第12話 リリーローズ

俺は湯船に浸かって天井を見る。

湯気が溜まって白くなっている天井の隅には絡み合った巨大な蜘蛛の巣が張っている。


久しぶりのお湯は最高だ。お湯はな。


ドアをノックして出てきたのは疲れた顔のお姉さんだった。

「あれ?眼鏡…は…」

「あ?あぁ、ごめんね。お客さんいらっしゃい。私はリリーローズ。今日はありがと。」

そう素っ気なく言うと、玄関横の棚にあった黒縁眼鏡をかける。

レンズのない伊達眼鏡である。

イラスト詐欺ではないが、くたびれた感が半端ない。


部屋には狭いベッドが一つ、小さなテーブルに椅子が二脚、その奥に大きめの浴室があった。

「お兄さんかなり臭うねえ、先にお風呂入っておいでよ」

リリーローズはそう言いながら細めのパイプにタバコ葉を詰める。

「吸ってもいいかい、お兄さん」

そして返事を聞く前に火魔法ですっと火を付けた。


窓を開けて外に煙を吐き出す。

窓際に立つリリーローズの右脚は義足であった。


やるせない気持ちになって風呂場に入る。

湯をかぶり全身を石鹸で洗うが、汚れすぎていて泡が立たない。

四回も全身を洗うとようやく黒い汚れがでなくなり白い泡に包まれた。

ようやく人心地つく。


そのタイミングでリリーローズが顔を出す。

「お兄さん自分で洗えるかい?」

お前が洗うんが仕事ちゃうんかい、と思うが言い出せない。

「あ、はい、大丈夫です」

まあ大丈夫なんだが、大丈夫じゃないのである。


浴槽の水は半分以上減ってしまった。

蛇口がついているのでひねるとちょろちょろと冷たい水が出た。

火魔法を浴槽の中に浮かべるとじんわりとお湯になる。


ゆっくりとお湯に浸かれる。

そのことだけでも俺は幸せだった。


しかしさっきの黒服のお兄さんはリリーローズに電話で連絡していたし、この水道の蛇口や排水など、結構文明的な世界である。

奴隷時代はまったく知らなかったが、もう少し世界を知りたいものである。


まあ、まずは女性の神秘を教えてもらうか。

湯船から上がると用意してあるバスローブを身にまとう。


部屋に戻るとリリーローズが紅茶のような飲み物を用意してくれている。

二人で椅子に座り黙って飲む。俺は混乱している。


(目の前のベッドはなんだ?そういうサービスのお店じゃないのか?)

そこからリリーローズの自分語りが始まり、一時間以上も一人で喋った揚げ句、「あ、もう時間なくなっちゃう。はいどうぞ」とベッドに寝そべったのだった。

残り時間は五分だそうである。


※※※


胸いっぱいの喪失感である。

お風呂には金貨三枚の価値があったが、それ以外には失ったものの方が大きかった。


城塞都市の中はどこも建物でぎっしりしていて人の気配がある。

孤独になりたい俺は、適当なパン屋でフランスパンみたいなパンを買ってさまよい歩く。

気がつけば池のフェンス沿いにいた。


もう人だかりもなく、何名かフェンス内で作業していた。

近づいてみるが、賄賂を渡した人たちではなかった。

素知らぬ顔で尋ねる。

「何かあったんですか?」

「あぁ、伝説だと言われていた【双鋏龍】らしき抜け殻が打ち上げられてねぇ。なんか池の様子も変だし…ちょっと怖いよね」

「なんかあのへんゴポゴポしてますもんね」


指さしたあたりは俺が浮上したあたりで、多分そろそろ地下ダンジョンが崩壊してるのだろう。中の空気が漏れ上がって来ているようだった。


あのシャコが伝説の何とか龍だとか笑える。ただの巨大な海老である。いや、シャコは海老じゃなかったっけ?まあ、どうでもいいわ。


そんな事より俺の心の喪失感である。

とにかく街を歩き回る。

パンをむしゃむしゃと食べながら虚しき五分を思い出す。

あれは魚でいうとマグロであった。

そして俺はそのマグロを包丁で三回ほど往復させたところで力尽きたのであった。

五分というか一分も必要なかったのである。

マグロのくせに。

なんかもっと雰囲気とかあるだろうが。こっちは初物なんだから。


人生は虚しい。俺はなんで生きてるんだろう。

でっかいため息を吐き出す。

ふと目を上げると《愛とは何か。神の無限の愛を得るために【無料講演会】》という看板を持った人がいた。

そう、愛だよな。

俺は愛がほしいんだ。


看板の矢印がさす路地へと入っいく。突き当りの広場の正面にこじんまりとした建物があった。

飾り気もないが、ここが会場らしく人がぽつぽつと入っていく。俺も紛れて入っていくと会場は木のベンチがずらっと並んでいた。

百人ほどは入りそうな会場が半分ほど埋まったころ、その講演会が始まったのだ。


司会のお婆さんシスターが軽い挨拶をしたあと、講演を担当するシスター・ペニンナが登場した。


軽い拍手が起き、慣れた様子でペニンナは喋りだす。


愛とは与えられるものではない。

むしろ隣人にあなたの愛を与えるべきだ。

神の愛は全員に等しく与えられるが、神の基準で人には理解できないこともある。

清く正しく生きよ、嫉妬せず傲らず、姦淫などもっての外である、と。


そんなペニンナを見ながら俺は思った。

こいつ、さっきのリリーローズじゃん。


ペニンナは三十分ほど喋ると最後に寄付のお願いをして、寄付箱を両手で抱えて入り口に立った。


帰る人にプレッシャーを与え無言の圧力で寄付させている。

人がまばらになったところで俺もペニンナに近づく。

俺がいたことには気がついていないようで、財布から銀貨を出して寄付箱に入れる。


ありがとうございます。と優しげな微笑みを向けられるが、気付かれないのも悲しいものである。

「さっきはありがとうございました。リリーロ……」

「そういえば、あなたご相談があるんでしたわね!!」


お礼を口にした時点で顔色がさっと変わったペニンナは、俺の手を取り個室に連れて行く。

周りのシスター達がざわついていた。


「なに!?何が目的なの!?お金ならないわよ!」

部屋で二人きりになったペニンナは抑えた低い声で言い放つ。


「ただ声を掛けただけですよ」

さっきほんの少しとはいえ肌が重なった仲である。

疲れた顔でマグロだけど俺の筆おろしお姉さんなのである。


「さっきまで愛は与えるものだ、とか言ってたくせに」

とぼやくと、ペニンナの顔が真っ赤になる。

「綺麗事じゃ!やっていけないのよ!お金がないの!お祈りしても増えないのよ!あんたみたいな餓鬼に何がわかるのよ!」


そりゃあそうである。

しかしさっきは姦淫は悪だみたいなこと言ってた人である。見る目が少し変わる。全然嫌いじゃない。むしろもう一度お願いしたい。


ペニンナが落ち着くのを待ってあげる。

「声かけて悪かったよ、もうここでは声掛けないようにするからさ」

そう伝えると意外だったようで

「そう?仕事の邪魔さえしないのならいいわ」

と普通の顔色に戻ったのだった。


お茶ぐらい飲んで行きなさいよ、と言われ、本日二度目のペニンナとのティータイムである。


「お昼はごめんね。やっぱりあの仕事あまり好きじゃなくて」

そう言って謝るペニンナは昼とは別人のように美しく見えた。ブスッとしていた昼と違い、優しく微笑む眼は深い緑色が広がり、まつ毛が金色に光る。


「ホントです。ひどい目に合いました。俺は初めてだったからな」

「あら?嬉しい。でも初めてがあれじゃあかわいそうね。ふふっ、今度仕切り直ししてあげようか?」


ペニンナはからかってくる。

俺もまんざらな気分じゃない。


「あなたの髪と目の色珍しいわね。どこの生まれなの?」

ペニンナは本棚から書類を挟んだ一冊を手に取り、パラパラとめくっている。

生い立ちを話すと、ふーんまだ十六歳なのね。見えないわ。とうわの空で返事した。


そういえば、とペニンナが話題を変える。

「あなた、戦ったら結構強いかしら?」

なにやら、昼に俺の身体を触ったときに戦闘力高そうと思ったとか。


「弱くはないと思うけど、どうだろう。相手によるだろうな。最近は人間と戦ってないし」


「うーん、どうしよっかな。三日後の夜なんだけど、私の護衛してくれないかしら?」


ペニンナはその夜に教団幹部との会食があるらしいが、若干きな臭い人物らしい。一人で行きたくないが、都合の良い人材がいなかったらしい。

俺で良ければ、と了承する。


「ありがと、名前聞いてなかったわね。私はペニンナよ。」

「俺はアーサー。」


今夜の宿を決めてないと言うと、ペニンナの家に泊めてくれることになった。

ベッド狭いけど許してね、と笑う顔が少し照れていてキュンとした。

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