千秋は思わず吹き出しながらドン引きする、まぁクサい台詞は今に始まったことではないが。

 追跡対象を春菜に変更した大神先生は思惑通り千秋から離れ、そして春菜は千秋が走ったルートをトレースしてまた交代してハイタッチ! 千秋はまた挑発して注意を引く。

「大神先生! 私は追わないんですか?」

「はぁ……はぁ……桜木……花崎……お前たち……まだ諦めたわけじゃないぞ……」

 大神先生もさすがに息が上がり、足取りも重くなる。千秋は春菜と目を合わせて頷き合い、一緒に走ってぐいぐいと引き離していき、振り向くと大神先生はもう追ってこなかった。

 

 気が付くと辛島公園まで来ていて、春菜は全身から汗が噴き出して肩で呼吸していた。

「はぁ……はぁ……なんとか……逃げ切ったかな?」

「これで大神も諦めてくれるといいけど」

 千秋も肺、心臓、筋肉を酷使してキンキンに冷えたスポーツドリンクをがぶ飲みしたい気分だったが、一言文句言わないといけない。

「っていうか春菜! やっぱりバレてたじゃない! ×印の写真SNSに上げたの!」

「あららやっぱりね、でもまあ意思表示はできたし伝わったからいいじゃない?」

「よくないわよ! この分だと他の先生にもバレてるわよ……高森先生に見られたら最悪よ!」

 千秋は頭を抱えると同時に心の底から楽しくて楽しくてしょうがない、千秋は自然と笑いが込み上げてきた。

「ぷっ……ふふふふふふっ! でも私さ……今、凄く楽しい……春菜の言う青春って……こういうの?」

「そうね、あたしの求めてたのって案外こういうものだったのかも……千秋はさ……どうしてテニス部辞めたの? 今更訊くのもなんだけどさ」

 春菜から唐突に訊かれると千秋は言葉に出すのが面映ゆい。だけど話さなければいけない、伝えなければいけない。

 千秋はゆっくりと段差に腰を下ろした。

「春菜がいないなら……もうテニス部にいる意味がないから」

「えっ? あたしに感化されたんじゃなくて、あたしがいないから?」

 春菜はそう言って両足を曲げて隣に腰を下ろすと、千秋は重い口を開いた。

「私さ……昔から勉強も運動も苦手で、思ったことをハッキリ言えない子だったの覚えてる?」

「確かに……中学で出会ったばかりの頃の千秋、結構大人しい子だったね」

 春菜は懐かしそうに夜空を見上げながら言うと、千秋は頷いた。

「うん、あの頃から春菜は春菜だった。みんなに好かれて、気さくで明るくてかっこよくて、自分の考えはハッキリと口にして、一度決めたことは最後まで貫いて、私には凄く眩しかった……だからテニス部に入ったの」

「中学で中体連に出場して、高校でもダブルス組んで時には競い合って……あたしのライバルと呼ばれるくらいになって、千秋本当に成長したね」

 春菜は感慨深そうに見つめるが、千秋は俯いて両手を握りしめる。

「違う……そんなのじゃない」

「千秋?」

「……私は春菜のライバルじゃない……本当はこうやって……一緒に遊んで馬鹿やったりしたかった!」

「遊んだり馬鹿やったり……ライバルじゃなくて……友達?」

 春菜は察して言葉にすると、千秋は唇を噛んで頷いた。

「そうよ! 春菜が部活辞めて夏海と一緒になったと聞いた時私、夏海に嫉妬してた! どうして私じゃなくてあの子なのって! そう思う自分が凄く嫌いで、春菜の友達になる資格なんかないって……それでも私、春菜になにかできることをしようって……だから、マーク・フェルトを名乗ったの!」

 目頭が熱くなる、ここで泣いては駄目だ。春菜を困らせては駄目だ!

「あの日……私に手を指し伸べてくれた夏海が守屋さんを引っ叩いた時、春菜が気にかけていたのがよくわかったわ……夏海は本当は強くて、とても優しい子なんだって……でもそれと同時に自分がいかに器が小さいか思い知らされたの……」

 沈黙が流れる、もしかすると嫌われたのかもしれない。それでも千秋には構わなかった、このまま後ろめたさを背負って接して生きるくらいなら、いっそのこと――唇を噛むと春菜は大きく溜め息吐いた。

「はぁ……千秋……そんなに自分を卑下するなよ。それにお前、難しく考え過ぎ――」

 春菜は面倒臭そうな表情で言った次の瞬間、爽やかな眩しい笑顔に変わった。


「――あたしたちさ……もうとっくの昔に、友達じゃん!」


 春菜の口から「友達」という言葉に千秋の心の器に嬉しさが溢れ、大粒の涙が溢れさせる。

「うっ……冬花も言ってた……でも……やっと……やっと……わかった……私はただ……春菜に……友達だって言って欲しかった……ただ、それだけだった……」

 千秋は堪えきれずに声を上げて泣き、春菜は柔らかな笑みで背中を優しく叩く。

「泣くなよ……大事な試合で負けても泣かなかったくせに!」

「だって……だって……うう……凄く……嬉しかったのよ……嬉しくて……止まらないのよ」

 千秋は溢れ出る涙を拭いながら、冬花の言葉を脳裏に浮かべる。


――素直な気持ちを伝えるのって一番難しいもんね


 冬花、素直な気持ちを伝えるのは難しい……だけど、伝えなきゃ何も始まらない、だから! 千秋は春菜の両手を握って改めて思いを言葉にした。

「春菜、改めて言うわ! 私は春菜と――いいえ、みんなと夏休みをちゃんと夏休みしたい! そしてみんなで一緒に……彗星の夜空を見上げたい!」

「うん、勿論!」

 春菜は頷く、私たち六人でたった一度の八月三一日の夜空を見上げるんだ!

「花崎、お前も悩んでたんだな。桜木、本当に素晴らしい友達を持ったな……先生凄く嬉しいぞ!」

 大神先生はいつの間にか二人のすぐそばで、人目を憚らず豪快に男泣きしていた。

「「えっ!?」」

「花崎、桜木、今のお前たち二人なら……どんな強豪校のライバル達にも勝てるぞ!」

 千秋は一瞬で寒気で背筋が凍り、次の瞬間には春菜と一緒に仲良く男子が聞いたらドン引きする程の汚い声で絶叫しながら全速力で逃走した。

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