第35話

 黄ばんだ紙は四隅が少しずつ欠けて、虫の死骸みたいにバラバラと崩れ落ちた。サクラはこれ以上、壊れないようにとそっとつまみ、ユキトに見せた。

 ユキトはひくひくと頬を吊り上げて、さも嫌そうにそれを眺めた。ユキトにもともと返す予定ではあったが、この様子じゃ受け取ってくれないだろう。


 「テリーサとブラントをまとめた紙。一昨日の夜にボロボロになっててるのに気がついたの」


 「一昨日って……襲われた日の……」


 鳩頭の怪物に襲われた夜にリツの部屋で見つけた。そこにあった文字列は雨に濡れて溶けたかのようなシミに変わって、何が書いてあったのかわからない。

 ユキトは唇を噛んで、小さく唸りながらその奇妙な紙を見つめた。あまりにその時間が長く感じて、サクラは少し焦ったくなり「どう思う?」と問う。自分の声はいつもより低く、掠れていた。そこで、ユキトはようやく喋り方を思い出したかのように口を開いた。


 「アプラスの影響は影響だろうけど、よりによってなんでこれなのかが、俺にとっては疑問だ」


 「やっぱりアプラスだよね? これ、確かリツに会う前に見た覚えがあるんだけど、その時はなんともなかったから」


 「うわ、出た。汚い紙」


 2人の会話にリツの声が入る。車の中で爆睡していたが、それでもなお眠そうだ。グレイッシュのラメに光る瞼が下がっている。


 「ああ、うん。これ、ユキトのなんだよね」


 「いや、いらねえよ。サクラにやるよ」


 「それはどうでもいいんだけど」


 リツは言葉通りの怠そうな表情で、ため息をつく。俯いても、サクラからはその顔がよく見えた。その時、そういえばと思い出す。モモカがいない。

 リツに聞こうとしたが、すぐにそれは必要ないことだとわかる。


 「リッちゃん……!! 待ってよぉ……!!」


 モモカは人混みに呑まれてヘナヘナと頼りなく声をあげた。通行人にフェイントをかけられて、その度に妙な子供っぽいリアクションをとる。そうして、ようやくリツに追いついた。なんだかお散歩中のキンクマハムスターがいじめられていると、サクラは直感的に思った。

 「ごめんごめん」とあまり反省してないようにリツはモモカの肩を軽く叩いていた。「リッちゃん歩くの速いよ」なんて拗ねたモモカを宥めた所で、サクラとユキトの話に戻す。

 2人に簡単に紙が変化したことを伝えた。一応その様子を目撃していたリツは眉をひそめただけだった。一方のモモカは信じられないのか、息を飲んで目を丸く見開いて、まじまじと紙を見つめる。


 「アプラスがどう干渉して何か影響を及ぼすにしても……なんでこの、ただの紙がボロボロになるんだろうな」


 ユキトはサクラが持つ紙におずおずと触れる。まるで触ったら呪われるんじゃないかと、大きな指先が震えていた。少し摘まむとパリパリと崩れていく。そんな当たり前のことになんだかユキトは驚いたみたいで、すぐさま手を離した。

 サクラは溶けた文字を解読できないかと、もう一度眺める。よく見れば、サクラが書いた少し縦長の癖字が薄らと面影を残している。

 『アプラス』や『テリーサ』に『ブラント』なんかの人名は紛れもなく自分で書いた。ぼやけてよく見えないけれど、長い間、自分と付き合ってきた少し縦長の癖字だ。そんな見慣れたものからなんだか怨念というか、薄気味悪い悪寒が首根っこを指先で撫でてくる。そんな気がしてならない。


 「もしかして、これに書いてあったことが何か重要な手掛かりになる……なんて、ちがうかな?」


 気味が悪い沈黙を、そっと突いて破るようにモモカは遠慮がちに切り出した。


 「隠蔽ってこと?」


 「わかんないけど……」


 ふと顔をあげてモモカを見下ろすと、彼女は自信なさげに、もじもじと肩を竦めた。やっぱりハムスターだ。


 「何を書いたか覚えてんの?」


 「項目だけ思い出せればあとはなんとでも調べられるよ」


 「そんな、調べられるようなことを隠すかや、普通。そもそも、マルルやアプラスからのメッセージって前提があってんのかもわかんねーし……」


 ユキトが頷くのに対し、リツは怪訝そうに表情を歪めた。やっぱり眠たいのだろう、少し気怠げにため息を吐いて、一息で話した。自分の提案が否定されたとでも思ったのか、モモカはしゅんとして、「違ったかなぁ」と笑う。


 「ご尤もだけど、考察はたくさんした方がいいよ。どれか一つでも当たれば、対処していけるからさ」


 サクラはやんわりと二人の意見を取り持つように話して続ける。


 「やっぱりテリーサがアプラスの正体なのかな……人形師で……共通点も多いし。隠蔽だとすればテリーサのことを調べられると困る……って筋も通るし」


 そう言って、紙をそっと畳む。パキパキと音が鳴り、真っ二つになる。取っておいてもどうしようもないのだけど、捨てたら捨てたで何か嫌な予感がするのだった。

 ユキトは相変わらず、嫌そうにその紙を横目で見ながら口を開く。


 「俺もそう思う。で、さらに追加して考えると……マルルはテリーサに造られた人形だ。たぶん、テリーサはなんらかの原因で魔女アプラスへとなる。そして、俺にしたみたいにブラントにも夢で影響を与えていたんじゃないか?」


 「あたしは、隠蔽なのかが引っかかるけど」


 サクラはコンビニの袋に紙を入れて、小さく畳んで鞄のポケットに入れた。その間もずっとそれぞれの話に耳を立てていた。サクラはファスナーを閉めて、リツとモモカの顔を交互に見た。眠たそうに眼光だけ鋭いリツと、モモカはキュッと肩を丸めて自信なさげにリツを見上げていた。


 「なんらかの原因……これがテリーサが意図的なのかどうかもわかんねえけど。俺の頭で思いつくことは、こんなもんだ」


 ユキトが軽く自嘲するかのように鼻で笑う。館内放送が軽快な鐘の音を響かせて午後1時を告げる。サクラはこっそりとその音にびくりと肩を震わせて、人のざわつきにホッと胸を撫で下ろした。

 リツが一瞬妙に頬を引き攣らせて、唇を噛む。サクラと目が合うとあからさまに視線を外した。


 「うん……わたしもその仮説を否定するほど情報もなければ考えも至らないよ」


 サクラはちらりと横目でユキトの方を見る。パーカーのポケットに手を突っ込んで、落ち着かないのか重心を何度も変えていた。


 「その原因が、ブラント展でわかるといいけど」


 そう言ってリツは欠伸をする。それとなく話はそこで終わり、ユキトがそろそろ行くかと歩き出す。モモカの冷えた手が慌てたようにサクラの腕を掴む。「人が多いから」とはにかんで泣きそうな顔をする。「モモカ小さいから見失うんだ」とサクラは少し意地悪に笑ってやると、モモカは「みんなの背が高いから」と不満げだった。


 美術館まで、もうあと少し。

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