第14話

 その絵に目を奪われたのは、絵が特別美しいとか、幻想的だからだとか、そんな理由ではなかった。

 確かに、絵自体は夢の中から飛び出したように美しい。全体的にパステル調で塗られていて、黄色い煉瓦造りの道に沿うように林檎の木が生えている。奥にはお城があって、そのお城の方へ歩く黒髪の後ろ姿の少女が描かれている。


 その絵に釘付けになってしまったのはその風景に見覚えがあったからだった。

 この場所をサクラは知っている……行ったことがある。だけど、サクラの記憶の中のそれは、もっとボロボロになって草木は枯れてしまっていたはずだ。


 そうだ……ここは──


 「アプラスの庭園……」


 「残念、How to walk the dream……『夢の歩き方』って作品でした」


 花苗はいつのまにか戻ってきており、くすくすと笑いながらそう言った。


 「ごめんなさい。じいちゃんやっぱり知らんかったですわ。たぶんばあちゃんが連れてきた子だったんですかね」


 サクラは花苗にお礼を言って、また絵を見た。


 「その絵もね、十年前くらいからあるんですよね。綺麗で、わたしのお気に入り」


 「そう……ですね……本当に……」


 花苗はゆっくりと絵の前、サクラの横まで歩いてきた。


 「これ気に入ってもらえたのかな。でも残念。これは美術館に寄贈することになったから」


 「寄贈しちゃうんですか?」


 見て、と花苗は絵の端に書かれているサインを指した。黒いインクで小さくV.Bと書かれて、その横に小さな兎のらくがきがみたいなものがされている。


 「ヴィクター・ブラント。ここ最近、絵画展とか開かれるようになった人ですよ」


 「知ってる?」と花苗は続けたが、サクラは首を振って答えた。絵画で知っているのはモナリザとか、ゴッホのひまわり程度で、美術館にも人生で数えるほどしか行ったことがない。


 「それこそ、百年くらい前のちょうど近代と現代の境目くらいの人ですね」


 「でしょうね……」


 マルルが百年前の人形だとしたら、このマルルと関連のありそうな絵もまた百年前の絵と考えても不思議じゃない。


 「絵に詳しいんですか?」


 「ああ、いえ……なんとなくそう感じただけです」


 ちらりと花苗を見る。花苗は相変わらず嬉しそうににこにこしていた。


 「写真撮っちゃ、ダメです……よね」


 サクラはこれはモモカにも見せるべきだと思い、花苗にダメ元で聞いてみた。


 「ああ、どうぞ。良ければお姉さんも一緒に」


 思いの外、花苗は軽く言って、サクラを絵の前に押しやった。あまりにあっさり了承してもらった上に、一緒に撮ったらという提案にやや動揺してしまい、素直に花苗にスマホを渡して写真を撮ってもらうことになってしまった。

 返ってきたスマホには呆然としてるのに口元だけ笑う不気味な女とアプラスの庭園を描いた絵が残っていた。


 「その、花苗さんは……ブラントのこと詳しいんですか」


 サクラはまだ恥ずかしく感じつつ、鞄にスマホを押し込みながらそう聞いた。


 「あれ、わたし名乗ったかしら」


 「おじいさんが、そう呼んでいたので」


 「ああ、そっか。ブラントのことは、まあネットで見られる程度にしか知らんですね」


 花苗はまた、カウンターの中に戻って椅子に座る。


 「ヨーロッパの方の、えっと……ハイアの出身の人で。まあ、なんの変哲も無い、幸せな人生を送った人かな。絵がなかなか売れんくって、確か他の仕事もしてたみたいだけど」


 聞いたこともない国だ。もしかして、地方かもしれない。サクラは相槌をうちながら花苗の話を聞いた。


 「気になった画家の生涯はざっと見とるけどね、ブラントは全く面白みがないんですよ。現代風に言っちゃえば会社員が休みの日に絵を描いて売っとった……みたいな」


 花苗はクスクスと笑った。

 その話がどこまで本物かはわからないが、もしそうなら、なぜなんの変哲も無い一人の男性がマルルの世界を描けるのだろう。もしかして、マルルの所有者だったのだろうか。それとも、アプラスと何か関係があるのだろうか……。


 「ブラントは、どうしてこんな世界を描けるのかな……」


 「わたしとしては、もっと独特な世界観を持っているなって人はたくさんおると思うけど。それこそ、ピカソやダリなんかは有名なんじゃない?」


 そうじゃないんだよな、とサクラは心の中でため息を吐いた。画家の巨匠たちは頭の中の世界を描いているけど、ヴィクター・ブラントはどこかで見た世界を描いたのではないだろうか。わたしたちのように、彼もマルルに誘われた一人なのだろうか。


 「ま、ブラントに聞かなわからんですよね」


 「そう、ですね」


 「そういえば」と花苗は手を打って続けた。


 「気になるならブラントの絵画展、行ってみたらどうです?」


 「この辺でやってるんですか?」


 「んーと? ああ、ほらここだ」


 花苗はスマホの画面を見せた。三週間後に隣の県の美術館で催されるらしい。


 「ブラントのお孫さんがそこに住んでるらしくて、だからよく展示会やっとるんですよね」


 行けなくもない場所だ。サクラの家の最寄駅から電車で行ける。

 ブラントの絵画展でなら彼の他の絵を見られるし、生い立ちがわかるかもしれない。


 「わたしも行く予定ですよ。ブラントはそんなに有名じゃないけど、本当に綺麗で可愛らしい絵を描くから、結構好きになる人もおるんですよ。わたしのバイト先の後輩も、勧めたら好きになって」


 花苗はスマホをカウンターに置いて、呑気に言う。サクラもまた目線を絵に向けた。今度は、マルルやアプラスがそこに描かれていないかと、絵に穴が開いてしまいそうなほどに探す。

 しかし、いくら見ても絵の中で生きているのは真ん中の少女だけだった。この子は、知らない。見たことがなかった。


 「この女の子って誰か知ってたりします?」


 「ああ、そのモデル、時々描かれてるけど、その辺の情報ないんですよね。ブラントの子供は男だし……」


 花苗は、楽しそうに狐みたいな目を更に細めた。きっとたぶん、花苗はこれ以上ブラントのことは知らないだろう。サクラがそう思ったその時、店中の古びた時計が十五時を告げた。

 不意にお昼ご飯を食べ損ねて、空腹だったはずだったことを思い出すが、今はそんな感覚はどこにもなかった。


 「わたし、そろそろ……帰りますね」


 サクラは花苗にお礼を言ってドアノブに手をかけて振り返り、アプラスの庭園を見た。ドアの位置じゃ絵はよく見えないが、黄色い道と周りのパステルカラーだけははっきりとわかる。

 マルルのことは何も得られなかったが、思わぬ収穫があった……って思いたい。


 「良い出会いがあったかはわからないけど、また、週末はやってるから是非来てくださいね」


 花苗は人懐こい笑顔で、気さくに手を振っていた。

 サクラも小さく頭を下げて店を後にした。真昼の住宅街はまだ眩しい。たぶん同じクラブに所属しているのであろう三人の小学生が、お揃いのリュックサックを弾ませて、走っていった。来るときはあんなに人がいなかったのに、急に現実に戻ってきたような気がした。


 「夢の歩き方……」


 サクラはアスファルトの地面を眺めて、少しだけ大股で道の端を歩き始める。


 アプラスは夢から干渉するってユキトは言っていた。アプラスは夢に関係するのだろうか。そういえば、マルルは自分の世界をドリームランドって言っていた。異世界なのに言葉が英語というのもなんだか不思議な話だ。……まあ、そう言うものと言ってしまえばそれまでなんだけども。


 とりあえず、一人で考えても仕方ない。

 帰りのバスの移動中にモモカとユキトに報告することにして、サクラは顔を上げて前を見た。いつのまにか道に迷ってしまったようで、見慣れない景色に少し戸惑う。


 だけど、大丈夫。わたしは後退だけはしていない。

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