第16話:克服

 モヤモヤしたまま二日目。

「おはよ。緋乃」

「おっ…おはよう」

 朝食は昨夜と同じく大ホールのバイキング形式で、自由にお皿へ盛って食べる。

 特に変わった様子はないけど、翔がどことなく遠く感じた。

「緋乃?どうしたんだ?昨夜から上の空みたいだけど」

 衛の心配にドキッとする。

「べっ、別に普通だよっ」


 朝食の後、午前中は近くの観光地を回ることになった。

 お土産屋や仏閣があって、夏休み期間中だからか人も多い。

 あれこれ見ている中で雪絵と二人になる。


「口出ししないつもりだったけど、心配無いから楽しんで。翔が気にする」

「えっ…」

 心配無いって…でも気になるよ~っ!!

 昨夜のことは翔から直接聞きたい。

 でも雪絵は心配無いとだけ…。

 どうしたらいいの?


「ところで雪絵、前に言ってた最終段階って何?」

 これは前から気になっていたことだった。

「よく覚えてたね…もう過ぎたことだから教える。第一段階は、緋乃が翔と普通に話せることを翔に認識させること。第二段階は緋乃が翔と普通に会話できること。第三段階は翔に告白すること。最終段階は翔と付き合うこと」

 ということは、第一段階は雪絵がバッティングマシンを使った時…?

 そんな前からもうそこまで考えてたの?


 お昼はそのまま近くのお店で済ませた。

 ホテルに戻ってきて、雪絵と俊哉は部屋でゆっくりするということになって、あたしと翔と詩依と衛は再び海に繰り出す。

 詩依は海の家へアイスを買いに行く。


「ふう、暑いわねぇ…」

 詩依が呟く。

 緋乃と翔がなんかぎこちないのが気になるけど、二人の問題よね。

 近くで子供の泣き声を聞いて、子供に目を向ける。

 小さな男の子。

「ママーッ!!パパーッ!!」

 どう見ても迷子ね。

 近くに迷子センターがあったはずだから、そこに預ければいいかな。アイスを買うのその後でいいかしら。

「僕、どうしたのぉ?」

 わんわん泣き止まない子供に、しゃがんで目線の高さを合わせる。

「ママが…パパが…」

「はぐれちゃったのねぇ?」

 ぐしぐしとグズる子をなだめながら、近くの迷子センターまで手を引っ張っていく。

「あの、迷子がいましたのでぇ」

「あっママっパパっ!!」

 迷子センターに両親がいたらしい。子供がパッと笑顔を咲かせて両親のところへ駆けていく。

 しかし…。


 パシーン!!

 感動の再会と思ったら、迎えたのは痛い平手だった。

「あれほど勝手に歩き回るなと言っただろう!?余計な手間をかけさせて」

 一瞬、詩依の顔から笑顔が消えた。

 迷子センターのスタッフも対応に困るが、両親は男の子を連れてそこを離れる。

 いつもの笑顔に影を落としたまま、詩依は緋乃のいる場所へ足を運ぶ。


「あっ、詩依~。おかえり~」

「…ただいまぁ」

 いつも眩しい詩依の笑顔が、今は何か曇っている。

「どしたの?」

「うん、ちょっと一人で見たいところがあるから行ってくるぅ」

「具合悪いんだったら部屋に戻ってたら?」

「大丈夫…それじゃ行ってくるねぇ」

 詩依は一人で砂浜を歩き出す。

 持ってきていた大きな浮き輪を膨らませて、人の少ない波打ち際から沖を目指す。

 浮き輪の穴にお尻を落として、ゆらゆらと波に乗る。

 空をボーッと眺めながらさっきの男の子を思い出す。

 そして、詩依自身のことを重ね合わせる。


 夕方になり、ホテルの部屋に戻ってきた。

「あれ?詩依は?」

 雪絵の部屋を訪ねて、詩依の姿が無いことに気づく。

「来てない。一緒じゃなかったの?」

「何か具合が悪そうな気がしたけど、一人で見たい場所があるって言ってどこかに行っちゃった」

 グループが集まり、事情を話した。

「詩依が戻ってないっ!?」

 衛が叫ぶ。

「すぐに探すぞっ!!翔と緋乃は警察に届けてくれっ!!」

「わかった」


 この頃…。

 パチ。

 目が覚めた。

「あれぇ…?空が暗い…」

 周りを見渡して、事態の深刻さに気づいた。

「いけない、つい眠って…そのまま流されたんだぁ」

 浮き輪に乗る体勢から、浮き輪に捕まって泳ぐ体勢になり、岸を目指す。

「岸にあのホテル…見える範囲にない…ずいぶん遠くまで流されたんじゃぁ…?」

 あたしは見える範囲で一番近いと思う岸に進路を取る。

 日がだんだん落ちてきて、辺りは闇に閉ざされた。


「はあっ、はあっ、はあっ…」

 もう考える余裕もなく、ただ岸へたどり着くことだけが頭を占める。

 あと少し。

 足がついた。

 バシャバシャと砂浜を上がって周りを見るけど、やっぱり見覚えのない風景だった。

「どうしよぅ…」

 フラフラと砂浜を歩くものの、長い時間泳いでいた疲れで、意識が薄れてそのまま砂浜に倒れ込んだ。


「ん…」

「おっ、気づいたみたいだ」

 見覚えのない天井だった。

 薄っすらとしている意識の中で、声の主を探す。

 あたしは水着の上からバスローブを着せられていた。

「ひっ!!?」

 声の主の顔を見て、恐怖があたしを支配する。

「おや、どうしたんだ?」

 後ずさりして、壁に突き当たる。

 自分でもわかるくらい、顔が引きつっていた。

「おーい、来てくれ。気づいたみたいだけど様子がおかしい」

「はいはーい。今行きますね」

 姿を見せたその夫婦は、忌まわしい記憶を呼び起こした。


 小さい頃…。

 パシーン!!

 頬をひっぱたかれた。

 何もしてないのに、理由もなく叩かれる。

 最初は痛さで泣いていた。

 この親による暴力はすぐ収まると思っていたけど、段々とエスカレートしていって、時々病院にかかるほどまでになっていた。

 父も母もあたしに手を上げる。あたしに味方はいなかった。

 両親は不仲で、不満のはけ口にされていたことを後で知ることとなる。

 泣くと余計に痛いことをされるから、いつの頃からか叩かれても痛くても笑うようにしてみた。


 この痛くされても笑う反応は、自分の身を守ることに効果があった。

 人は想定と逆の反応をされると、気味悪く思って興が冷めるもの。

 こんな生活がと何年続くのかと、一人部屋で泣いていた。

 味方はいない。

 ただ耐えるしかない。

 自分の身は自分で守る。

 一緒に住んでる親が手を上げて、痛くされるのは避けられない。

 だったらせめてその痛みを最小限に抑えるしか、生きる術がない。

 いっそ家を出ていこうとも思ったけど、幼いあたしに身寄りはない。

 せめてできる抵抗は、アザや傷をあえて見えるようにして、外の公園や近所を歩くことだった。

 近所を歩いてる時に、心無い大人からは陰口を耳にもした。

 けどそれが続くうちに様子が変なことに気づいたのか、近所でもこの家庭で児童虐待が起きていると噂になり、行政が重い腰を上げた。


 両親は児童虐待の罪で逮捕され、裁判の結果は親権剥奪。

 あたしは養子として今の親に引き取られることになる。


 もう、あんな痛いことは嫌…。

 けど笑ってさえいれば、痛いことをされる時間を短くできることを覚えたあたしは、いつも感情と関係なく笑顔でいることをやめられなかった。

 今の親は血の繋がりがないのに、とても優しくしてくれる。

 でも笑顔は自分の身を守るために必要なこと。

 処世術として身に染み込んでしまった生き方を変えるのは無理だった。

 今の姓は養子として引き取られた今の親のもの。

 元の姓は「安蒜あんびる」だった。


 そして今、目の前にいる夫婦はおそらく生みの親の実年齢より上だろう。

 その二人は…生みの親、安蒜夫婦にそっくりだった。

 忌まわしい記憶が蘇る。


 笑顔…笑顔…笑顔で…いなきゃ…痛いのは嫌…痛いのは嫌…痛いのは…嫌ぁっ!!!


 必死に笑顔を作る。

 自分でもわかる、引きつった不自然な笑顔。

「何が…怖いの?そんな顔されちゃ困るわ」

 怖い…確かにそのとおりだった。

 あたしもまだまだだな…見抜かれちゃうなんて…。

 それくらい、子供の頃に虐待された記憶は強烈だった。

 混沌とした感情のまま、真顔に戻った顔は影を落とす。


「怯えてしまってごめんなさい。状況がわからなくて混乱しててぇ…」

 この家庭は小鮒こふなという姓だった。

 去年に娘二人が家を出ていき、夫婦で二人暮らし。


「どうぞ。こんなものしかなくてごめんなさい」

 あたしの気持ちが落ち着いた頃、この夫婦と一緒に食卓を囲むことになり、ごはん、味噌汁、焼き魚、おひたしを出された。

「いいんだ。こっちこそ怖がらせてしまって申し訳ない。しかし驚いたよ。釣りの帰り道に砂浜で倒れていたんだから」

 ニカッと笑うおじさま。

「見たところ海水浴客みたいだけど、どこから来たの?」

 おばさまが聞いてくる。

 あたしは泊まっていたホテルの特徴と周辺のことを教えた。

「そうか。たぶんそのホテルなら、車で三十~四十分くらいだな。今日は遅いから明日送ることにしよう」

「いえ、そこまでしてもらうわけにはぁ…」

「若いもんが遠慮するな。明日行く釣りのついでだ」

「釣りをしてるんですかぁ」

「おうよ。これでも県大会で入賞したことがあるんだぞ」

「また始まったよ。あんたは釣りの話が好きだねぇ」

 和気あいあいと話が盛り上がる。


「ごちそうさまでしたぁ」

「海水で体ベタベタでしょ?お風呂入っておいで」

 と、おばさま。

「でもぉ…」

「いいからいいからっ!」

 おばさまに肩を掴まれ、そのままお風呂まで連れて行かれる。


「ふぅ…」

 こんな人達もいるんだなぁ…。

 湯船に浸かりながら思いを馳せる。

 そういえば携帯もホテルに置いてきちゃったな。

 衛の番号もメモリに入ってるけど覚えてないし…。


「着替え、ここに置いておくよ」

 ドア越しにおばさまの声が聞こえた。

「あっ、はぁい」

 着替え?

 一体何の…誰のだろう?


 体を洗ってお風呂を上がる。

 脱衣所には下着と寝間着が置いてあった。

「あの、この服はぁ…?」

「出ていった娘が置いてったものでね、タンスにしまってあったものを出したのよ。サイズは大丈夫かしら?」

 そういうことだったんだ。

「はい。ありがとうございますぅ」

「今日はもう遅いから寝てお行きなさい」

「何から何まで、ありがとうございますぅ」

「あなたを見てると、出ていった下の娘を思い出すわ」

 ふふふっとあたしを見る。

「夫も下の娘を思い出したのか、やたら上機嫌なのよ」

「そうなんですねぇ」

 あたしに似てる人か…見てみたい気がする。

 こんな温かい家庭に生まれてきたら、また違う生き方ができたんだろうな。

 お風呂で心までポカポカになったあたしは寝床につく。


 その頃…。

「詩依…大丈夫かな…?」

「たぶん」

 いつもは確信したかのような言い方をする雪絵が、珍しく濁した言い方をする。

「あた…」

「緋乃のせいじゃないわ。詩依が自分で行き先を決めたんでしょ?」

 雪絵の言葉に、あたしは俯く。

「…止めればよかった。様子がおかしかったもの…あたしが止めれば…こんなことには…」


「もう時間が遅い。ホテルに戻ろう」

 詩依を探していた男三人は再びホテルの前に集まり、衛が言い出す。

「そうだな、警察にも動いてもらってるし今日のところは…」

 三人はそれぞれ部屋に戻った。

 詩依が戻ってきたら真っ先に顔を見たくて、緋乃は雪絵の部屋にいることにした。

 翔は一人で一部屋を使う。

 シャワールームで体を流し、着替える。

「それじゃおやすみ」

 衛が俊哉に言う。


 少しして…

 衛は俊哉に気づかれないようこっそり起きて、そっとホテルの外に出る。

「さて…どっちから…」

「やっぱりな。水臭いぜ」

 灯りの届かない暗がりから姿を現す翔。

「…気づいてたのか」

「バレバレなんだよ」

 後ろの出入り口から声がかかる。

「俊哉まで…」

「お前のわがままに付き合わせたくなくて、俺たちに気を遣ったんだろ?こうなったらとことんまで探させてもらうぜ」

 衛は、前に暴れて散々迷惑をかけたこの二人には、情けをかけてもらうつもりはなかった。

 この夜通し探し続けるキツい役回りを押し付けるつもりもなかった。

 だから三人集まった時、休むことにして一旦引き上げた。

 こんな苦行は俺一人だけで十分、とこっそり部屋を抜け出した。

 二人が朝に起きたら「無茶しやがって」と呆れられただろう。

 けど、見抜かれていた。

 ここで言い合っても多分引かないだろう。

「わかった、見つけたら電話してくれ」


 翌朝。

 朝ごはんにも早い朝五時。

 詩依は連絡もせずに一晩を過ごし、みんなに心配させていることを心配したから、おじさまが起きてからすぐに送ってもらうことにした。

「それでは、大変お世話になりましたぁ。このご恩は必ずお返ししますぅ」

 深々と頭を下げる詩依。

「いいのよ。こちらこそ素敵な時間をありがとう」

「あと、この服は洗って返しますぅ。住所を教えてください」

「捨てるつもりだったから返さなくてもいいんだけど、住所はこれね」

 住所を書かれたメモを受け取る。

「ありがとう。おばさまぁ」

「元気でね。詩依ちゃん」


 心からの笑顔で送り出され、詩依も心からの笑顔を返した。

 おじさまが運転する車に乗り、ホテルへ向かう。

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