第32話

 リツが敷いてくれた薄手の布団の中で、黙り込んでると鳩頭のことばかり考えてしまい、眠れなかった。リツも同じだったみたいで、気づけば話していた。学生の頃の話も今の仕事のことも。モモカのこと、家族と友達、恋愛のこと、趣味のこと、ブラントのこと。10年間の空白を埋めるみたいに話し続けていた。それは、まるでタイムマシンに乗ったみたいに、記憶が鮮やかに色づいた。


 深夜の2時を回った頃、それとなく話は途切れ、サクラもリツも無言になっていた。壁掛けの電波時計からネジが擦れるような音が静かに流れて、時折、外でバイクが走り去っていったり、救急車のサイレンが聞こえる。リツもまだ眠れないのか何度も寝返りをうつ音がした。サクラは薄青く落ち込んだ天井をぼうっと眺めながら、まだタイムマシンの中にいた。


 今は中学生。中学生3年生の春だ。気怠く重たい空気が桜の花弁をどこからか運んでくる。わたしは乙輪商店街に来ている。友達にとても可愛い雑貨屋や少し変わったグッズが売ってると聞いたんだ。わたしのペンケースは文房具屋で買ったベージュにピンクのラインが入ったやつ。可愛くないんだ。だから少し変わってて可愛いのが欲しかった。

 保健体育の授業中に、ページを捲ってたらナントカっていう偉い人が作った表が出てきた。思春期はアイデンティティの確立をする時期だって、そう書いてあった。少し前にアイデンティティってなんだろうって、最近の流行の歌詞にあったと思って、辞書で調べたことがあったけどイマイチわからなかったことを覚えている。そして、教科書の端っこにいた女の子が「わたしって何?」って言っていた。

 わたしは、無個性だ。個性がないから何者でもない。所属という括りで見れば、委員会もしてなければ部活も籍を置いているだけの文芸部だ。勉強も飛び抜けてできるものなんてないし、逆に苦手すぎるものもない。ペンケースもリュックも、髪型も顔も……何一つ特徴がない。仲良しグループは日菜子とえりかとわたしを入れて3人だけど、実は日菜子とえりかの2人で完結していることも知っている。

 サクラは小さく口を開いて、10年後、静かに静かに声を漏らす。


 「ね、リツ。これは独り言なんだけどね……」


 わたしはいても、いなくてもいいんじゃないの。

 そう思った瞬間。教室の廊下側から2列目、後ろから3番目の席の真下に穴が開く。落下すると思いきや、穴の方がみるみる広がって周りの飲み込んでいった。


 「わたしにとって魔法少女は特別だったんだ」


 わたしの、唯一の特徴は方向音痴。だからかもしれない。マルルがいたあの店に辿り着いた。


 「何にもないからさ、わたし。小さい頃から大体のことは人並みにできてたけど、得意なことなんてなかったんだ」


 ペンケースを買ったら何か変わるかもしれないって淡い期待を抱いていたわたしが、出会ったのは異世界の住民。彼女が持っていたのは、くだらない日常から非日常への往復切符だった。行った先はキラキラと形容できない不思議な色に光る世界だった。


 「そんな時にマルルに出会って、魔法少女になった。それは今じゃ考えられないくらい特別だったわけ」


 タイムマシンから出ると、暗く青い箱の中だ。2人のタイミングのズレた呼吸が漂う、一人暮らしの部屋。

 魔法少女だったサクラの1年は、あっけなく終わった。卒業式でまたねって言って笑った日菜子とえりかはサクラの中ではまだ白襟セーラー服の中学生なのだ。


 「結局は何も残らなかったと思ってたけど、それでも魔法少女だった頃は輝いてて、手放しがたい栄光なんだよ」


 だから、わたしは何者かを与えてくれた魔法少女に救われた。魔法少女だったリツとモモカに救われたのだと思う。


 「それと、リツやモモカと友達になれたのも嬉しかった」


 サクラは最後にそう言って寝返りを打った。視線の先にテーブルタップのスイッチがチカチカゆらゆらとオレンジに光っている。

 リツは無言だった。息遣いや、寝返りで起きてるのはわかる。返事をしたくないだけかもしれない。サクラとしては言うだけ言って、というよりは記憶や昔の気持ちを口にして脳味噌が少しだけ整理されたような気がした。


 「うるさくてごめん。それじゃあ、おやすみ」


 サクラはなんだか恥ずかしいような気がして、布団を手繰り寄せた。


 「……あたしは……魔法少女なんて二度とごめんだね」


 少しの間を持ってから響いたリツの声は低く、沈んでいた。なんとなく、深海の中にいるみたいだとサクラは思う。


 「普通が良かった」


 「普通……?」


 「普通に友達作って、普通に勉強して、普通に部活して、普通に恋愛したかった……」


 リツも独り言みたいに、ぼそぼそと続ける。


 「魔法少女の時間は誰にも知られない。側から見れば不気味な存在だったみたいでさ。部活でも勉強でも習い事でもない。誰かと遊んでるわけでもない……そうすると、人に言えないことをしてるって思われるわけ。迷惑な話よ」


 ゆっくりとベッドの上に目線を上げた。この位置じゃリツの姿なんて見えない。ましてやどんな表情なのかもわからない。だけど、吐き捨てて呆れたような……妙な息遣いで、リツの当時が思い出し難い苦しいものだったと感じ取れた。

 さっき話したときはそんな風に思わなかったのだけど。


 「もともとあたしは人見知りだし、口下手だし、面白い奴でもなければ、すごい才能の持ち主でもないから。器用に女子高生と魔法少女を両立する技量なんてなかったんだ」


 それは、サクラにも心当たりがある。人見知りはしない方だけども。わたしは魔法少女だから、学校なんてどうでもいいとさえ思っていた。自分なんて普通の14歳の取るに足らない子供だったのに、どうして特別になったなんて思ったのだろう。日菜子やえりかからしたら、何も変わらないのに桜は突然付き合いが悪くなったんだ。


 「あんたやモモカに会えたことまでは否定しないけど。それでも特別の代償は平穏だったから」


 現実を蔑ろにして逃げていた桜と、現実に真っ向から向かったのに不器用で上手くいかなかった律。

 その後もサクラはずっと逃げてきた。魔法少女以外で自信なんか持てなかったから、いきなりそれを失って何もできなくなってしまった。

 わたしのアイデンティティはきっと魔法少女だった。


 「わたしと、リツは違うね」


 「そう。きっと分かり合えない」


 「仲良くもできない?」


 リツは静かに笑う。2人の会話はそれっきりだった。

 しばらく天井を眺めており、ようやくウトウトしてきたのは空が白みだした頃。鳩頭をチェリーが殺した時だった。時計の轟音が頭を突き刺す。気がつくとスマホのコール音が鳴り響いていた。

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