卒業チョコレート

時谷碧

卒業チョコレート

 3月22日。

 零れ落ちた涙のせいで、手帳の中の星印は、歪な丸になっていた。手帳の隣に置いてある板チョコは、きっとどうしようもなく苦い。


 高校の卒業式は3月1日に終わり、用事があるとき以外、みんな学校に寄り付かなくなった。

 大学が遠方だと、引っ越しで忙しくしている人もいるし、浪人が決定して、予備校の手続きなんかを始める人もいる。


 私は、引っ越し組。

 高校2年の後半から成績が伸び、県外への進学は当然のことのように周囲から思われていたが、それは違う。私が県外に行こうとしていたのは、彼女と離れたかったからだ。

 これは、彼女から卒業するための進学だった。



 初めて会った時、とても綺麗な子だと思った。


 そんな子が、少し切羽詰まった様子で、お手洗いはどこにあるか知っている? と聞くから、妙にギャップがあって、可笑しかったことをよく覚えている。


 1年生では、同じクラスだった。仲良くなりたくて、甘党の私は、近所に新しくできたチョコレートショップに行かないかと誘った。

 さほどチョコレートに興味はなさそうだったが、物珍しさから、彼女は誘いに乗ってくれた。2cm四方の1粒で200円越えのチョコレートは、高校に入りたての私達には高級品だった。私の家で、チョコレートを大切に少しづつ齧りながら、彼女は私を見て不意に笑った。


「幸せそうに食べるね。私も、こういう苦いチョコレートがあるならいいかも」


 彼女が選んだ粒は、カカオ分が高いビターチョコレートだった。聞けば、チョコレートと言えば甘いというイメージで、苦いものでも、ここまで苦くなるとは思っていなかったらしい。

 意外な苦さのおかげで、彼女はチョコレートを気に入ってくれた。


 自分が気に入ってもらえたように嬉しかった。


 2年生からは、クラスが分かれてしまった。そして、私の成績が伸びていくのとは対照的に、彼女の成績が落ち始めた。廊下で会話しても長く続かなくなった。


 3年生になると、状況はさらに悪くなった。いままでは普通に交わせていた挨拶さえ、まともにできなくなった。


 成績の低下、というよりも周りが伸びるのに対して埋もれたという表現が正しい彼女の状況を作ったうちの一人は自分で、それはどうしようもないことだけど、彼女が硬い表情で足早に廊下を行くのを見かける度に、胸が痛くなった。


 唯一、学校で彼女の表情が緩む瞬間は、授業の合間に隠しおやつを食べている時。こっそり取り出したブラックチョコレートを幸せそうに食べていた。見ている私の心まで温かくなった。


 その自分の心の温もりに、私は単なる友達という以上に、彼女が好きだと認めた。


 もう、うまく話すことさえできなくなってしまったのに、そうなってから気がついた。そうなってしまったからこそ、気づいたのかもしれない。


 恋心を自覚してから、彼女と話す機会はなかった。それでも良かった。

 

 きっと高校を卒業しても、どこかで彼女は苦いチョコレートを食べている。もしかしたら、チョコレートが美味しいと気づいたきっかけである私を、思い出してくれることもあるかもしれない。


 もし思い出してくれなくても、チョコレートを食べるという習慣。その中に私の断片が確かにある。



 さあ、泣き止んで。荷造りを再開しなくては。

 そう思った矢先に、電話の着信音が鳴り響いた。彼女からだった。


 反射的に逃すまいと電話を取ってしまったが、今の私は涙声になってしまいかねない。

 彼女が普通に用件を話し始めて安心した。バレていないようだ。


「3年前に行ったチョコレートショップ覚えてる? 4月に3周年のチョコレートが出るらしいんだけど、一緒にどうかな」

「ごめん、引っ越すんだ」

「そっか、忙しいよね」


 沈黙が流れた。

 引っ越さなければ、また彼女と一緒にチョコレートを食べる時間が得られたのかもしれなかった。


 なんとなく電話越しにも重い空気。それを破る意外な一言が、彼女から発せられた。

「ごめん、断られるって、わかってて誘った。そうでもないと、話せない気がしてさ。ほら、ずっと微妙だったから」


 妙に明るい調子で、早口に喋る彼女が言った、微妙という言葉。廊下で彼女とすれ違っても、挨拶もせずにいた日々がよみがえる。 

 その微妙の谷を越えて電話をかける勇気は、私にはなかったものだ。これが単なるわだかまりの清算だったとしても、谷を越えてきたくれたことが、単純に嬉しかった。


「出会って3周年にもなるしって思いついたんだけど、東京……行くんでしょ?」

「うん」

「……待っててよ、来年私も行くから。それで、4周年のお祝いをしよう! それじゃあまたね」

 こちらの返事を待つこともなく、電話が切れた。


 これは、浪人が決まっていた彼女の決意表明だったのかもしれない。来年、本当に彼女が来るかどうかはわからない。


 ただ、彼女が来なかったとしても、今度は私が彼女に会いに行こうと思った。


 結局、彼女からは卒業できないみたいだ。さっきまでの悲しさが嘘みたいに、心が躍ってしまっている。


 出会って3周年。多分、彼女は初めて一緒にチョコレートを食べた、あの日からのことを指して言っているんだろうけれど、私にとっては違う。


 3月22日。

 3年前の今日は、入学前説明会でトイレを探すあなたに会った日。


 日記には、今まで見たこともないくらい綺麗な女の子に会ったと書いてある、私だけの秘密の記念日。多分、彼女は私に話しかけたことも覚えていない。


 3周年の贈り物をもらったよ。


 そっと心の中で呟いて、板チョコの包みを剥がす。授業の合間に彼女が食べていたブラックチョコレート。この日の苦味にふさわしいと買ってきていたものだが、さっきよりは、苦くない気がした。


「苦っ!」

 いつも甘いミルクチョコレートばかり食べている私には、やっぱり苦すぎた。



 丁度同じころ、彼女がミルクチョコレートを食べて、これ甘すぎない? と顔を顰めていることを、私はまだ知らない。

 

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卒業チョコレート 時谷碧 @metarou

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