脱獄(後)

 そんなある日、僕が昼間に外で雲の図鑑を片手に空を眺めていると、シアンがやって来た。

 海辺に近い、波の音がよく聞こえてくるこの場所は僕のお気に入りだが、孤島の端の方にありかなりの穴場スポットなので、知ってる人はほぼいないと思っていた。

 今の今までは。

「何でここにいると思ったの?」

「何年一緒にいると思ってるんだよ。俺はセナの担当者だよ?お気に入りの場所になりそうなところくらい、分かるよ」

「......ふうん。イリは?」

「他の人と試験の練習中。だから、この場所は2人だけの秘密だよ」

 いつもと変わらない穏やかな口調でそう言って、僕の隣へ腰を下ろした。そして、木々の間から海を眺め始めた。

 その時の僕にはシアンの表情は勿論、その表情から彼の心を読み取る事なんて出来ないから、見逃していた。

 彼の変化を。表情を。感情を。

 いつの間にか僕は図鑑を胸に抱えたまま寝てしまっていて、その傍にはシアンがまだ海をぼんやりと眺めていた。時折、僕の頭を梳くように撫でてくる。太陽の位置からすると、もう夕方かもしれない。かなり寝てしまってたみたいだ。

 夕方。イリの瞳の色...だっけ。あぁ、そう言えば夕焼けに染まる海は綺麗だ、ってシアンは言ってたっけ。

「.........ねぇ、セナ」

 静かに落ち着いた声音で、僕が起きている事に気付いたのか、シアンが口を開いた。

「このまま、逃げちゃおうか」

「え?」

 突然の一言に僕は固まってしまう。彼の、こんなに真面目な顔は見た事無くて、弱々しい声も聞いた事が無くて、戸惑ってしまった。

「君が色を知りたくないなら知らないままでいいんだ。でも、色の無い世界を見るからって、それが殺されていい理由になる筈が無い。君は、死ぬべきじゃない」

 淡々と告げる彼は、やはり僕の事をずっと気にしていたらしい。僕の為に、その目から涙を流していたらしい。

 そして彼は薄汚れた白衣を海の方へ投げ捨てると、今度は真っ直ぐ僕を見て、手を差し伸べた。


「このまま、逃げちゃおうか」


 僕は強く、その手を握った。

 そして、1歩踏み出したんだ。


 僕等はそのまま突き進んだ。シアンが自信満々に「俺についてきてよっ!」なんて言うから、とりあえず信じて歩いて行く。イリの事も気になったが、シアンは大丈夫だと言った。僕と違ってイリは治る見込みがあるそうで、殺される事は無いらしい。それを聞いて幾分か僕は安心した。

 もう辺りは暗くなって、頼りの明かりは月明かりの白い光。その月明かりも、あれだけ好きな雲に遮られて、朧月。まるで、僕等を試すように。

「足元、気を付けて」

「ありがと」

「......よし、ここだ......よ?」

 嬉しそうに言った彼の指差す先には、何も無かった。黒い海がゆらゆらと水面を揺らしているだけ。シアンにとっても想定外だったようで、慌てている。

「え?何で!?ここに船を置いて...っ!」

 その声と同時に、ガサガサと茂みから音がした。そこへ目を向けると、不敵な笑みを浮かべた屈強な黒いスーツ姿の男達がいた。シアンが僕の目の前に立って、僕を隠すようにしてくれる。

「...これを、探してんだろ?」

 男達が避けた後ろには、シアンが用意したと思われる船があった。どうやらシアンが用意した船を引き上げて、回収していたらしい。

「何で......」

「この病院から抜け出す患者が、今まで1人もいないとでも思ってたのか?...まぁ、担当者までが抜け出すなんて初めてだけどな。...いずれにせよ、それを止めるのが俺らの仕事だ」

 僕等の行動はお見通し、という事か。ここまでしてくるとは...、ここは本当に、病院というよりは監獄だ。

「今、大人しく捕まれば、生命は助けてやる。そいつはもうすぐ始末されるが、お前だけは助けてやるぞ」

 ゲラゲラと腹を抱えて笑う彼らに僕も少し腹が立ってきたが、2人でここで死んでしまうよりも、シアンだけでも生きるべきだと僕は判断し、僕は顔を上げた。そうしたらそこにはシアンはいなくなっていて、男が1人、吹っ飛んでいた。

 あまりの出来事に、僕は目を丸くしてしまう。

「セナがもうすぐ死ぬだと!?今なら助けてやるっ!?ふざっけんなっ!!」

 怒りがビリビリと伝わってくる。彼の顔は暗くてよく分からないけれど、その口調や肩で息をしているその姿から、相当頭にキているのは僕でも理解出来た。そう言えば、彼が怒っているところを初めて見たかもしれない。

 すぐに他の男達がシアンを押さえつけたが、シアンの言葉は止まらない。

「俺はっ!家族から無理矢理引き離されて、全てを捨てさせられてここに来たんだよ!そこで担当したセナを弟みたいに、イリを妹みたいに思ってたのに、セナが死ぬのを大人しく見とけ?!イリの治療に専念しろ!?ふざけんなよっ!!俺は、どうせ死ぬならセナと一緒に死んでやるよっ!どうせ、ここの担当者は1人を一般人にするまでここから出られないんだ!!ここの人間は全員、色んな問題を抱えた奴等ばっかりだ!だから、俺達はこんな所に縛られる訳にはいかないんだ!こんなっ、こんな監獄みたいなところでっ、セナもイリも、ここにいる人間誰1人として!マトモな"人間"になれるわけがない!」

「おいっ!誰かそいつを黙らせろっ!!」

 シアンは更に拘束されて、僕も一緒に車に乗せて連れていかれた。

 僕はいつもの病室に入れられたが、その日シアンが帰ってくる事は無かった。

 次の日の朝方、イリの部屋へ行こうと僅かに開けた扉の隙間から、やつれたシアンが部屋へ入っていくのが見えた。

 イリを誘い、2人で恐る恐る扉を開けると、シアンは布団に顔を埋めたまま、消え入るような声で呟くように言った。

「俺から誘っときながら、ごめん。助けられなくて、ごめんね」

 シアンは何も悪くないのに。何もかもを背負うべきは彼じゃ無いのに。

 イリはシアンや僕の感情や考えが流れてきているのか、眉を寄せている。けれど、何も言わずにシアンを見ていた。

 ふと、世界が歪んで見えてきて、僕が泣いているんだと気付いたのは、シアンのすすり泣く声が聞こえてからだった。


 あれからすぐに僕は殺される事になった。あの日逃げた事で時期が早まったんだろうか。それとも、元々この日の手筈だったんだろうか。

「セナ=アルド。前へ進め」

 両腕を男に捕まれて、僕は真っ白な台の上へ座るように命令された。そこからは黒い森が見えて、灰色の海が見える。僕のお気に入りの場所とは反対方向に当たるこの場所で、僕は殺されるのか。恐怖だって焦りだって感じているけれど、それを表に出さなかった。それがせめてもの彼等への抵抗だった。

 僕が死んだら、シアンとイリはどうなるんだろう。イリは治る見込みがあると言われているけれど、もしかしたら人を減らす為だけの理由で殺されるかもしれない。シアンも、彼等は僕に殺さないと言ったけど、僕が死んでから殺されるかもしれない。でも、どうなってしまうのかを、きっと僕は見る事が出来ないんだとは思う。

 男の手の内にある銃口が僕へ向けられ、キラリと光る。

「セナっ!」

 その時、はっきりとシアンの声が聞こえてきた。見ると、男に拘束されたシアンがそこにいた。今まで泣いていたのだろうか、その瞳はいつもよりも腫れているような気がした。

「......シアン、今までありがと」

 呟くように、僕は最期になるであろう言葉をシアンへ投げた。

「っ......そんな、そんなのっ!!」

「おい、しっかり押さえろ」

 もう、もういいんだよ、シアン。そんなに必死にならなくったって。僕は死んで、君は少しでも長く生きられる。そう、僕は君に生きて欲しいんだ。僕の、優しくて温かい『家族』だから。

「なんなんだよ!お前らのルールに合わない奴等をこうやって追いやって、生命も奪ってっ!!俺から見たら、お前らが異常だ、一般人なんかじゃないっ!!お願いだから、俺からセナを奪わないで!大切な家族を、奪わないでっ!!」

 その瞬間、変わった。


 モノクロだった僕の世界に、色が付いた。


 空は灰色じゃなくなって、その空をもっと濃くした海は太陽の光を浴びて輝いて、森は葉っぱの一枚一枚まで色が付いている。

 あぁ、神様って不公平だ。こんな、死ぬ間際になって、僕の目に色を移すなんて。

 ......死にたくない。死にたくない。僕はもっと見たい。この世界の色を。こんなにも腐っている世界だとしても、シアンやイリと一緒に見てみたい。......生きたい。生きたいっ!

 僕は拘束を振り払った。今まで1度も抵抗しなかったから、向こうはすっかり油断していたのか、思いの外あっさりと解けた。目の前の男から拳銃を奪い取り、3人にそれぞれ銃弾を撃つ。それからシアンの横にいる2人にも撃った。......これが血の色。今まで黒かったけど、こんなにも鮮やかなんだ。

 僕は、あんぐり口を開けてへたりこんでいるシアンへ近付いて、にっこり笑いかけて手を差し伸べる。


「このまま、逃げちゃおうか」


 シアンは驚いていたけれど、僕に笑いかけて手を取った。

「勿論」

 その目は、今日の空のように澄み渡った色をしていた。


 僕等は港へ向かった。そこには倒れた男が数人と、小型船にイリが乗っていた。イリはムスッと膨れっ面をしている。

「まーた私を置いて行こうとした!...酷いなあ」

「......イリ、どうやってここに来たんだ?」

「んー?新しい担当者さんに、挨拶代わりにバケツを頭から落としてみたら気絶してさ。で、逃げる為にここに来たはいいものの、いっぱい人がいるじゃん?だから、まぁ、ちょっと...」

 イリはウィンクして、船へ僕等を上げてくれた。シアンは船が動くかどうか確認する。

「...ね、セナ。今日の空はどんな具合?雲とかさ」

「綺麗だとは思う。シアンの目の色だ」

 僕の言葉にイリは目を丸くして、でもにっこりと笑って「ありがとう」と言ってくれた。

「よし、大丈夫。動かせそうだ」

 シアンはそう言って、それと同時に耳に痛いエンジン音が鳴り始める。それから少しして船は進み始めた。

 だんだんと小さくなっていく孤島と病院を見て、改めて退院...、いや監獄から脱獄出来たんだと実感する。

 これからどうなるんだろう。外での生活の仕方の分からない僕等は外でもやっていけるんだろうか。不安もあるけれど、でもきっと大丈夫だと思う。だって僕1人だけじゃない。シアンもイリも居てくれる。『家族』が一緒なんだから、どんな事があっても乗り越えられるって思う。

「そうだね、大丈夫だよ」

 見透かしたようにシアンは言い、イリもこくりと頷いた。

 さぁ、行こう。

 僕等の船出は、晴れやかなシアンの瞳の色の空に見守られていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

脱獄 本田玲臨 @Leiri0514

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説