3周年おめでとう!

宇部 松清

『3』という数字。

3年だな。3年はやってみないとわからないよ、何事も」


 私が新卒で入社した時、その当時教育係だった先輩が私に言った言葉だ。

 入社したのは大手の出版社で、私に限らず、同期のほとんどが編集か広報の仕事を希望していたのだが、新入社員に待ち受けていたのは、まずは全員営業からスタートという厳しい洗礼である。


 本が好きだから、本を作る仕事がしたい。

 私なんかはそんな単純な志望動機だったから、それに直結していない営業の仕事はやる気も上がらず、そして、当然のように成績も振るわない


 あっという間に音を上げ、辞めたいですと泣きついたのが入社して3ヶ月のことだ。


 泣きながら、そして覚えたばかりのビールを飲みながらそう言ったものの、心の中では「さすがに3ヶ月で辞めたいなんて、いまどきの若いやつは、なんて言われるのでは」と思っていた。優しいばかりではなく、厳しい時は厳しい先輩だったから、怒られるのかも、なんて身構えて。


 けれど、彼はそう言ったのである。、と。


「次はって、何ですか?」

 

 そう問いかけた。下瞼に塗ったアイシャドウが崩れないようにそっと涙をティッシュで押さえ、ウォータープルーフのマスカラで良かった、なんて考えられるほどには冷静だった。


「3っていうのは区切りの数字なんだ。3日、3週間、3ヶ月、3年。そういうタイミングで決断することが多い。何か思い当たることないか?」

「思い当たること……あぁ、3日坊主、とかでしょうか」

「そうそう。そんな感じ。毎年さ、ほんと嘘みたいにそのタイミングで新卒が辞めるんだ。ここだけの話、何年か前は3時間ってのもあったからな」


 内緒話のように声をひそめて、ひひひ、と笑う。それにつられて「まさかぁ」なんて言って私も笑った。


「いや、マジな話。それにほら、吉沢の同期も研修の時点で辞めたろ?」

「あ、はい。そうです、村川君が」

「村川も3日だった。入社して、初日に何かガツンと叱られて、2日目に遅刻してきて――3日目の朝、辞めますって電話が来たんだ」

「そうでしたっけ……」


 正直あんまり覚えていない。でも、一緒に研修を受けていたはずの村川君がある日突然来なくなった、というのは覚えている。3日目だったんだ……。はやっ。


「そんで、辞めるには至ってなくても、辞めたいって相談してきてるやつはちらほらいるんだ。吉沢だけじゃない。さすがに名前は教えられないけどな。そいつらは軒並み3週間。だから吉沢が一番もってる。ガッツあるじゃん、吉沢」

「そ、そんな……」


 ぐしぐし、と乱暴に頭を撫でられる。

 止めてくださいよ、ちゃんとセットしてるんですから、なんて言ったけど、悪い気はしなかった。たかだか3ヶ月働いたというだけで褒められたことが。それほど毎日辛かったのだ。



 それからどうにか3年働いた。働いてみてわかったのは、やっぱり私は営業に向いていない、ということだった。だからすっぱりと辞めた。

 それからしばらくは雑貨屋さんでバイトをした。駅の近くにある雑貨屋さんで、結構繁盛していると思ったのだが、隣の市にある本店と合併することになってしまい、泣く泣く辞めることになった。

 そういう理由でそこは2年で辞めることになったけど、でも、私としてはちょうど良いタイミングだった。


 というのも。


 結婚したのだ。

 交際3年目のことだった。

 つまり、あの会社を辞める1年前から付き合っていたのである。相手は――私の教育係を務めてくれていた先輩だ。

 結婚の時期についてはお互い特に口にしてはいなかったが、やはり頭のどこかに『3年』というキーワードがあったのだろう。良い頃合いだよね、なんて言って。


 まだまだ『3』の縁は続く。


 結婚から3年目、赤ちゃんが出来た。

 まだまだ営業でバリバリと頑張っていた夫は、不規則な仕事では何かあった時に大変だと内勤に部署異動願を出した。日頃の勤務態度や成績なども考慮され、それはめでたく受理された。それが妊娠発覚から3ヶ月のこと。


 聞いていたよりもつわりもひどくなく、まずまずの妊婦生活ではあったが、とはいえ、腹の中に命が宿っているという緊張感や異物感は相当なものだった。

 いろいろなものを我慢し、いろいろなことに気を遣った十月十日を経て、結構な難産の末、私達は3人家族となった。


 実家が遠くて頼れなかったこともあり、すべてが手さぐりの子育てだった。

 ミルクを吐いたと慌て、おむつがずれていたと騒ぎ、熱が出たとなれば110番か救急車かとパニックになっては夫に笑われたものだ。


 けれどこの間2歳の誕生日を終え、何とかだいたいのトラブルならひとりでも対処出来るようになったかな、と少しだけ自信を持てるようになった。


 息子を寝かしつけ、居間に戻ると夫は洗い物を終えたばかりのようで、手に炭酸水のペットボトルを持っている。


岳人たけと、寝た?」

「うん、寝た」


 もうさすがに敬語なんて使わない。名前はさん付けで呼んでいるけど。

 

 最近じゃ寝かしつけの後で、ちょっとお菓子をつまんだり、なんていう余裕も生まれてきた。だから今日もちょっとだけ甘いものをつまんで――なんて思いながら、お菓子の棚に手を伸ばした時のことである。


「ちょっと待って。今日はとっておきがあるんだ」


 そんなことを夫が言った。


「ささ、いずみは座って座って」

「え? え? 何? とっておき?」


 今日は一体何の日だったろう。

 付き合ってから何年とか、そういうやつ? いや、それは9月5日だからあと半年は先だしなぁ。岳人の誕生日だって先々月に終わったし。


 なんて考えていると、夫は小さなお皿の上に可愛らしいケーキを乗せて持ってきた。そしてそれをテーブルの上に置く。事前に準備していたらしい空のグラスにレモン風味の炭酸水も注がれた。


「ねぇ、ごめん、今日って何かの記念日だったりしたっけ?」


 普通そういうのって女性の方が細かかったりするはずだけど。

 ていうか、別に普段の夫も記念日記念日と細かいわけでもない。お互い、あまりそういうことに細かくない、というか、いくつも〇〇記念日があるのがちょっと面倒だよねってことで、付き合い始めた日を結婚記念日にしたのだ。ついでにいえばその日は私の誕生日でもあったりする。つまり彼は私の誕生日に告白をし、プロポーズしてくれたのである。


 だから、例えば『初めて手を繋いだ記念日』であるとか、『初めてキスをした記念日』とかでもなければ今日という日が祝う対象になるわけがないのである。そして、普段の夫からして、そんな初めて手を繋いだだのキスをしただのの日を覚えているとも思えなかった。


 夫はそこでにやりと笑うと、私の手に炭酸水のグラスを持たせた。

 

 何だ何だ。今日は一体何の日なんだ。


 考えても考えてもさっぱりわからず首を傾げていると、夫はこう言ったのだ。


に乾杯」と。


 ん?


「ママ3周年……?」

「そ」


 いやいやいやいや。

 おかしいでしょ。


「いや、そういうのって、岳人が3歳の誕生日にやるもんじゃない?」

「いやいや、何言ってんの。それはパパの話だよ」

「え? 何かますますわけわかんないんだけど」


 最近岳人の夜泣きがひどくてあまり眠れてないもんなぁ、光博みつひろさん。今日は別室でゆっくり寝てもらおうかな。そんなことを思っていると。


「岳人が出来たってわかったのが、3年前の今日だったんだよ。いずみは岳人がお腹の中にいる時からいままで3年間ママをしてくれただろ?」

「ま、まぁ、そう……だけど……」

「俺はさ、どんなにいずみのことをサポートしても、腹の中で岳人を育てるなんてこと出来ないからさ」

「それは光博さんだけが出来ないことじゃないけどね」

「まぁね。でも、だからさ、やっぱり俺は岳人が産まれるまでパパって感じが薄かったんだよな。パパとしての仕事もやっぱり産まれてからが勝負っていうかさ。岳人の顔見て『ぃよっしゃあ、ここからパパやったるぞー!』みたいな。でも、ママは違うじゃん? 岳人がいるってわかった瞬間から『ママ』がスタートしてるんだよ」

「そりゃまぁそうだけど……。そうなのかな」

「俺はそう思う。だから、今日がママ3周年。本当にありがとう」

「……ありがと」


 そしてやっぱり夫は私の頭をぐしぐしと撫でるのだ。

 でも、良いよ。いまはセットも何もしてないから。


 ぐしゃぐしゃになった頭で、「来年は、パパ3周年を祝おうね」と言うと、夫は何やら照れたような顔で、「来年は、ママ4周年もあるけどね」と笑った。


 何よ、毎年あるんじゃない。


 そう思ったけど、言うのは止めた。

 それよりもまずは、可愛い息子の『3歳』が待ってるんだから。


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3周年おめでとう! 宇部 松清 @NiKaNa_DaDa

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