第5話


 また青色となる



       ※


 六月中旬に竜天神町は梅雨入りとなった。一週間の半分以上が雨の日となり、じめじめとした空気が肌にまとわりつく毎日を送っている。雲に覆われた空に、太陽の明かりがとても待ち遠しかった。

 そんな折、豊知大学付属総合病院に入院している美沙杞が発熱し、暫く寝込む日がつづくこととなる。美沙杞が発熱して寝込むこと自体は、大名希市にいるときもよくあることだったし、竜天神町にきてからも何度かあった。しかし、今回は長引いている。

 そうして熱が下がらないまま何日も寝込み、著しい体力低下とともに美沙杞はベッドから起き上がることができなくなっていた。

 発熱してから二週間後にはなんとか少し熱は引いたものの、美沙杞の体はすっかり衰弱していたのである。もう以前のように散歩に出ることもできず、自分で立ち上がることはおろか起き上がることもできない。手足はびりびりっと痺れて力が入らなくなっていた。

 そうした、美沙杞の体調が急激に悪化した六月は、あっという間に通り過ぎていき……とうとう七月を迎えてしまう。

 上旬には梅雨明け宣言が発表されるが、新しい月になってからも美沙杞の体調が回復することはなかった。ずっとベッドの上で、毎日をそこでしか過ごせなくなってしまう。夏希に教えてもらった折り紙ももちろん折ることはできない。

 美沙杞はベッドの上、静かに目を閉じている。


 夏が近づくにつれてすっかり衰弱してしまった美沙杞……その兄である勇也が通う祇吹高等学校では七月上旬に期末テストが行われ、間もなく一学期の終業式が行われた。と同時に、夏休みに突入。

 勇也は毎日病院に通うも、微熱のために美沙杞はいつも顔を赤らめていて、弱々しく瞼を開けることしかできていなかった。そんな姿を目の当たりにすること、とても辛いものでしかない。


 竜天神町は、いよいよ夏を迎える。

 夏、それはとても悲しいことが起きる季節。


       ※


 七月三十日、月曜日。

 窓の外には真っ青な空に、真っ青な海が広がっている。それらは彼方の水平線という一本の線でくっついているみたいに。カーテンの向こう側にある世界の日差しはとても強いもの。それが世界を眩いばかりに輝かせていた。

 豊知大学付属総合病院の五階、501号室の窓は閉め切られている。エアコンが一定の室温を保ち、うだるような暑さからこの空間を守っていた。外にはまるで空から降ってくるような蝉の声があるが、ここまでは届かない。

「これでよし」

 勇也は、ベッドの上で上半身を起こしている美沙杞のパジャマの前ボタンをとめたところ。ここのところずっとつづいている微熱のせいで赤く火照っている美沙杞をゆっくりとベッドに寝かし、今まで体を拭いていたタオルを水の入った洗面器に入れた。最初きれいだった水も今は少し濁っている。

「喉渇かないか? 冷えたやつは無理だけど、スポーツドリンクならあるぞ」

「……ううん」

「そうか……飲みたくなったら、ちゃんと言うんだぞ。我慢なんかしたら、やかましい夏希を呼んで眠れなくしてやるからな」

「夏希さん、なら、嬉しい、な……」

「駄目だ。あんなやつ、近所迷惑だ」

 口角を上げ、勇也は洗面器を持って病室を後にする。廊下の突き当たりにある手荒い場でタオルと洗面器をきれいに洗い流してから、501号室に戻ってきた。

 美沙杞が発熱することになった六月までなら、病室には多くの折り紙でできた動物が飾られていたが、今はクッキーの缶にしまわれ、テレビ台に置かれている。その代わりに、枕の傍には色とりどりの千羽鶴がかけられていた。美沙杞が転校の手続きを済ませている天道てんどう小学校のみんなからの贈り物である。よく見舞いにきてくれる相川星乃の呼びかけもあり、梅雨入りする前にプレゼントされたのだ。それを受け取ったときはまだ美沙杞も元気だったが……今はもう一人で起き上がることもできない。

(…………)

 勇也は入った桶をベッドの下にしまい、タオルをハンガーに引っかけて壁にかける。窓側に回ってパイプ椅子に腰かけた。まだ点滴までは時間があり、横にある台に頬杖をして、顔を赤らめた美沙杞のことを静かに見つめる。

 日に日に、その顔色は白さから青白さへと変わっていく。血管は浮き上がっていた。それをどうすることもできないこと、勇也は胸を痛めるばかり。

「…………」

「……ごめんね、お兄ちゃん」

 ベッドの上、小さく開けられる瞼。首を横に向けて小さく動く唇。そこから紡がれる小さな声。

「わたしの、せいで……せっかくの夏休みなのに……」

「何言ってんだよ? 夏休みだからこうして美沙杞の傍にいられるんだろうが。学校あったら、午後からだけだもんな」

「お兄ちゃん……去年までは、野球やってたのに……」

「ああ……別に、いいよ。野球なんて。そんな楽しいもんでもないし」

「わたし、またお兄ちゃんが野球やってるの、見てみたいな……」

「……いいよ、そんなの、今さら……」

 笑みを残したまま力なく首を横に振る勇也だが、本心として、野球をやりたいかった。グラウンドで、また白球を追いかけてみたい気持ちは常に燻っている。それは学校のグラウンドを見る度に、心の奥底から込み上げてくるのだ。けれど、そんなわけにはいかない。大事な妹を残していくわけにはいかないから。無理してでも押し上げてくる感情に蓋をしていた。

 美沙杞には、自分しかいないのだ。

 だから、勇也はこうして美沙杞の横にいる。

 グラウンドに立つことは、ない。

「だってよ、こんな暑いのに、野球なんてやってたら、すぐ倒れちまうよ。さすがにそんなしんどいこと、したいなんて思わないね。今にして思うと、なんで小さい頃って、あんなに元気に走っていられたのかな? 不思議でしょうがないなー」

「……わたし……」

 天井に向けられる視線。しかし、その焦点は合っていない。瞼がとても重たくて、視界がかなり狭まっている。

「星乃とお祭りいく約束してたのに、もういけなくなっちゃった……約束破っちゃう、いけない子、なんだ……」

 次の日曜日に行われる天神神社の夏祭。美沙杞は以前見舞いにきた同学年の星乃と一緒にいくことを約束していた。けれど、今は手足が痙攣し、歩くどころかろくにベッドから起き上がることもできない。

「もう、夏希さんと折り紙もできないんだよね……」

 手が震えて、とても折り紙ができる状態ではない。やろうとして、手にした折り紙がぐしゃぐしゃになることだろう……そんな惨めな思いをして以来、自分からそこに手を伸ばそうとはしなくなっていた。

「……わたし、このまま……」

「大丈夫だよ。今までだって似たようなことあったけど、すぐ元気になったろ? 今回だって一緒だよ」

「……今まで、こんなに熱がつづいたこと、なかったよ……」

「今回はちょっと長引いてるだけで、すぐよくなるって」

「……そんなこと……」

 美沙杞の言葉が途切れた。少し呼吸が荒くなってきて、肩が大きく上下しはじめる。

「……わ、わたし……」

「もういいから。今日はもう休め。ちゃんと休まないとよくならないぞ」

「……わたしね、元気になったらね……」

 呼吸は吐くときは平気だが、吸うと少し胸が痛くなる。そんな苦痛に顔を歪めながら、美沙杞は小さく首を傾けた。そこにいる勇也のさらに向こう側を見つめるように。窓の向こう側。この病室にきて以来、ずっと眺めていた場所。

「……わたし、元気になって、あの灯台にいくんだ……」

 今はベッドで横たわっているので見ることができないが、その頭には竜頭岬にある白い灯台を描いている。

「……あそこで、お空にいるお母さんに、わたしのこと、見てもらうんだ」

「元気になったら、連れてってやるからな。だから、今はゆっくり休もうな。そうしないと、いつまで経っても元気になんてなれないぞ」

「うん……」

「おやすみ」

「う、ん……」

「…………」

 そのまま霧となって消えそうな、弱々しく瞳を閉じた美沙杞に、勇也は下唇を噛みしめる。奥底から込み上げる感情があり、それをどうにか自身で抑え込めるため、懸命に両の拳を握りしめた。

「……美沙杞、絶対灯台いこうな」

 空間に投げ出した言葉。しかし、それを口にした本人が、その言葉が意味することの虚しさを痛感している。

 そんなこと、とてもできそうにない。

 美沙杞が燃やしている灯火は、もう長くはないはず。

 美沙杞は、今にも……。

「……美沙杞……」

 とても白い肌。そこにかかる黒い髪。勇也はそっと髪に触れると、髪は耳の方へと流れていった。勇也の手が小さく震えている。心は大きく揺れていた。

 窓から入ってくる夏の日差しは、とても力強く眩いばかり。


 頭上にある空はどうにかまだ青色を保っている。けれど、すぐ西の方から茜色に染まっていくだろう。

 半袖のポロシャツ姿の勇也は、病院から持ってきた緑色の手提げ鞄を手に、帰路についていた。病院から祖母の家までは真っ直ぐ北上していけばいい。その延長上には勇也が席を置く祇吹高等学校がある。考えてみると、この竜天神町に引っ越してきて、毎日この南北に伸びる道を往復していた。

「…………」

 両側に木造の日本家屋がつづく道を、特にこれいって何も考えることなく、何かを見つめることなく、夏休みに入ってからずっと変わらない暑さを肌に感じ、滲む汗をその額に浮かべ、降ってくるような蝉の声を耳にしながら、歩を進める。

 噴き出した汗が首筋へと流れ、ポロシャツの襟に溶けていった。今日も連日つづく猛暑日である。

「…………」

 無意識に額の汗を手で拭う。瞬間、見慣れた制服が目に飛び込んできた。それも見知った人物である。勇也は手提げ鞄を持っていない右手を小さく上げた。

「……よっ」

「あっ、勇くんなんだよ。勇くん、こんにちはなんだよ」

「部活の帰りか? 大変だな、こんな暑いってのに。俺だったら、絶対溶けちゃうけどな」

「確かに練習は大変だけど、でも、好きでやってるから大丈夫なんだよ。勇くんは根性なさそうだから、あの練習に耐えられずにすぐ投げ出すに決まってるんだよ」

「そうだな、俺は根性なしだからな」

「あい……? 驚いたんだよ。今のは絶対否定されると思ったんだよ」

 祇吹高等学校二年一組の城之浦夏希。半袖のシャツには胸に青いリボンをつけている。肩からはいつもの青いスポーツバッグを斜めにかけていた。口を開けると、チェックのスカートが小さく揺れる。

「勇くんは、美沙杞ちゃんのお見舞いの帰りなのかな?」

「あ、ああ……まあな」

「早くよくなるといいんだよ」

 夏希はずっと美沙杞の見舞いにいくことができていなかった。それは病状の悪化とともに、医者から面会を禁止されたから。それは夏希だけでなく、家族以外は全員面会謝絶となっていた。

「勇くん、ちょっと疲れてるのかな?」

「かもな……」

「お疲れさんな勇くんに、とってもいいことがあるんだよ。疲れたときのとっておきなんだよ」

「……どうせ、『牛べえのコロッケ食べて元気百倍なんだよ』とでも言う気なんだろ? こんな暑いのにコロッケなんて食べてらんないだろうが」

「あい!?」

 目が点。

「ど、ど、ど、どうして分かったのかな!? 勇くん、心が読める超能力者なんだよ!? びっくりなんだよ。もはや人知を超越してるんだよ!?」

「……そんなの、お前と三日付き合えば、誰でも分かることだよ」

 当たり前のように当たり前のこと口にした勇也。ただでさえ暑いのに、それ以外の理由で勇也は額に大粒の汗を浮かんでしまう。

「単純だよな、お前」

「そ、それは失礼なんだよ。あたし、そんなに単純な構造じゃないんだよ。もう思考回路は複雑に絡みまくって、どうなってるかすら分からないんだよ」

 眉間に皺を寄せて不機嫌そうに頬を膨らませる夏希。しかし、それも数秒だけのことで、すぐにぱっと華やいだ表情に変わった。

「なら、一緒にかき氷を食べるんだよ。駅前にあるから、今からレッツゴーなんだよ」

「……せっかくここまできたのに」

 暑いなか、病院からここまで歩いてきたのに、夏希の要求を認めるとなると、また病院の方まで引き返さなくてはならない。

 気が重かった。

「明日にならないかな?」

「今日できることは今日するんだよ。かき氷食べるときの鉄則なんだよ」

「どんなだよ……しゃーないな。食べにいくとしますか」

「出発なんだよ」

「はいよー」

 勇也はもう帰るだけで、特にこれからの予定はない。であれば、ちょっとぐらい夏希に付き合ったところで問題ないだろう。勇也はくるりっと体を反転させ、五階建ての病院を視界に、駅前まで歩いていく。隣で意味なく猛烈な勢いではしゃぐ夏希とともに。

 隣にいる元気印の存在を横目に、頭がぼやっとするというか、気温が五度上がったような気がした。


 駅前。外に設置されているベンチ。姿なき蝉の声が空から降るように勇也に襲いかかってくる。しかし今は、その強烈な音量に少し清涼感があるひぐらしも混ざるようになっていた。

 視界には、この辺りで一番背の高い豊知大学付属総合病院がある。最上階の五階には美沙杞が今もベッドで横たわっていることだろう。病弱なまでに青白い顔を仄かに赤らめながら。

「…………」

 駅ということで、人の行き来があった。近くにある自動販売機で赤いワンピースを着た小さな女の子がジュースを買い、近くで待っていた母親の元へ小走りで駆けていく。その女の子と擦れ違うようにして、風呂敷を持った老婆が腰を屈めながら駅内部にある待合室へと入っていった。駅前にある小さなロータリーにはタクシーが二台停車している。バス停にはまだバスがやって来なかった。

 見上げた空は徐々に朱色を有してきて、竜天神町がすぐにでもその色に染まるだろう。

「なあ、夏希」

 プラスチックでできたカップは腰かけているベンチの横に置いてある。置かれた場所が容器の水滴で染みになっており、ベンチの茶色をより濃い色としていた。中身はすでに勇也の胃袋へと消え、容器内側の底には緑色の液体が数滴残っている。

 勇也は気にしないが、舌は緑色になっているに違いない。

「幸せって何だと思う?」

「あい?」

 容器と口を往復していたプラスチックのスプーンが止まる。ぴたっと。そうして大きな瞳がさらに見開かれていった。

「と、と、と、突然、奇怪なことを質問されたんだよ!?」

 おいしそうにレモンシロップのかき氷を食していた夏希は、ぴたりっと動作を止め、仰天したように瞳を丸くした。身を後ろに引き、少し唇を歪めた、まるで変人でも目の当たりにしたような顔で勇也のことを見つめる。

「こんなに暑いもんね、頭が変になるのも無理ないんだよ」

「……わけの分からん理解で、勝手に納得するな」

 吐息。世界は物凄く暑く、一度はかき氷で冷えた体だが、早くも熱を持ちはじめていた。

「最近さ、よく考えるようになったんだ。美沙杞はさ、果して幸せだったのか? って」

 勇也の妹の美沙杞は生まれたときから体が弱く、就学してからも半分以上は病院のベッドの上。今年になってからはまともに外出すらできていない。転校先の小学校にも顔を出せていなければ、引っ越してきたときの荷物がそのままになっている祖母の家にもいけていない。

 引っ越してきて、季節が春から夏になっても、美沙杞はずっと豊知大学付属総合病院の501号室のベッドの上。

「それに美沙杞のやつ、責任を感じてるんだよね」

 自分が生きていることの責任。

「自分のせいで、母さんが死んじゃったってさ……」

 美沙杞を出産するときの影響で、母親はその一か月後に他界した。元々体の丈夫ではなかった母親にとって、美沙杞という新しい命を生み出したことの代償が、その命だったのである。

 もちろん生まれたばかりの美沙杞は母親のことを覚えていない。写真でしか顔を見たことがないのだから。それが、母親の写真でしか見られていない状況が、美沙杞の心をどんどん追い詰めていく。

 自分がいなければ、写真の人はまだ笑っていられただろうに。

 自分がいたばかりに、母親はこの世にはいない。

 自分が生まれたばかりに……。

「自分さえいなければ、母さんは死ななくてもよかったのに。自分がいたから、母さんが死んだ。自分のせいで母さんが死んだ。自分が、母さんを、殺した……そんな風に思ってやがるんだよ」

 ずっとずっと責めていた。美沙杞は自分が生きていること、その命のせいで母親が失われたこと、もう心が潰れそうなほどに。しかも与えられた小さな命は、とても弱々しいもの。それがさらに美沙杞の心を圧迫する。

「母さんは美沙杞のことが大切で、それで出産したんだから、望まれた命なのに」

「…………」

「母さんのこと、俺もあんまり覚えてないけど、きっと幸せだったんだと思うんだ。赤ん坊の美沙杞を抱いてる母さんの表情、幸せそうだから」

「…………」

「まったくさ」

 嘆息。勇也は病院の最上階を見つめる。その向こう側にある空は随分と赤色が目につくようになってきた。

「自分を責めるんじゃなくてさ、せめて美沙杞が、生きてることの喜びを感じてくれてればいいんだけど」

「……喜んでるんだよ」

「んっ?」

「美沙杞ちゃん、喜んでるに決まってるんだよ」

 震える声。舌をシロップの黄色に染めながら、夏希は大きく唇を動かしていく。それはとても楽しいことのように。

「勇くん、馬鹿なこと言っちゃ駄目なんだよ。嬉しいに決まってるんだよ。だからあんなに嬉しそうに折り紙をすることができたんだよ。勇くんとだって、いっぱいいっぱい楽しい時間を過してきたんだよ。それは全部、嬉しいから、勇くんのことが好きだから、美沙杞ちゃんはずっと笑顔でいられたんだよ」

 体のハンディキャップを抱えながらも、今日まで懸命に生きてきた。自分の幸せを追い求めて。それが夏希から見た美沙杞の姿だったのである。

「美沙杞ちゃん、生きてて幸せに決まってるんだよ」

「……ああ、そうだな」

 相手の迫力というか、儚いながらの強烈な凄味に、すっかり気圧された勇也。と同時に、気まずさを得ている。自分がこうやって、おかしなレッテルを妹に与えたこと、夏希に指摘されるまで気づけなかった。

 自身に対する憤りに、胸の辺りが気持ち悪い。

「……そう、だよな。何考えるんだろな、俺って……」

「そうなんだよそうなんだよ。あたしだって、生きててよかったんだよ。小さい頃に勇くんに助けてもらって、ほんとのほんとによかったんだよ。だからこうして、また勇くんと会うことができたんだよ。幸せなんだよ。生きていることって、とってもとっても幸せなことなんだよ」

「そうだよな」

 生きていること、それ自体が幸せである。それをすることすらできず、亡くなる人間は大勢いるのだから。だからこそ、生きていることは幸せである。

「そう、なんだよな……」

 勇也の頭には、病院の屋上から旅立っていった西岡恭一郎の顔が浮かだ。交通事故に遭い、病院に運ばれたからもずっと瀕死の状態がつづき、それでも懸命に生きた恭一郎は、最後の瞬間までとても充実した時間を過ごしているように見えた。魂と呼ばれる存在になってからも、それでも最後まで一所懸命に。

 そうできたのは、自分がしたいと思えることを最後まで貫いたからだろう。だからこそ、ああも充実した笑みを浮かべることができたに違いない。

 恭一郎には、したいことを貫く力があったから。

 それ以前に、したいことがあったから。

 だから、懸命になれた。

「やっぱり、生きなくちゃいけないんだろうな……」

 頭には、前夜のことが思い起こされる。

「昨日さ、父さんが病院にきて、美沙杞を連れて帰ろうって言い出したんだよね……」

 仕事が休みの日曜日に、大名希市からやって来た父親のことやり取り。


       ※


「父さんはな、美沙杞まで失いたくないんだ」

 日曜日。普段は仕事があって大名希市にいるが、美沙杞の病状悪化もあり、勇也の父、菴沢誠治が竜天神町にやって来た。

「春に、一縷の望みを込めてこっちに移してみたものの」

 誠治は、半袖の水色ポロシャツにスラックス姿。今は実家の台所で木造のテーブルを挟んで息子の勇也と対面する。昼間、病院の医師と話してきた経緯と、自分の考えを伝えるために。

「やっぱり美沙杞は、大名希の設備が整った病院に移そうと思うんだ」

 夜となって気温は下がっており、かつ、台所には扇風機が回っているものの、短髪の下にある額には汗が滲んでいる。室温は三十度近かった。二段式の冷蔵庫が悲鳴を上げるかのように、『ぶぉーん』と鳴る。

「手の施しようがないなら、せめて今より医療設備が整った病院で少しでも長く生きてくれた方が、父さんは嬉しいんだ」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 Tシャツ姿の勇也は、目の前に置かれた麦茶のコップを見つめ、表面に小さな雫が伝う前に顔を上げた。

「容体がよくなるならともかく、そうじゃないなら、このままでもいいんじゃない? 美沙杞はこっちで新しい友達もできたし」

「いいか勇也。はっきり告げておいた方がお前のためでもあるから、心を鬼にして言うぞ」

 誠治は麦茶を口にして、ゆっくりとした動作でコップをテーブルに戻してから口を開ける。

「今日医者に会ってはっきり言われた。美沙杞について、今の医療でできることは、延命処置しかないそうだ」

「ぇ……」

『延命処置』という言葉、勇也の思考を停止させる脅威を有していた。

「…………」

「そもそも、こっちにきたのだってそうだったろ? 治療ができないなら、せめて空気のきれいな場所で静養させるためだったじゃないか。でも、もうどうにもできない」

 だからこその延命処置。もうそれしか残されていなかった。

「父さんはな、少しでも長く美沙杞に生きてほしいんだ。美沙杞が大事だし、美沙杞を産んで死んだ母さんのためにも少しでも長く生きてほしい」

「…………」

「まだ向こうの病院の方が充実した設備がある。だから、容体をみてだが、来週にでも病院を移そうと思うんだ」

「…………」

 告げられた言葉に、勇也はぐっと唇を噛みしめる。

 確かにこのまま美沙杞を失うのはいやだ。ずっと美沙杞と一緒にいたい。けど、だからといって延命処置でただ病院のベッドに横たわっている美沙杞の姿は、見たくない。

 美沙杞にはいつも笑っていてほしい。

 でも、今のままでは……。

 胸の奥が黒く滲むような思いに、喉が小さく鳴る。

「……父さんは知らないだろうけど、美沙杞、こっちにきて一つ目標ができたんだ。せめてそれだけでも叶えてあげられないかな?」

「目標?」

「竜頭岬にいくこと」

 美沙杞の望み。

「病室からいつも見てたんだ。あそこにいって、天国にいる母さんに自分のことを見つめてもらいたいって。だからせめてそれだけでも」

「駄目だ! そんなの自殺行為だろうがぁ!」

 誠治は強く首を振る。

「馬鹿なことを言うんじゃない。お前は美沙杞の状態が分かってるのか? 意識だって危ない状態なんだぞ。外に連れ出すなんて、駄目だ駄目だ!」

 少しだけ口調を強め……しかし、数秒後には肩を大きく上下させて息を吐く。

「こんなことなら、母さんに美沙杞のことを諦めてもらった方がよかったかもしれないな。そうすれば母さんだって今も──」

 はっとしたように誠治は言葉を途切れさせ、白いテーブルクロスの一点を見つめる。

「どうして、こんなにも……」

「…………」

 言葉をなくして頭を抱えた誠治を正面に、勇也は小さく首を振るのみ。ただ現実を受け入れたくなくて。

「…………」

 勇也には、目の前にある短髪に随分と白いものが混ざっていることに気づき、なんだか自分が悪いことをしているようないやな気持ちに苛まれていくのだった。


       ※


「あのさ」

 駅のベンチ。むわっとする暑さは空気を揺らすよう。

 勇也は昨日の誠治との光景を頭で反芻させながらも……しかし、隣に座る相手に小さく頭を下げる。

「なあ、夏希」

「あい……?」

「頼みがある」

 思いついたこと、勇也一人では難しい。

「手伝ってくれないか?」

 勇也はまた豊知大学付属総合病院の建物を見つめる。そこを通して、あまりにもか弱く脆弱な存在となった美沙杞のことを思い浮かべて。

「美沙杞のしたいこと、叶えてあげたいんだよ」

「うんうん、そうなんだよそうなんだよ、是非叶えてあげるべきなんだよ。あたしは賛成なんだよ。そりゃもう大賛成なんだよ。そういうことであれば、もうなんだって手伝っちゃうんだよ。あたしにどーんと任せておくといいんだよ」

「ああ、頼りにしてるよ」

 大切な美沙杞の願いを叶えるために、力を貸してもらえる、それはとても喜ばしいことに思えた。

「確か、次の日曜日だったよな?」

 駅のベンチ近くには掲示板がある。そこには天神神社の夏祭のポスターが掲示されていた。それが次の日曜日、八月五日。

「その日にさ」

 目の前にあるロータリーにエンジン音を響かせながら白地に青色のバスが入ってきた。バスからは十人ほどの乗客が下車し、駅に入っていく。また、バス停で待っていた五人の客はバスに乗り込んで、それぞれの目的地を目指す。バスはゆっくりと動きだし、すぐの交差点を左折した。

「美沙杞をさ」

 勇也にだって目的がある。美沙杞の願いを叶えてあげたい。

 そこにどんな障害があろうとも、絶対に叶えてあげたい。

 だから、勇也は動きはじめる。

 美沙杞のために、美沙杞の真の幸せを望んで、勇也はとても辛い決断をした。それが、それこそが、美沙杞の命を削ることだと分かっていても。

(たった一つの願い……俺にはもう叶えることができないから……)

 大切な美沙杞の命を奪うことだと分かっていても。

「よし!」

 勇也は腹の中心に力を入れ、両の拳を握りしめる。爪は皮膚に食い込み、痛みが走るのだが、その痛みこそが勇也の決意の表れだった。

(美沙杞……)

 勇也は真っ直ぐ前を向く。

 これから先、もしかしたら社会に反する行いとなるかもしれない。しかし、勇也はそちらが正しい道だと見据え、右足を踏み出していった。


       ※


 八月五日、日曜日。

 正午となり、強烈な日差しを注ぐ太陽は一番高い位置に。

 この時間、勇也の父、誠治が祖母の家にやって来た。今から病院にいき、美沙杞のことを大名希市の病院に移す手続きをするという。

 勇也は、祖母が作ってくれた冷やし中華を食べ、出かける父親につづいて玄関を出た。

「父さん、ちょっと待って」

 勇也が玄関を出たのは、祖母を巻き込まないため。かつ、正面から向き合って、一対一で自分の思いを告げるべく。

「病院いって、美沙杞のこと、連れてっちゃうんでしょ?」

「そうなると、お前も大名希に戻ってくるように転校の手続きしないといけないな。二学期からになるが、構わないだろう?」

「それ、困る」

 祖母の家は木造の二階建てで、軒先には干し柿を吊るすための細いロープが何本も垂れていた。庭の隅に石に囲まれた農園場所があり、今は赤いトマトが実っている。小さな羽虫が、勇也の視界を横切っていった。

「俺、美沙杞のことを竜頭岬に連れてってあげようと思うんだ」

 それが美沙杞の願いであるから。

「だから、それまでは待ってほしい」

「確か、先週もそんなようなこと言ってたな」

 誠治は小さく息を吐く。

「馬鹿なこと言っちゃ駄目だ。できることとできないことってのがあるんだよ。美沙杞は外なんて出歩けるような体じゃない。すぐ大名希に連れて帰らないと、いつ死んだっておかし──」

 小さく咳払い。

「とにかく、今大事なのは設備の整った大名希の病院に移すことなんだ。一刻を争うことなんだ」

「そんなこと、美沙杞は望んでない」

 コンクリート塀の向こう側は竹藪で、吹いてきた風に、ざわざわざわざわっと揺れた。

「美沙杞は大名希に戻りたいなんて思ってない」

「戻りたい、戻りたくないの問題じゃない。このままじゃどうしようもないじゃないか。お前は美沙杞に死んでほしいのか? 違うだろ。父さんは少しでも長く生きてほしいんだ。無理するなんて、もう母さんみたいなのはたくさんだ」

「父さん!」

 勇也は、横を通って駐車場に向かおうとしていた誠治の肩を掴む。

「母さんはただ長生きしたかったわけじゃないよ」

「なんだとぉ!?」

 誠治は語気を荒げ、睨みつける。

「お前ぇ! 母さんが望んで早死したっていう気かぁ!」

「そうじゃない!」

 勇也も負けじと声を張り、思いをぶつける。この場面、一歩たりとも引くことはできない。

「母さんは、お腹の美沙杞を諦めて生きることより、美沙杞を産むことを選んだんだ」

 元々体が丈夫でなかった母親は、無理して美沙杞を産んだ影響もあって、一か月後に他界した。

「美沙杞を産まなかったら、もうちょっと生きられたかもしれない。けど、母さんは美沙杞を産まずに生きるより、美沙杞を産むことを選んだんだよ」

 お腹に宿った赤ん坊を中絶することなく、産み落とすことを母親として選択して。

「それが母さんの願いだったんだ」

「どうだろうが、長生きした方がいいに決まってるだろうが」

「違う、違うよ。美沙杞を諦めた日々を過ごしたって、きっと母さんは後悔するに決まってる。『自分が赤ん坊を見殺しにしたんだ』って。もしかしたらノイローゼになったかもしれない。そんな日々を過ごすことより、母さんは美沙杞を産む幸せを選んだんだよ」

「…………」

「美沙杞だってそう。病院のベッドで機械に生かされるより、自分の願いを叶えて生きた方がいいに決まってる」

 そうすることで残りの命を大幅に減らすことになるかもしれない。けれど、無力に残された時間より、それ以上のかけがえのない願いを叶える方が大切である。

「俺は美沙杞の願いを叶えてあげたいんだ」

「……それが美沙杞を殺すことになってもか?」

「ああ」

 迷うことはない、勇也は力強く頷いた。そうすることが、ここに立つ勇也の意義なのだから。

 だが! 直後に勇也は地面に横たわることとなる。顔を紅潮させた父親に殴られたから。

『馬鹿野郎ぉ! お前はそれでも家族かぁ!』

 覆い被さるように告げられた言葉、勇也の胸に大きく響いていく。

 肌に感じる砂利の感覚が、ちくちくっと痛かった。


       ※


 蛍光灯がある天井は正面にある。霞むような視界だが、それがゴシック調の模様になっていることはちゃんと記憶しているので、その景色を目の前のものに重ねることができた。隅の方に黒い菱形の染みがあるのは、このベッドに横になって二日目に気づいたこと。

 黄色のパジャマに身を包み、今日も菴沢美沙杞はベッドの上に横たわっている。熱のせいでろくに思考することもできず、まるで長時間白い蒸気に覆われるみたいに頭はぼぉーっとする。喉は痛くて、呼吸が辛い。息を吐くときはなんともないが、吸うと喉から胸の方が苦しくなる。熱で顔が真っ赤であり、意識は真っ白を通り越して透明なものに変わるような、おかしな感覚がよくあった。

 誰に言われたことでもないが、自分のこと、『もう長くないんだ』そう思う。そんなこと、これまで一度だって考えたことなかったのに。

「…………」

 今日はもう点滴もやったし、医師の検診も終わっている。こちらがまともに見えていないと思ったのか、黒縁の四角い眼鏡をかけた医者が検診をやりながら小さく首を振っている姿、ぼやける視界に残っていた。胸がちくりっと痛んだが、どうすることもできない。

 最近のこと。美沙杞の兄、勇也がよく医者と話すようになった。その内容は外出の許可を得ること。今日は天神神社で夏祭が行われる。美沙杞は同級生の星乃といく約束していた。それが果たせないこと、美沙杞は責任を感じるというか、自分のことが悔しく思う。だからなのだろう、勇也は何度か医者にかけ合ってくれた。なんとかして外出の許可を得ようとして。しかし、外出許可を得られることなく、今日を迎えた。

「…………」

 ベッドに横たわったまま、布団の重さすらあまり感じることができず、呼吸は変わらず乱れたもので、意識はちっとも安定することのないまどろみを彷徨っていて……小さな声がした。その声に反応するように薄く目を開けてみる。勢いを失いつつある茜色がまず飛び込んできた。窓からの光である。

 美沙杞は寝返りもろくにできないほど、体は自由を失っている。なのに、気がつくと美沙杞はベッドで上半身を起こしていた。視覚に意識を集中すると……さっき家に帰ったはずの勇也が、美沙杞のことを起こしてくれたのである。

『お兄ちゃん?』

 それはまともに声にもならなかった。ただただ勇也の存在を不思議に思い、ぼやけた視界で見つめるのみ。

「…………」

 ベッドの横、勇也はこちらに背中を向ける。

 美沙杞の視界の隅、また人の姿が。以前よく折り紙を教えてもらった夏希である。それが今、美沙杞を持ち上げて、ベッド横にいる勇也の背中へ。上からいつものカーディガンを羽織わせてくれた。

 美沙杞は今、勇也の背中に体を預けることになる。病院のベッドではなく、兄の背に。

「…………」

 美沙杞を背負った勇也は、病室を後にして非常階段の方へと向かっていくよう。

「…………」

 勇也の背中から微かな振動が伝わってくる。美沙杞のことを気にかけて、ゆっくり歩いてくれている。

「…………」

 美沙杞は薄れゆくような小さな意識で、勇也の行動を不可思議に感じていた。まだ医師から外出許可を得られていないのに、勇也は非常口から建物の外に出たのである。いけないことをしている思いが美沙杞に大きく渦巻いていて、けれど、同時に胸がわくわくしていた。こうして外の風に吹かれるの、とても懐かしい。夏の肌にまとわりつくような暑さが、今はとってもとっても気持ちいいものに感じられた。

『ああ、これが本当の世界なんだ』

 非常階段を下る靴音は、随分と大きい。しかし、神社でやっている夏祭の笛や太鼓の音が聞こえてくるので、そっちの方が耳に残っている。

 美沙杞は勇也の背に乗ったまま病院の外に出た。近くの商店街はとても賑わっている。さすがはお祭りの日。

「…………」

 美沙杞は勇也に背負われている。それは自分の足では歩くことができないから。いつもこう。誰かに迷惑をかけることしかできない。それが美沙杞だった。

 迷惑かけるぐらいなら、こんな自分、いない方がいいに決まっている。何度も何度もそう思った。

 自分がいるばかりに、大勢の人に迷惑をかける。

 自分がいるばかりに、母親は死んだ。

 生きていること、とてもいけないことのように思う。

 自分がこうして存在するなんて、とても辛いことだった。

「…………」

 風が強い。空気には肌に張りつく焼けるような夏の匂い。鼻にまとわりつくような潮の香り。なんだかすべてが懐かしく感じた。

「…………」

 くっついている兄の背中、とても温かい。今年は猛暑として厳しい夏なのに、兄の温もりはとても気持ちのいいものだった。

「…………」

 美沙杞は静かに目を閉じる。全身に心地よい振動を感じながら、とても柔らかい場所へと溶けていくように、意識は暗闇に吸い込まれていく。


       ※


『美沙杞ちゃんって、なんでお母さんがいないの?』

『美沙杞ちゃんのお母さん、美沙杞ちゃんが生まれてすぐに死んだんだってね』

『お母さんがいないなんて、かわいそうだよね』

『美沙杞ちゃんはお母さんなしでも、ちゃんとしてるもんね』

『美沙杞ちゃんのお母さん、どうして死んじゃったの?』

『お母さんがいなくたって、美沙杞ちゃんは大丈夫だもんね』

 美沙杞に母親はいない。美沙杞が生まれた一か月後、他界した。だから美沙杞にとって、母親がいないことが当たり前のこと。

 しかし、周りの子を見てみると、みんなには母親がいた。当たり前のように。母親と喋っているみんなの姿を見ていると、胸にぽっかりと穴があるような、とても切ない思いがした。

 一度父親に無理を言ったことがある。『わたしのお母さん、どこにいるの?』その問いに対して、父親は困ったような表情を浮かべたが、すぐに笑みを浮かべてくれた。『母さんはお空にいるんだよ。そこでいつも美沙杞のことを見守っててくれているんだ』それが父親の返答だった。だから美沙杞は思った、空には母親がいるのだと。まだとても幼い日のこと。

 亡くなった母親の写真はリビングに飾ってあったので、美沙杞は毎日見ていた。家を出るときはちゃんとそこに声をかけ、帰ってきたら『ただいま』と微笑みかける。会ったこともない人だけど、向けられる笑顔は、凄く惹かれるものがあった。写真は、赤ん坊の美沙杞を抱え、母親はとても嬉しそうに微笑んでいる。見ているだけで心が温かくなった。それはいつだって。

 父親は仕事が忙しく、そういった関係で家にはお手伝いさんを雇っていた。もしかすると、その人が美沙杞にとって母親のようなものだったかもしれない。食事はお手伝いさんの味しか知らず、洗濯も掃除も風呂の用意もすべての家事をやってくれるのがお手伝いさん。母親の存在を知らない美沙杞にとって、こういった存在が母親ではないかと思わせてくれた。

 しかし、お手伝いさんはやはり美沙杞の母親ではない。ある日突然お別れをしなくてはならず、次の日から違う人となる。悲しかったけれど、悲しみを抱いたところでどうなるものでもない。新しいお手伝いさんも以前のお手伝いさん同様に身の回りの世話をしてくれたが、やはり母親でないことは分かる。半年後に美沙杞を置いてこなくなってしまったから。そうしてまた新しいお手伝いさんがやって来た。

 小学校に上がる頃には、体の影響から一年の数か月は入院することとなる。病院には兄の勇也がよく顔を見せてくれ、休みの日には父親が顔を見せにきてくれた。けれど、美沙杞に母親はいない。お手伝いさんもお見舞いにはきてくれなかった。周囲の子供はいつも母親と一緒なのに、自分にだけ母親がいない。

 それは美沙杞が生まれたから、ずっと。

 美沙杞が誕生することによって、母親は死んだから。

 美沙杞という存在が、母親を殺してしまったから。

 学校の授業参観は、教室の後ろがクラスメートの母親ばかりとなった。そんな時は、みんないつもと違ってどこかそわそわしながら、授業のことなんて上の空だった気がする。けれど、どう探したところで教室後方に美沙杞の母親の姿はない。美沙杞はちっともそわそわしなかったし、それ以前に『自分だけが違う』という肩身の狭い思いがあった。そんな日は、だいたいずっと俯いて過ごしていく。寂しいとか悲しいとかそういうことだと思うが、その時はそれがどういった気持ちかすらよく分からなかった。

 運動会。父親は仕事の都合で参加することができない。兄の勇也は部活があってきてくれない。美沙杞は体が丈夫でないから、みんなの様子を隅で膝を抱えて見ていることしかできない。そのことに関して、もはや寂しいという感情を抱くことすらなかった。諦めというか、そういうものであると、ちゃんと受け止めていたのである。

 学芸会。みんなと一緒に劇の稽古をする。本番は父親もきてくれるということで稽古を頑張ったが、急に体調が悪化して入院することとなった。入院したまま学芸会当日を迎えてしまい、美沙杞は舞台に上がれなくなったのである。とても悔しい思いをした。

 遠足は一度だけいったことがある。近所にある緑地公園。しかし、発作のように途中で胸が苦しくなり、結局担任の先生に迷惑をかけるだけだった。クラスメートからも気遣われるばかりで、そこにいることがとても恥ずかしくて、なんとも情けない思い。自分がそういう体であること、特別な扱いを受けること、悔しくて悔しくて仕方がなかった。

 通知表を受け取っても、たまにテストでいい点が取れても、それを喜んでくれる人はいない。父親はそんなことより美沙杞の体調が心配そうだったし、兄の勇也はもっと成績がよかった。学校にいるよりも病院にいる時間の方が多いのであまり学校の授業を受けられず、だから美沙杞の成績はよいものとはいえない。けど、頑張った。入院中もベッドの上で勉強をして、算数のテストは九十二点。凄い点数だと思ったが、それを喜んでくれる家族はおらず、美沙杞はテスト用紙を丸めてごみ箱に捨てた。

 勇也の野球の試合が近くの中学校であり、体調がよかったので応援にいく。相手のピッチャーはとても速いボールを投げていたが、勇也はヒットを二本も打っていた。とても凄いと思った。羨ましいというか、美沙杞もああいう風にできればいいと思うも、体が許してくれない。その日は勇也と一緒に家に帰った。活躍した勇也と並んで歩いていること、とってもとっても誇らしかった。美沙杞にとって自慢の兄である。

 そんな勇也が、去年部活を辞めた。それは美沙杞が長期入院をすることが決まり、その世話のために、勇也は野球を辞めなくてはならなかったのだ。申し訳ない。美沙杞のせいで、勇也から大好きなことを奪ってしまう。それは美沙杞にとって辛いことで、ただ自分の体が惨めに思えて仕方なかった。

 詳しいことは分からないが、美沙杞の症状を改善する術はないらしい。大名希市の病院に匙を投げられるようにして、竜天神町に引っ越してきた。海がとても近く、窓から見える風景が楽しいもの。そこで星乃と友達になることができ、夏希と一緒に折り紙を折るようになった。病院からは出ることができなくなったが、それでも充実した日々を過ごせていた気がする。

 夏を前にして、病気が悪化した。また発熱をし、体が燃えるように熱い。頭がぼぉーっとして、呼吸が苦しくて、手足が痺れてうまく動かせなくなったのである。辛い。苦しい。けれど、そんな体のことよりも、星乃とも夏希とも会えなくなったことが、とても寂しかった。大げさかもしれないが、生きていく上でとても大切なものを失ったような気がして。そういったことに慣れているつもりだったのに、知ってしまった楽しさの先にある孤独は、耐えられないほどの苦痛を得るものだった。

 大名希市にいるときもちょくちょく発熱していたが、今回のは根が深いというのか、熱はなかなか引いてくれない。体重は減っていくのに、その体はどんどん重たく感じられるようになっていく。節々が痛くて、うまく体に力を入れられなくなり、手足はもう自分のものとは思えないほど動かすことができなくなってしまった。

 医者の診察……聴診器を胸に当てる度に、関節を触れる度に、医師は小さく首を振っていたこと、美沙杞は霞む意識のなかで覚えている。あれは諦めを意味するものだった分かった。

『ああ、もう駄目なんだ』そう思ったとき、心がずしりと重たくなり、しかし、どうすることもできない。ただベッドの上で横たわるのみ。

 そうしてベッドで横になって、天井を見つめていること、それが美沙杞にできるすべて。ベッドに横たわっていては、窓から外を見ることができず、あの灯台を眺めることができない。胸が苦しく、呼吸も辛くて、熱のせいで思考もうまく働かせることができなくて……そこでそうしてただベッドの上にいる。そこで静かに横たわって。

 ベッドからでも四角く切り取られた真っ青な空を見ることはできた。その空のどこかに母親がいる。

 美沙杞には確信があった、亡くなった母親に会えるという確信が。なぜなら、ベッドに横になっている状態では見えないが、広大な海はずっと向こうの水平線で空につながっている。美沙杞にはそういう風に見えてしまう。海の向こう側から空が広がっていて、だとしたら、海を真っ直ぐ泳いでいけば、その内きっと空に着くことができるはずである。そうすれば母親に会えるに違いない。その空には母親がいるのだから。

 会いたい。自分を生んでくれた母親に、会いたい。一度でいいから、会ってみたい。

 会ってお礼を言いたい。

 ありがとう。

 会って謝罪したい。

 ごめんなさい。

 母親に会いたい。

 会いたい会いたい会いたい会いたい。

 美沙杞はベッドの上から動くことができない。いつもそう。ベッドの上で、ただ窓の外を見つめることしかできない。

 そこに広がる大空に、美沙杞はいつも心を向けていた。


       ※


 風が美沙杞の耳を覆う髪を揺らしていく。

「…………」

 少し眠っていたかもしれない。幼い頃のこと、自分の体の悩み、ベッドの上で抱えてきた最近の葛藤、さまざまなものが一斉に頭に浮かんでは、遠い空へと飛んでいった気がする。

 今はただ、そこにそうして存在しているだけ。

 そこにいるだけ。

「……ぁ」

「起きたか、美沙杞。見てみろよ」

「…………」

 瞼を開けた。そうしてその眼球に潮風を感じる。病室にはない新鮮な空気に包まれていた。

 すでに空に太陽はない。薄暗い世界で、眼前に海があった。次から次に自分に向かって波が押し寄せてくるのが分かる。海の強大さをその身に感じることができた。これは病室にいては得られない感覚である。これこそが病院の外の世界なのかもしれない。

「…………」

 病院の窓に切り取られたものではない、本物の海がそこにはある。風の音と波音だけが支配する、とても穏やかな空間。美沙杞がその肌で体感する時空。

「…………」

 力の入らない右手だが、それでも感覚としてそこに何かあることが分かる。

 感触から……楕円のような形をしていて、小さな卵のようにふっくらとしていて、表面がざらざらしていて……以前病室に遊びにきた星乃が見せてくれた貝のような肌触り。

「…………」

 美沙杞が持っていたそれを、勇也は美沙杞の腕を大きく動かして、まるで美沙杞が投げ込むように海へと放っていった。

「……っ……」

 頭を小さく上げてみる。そこにはとても強い光があった。その光がまるで巨大な柱のように、目の前の海に向かって飛んでいく。光の柱は、海のその向こう側まで届いているような気がした。海と空の境界線である水平線まで。

「…………」

 竜頭岬。

「……お母さん……」

 黒い空を見上げる。星々がきらめく上空は、宝石が散りばめられているように輝いていた。実際にすることは叶わないが、美沙杞は両腕を上げてそこを求めるように、輝きを欲していく。

「……わたしは、ここ……」

 とても弱々しい、風に掻き消されそうな小さな声。けれど、それは美沙杞がこの場に発した声。誰でもない、美沙杞にしか出すことのできない声。

「……ここ、だよ……」

 光のあった世界から、光が失われていく。

 音のあった世界から、音が失われていく。

 存在のあった世界から、存在が消えていく。

 すべてが世界から消えていく。

「────」

 真っ暗な世界。とても暗くて、すべてが黒色に染められた暗黒の世界。闇。闇。闇。上も下も右も左もすべてが闇。

 そこに一人の女性がいた。女性はこちらに微笑みかけている。すべてを包み込むやさしい笑みで、美沙杞に微笑みかけてくれた。

 目の前の女性にそうしてもらえること、美沙杞にはとても嬉しい。

「──  」

 女性は、美沙杞にとっては写真でしか見たことのない女性。

 母親。

「    」

 お母さん!

 美沙杞は女性の胸へと飛び込んでいく。力いっぱい地面を蹴り、懸命に腕を前後に振って、母親の元へと飛び込んでいく。

 お母さん!

 飛び込んでいった胸で、これまで押し殺してきた感情を開放して泣きじゃくる。込み上げてくる感情が次々と溢れるよう、それがそのまま大量の涙となって全身に流した。

 お母さん!

 伝える。美沙杞が存在している理由として、どうしても伝えておかなければならない言葉がある

 お母さん!

 美沙杞が生まれてすぐに死んだ母親の胸。

 お母さん!

 母親に向かって、美沙杞は声を上げる。

 お母さん!

『お母さん! ありがとう!』

 もはやその言葉しか、美沙杞には残されていなかった。

 そうして美沙杞は、母親の胸で安らかな夢を見る。

 とても静かに、瞳を閉じて。


       ※


(母さん)

 目の前に母親の姿があった。勇也が六歳のときに他界した母親。ほとんど記憶はなく、写真でしか覚えていない母親の顔。その姿が目の前にあった。目の前にいて、そこでやさしく美沙杞のことを抱きしめている。

 それは、一瞬のこと。瞬きの間だけの幻想。けれど、確かに勇也の目の前で起きていた。

「……美沙杞は」

 今は美沙杞の小さな体を、勇也は後ろから抱きしめるようにして座っている。夜の広大な海を眼前に、とても近くに感じる波音にその耳を傾けながら。

 竜頭岬では、灯台の明かりが眼前の海を照らしていた。

「美沙杞はさ、幸せだったんだよな」

 勇也の胸には、もう瞼を上げることすらできない美沙杞。その顔にはとても嬉しいことがあったように、至福の笑みを浮かべられていた。

「もしかしたら、俺の自己満足かもしれないけど……」

 美沙杞の頭を撫でる。小さく震えるその右手で。

「きっと、幸せだったんだよな」

「そうなんだよ。美沙杞ちゃん、幸せだったんだよ」

「そうだよな」

「勇くん、お父さんに殴られた価値あったんだよ」

「ああ……」

 左頬は僅かに腫れている。そこに吹く潮風は勇也を撫でるとともに、美沙杞の髪をやさしく流していった。

(ごめんな、美沙杞)

 勇也の心が、静かに、震える。

(俺にはお前のこと、助けてあげられなかった)

 鼻の頭が熱くなってきた。目の端が震えはじめる。

(俺はそれを願ってやれないんだ)

 勇也は小刻みに震える全身を意識しながら、目だけで隣人を見た。そこには真っ直ぐ海を見つめる夏希の姿が。

(俺の願いは、こいつのために使っちまったから)

 勇也の隣では、夏希が決して顔を下げることなく、ただ真っ直ぐ暗い海を見つめ、頬に涙を伝わせている。出そうになる嗚咽を必死に噛み殺すように、懸命に唇を噛みしめて。

(ごめん、美沙杞)

 そうして勇也は、夏希の横にいることを選んでいた。

 それは、世界中の誰よりも。

 今から十一年前の夏の日のこと。

(美沙杞……)

 遠くの方から、船の汽笛が響いてきた。心に染み込んでいく。

 近くの空では大輪の花が咲いていた。真っ暗な場所に賑やかな花火が弾けたからである。神社で行われている夏祭が佳境に入ったのだろう。きっと今頃、神社では多くの人で賑わっているに違いない。ここまで歩いてくる商店街にも浴衣を着た人を大勢いた。勇也はまだいったことがないが、竜天神町にはとても大きな行事なのだろう。

 夏祭に町中が活気を帯びている竜天神町。それは美沙杞の入院していた病院も同じ。いつもとは違う雰囲気で、建物全体がそわそわしていて、屋上にはブルーシートが敷かれていた。大勢の入院患者が花火を見ることで、生活で少しずつ溜め込んでいった鬱憤を晴らしているかもしれない。看護師の多くが、少しだけ業務を離れて心から笑みを浮かべているかもしれない。医師が頬杖をつきながら闇夜に咲く大輪に頬を緩めているかもしれない。

 そういった病院にいる誰もが、五階の病室から一人の入院患者が抜け出していることにも気づくことなく。

(…………)

 今日も今日とてとても蒸し暑い夏の日。しかし、美沙杞の小さな体を抱え込む勇也には、その暑さも含めてこの世界に存在できる喜びを得ていた。

 それは勇也にとって、とてつもなく愛しいもの。

 勇也は以後、この夜のことを忘れることはないだろう。ずっとずっとその胸に焼きつけていく。

(ありがとな)

 近くの空で、また一つ色鮮やかな花火が弾けていた。


       ※


『そうだ、みんな家族なんだ。父さんも母さんも勇也も美沙杞も、家族なんだ……それなのに、そんなことも』

『……父さんはな、母さんとも美沙杞とも、ずっとずっと一緒に暮らしたかった。どんなだっていい。生きてさえいてくれれば、それで』

『……けど、それは父さんの身勝手だったのかもしれないな。お前に言われてはっとさせられたよ』

『母さんも美沙杞も父さんの家族だけど、でも、父さんの物じゃない。父さんが生きていてくれることを願うように、あの二人だって願いがあるはずだよな。それが一緒だったらよかったんだが……』

『勇也、殴って悪かったな。つい、かっとなってな。でないと、どうにも、こう、収拾がつかなくてな……はははっ、父さんもまだまだだな』

『よし、父さんがちゃんと責任取ってやるから、好きにやってこい』

『勇也、美沙杞のことを頼んだぞ』


       ※


「別にさ、餌なんかいらなかったんだろ?」

 薄暗い空間。潮の香りを鼻孔に、押し寄せてくる波を足元にしながら、勇也は円となっている水面に小さな蟹を放り投げた。

 蟹は水面に波紋を作り、あっという間に岩場へと消えていく。もうその姿を見ることはできない。

「助けてくれたんだろ? その人が真剣に願ってさえいれば」

 声は洞窟に反響する。しかし、ここには勇也一人しかおらず、話しかける相手はいない。けれど、つづける。つづけることが、今の勇也のすべきこと。

「ずっと考えてたんだよ。どうして俺だけが恭一郎のことを見えたのか? って」

 交通事故に遭って、魂の存在になった西岡恭一郎を、勇也だけが見ることができた。他の人間には見えないのに、勇也にだけ。

 それはなぜか?

「あれは、からなんだろうな。その免疫みたいなやつで、俺だけが特別っていうか、恭一郎のことを見ることができたんだろうな」

 六歳のとき、勇也はこの場所に願いを念じた。病院に運ばれた夏希の無事を願って。その願い、しっかり叶えられていたことを勇也は十一年後の今年に知ることとなる。

 そういったこの場所との関わりが、勇也を普通とは違う存在にしていたのであろう。だから恭一郎を見ることができた。それが勇也の得た結論。

「お前はさ、その思いが真剣なものなら、誰の願いも叶えてくれたんだろう?」

 やはり空間に反響するだけで、言葉を返す人物はいない。ただ小さな波が奥の壁に弾けるのみ。

「はははっ。こりゃ、夏希に代わって、今度は俺がここに通う番なのかもしれないな」

 勇也は振り返った。すぐ五メートル先に半円の光が見える。洞窟の出口。今日も眩しい光が世界を照らしていた。

「恥ずかしがり屋の竜天神様に、しっかりお礼ができる日まで」

 半袖のカッターシャツにチェックのズボンという祇吹高等学校の制服に身を包んだ勇也は、洞窟外の夏の日差しへと飛び込んでいく。岩とテトラポットの上を越え、堤防に辿り着いた。そのまま堤防沿いを駅まで歩いていって、病院前の道へ。暫く歩いていくと、石壁を背に見覚えのある人物が。

「あれ? 夏希?」

「まだこんなとこにいるんだよ!? ほら、早くしないと遅刻しちゃうんだよ。遅刻したら大変なんだよ」

「いやいや、遅刻してもどってことはないはずだけど……なことより、なんで陸上部の夏希が俺のことをそんなに気にする?」

「藤くんに頼まれたんだよ」

 藤圭介は、勇也のクラスメート。部活は野球部に所属している。

「勇くんが遅刻しないように、しっかり見張っててくれって頼まれたんだよ」

「あんにゃろ。よりにもよって、こんなやつを見張りにするだなんて。俺はどんなけ信用ないんだよ!?」

「こんなやつって、随分ひどい言われ様なんだよ……」

 涙目。

「とにかく、早く学校にいくんだよ。お昼から練習で、勇くんはいきなりレギュラーなんだから、しっかり頑張ってほしいんだよ」

「おう、任しとけ。レギュラーは人数の関係で、だけどな。よし、お前の分まで活躍してやるぜ。万年補欠の城之浦夏希さん」

「あい!? これでもちゃんと次の大会は選手なんだよ」

「その身長で!?」

「関係ないんだよぉ!」

「関係ないことにしておいてもいいけどさ」

「おかなくてもそうなんだよ」

「身長が低いってことが?」

「……事実ではあるんだよ。けど、さっきのはあたしがレギュラーだってことがなんだよ。まったく、失礼千万なんだよ。だいたい、あたしの遅れてる第二次成長期は今まさにこれからなんだよ。勇くんなんてあっという間に追い抜いてみせるんだよ。そうなったら、ぶちって踏みつけてあげるんだよ」

「あー、はいはい、楽しみだねー」

 肩を竦めて、勇也は蝉の声が降り注ぐ駅前の道を歩いていく。

 今から学校で部活の練習がある。目指すは来年の甲子園。そのために今からしっかり練習しなければならない。しっかりというよりも、みっちりと。

「おい、夏希、早くしろよ」

「これでも早くしてるんだよ」

「ほんとに陸上部か?」

「正真正銘なんだよ」

 頬を膨らませた夏希は、肩から勢いよく勇也にぶつかっていく。

 そうして二人は、その日も、次の日も、賑やかに騒ぎながら祇吹高等学校へ。

 賑やかな夏はまだまだ残っているし、秋には文化祭や体育祭といった行事が目白押し。

 勇也と夏希、十一年振りの再会。その空白を埋めるだけの思い出は、まだまだこれからたくさん作ることができる。こうして二人が笑顔で並んで歩いていられるのだから。

「よーし、勇くん、学校まで競争なんだよ」

「そうやって意味なくはしゃぐから、いつまで経っても小学生に間違えられるんだ。すんなり子供料金でバスに乗りやがって」

「だ、断じてそんなことないんだよ! 間違えられるとしても、せいぜい中学生なんだよ! これでも譲歩してあげているんだよ」

「いや、ってよりもは、幼稚園児の間違いじゃないのか? 精神年齢的には。やったな、バスが無料だ」

「ぐぴーっ!」

「鳴き声!?」

 笑いながら、はしゃぎながら、夏の太陽に照らされ、少年と少女は真っ直ぐな道を駆けていく。

 いつまでも。

 見上げた空の青さはとても深く、大きな両腕をいっぱいに広げて、この大地をやさしく包み込んでくれていた。

「しっかし、今日も暑いなー」

「あのね、勇くん……」

 夏希は少し声のトーンを落とし、小さく吐息。

「この前のことなんだけどね、お母さんに竜天神様のことについて訊いてみたんだよ」

 竜頭岬の洞窟にいる竜天神について、幼い頃に夏希は母親から聞いた。竜天神は誰にでも一つだけ願いを叶えてくれる。そのためには海にいる生き物を水面に投げ入れ、願かけをしなければならない。

「そしたらね、お母さん、そんなの知らないっていうんだよ」

 夏希の母親はよく竜頭岬で幼い夏希と遊んだ記憶があるという。自分もよく遊んでいた場所で、子供ができたら一緒に遊ぼうと思っていたと。しかし、あの洞窟でのことは、一切知らないという。

「あたしは確かにお母さんから聞いたんだよ。だからずっとあそこに通ってたんだよ。でも、お母さんは竜天神様のこと、知らないっていうんだよ。テレビの影響とかのあたしの思い込みじゃないかっていうんだよ……」

「…………」

「もしお母さんが言ってることが本当だとしたら……」

 竜天神について、もし夏希の思い込みだとしたら、あの洞窟に通った夏希の日々が意味を成さなくなる。

「あたしがやってたことって、結局意味のない思い過ごしだったのかもしれないんだよ……」

 ありもしないその思い過ごしのために、六歳の夏希は瀕死の状態となり、かつ、勇也と再会するまでの十一年間、あの洞窟に通うことに。

 もし、それらが本当は意味のないことだとしたら……夏希は少し怖く思えた。自分が見てきたものが、実は全部ありもしない架空のことだったなんて。

「だから、その……そうだったら、あたし、ずっと勇くんにも嘘を言っていたのかもしれないんだよ……」

「あのさ、夏希」

 勇也は前だけを見ている。田園と日本家屋に挟まれた道を、ただ真っ直ぐ北上していくために前を向いている。

「夏希の母さんがどう言ったかは知らないけどさ、そんなのは関係なくてだな、あそこに竜天神様ってのはいるんだよ」

「えっ? でも……」

「いるんだよ、あそこに」

 もうすぐ鱗川に架かる神通橋に着くこととなる。その橋を越えて、県道を渡り、長い坂を上がっていけば、目的地の祇吹高等学校に到着。

「だってさ、俺、見たことあるもん。竜天神様」

「へっ……?」

「嘘じゃないよ。ほんと見たことあるんだから」

 それは幼い日のこと。今となってはそれが本当のことかもよく分からない、実に曖昧な記憶。

 しかし、勇也はそれを信じている。これまで見てきたもの、聞いてきたもの、感じてきたもの、それらすべてを信じて。

「だから、いるんだよ」

「……う、うん。そうなんだよ。竜天神様はいるんだよ。竜天神様はあたしたちのお願いを叶えてくれたんだよ」

 不安を帯びたさきほどまでの表情が、一気にぱぁーっと明るくなった。まさに今日の太陽のよう。

「ねぇねぇ、勇くん。竜天神様って、どんなだったのかな?」

「んっ? そりゃまあ、見るからに、竜天神様、ってな感じだったな」

「えー、そんなの分からないんだよー。もっとちゃんと教えてほしいんだよー。こう、にゅるってしてるとか、顔がしゅっとしてるとか、はっきりしてほしいんだ」

「きっと学校の先生ってさ、生徒に話しちゃいけないことがあると思うんだ。来年のクラス編成とか、テストの問題とか」

「あい? そ、それは、そうなんだよ」

「これもそれと一緒さ」

 こほんっと咳払い。

「誠に残念ではありますが、竜天神様に関することは、身長が百センチに満たない小人族の長には教えることができないことになっております」

「あ、あ、あ、あいぃ!?」

 目をかっと見開かせると同時に、夏希は口内に空気いっぱいを吸い込んで膨れっ面に。

「あたし、百四十五センチなんだよ! あと、あたしは長やれるほどえらくはないんだよ! って、小人族じゃないんだよ!」

「そこは認めないんだよな、夏希って、不思議だ」

 日差しに焼かれた夏の世界には、凸凹コンビの少年と少女が真っ直ぐ前を向いて歩いていく。それは海にも山には恵まれるこの竜天神町において。

 真っ青で広大な空の下、その二つの命の炎はとても力強く活き活きと燃えた。

「あのさ、夏希」

 勇也は足を止め、笑みをうっすらと残しながらも、その表情は真剣そのもの。

「好きだぞ、夏希」

 その声に、最初はなんとも間抜けにきょとんとして、それから尋常ではないぐらい慌ただしくなっていた目の前の少女のこと、勇也にはおかして仕方なかった。

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