①中学2年生 経緯

 うつ病になりやすい人の傾向は、「真面目」な人だ。


 うつ病関係の本やそれを特集した番組を見ると必ず目にするワードだ。真面目ゆえにストレスをため込んでしまって、心のバランスを崩しうつ病になる。私はうつ病とは診断されていないが、うつ状態と書かれた診断書を会社に提出して休職したので、近い状態ではあるだろう。

 私は小学生の頃から「真面目」と言われてきた。教師の言いつけを守り、学校の規則を守る。小学6年生の時は児童会の書記も務めていた。学校の成績は悪くなかったし、授業態度も問題ない生徒だったと思っている。真面目になろうと努力した経験はない。元々の性格だと思う。私の態度を周囲には真面目と受け取られていた。

 真面目と言われると、まあ悪い気はしないし、少なくともそう言われて不快な気持ちにはならない。ちょっとした私の誇りであったに違いない。

 クラスメートから真面目と言われながらも、私は問題を抱えている生徒の側面も持っていた。

 不登校、の一歩手前にいる生徒でもあった。

 無性に学校に行きたくないと言って親を困らせ、ある時は仮病を使って休んだこともあった。

 原因のひとつに、小学1、2年生の担任とそりが合わなかったことにある。生徒に厳しくカッとなりやすい性格の担任で、何度大きな声で怒鳴られり叩かれたか分からない。担任に怯えながら学校に行くうちに段々と行き渋りが激しくなり、クラスメートが授業を受けている最中の2時間目に登校したことも珍しくなかった。

 担任だけでなく、勿論私にも原因があった。幼稚園の時にひらがなカタカナの読み書きをマスターした私は、小学校に進学したらすぐに漢字を学ぶものだと思っていた。私が進学したのは一般の公立の小学校である。現実はひらがなの書き方からスタートし、毎日宿題のプリントが配られていた。すでにひらがなの書き方が分かっているから勉強する必要がないと私は宿題に一切手をつけず、白紙のまま翌日プリントを提出した。当然担任は激怒し、説教を受けながら教卓の前でその宿題を慌てて書いて提出した。そこで反省して、次からは家で宿題をやって担任に提出しようーーとはならなかった。私が前日に渡された宿題プリントを教卓で書く日は1ヶ月ほど続いたと思う。なぜそこまでしてひらがなを書くことを拒んだのか、幼かった私はよく覚えていない。おそらくは、すでに私がマスターしたことを再度勉強しなければならない状況に納得していなかったのだと思う。

 こんな小1時代を抱えながら、高学年になる頃には真面目っ子だと周囲に言われていたのだから、私は人にどう見られていた存在なのか不思議でたまらない。とはいえ心身ともに大きく成長を遂げる小学校6年間はとても長いのだから、人格形成に変化があるのは当然だと思う。

 プチ不登校を繰り返しつつも、学業面に支障はなく、学級委員や児童会書記の務めを果たした私は、地元の公立中学に入学した。


 中学では児童会書記の経歴から入学早々学級委員に任命された。学級委員の仕事はそこまで重圧ではない。授業前後の礼の声かけや、移動の時にクラスメートを纏めて引率するなど、多少面倒ではあるものの苦ではなかった。

 間もなく部活動の勧誘が行われ、私は吹奏楽部に入部した。クラリネットを担当することになった。いきなり楽器を持たされて曲を演奏することはなく、まず基礎練から始まる。入部したての1年生は廊下でマウスピース片手に音を出す練習をし、先輩達は教室で曲の練習をしていた。いつか私も先輩のように演奏できたら、と憧れを抱きながらマウスピースに息を吹き込んだ。

 中学になると、勉強と部活の両立が大変だ。と、自宅に送られてくる進研ゼミの漫画で散々学ばされたが、1年生の1学期のうちは授業に追いつけて、部活も簡単な基礎練ばかりだったので負担はなかった。大変になってくるのは夏休みからだ。小学校6年間、夏休みの宿題をやりきったらあとは遊んでばかり。8月中に登校するのは8月10日前後に一日だけ顔見せする程度。それが中学になったら、夏休みも毎日学校に行って部活動だ。吹奏楽部は夏にコンクールがある。全国大会を目指して先輩達は朝から晩まで土日も練習に明け暮れ、1年生はその間基礎練に打ち込む。その時点では、夏休みの宿題に手をつける余裕はギリギリあった。コンクールのプレッシャーがないからだろう。サザエさんのカツオのように、夏休み終了前日に家族総出で宿題を片づけるなんてことはなく、2学期の始業式の日にすべての宿題を提出できた。

 ここまで書けば、なんてことない中学1年生の夏であるが、私はこのときから少しずつ疲れを感じていた。ほとんど部活動一色で過ごした夏休みによって、私の中学生活は部活ありきで考えるようになっていた。部活の朝練、授業後に部活、土日も部活、朝から晩まで部活。宿題も趣味も入り込む隙間が失われていく。2学期に入ってからいよいよ本格的に曲の演奏練習が組み込まれ、先輩や顧問の指導にも熱が入るようになった。演奏できるのは楽しかったが、指導は段々と厳しさを増した。厳しい練習の後は疲れて、ろくに勉強もせずに寝て次また学校へ行く。朝練、授業後に部活、土日に部活。そんな毎日を繰り返していたら、案の定テストの成績はガタ落ちした。

 そのころからぼんやりと、部活動を休みたいと思うようになってきた。私は元々インドア人間だ。家でゴロゴロ過ごすのが好きだ。たまには家でのんびりテレビを見ながらお菓子をつまんで1日を過ごしたい。部活動で埋め尽くされる毎日が負担になっていた。

 1日だけでいい。学校に行かない日がほしい。家でのんびり過ごしたい。

 しかし部活動を休むのは勇気のいることだった。私の吹奏楽部では欠席を伝えるにはまず顧問に報告し、楽器ごとに分けられたパートのリーダーにも報告しなければならない。休んだ翌日は朝練前に顧問がいる職員室に赴き、欠席したことに「申し訳ございません」と頭を下げなくてはならなかった。一度風邪をひいて学校を休んだ際に、リーダーからその行程が必要な旨を聞かされた時は面食らったが、それがルールなのだから仕方ないと飲み込んだ。

 休むための報告はまだ分かるにしても、悪いことをしたわけではないのに翌日に顧問に頭を下げるだなんて、これでは休みをとりたいとは思わない。その行程が面倒な私は結局部活動に明け暮れた。

 部活動を休みたいけど休みにくい。それができないまま、私は日に日に授業中に時計の針を追うことが増えてきた。あと8時間で部活が始まる、あと5時間で部活が始まる、あと1時間、あと30分。朝学校に来て朝練をした後教室に入ってからは、毎日が次の部活までのカウントダウンをしている。時計を見るのをやめようと思っても、学校のチャイムが鳴ればいやでもおおよその時間帯の検討がつく。このチャイムが鳴れば、終礼をして部活だ。もうすぐ部活が始まる。行かなくてはならない。

 私は部活動に追いつめられていた。

 

 11月に吹奏楽部の集大成といえる定期演奏会が終わり、3年生はここで実質引退した。これからは1年生も演奏のメインとなって曲を奏でなくてはならない。

 しかし私はここで壁にぶつかった。私が担当していたクラリネットは冬の寒さで音程が低くなる。ピッチと呼ぶのだが、そのピッチを高くするには吹いて楽器内を温めていくしかない。3年生が引退し、1・2年生だけで参加する2月のコンサートに向けて練習をするのだが、私はどんなに吹いても音が高くならない。先輩と音あわせをしても、私だけ音程が合わないことが続いた。クラリネットを受け持っているメンバーは1・2年合わせて7人いたが、その7人の音程が合わなければ素晴らしい演奏には繋がらない。ピッチが合わない私ひとりだけが足を引っ張ってしまっては、他のパートのメンバーにも迷惑がかかる。2年生の新たなパートリーダーからは練習不足だと厳しい言葉を浴びせられたが、私は歯を食いしばって部活動に参加した。

 市内で開催された1月のソロコンサートで、私は銀賞を穫った。参加者は皆、金銀銅のいずれかの賞をもらえるので、銅賞は実質参加賞のようなものだ。銀賞を穫れた私は、決して演奏は下手ではないはず。

 それだけにピッチが私を大いに悩ませた。吹いても吹いても音が高くならない。合奏練習が中断され、クラリネットのパートメンバー全員が音楽室から出され、私の音程が周囲と合うまでリーダーと1対1で吹き続けた。その日のことは、がむしゃら吹いたことしか記憶にない。それでも私の音程は合わなかった。

 部活を辞めたい。泣きながら母親に伝えたのは1月末のことだったろうか。音程が合わない私は演奏する自信も失い、毎日のように受けるリーダーの叱責に恐怖を感じ、音を出すのも苦しくなっていた。日々の部活動で疲弊している私を、母親は咎めなかった。

 2月のコンサートはなんとか参加したが、その後私は部活動どころか学校に行くことも苦しくなっていた。朝起きるのはギリギリ、身体がなんとなく重い、身体がひどく寒い。季節の変わり目に弱い私は、多分そのせいで一時的に体調が悪いだけだと思っていたが、ついに学校に行くことを拒否し始めた。

 小学生の時のプチ不登校とはわけが違う。部活動で叱責されるのが嫌だ、同じ部員に見つかってあーだこーだ文句を言われたら嫌だ、先輩と顔を合わせるのが嫌だ。だから朝起きるのが辛いんだ。昨日の部活の疲れがとれないから辛いんだ。

 学校に行きたくない、とは親に直接言わず、体調が悪い・お腹が痛いなどと身体の不調を訴えて休んでいたが、いつかはバレてしまう。本当はそんな症状などないのに何日も休みたがる私に、とうとう母親は私を車に押し込んで学校に連れて行った。校門の前で学校に行きなさいと怒る母の顔を見ずに、後部座席でうずくまる私を見かねて、母は職員室に行き生活指導の先生を呼んだ。生活指導は私の副担任でもあり、スクールカウンセラーの斡旋など、中学生のメンタル面にも携わっている先生だった。

 やってきた先生に言われたのは「教室に入らなくていい。特別教室に行きましょう」。その言葉で、私は先生に手を引かれながら、通常学級の校舎とは別の校舎、美術室横にある特別教室に入った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る