010.純粋なる交わり




 カムニエは自分に与えられた部屋で、適当にぶらぶらと過ごしていた。ベッドは新品で奇妙な臭いもなく、破れてもいない。夜になっても明るい部屋があり、服と自信をもって言い切れる綺麗なワンピースを着ている。命を脅かす何者も存在せず、ぐっすりと思うままに眠り、好きに行動出来る。

 たった一日前と比べれば随分な進歩であった。


 彼女もやはり疲れてはいたが、それを凌駕する程に空腹だった。

 もう夜であり、夕食の時間だ。ウカナでは空腹を堪えつつ夜を明かした事も多かったが、今は食料が周りに沢山存在する。特にここのパンフレットに書かれていた様々な料理は、彼女の腹の虫を盛大に刺激した。昔は我慢して眠れていたが、そのひもじい生活の反動か、今は少しお腹の自己主張が激しかった。

 お腹が空いて堪らないが、彼女は金を持っていないし、わざわざ頼みに行くのも申し訳なさからはばかられたので、腹の音をBGMにベッドの上をころころと転がっていた。


「……お腹空いたなあ」


 空腹の紛らわしに、カムニエは今日出会った三人の事を思い返した。


 淡々として何処か怖い様でいて、実は優しい灰色髪のお兄さん。


 顔は何だか優しそうだが、実はとても恐ろしい金髪のお兄さん。


 大怪我をしていたのにとても凛としていた、とても頼もしくてちょっと強がりなリンお姉さん。


 三者三様だが、彼らは全員カムニエの恩人だ。


 特に金髪のお兄さんについては、彼が居なかったら彼女は今ここに存在しないだろう。恐ろしいが、確かに一番の恩人なのだ。

 そこで気付いた。


「私、リンお姉さん以外の名前知らないや」


 いや、正確には知っている。彼らはお互いを名前で呼びあっていた。

 灰色の髪のお兄さんがフェン、金髪のお兄さんがキーラだ。

 しかし、彼らはカムニエに自身の名を告げる事がなく、なので彼女も名を呼ぶのを躊躇していた。

 特にキーラは、カムニエに全く興味が無い所か、邪魔者とさえ思っている節がある。カムニエとちゃんと名乗ったのに、呼び名は「ガキ」だ。彼は確かに一番の恩人だが、一番性格に問題があった。


 そこでふっと気付いた。カムニエは頭を抱えた。


「ううー、怖い……」


 彼女はグーグー鳴るお腹を押さえながら、ふかふかのベッドの上を転げ回った。

 しかし、決意を秘めた目を開き、一人で宣言する。


「お礼を言いに行こう!」


 その青い瞳は純粋な輝きに満ち溢れていた。

 フェンやリンにはお礼が言えたのだが、キーラの恐ろしい雰囲気の前には、涙目になって全く言葉が出て来ない。結局、今までカムニエはキーラにお礼の言葉を伝えられていないのだ。

 実際にキーラがお礼の言葉に相応しい人間かはともかくとして、助けられているのだ、礼は言わねばならない。気付いたら、もう無視など出来ない。以ての外である。

 カムニエは生来の道徳心から、恐ろしいキーラへお礼を言いに行く事を決意した。

 怖くとも、やらねばならないのだ!


 カムニエは部屋を出て、下へ向かう事にした。決意しても怖いものは怖いので、フェンの部屋の扉を一度叩いてみたが、反応は無かった。

 哀れ、カムニエはたった一人でキーラという怪物に礼を言いに行かねばならなくなったのだ。しかし、勇気ある彼女はエレベーターで一階へと向かった。


 一階のロビーを恐る恐る覗き込むと、既にキーラの姿は無かった。カムニエが部屋で過ごしている間に結構な時間が経っていたので、さもありなんだ。

 カムニエは少しの残念に思う気持ちと、結構な量のホッとした気持ちを感じながら、どちらかというと安堵の溜息を吐いた。


「一人か、何やってる」

「うきゃあああああ!」


 突如背後からかけられた声に、カムニエは天井まで飛び上がるかと思えるほどの大ジャンプを記録した。余談だが、舞い上がったワンピースから除くパンツは白色だったらしい。


「ハハハハハ、いいジャンプだな」

「うひゃあ!?」


 舞い上がったカムニエは、すっぽりと大人の鍛えられた腕に抱かれた。間近には金髪のにやりと笑った顔がある。カムニエは心臓が飛び出るほどに驚いた。落ちてくるカムニエをキーラが上手くキャッチしたらしい。


「それ、もう一度だ」

「わひいいいいい!」


 カムニエはシャンデリアスレスレにまで放り投げられ、かなりの高さからロビーを見下ろした。幸いにもロビーにはどこにも人の気配がなく、カムニエ達のとんでもない遊戯は誰にも目撃されることは無かった。しかし、それは裏を返せば止めてくれる人間がいないということであった。


「ひえええええ!」

「にゃああああ!」

「わあああああ!」


 何度も投げられ、二、三度天井に頭をぶつけられた後、飽きたのか、カムニエは首根っこを掴まれて懐かしき大地に下ろされた。


「ぜえ……ぜえ……ふぅ」


 カムニエは四つん這いになって息を整え、顔を上げた。キーラはジロジロとカムニエを眺め回しており、その視線に遠慮は一切無い。キーラの碧眼は底冷えするような輝きを放ち、何もかもを見通されるようなゾッとする瞳だった。

 カムニエは恐ろしさに腰が震え、あと一歩のところで垂れ流しそうだった。幸いにもキーラの視線が彼女の上から離れたので、尊厳を失うピンチは逃れることができた。


「腹が減ったな」


 キーラの言葉は独り言か、彼女への呼びかけかは分からなかった(十中八九独り言だろうが)。しかし、言葉の意図にかかわらず、カムニエの腹の音は盛大なコーラスを奏でた。空腹の条件反射のようなものだ。その大きな音は、キーラが再度目を向けるほどのものだった。


「随分とひもじいみたいだな」

「う……その、昼から何も食べていないので」


 カムニエが照れながらそう言うと、キーラは「よし、ついてこい」と言って、歩き始めた。


「え、え?」

「何だ、来ないのか? 別に構わんが」


 そこに至って、カムニエはキーラが食事に連れて行ってくれるのだと気付いた。余りにも意外な出来事だったので、カムニエの脳は茫然とフリーズしていたが、意識をすぐに取り戻すと、急いで服装を整え、さっさと歩いて行ってしまうキーラに追随する。


「あの……」


 小走りでキーラの隣を歩きながら、感謝を伝えようと口を開いた。しかし、キーラは口を開きすらしない。自分から誘っておいてこれである、カムニエは心が折れそうになった。

 だが、この位の反応は一応予想していたので、カムニエは言葉を続ける。流石にこの近さでは、聞こえていないということは無いだろう。


「助けてくれて……本当にありがとうございました。あなたのおかげで、私は救われました」


 言ってしまってから、カムニエはチラと横目でキーラを見上げた。お礼を言って気分を害すとは思えないが、彼の行動や考えは全く予測できないのだ。

 カムニエの視界に飛び込んで来たのは、キーラの阿保を見るような目だった。何を言っているんだこいつは? と言わんばかりの、心底訳が分からないものを見るような。


「助けた……?」


 彼は自分がカムニエを連れてきた事を完全に忘れていた。もはや思い出す価値もないのか、これほどはっきりといわれているにも拘わらず、何も思い出す気配がない。結果としてカムニエは、意味不明な戯言をほざくガキ、とキーラの中で思われてしまった。尤も、その評価すら明日の朝まで覚えているか怪しいものだが。

 可哀想なカムニエ、彼女のお礼はキーラのあらゆる何かに響くことは無く、逆に彼女の印象を損なう結果となってしまった。ここまでいくと、何故キーラはカムニエを連れてきたのだろうか、とすら思うだろう。大体は気まぐれのせいである。


 それからカムニエは、キーラがどこかしらの店に入るまで、地獄のような空気を味わい、涙目になっていた。勇気を出して礼を言った結果がこれとは、あんまりである。彼女の中で、キーラへのトラウマがまた一つ増えてしまった。




 ◆




 キーラが入ったのは、大衆食堂の様な風貌の、夜の空気にひっそりと灯りを照らしている店だった。店内は拡散した深い駱駝色の光がぼんやりと灯り、静かな客が二、三人だけ、カウンターでこちらに背を向けて色付きのグラスを傾けていた。店員は「あちらへどうぞ」と一つのテーブルを指し、カムニエはおずおずと、キーラは傲然な態度で黒と白の混ざったアンティーク椅子に腰かけた。


「オーダーは?」

「『コズミキア』のボトルとヴィッテチーズ。あと氷だ」

「かしこまりました。お嬢様は如何いたしましょう?」

「あ、えっと……」


 カムニエはメニューに目を通しながら、あせあせと考える。メニューを見る限りでは、ここは酒場である。結構な量のメニューが酒であり、つまみなどで一ページ以上埋まっている。彼女は酒が飲めないので、ページを飛ばして小料理の欄を見た。


「あっ、これ、『タランジャ』ください」


「タランジャ」はこの辺りの地方ではポピュラーな料理で、香草を混ぜたいわゆる肉団子である。カムニエにとっても見知った料理であるので(とはいっても一年以上食べていないが)、安心して頼めた。自分が頼んでいいのかと思ったが、キーラは欠片も気にしていないようだった。キーラから誘ったので普通に考えれば当たり前だが、そんな普通が彼には通用しないのだ。

 金は自分で払え、と言われるかもしれない。彼女はそんな失礼だが有り得なくはない想像をし、もしそうなったらどうしよう、と一人で勝手に震えた。

 店員は去り、テーブルには二人だけが残される。カムニエは彼相手に口火を切ろうとは思えなかったし、キーラは欠伸交じりにデバイスを眺めていて、カムニエのことなど全く意識外の様子だ。結果として、このテーブルは心臓の音さえ聞こえてきそうな沈黙が支配したのである。しかし、それは動悸の激しくなるような辛い沈黙ではなく、どこかのんびりしたものだった。


 チッチッ、と壁掛け時計の秒針の音が空気を揺らしている。テーブルの木目の一つは目玉のように大きく、黒々とした瞳孔と歪な虹彩で、冷然と天井を見つめていた。カウンターで背を向ける者たちはカムニエ達に気付いているのかいないのか、ただひたすらグラスの中の酒を飲み干し続けていた。ただ流れるように自然に溶け込んだBGMだけが、時間の流れを耳に教えてくれた。それも注意しなければ聞き逃してしまうほど、この店に馴染んだ緩やかな存在だった。

 総じてこの店は静かであり、まるで時間の流れがのろまになったようにゆったりとしていた。ぼんやりと薄明かりじみた電灯は、今が昼か夜なのかすら曖々然あいあいぜんとさせる。この空間の異常に優しい空気は、カムニエのキーラに対する怯えすらも時間とともに溶かしていった。少なくとも今は、キーラの雰囲気は恐ろしいものではなかった。

 やがて、テーブルにはウィスキーのボトルとチーズ、皿に乗った暖かなタランジャが運ばれてきた。時の安寧に浸っていたカムニエは、余りにも唐突なそれらの料理に驚き、まだ注文から十分も経っていないという事実に驚いた。彼女の感覚では、既に一時間経っていても不思議ではなかった。むしろ、数分しか過ぎていないことの方が変に感じた。


「ああ、これだ……」


 キーラは店員の手によって、ボトルから光を乱反射させて輝く琥珀色の液体が注がれるのを、どこか優し気に見守っていた。氷がカランとグラスの中で動き、甲高い音を立てる。その音は彼にどのように聞こえているのだろうか。きっと、世界最高のオーケストラにも負けぬ甘美な音色に違いない。ウィスキーの芳醇ながらも鋭い香りがテーブルに広がる。

 キーラはグラスを手に取ると、ゆっくりと口元に引き寄せ、そして一気に飲み干した。その顔はリラックスしているのが手に取るように分かり、どこか艶気を振りまいている。その人間の変わりように、カムニエは目を丸くした。


「最高だな……」


 キーラは「ふぅ」と息を吐くと、二杯目のウィスキーをグラスに注ぎ、またも飲み干す。アルコール中毒かつ、大の酒好きな彼にとっては、酒を飲み干す瞬間が何よりも幸せなのだ。チーズをつまみ、口の中に濃厚な味わいが広がる瞬間など、堪らない。そして更なる酒を流し込む時、彼の脳内にはスパークが飛び散るのである。


「あむっ」


 カムニエも、丸々と大きく香り高い肉団子を、フォークで小さく切って、口いっぱいに頬張った。染みた辛みのあるタレの味と、肉の汁が口内に広がり、彼女はその美味しさにへにゃりと顔をほころばせた。夢中になって食べ、あっという間に皿は空になる。


「おいしいです!」

「ああ、素晴らしい……これが生きるということだ」


 キーラは既にボトルを殆ど飲み干していた。「コズミキア」はアルコール度数49パーセントのモルトウィスキーで、口当たりの強さが特徴的だ。他の同度の酒と比較しても、味わいとしてはかなり強めに感じる。これをすぐさま空にするあたり、彼はかなり酒に強い。尤も、それ以上に飲み明かし、結局は酔うのである。


「追加で『ウォルトン』ボトル。『エネックス』も適当な時期に持ってきてくれ」

「かしこまりました。何か追加のお料理は?」

「ナッツチップとスモークシュリンプ。チーズも同じのを」

「お嬢様は?」

「えっと、『フィンカルド』と『リスピー』を……いいですか」


「フィンカルド」はトマトやナス、レタスなどを使ったサラダであり、「リスピー」は豆入りのトマトスープである。どちらも彼女の好きな料理だ。

 カムニエの伺うような言葉に、キーラは「好きにしろ」とだけ答えて、グラスに残った最後の酒を飲み干した。


「あと、オレンジジュース……」

「かしこまりました。少々お待ちください」


 BGMは丁度新たな曲に変わった。広がるようなハープの旋律が、店の中を浸すように流れていく。この間のあるとろんとした静寂が、カムニエを安らかな気分へと誘った。もう彼女は目の前の男を恐ろしいと思うことは無かった。

 彼女の顔は花の咲くような笑顔に満ちていた。キーラは一瞬その美しい微笑みと青い瞳を目の端に捉え、思わず口を開いていた。


「カムニエ」


 呼ばれた少女は少しきょとんとしていたが、にっこり笑って答えた。


「はい、何でしょう、キーラさん」


 悪くない、と彼は思った。少しばかり長い気まぐれが彼の瞳に煌めいた。彼は中身が空のグラスを指先で転がしながら、口の中で呟いた。


「よし、カムニエ、カムニエだな。ようやく覚えた」

「やっぱり今まで覚えてなかったんですか……」

「今覚えた」

「忘れないでくださいよー」

「それは知らんな」


 彼らは飲み、食い、心地よく話し、夜深くまで過ごした。彼らの始まりはこの小さな街の片隅だった。やがて眠りに魅入られた少女がテーブルに突っ伏して寝静まると、男は少女を背負って、その店を後にした。


「ん、あれ……私」


 彼女は夢現の郷里から、僅かに夜の帳の中に舞い戻った。しかし、揺られる心地よさ、広い背中の温かさに、その微量の覚醒もまた微睡まどろみの中に引き込まれていくのだった。


(温かい……)


 彼女は過去を――家族の夢を見た。小さかった頃、父親の背に揺られた記憶。世界は明るかったし、心は満たされ、幸福だったかつて。少女の閉じられた瞼から、涙が一筋流れた。



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