第31話
リツと一緒にユキトを社宅まで送り届けて、リツのアパートに戻る。ユキトとリツの家は車で15分かからないくらいの距離であった。
送迎中、助手席でリツがモモカに一連の報告をしてくれていたが、返信はなかった。
帰りにコンビニで新品の下着や歯ブラシを購入して、部屋着はジャージを借りることにした。
家に着くと、ユキトを送り出したままに空のコップが3つテーブルに置いてある。リツは片付けてる間に風呂にでも入っててと、サクラにジャージを押しつけた。
一人暮らしのアパートの狭い浴室で、柑橘の甘酸っぱい香りが髪に絡まる。湿気を帯びた鏡を掌で撫でると、首元を赤く腫らしたサクラがぼんやりと浮かんだ。現実じゃない世界が触れた痕だった。
サクラは温まった身体が冷えていく感覚を覚えて、そそくさと浴室から出た。テレビの音が聞こえる。たぶんバラエティだ。観客の笑い声に気が抜けてしまう。
お風呂から出るとテーブルに何故かゆかりのおにぎりと、お茶の入ったマグカップがそれぞれ2つ、置いてあった。「食べたりなくて」とリツは細い体に少し大きめのおにぎり2つを収めていく。サクラも勧められたが、おにぎりだけは丁重にお断りした。
リツは皿を片付けて、シャワーを浴びに行った。
開けっぱなしの寝室の方にはベッドの下にサクラの分の布団も用意してくれてある。
サクラは白い座椅子に体育座りして、ついたまま勝手に流れるテレビを眺めていた。バラエティが終わってニュースに切り替わる。その頃に、リツもジャージを着て風呂から上がってきた。そして流れるようにサクラの隣に座った。
2人は並んで今日のニュースを見ていた。今日も他県の知事が当選したり、俳優が賞を取ってたり、50近くなった芸人が30代の一般女性と結婚したり、コンビニに普通車が突っ込んであわや大惨事だったり。
いつかどこかで見たような話題に事件や事故ばかりだ。異世界に連れ込まれて殺されかけたわたしたちなんて置き去りにして、世間は平然と過ぎ去っていく。
「今日は……ありがと」
不意にリツが呟く。聞こえると聞こえないの瀬戸際で、ぼそりと膝を抱えて。
「ああ、うん。こちらこそ」
ちらりとリツを横目で見る。すらりと高い背丈を小さく小さく丸めていた。膝を抱える手に、短く切り揃えられた爪先はささくれが目立ち、少し赤く荒れている。
「リツ、巻き込んでごめんね」
「……あんたのせいじゃないけどね」
リツの溜め息には諦めたような、どうしようもなく笑うしかない……といったような含み笑いの色が見えた。
「どこまで、調査進んでんの」
「アプラスの?」
「それ以外何があるんだよ」
サクラは口の中で言葉がごねてつっかえるような感覚を覚えつつも、今までのことを一から話した。ユキトに声をかけられてアプラスの存在を知った件なんかは前も話したけど、それでもリツは黙って聞いていた。そのおかげか、気がつけば普通に思考と感情と喉が繋がって、随分と流暢に話せるようになっていた。
その後に知ったテリーサ・アプラスのことを話した時に、以前ユキトと考察したメモが手帳に挟んであったことを思い出した。結局、共通点なんて見つからなかったけど、今リツが違う角度でメモを見たら何か新しい発見があるかもしれない。
サクラは鞄を探って、花と兎が表紙に描かれた手帳を取り出して開く。ユキトから借りっぱなしのメモは何年も日向に放置されたみたいに黄ばんでいた。変だ。普通のコピー用紙が短期間でこんなに劣化するなんて。
リツも「汚い紙」と呟く。サクラは恐る恐る紙を摘んで広げて、目を疑った。リツが隣で呻くように息を呑んだ。
文字がどろどろに溶けていたのだ。ちょうどボールペンで書いた文字が雨に濡れて滲んだ状態に似ているが、どこか妙だ。濡れた時のような皺が一切ないし、文字を書いたインクは、はっきりと筋を作って垂れている。
「濡らしたの?」
違うでしょ、と言うようにリツは聞く。
「濡らしてないよ……この前書いて、ずっと手帳に挟んでたんだからそう簡単に劣化するわけないし」
「……きもちわる」
サクラは指で、アプラスという文字だった場所に触れる。鏡の中に現れた魔法少女と会ったりや異世界に連れ込まれて殺されかけたりした今、紙がボロボロになったくらい可愛いものだとさえ思う。
仕方ないと考えるのも放棄して、サクラは意味を失って使い物にならなくなったメモ用紙を畳んだ。セミの抜け殻や枯葉が崩れていくみたいにパリパリと不快な音を立てた。
「本当に、勘弁してほしいわ」とリツは俯く。
「なんで殺されなきゃなんねえの。魔法少女は世界救ったんじゃなかったの」
「魔法少女が生きてるとアプラスに、何か不都合なことがあるのかな……だからこうやって魔法少女は命を狙われる」
サクラの言葉を引き金に「ねえ、今思ったんだけど」とリツは勢いよく顔を上げる。まだしっとりとした髪が重たげに揺れた。
「それ、めっちゃ違和感ない?」
サクラからしたらアプラスも魔法少女もマルルも全部謎だから、何が違和感なのかもピンと来ない。
ぽかんとしたような、そんな様子を見てか、リツは待ちきれなくて勝手に話し始める。
「目立ちすぎなんだよ。ただ殺したいならこんな目立つ方法をとるかや?」
「目立つって……心臓を抉って殺してること?」
リツの勢いに押し負けて、サクラはたじろぎながら答える。
「もっと言えば、わざわざ関連づけて明らかに同一犯のように見せとること。そんなに世間を賑わせるのに何の意味がある? こうして、あたしらや他の魔法少女にバレたら邪魔が入るなんて予想できんかったんかな」
ずっとアプラスの正体や目的ばかりを追っていたサクラにとってそれは確かに盲点だった。ただ殺したいだけなら、事故死に見せかけたり、むしろアプラスなら異世界に連れ込んで行方不明にしてしまうことだってできるだろう。
「ああ……確かに、そうね……よっぽどアプラスが殺しに自信があって、わたしらに恐怖心を植え付けたい……とか? 現に探り入れてるけど邪魔はできてない気もするし」
「ただ迫りくる恐怖心を与えたいにしたら、周りくどいよ。気づかない人の方が多いと思うし。全部中途半端なんだよ」
一気に話したリツは口の中が渇いたのか、置きっぱなしにしてあったカップのお茶を飲んで続ける。
「アプラスって実はただの快楽殺人鬼なのかもしれない……」
「それはつまり……世間一般のイメージ通りのシリアルキラーってこと?」
自分で口にした途端、指先から体に向かって毛虫でも這うかのような不快な恐怖感が襲ってきた。
「例えばの仮説。10年前に、アプラスは十代の女の子をターゲットにしていた。それをマルルが魔法少女という形で守っていた。それでアプラスを倒した……封印したけど、復活。シリアルキラーは殺しに強いこだわりがあるから……失敗した復讐も兼ねて……」
「怖い怖い怖い!! そんな恐ろしい考察やめてよ!!」
耐えきれなくなって、サクラは夜中にもかかわらず叫んでしまう。
わたしを殺そうとした鳩頭は現実味がなくて怖い夢でも見た後のじっとりとこびりつくような恐怖感を植えつけてきた。それがリツの考察で、突然立体的な現実のものになったのだ。その恐怖感は空虚な魔女とは違って、自分のいる次元、真横かもしくは真後ろにいて、目を閉じたまま少し手を伸ばせば触れてしまう。
「まあ……どんな背景でも、なんでもいいよ。所詮あの胡散臭い人形と得体の知れない魔女のしてることだし……ただ、あたしは絶対に死にたくないし、そんな世界を救った割に合わない人生なんて送りたくないわ」
リツは苦虫を潰したような顔でそう吐き捨てて、立ち上がり、2つのマグカップを積み上げ、台所へと向かっていった。
リツ自身、自分がこんなふうにまた魔法少女に悩まされるなんて思ってもいなかった。それ以前にサクラとまた会ったことも、想定外だった。
興味本位で会ってみるもんじゃないな。だけど、会ってなかったら何も知らないで殺されていただろうか。そう思うと、自身の浅はかで惨めな過去が、いつか終点のその先で見た鮮やかで汚い海から黒く湧き出てくるようだ。
ガチャリと甲高く、カップが悲鳴をあげた。透明なカルキの臭いがする水道水が滝のように流れていく。
「魔法少女に奪われた人生をようやく取り返し始めたばかりなんだよ、あたしは」
自分の声は透明な水にたぶん掻き消されたんだと思う。サクラは、あたしの部屋の隅で気分でも悪いんだろうか。落第寸前の学生みたいな表情を浮かべて、手帳を遊ばせていた。
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