窓辺の星

てこ/ひかり

三年後

 あれから三年が経った。


 その日、私は『新歓』の帰りで、少しほろ酔い気分になりながら終電に揺られていた。晴れて第一志望の大学に入学してから約一週間。この時期は、『新入生を我が部に』と、構内の至る所で盛んに新入生の歓迎コンパが行われていた。

 私は特に入りたいサークルなどなかったが、『とりあえず”仮入部”でいいから』と、誘われるがままに色々な部活の歓迎会をハシゴしていた。先輩たちと、当たり前のように居酒屋に入るのがなんだかとても新鮮で、私はようやく自分が大学生になったんだと実感できて嬉しかった。


 『彼』と初めて会ったのは、そんな新歓の帰りの電車の中だった。


 日付を過ぎた下りの終電には、もうほとんど客は乗っておらず、窓の外はびっくりするくらい真っ暗だった。私のいる車両には、二〇代くらいのサラリーマンがいるだけだった。それが『彼』だった。仕事帰りであろう彼は、疲れているのか、七人掛けの椅子をベッド代わりにしてぐったりと横たわっていた。

 私は斜め向かいにいた彼をぼんやりと見つめた。頬はほんのりと赤く染まり、少し苦しそうに顔を歪ませている。酔っ払いだろうか。胸元のシャツのボタンは開け放たれ、緩めたストライプのネクタイは彼の右手に握りしめられたまま、その先端がだらしなく床に垂れ落ちていた。


 私は電車に揺られ、霧がかかったようにはっきりとしない頭のまま、寝ている彼を眺め続けた。そうしているうちに、私はあることに気がついた。恥じらいもなく開けっ広げになった彼の両脚の間から、爽やかな水色が目に飛び込んできたのである。彼の『社会の窓』が開いていたのだ。


 私は思わず言葉を失い、その爽やかな水色に目を奪われた。ピシッとした黒のビジネススーツの間から見える、淡い水色。それはまるで、人の寄り付かない山々の奥深くにひっそりと浮かぶ、鳥や小動物たちの憩いの場として親しまれる湖のようだった。もしここに小鳥がいたら、今すぐその水色目掛けてみんな集まってきたことだろう。彼の股間に集まる小鳥たちを想像して、私は目を細めた。

 一瞬教えてあげようかとも思ったが、酔っ払いに絡まれて余計なトラブルに巻き込まれるのも面倒だった。そうこうしているうちに、目的の駅に到着し、私は電車を下りた。彼はまだ『社会の窓』を全開にして、椅子に横たわったままだった。夜風に身を震わせながら、私は満天の星を見上げ、それから急いで家まで走った。


 それから一週間に一度くらい、私は彼と一緒の電車になった。

 終電の中で会うたびに、彼は新品のビジネススーツで、疲れた顔をして椅子に横たわり、そして『社会の窓』を全開にしていた。

 例えばある時は、赤。燃えるような赤だった。これから革命でも起こすのか、あるいは道端から突進してくる牛を挑発しているのか、私に情熱の色を脚の間から見せびらかしてきた。また五月になると、今度は緑だった。燦々と降り注ぐ日光をふんだんに浴びた、新芽のような若々しい緑。その『窓』の間から生命の息吹を感じさせるような、自然の色が脚の間で輝いていた。夏になると、オーシャンビューが私の目を楽しませてくれた。イルカやカモメの声がどこからか聞こえてきそうな深い青に、私の心はどこか清々しささえ覚えていた。

 これは、恋なのだろうか。絶対に違うと断言できる。現に私と彼は何の関係もなかった。一度も喋ったこともない。名前も、勤め先も、どこに住んでいるのかも知らない。ただ、彼の『社会の窓』から覗く色だけは知っている。

 私は密かに、彼の見せてくる『色』から彼の健康状態や心理状態を推し量った。例えばほとんど多くの日、彼は『黒』だった。比較的顔色がいい日は、『赤』とか『青』が多かった。特別気合の入っている日にだけ見せる色もあった。私は変態なのだろうか。多分違うと思う。私は見たくて見ているわけではないし、むしろ一方的に脚を広げて見せびらかしてくるのは、あっちの方なのだ。


 あれから三年が経った。


 三年間、彼は私にたくさんの色を見せてくれた。思えば色々なことがあった。目紛しく移り変わる社会情勢と共に、私は彼の色をこの目に刻みつけてきた。この時代を、激動の三年間を、彼の見せる色と共に駆け抜けてきた。

 今日は一体、どんな色を見せてくれるのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、私はいつもの終電に乗り込んだ。

「あっ!」

 その瞬間、私は思わず声を上げた。いつもの車両に、彼が乗っていた。ただし今晩は、寝っ転がらずにきちんと座っていたのである。しかも隣に、綺麗な女性を座らせて。彼はいつものようにほんのりと頬を赤く染め、嬉しそうに隣の女性とおしゃべりをしていた。社会の窓も、もう開いていなかった。三年間、ずっと開きっぱなしだったのに。今やきちんと上までチャックが閉じられている。私は、閉じた『社会の窓』と、彼の嬉しそうな顔を見て、それからそっと隣の車両に移った。


 ……ああ、そうか。

 彼はもう二度と、私に『色』を見せてくれることがないんだ。

 

 悲しみはなかったが、不思議と寂しさが私の胸を駆け抜けて行った。やがて終電は目的地にたどり着き、私は誰もいない車両から一人駅へと降り立った。夜風に身を震わせながら、満天の星を見上げた。深い青に輝く白い光の粒は、いつか彼が見せてくれた特別な『色』の一つに似ていた。私はそっと、心の中で彼の幸せを祈り、それから急いで家まで走った。

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