Kiss of Awaking

和泉瑠璃

Kiss of Awaking

 絹のカーテンから差し込む日差しで目覚める。

 身体を起こして目に入るのは、赤みがかったグランドピアノ。ピアノを習い始めてから最初のイタリア旅行で、楽譜台の透かし彫りの花模様が女の子らしいと父が気に入って私に買い与えたものだ。

 それから、壁の大きな本棚にはたくさんの楽譜たち。毎週、訪れるピアノの先生の指導のもと、もう十年も弾き続けているものだから、これだけの本棚でもぎっしりと並べられて息苦しそうだ。

 私はカーテンを開き、朝の真新しい陽光を招くと、慣れた感触を楽しみながらピアノの蓋を開く。そして、ぽろぽろと先週習ったばかりの旋律を奏でる。

するとすぐに、階下から母の声が聞こえた。私は応えてから、手早く着替えると部屋を出て行く。

 ダイニングテーブルにはスーツ姿の父がいるけれど、新聞を広げているので、その顔は見えない。

 母は私の顔を見るなり、スープを温めて、と言う。はい、と返事をしてキッチンで隣に並ぶと、母は素早く野菜を刻みつつ、私の服を上から下まで眺める。

 今日、その恰好でお華を習いに行くの?

 はい、と私は答える。しばしの無言。母は、まずね、と口を開く。ブラウスのボタン、開けすぎよ。

 でも、こんなふうに着ている子が素敵に見えたの。母は、何度も首を横に振る。よしなさい、そんな真似は。下品で頭の悪い女の子に見えますよ。……そうだ、せっかくだから今日は和服になさいな。私が若い頃、お気に入りだったのを出してあげるから。

 はい、と私は答える。


 髪を結って簪、帯に合わせた紅をさし、襟を抜いて着物を身に着け、帯を締めたら帯締めを。

 和服は好き。七歳の七五三は、張り切った祖母が、わざわざ呉服屋を呼んで買い求めた振袖を、切らずにその時の私の丈に直させたものだから、重くて仕方がなくて、その日一日で嫌いになってしまった。けれども、高校の卒業のときに、ハイカラさんの格好のとき、母が十八の少女にはあまりにも渋いように思える濃い藤色の振袖を、明るい紅に金糸で縁取った桜をあしらった袴に合わせたとき、他の同級生たちのピンクや水色よりもずっと目立って美しく映え、その奥深さを思い知り、以来魅力のとりこになっている。

 今日の母の着物選びは、ぴたりと私によく似合う。お道具一式を風呂敷に抱えて街を歩けば、道行く人たちがちらり、と目を向ける。もう慣れっこなので気にしないけれど、私は駅前ですれ違った、少女たちに目が釘付けになる。

 おそらく、同い年くらいの子たち。身軽そうなプチブランドの服を身に着けて、単位がどうのと言っている。——大学生なのだ。

 私の人生プランに、大学という選択肢はそもそもなかった。祖母も母も大学は出ていないし、祖母は私の年にはもう父を産んでいた。

 でもそれは時代がらということもあるから、と父は言ってくれた。どうしても学びたいというのなら、どこか女子短大に行くといい。お前はどうやら、成績がいいようだから、と。

 授業は楽しかった。幼稚園からの一貫校に父が入れてくれたおかげで、受験勉強という型にはめられた勉強をしなくて済み、純粋に好奇心からくる学習意欲を満足させることができていた。それが、成績に反映されていたのだ。

 父がそう言ったあとで、一緒にキッチンに立った母は、考え考え、私に言った。あなたが行きたいなら行ってもいいのよ。だけど、女性が知恵をつけるっていうのは大変だっていうのはよく覚えておきなさい。

 その話は、実は初めてではない。物心ついたときから、ずっと聞き続けてきたことだった。でも私は、はい、と答える。

 母の話は、こう続く。いまは女性の社会進出だとか、男女雇用機会均等法だとか騒がしいし、実際に社会で活躍されている女性もいらっしゃるけどね、その方たちって並大抵ではない努力をされているから、男性と肩を並べられているのよ。

 実際、と母の声はここで小さくひそめられる。私のお友達で、アメリカの大学院まで出た優秀な子がいるけれど、やっぱり会社に入ってからはつらいことが多くて、鬱になって辞めてしまったのよ。それからその子、音沙汰なくて結婚したとも聞いていないの。

 だからね、と母の声の大きさは戻る。古い考えだって思われたっていい。女の人はね、やっぱり自分の結婚した人が、外で何をしているのかをわかるのかくらいの、浅く広くの知識だけ持っていれば十分だと思うの。あなたには要らない苦労をしてほしくはないのよ。


 お華は好き。高校卒業後、私は短大への進学は選ばなかった。それなら、来るときまでに、と母が、子供の頃から習っていたピアノに加えて、お華にお茶、それからお料理に書道の先生を見つけてきてくれた。卒業したら、きっと退屈になるだろうと思っていたけれど、存外日々は忙しい。

 先生にご挨拶をしてから、今日のお話を聞いたあとで、それをふまえてお華を活けていく。最初に、真。これで作品全体の印象が決まると言っても過言ではない。私はこの、真を活ける瞬間が好き。最初の瞬間、基本の基本。けれども、それを損なってしまったら、すべてが台無しになってしまう、魂のようなもの。

 よく活けられました、と先生が言ってくれた作品を、軽い足取りで持って帰ると、ピアノの先生を迎える支度を整えていた母が、笑顔で今日はどんなのを活けたの? と聞いてくる。

 先生が褒めて下さったの、と母に包みを解いて見せて、最初の言葉を、胸を躍らせながら待つ。しかし、母は小首をかしげた。これは、どうしたくて活けたの?

 私は、想像していた反応と違うことに戸惑いつつ、今日の先生のお話は、と話す。話しきらない途中で、まあ、こういうのは好みの問題だから、と母が言った。

 あ、そうだ、と母は花瓶から一本取り出すと、真を取り換えた。ほらこの方が、色映えがよくはない?

 はい、と私は答える。真を取り換えられてしまった私の生け花を見つめながら。

 母は満足げに頷くと、そうだ、まだ先生がいらっしゃるまでには時間があるわね、と言って何かを取りに行く。そうして、手に持ってきたものの形状を見ただけで、私はぴん、と来る。

 来るべきとき、だ。

 母は、私の緊張した顔に苦笑した。そんなにしゃちほこばらなくてもいいのよ。たしかにちょっと早いかもしれないけどね、一度こういう経験をしてみるのもいいかと思って。

 それにね、と母は開いた写真に、釣書を添える。とてもいいお話なのよ。そうでなければ、私があなたに勧めるはずがないでしょう?

 見知らぬ男性と、その男性の経歴を記す文字の羅列。そこから目を上げると、満面の笑みの母の顔と出会う。


 考えてみれば、知らない男の人と肩を並べて座るのは初めてのことだった。ずっと女子校の中で育ってきたのだから、当然のことなのに、どうしてか今まで気付かなかった。

 お酒を飲むのは初めてなの?

 ええ、そうです。

 ピアノの先生がお帰りになったあと、少しお散歩をしてきます、と家を出てからもう日が暮れてしまっている。何も持たずに出てきたから、母は連絡のしようもなく、たいそう心配しているだろう。家に帰れば、肝を冷やされた父のお説教がきっと待っている。二人を思えば心が痛まないわけではない。だけど、いつもの散歩道から寄り道をしてから、ずっと足が家へと向かずにいる。

 寄り道の始まりは、今日見かけたような大学生らしい女性たちの集団だった。今度の中間の過去問、もうもらった? だといかいう会話が、とても興味深くてずっと後を追っていた。行ったこともない、見たこともない大学という場所に思いを馳せながら。

 ついには電車にまで乗ってしまった。けれども、彼女たちとは長くはいられなかった。その後、すぐに大学に入っていってしまったのだ。

 さっきまで思い描いていた場所。門は開かれていたけれど、警備員さんが立っており、とても入る気にはなれなかった。

 そのままふらふらと知らない街を歩いた。日が暮れてきた。夜に一人で出歩いたことなどなく、だんだん恐ろしくなってきた。ちょうどそこへ、ガラの悪い男性とすれ違い、声をかけられそうになったので、思わず手近な店に飛び込んだ。

 それが、カウンターを構えたバーで、入ったはいいものの、どうしたらいいやらわからない、お金も持たない私に、まあ一杯おごってあげるよ、と言ってくれたのが、いま隣に座っている男性なのだった。

 いまどき和服とは珍しいね。もしかして、いいところのお嬢さん?

 いいところかどうかはわかりません。でも、恵まれているとは思っています。

 ふぅん、と彼は頷いたあとで、きっと、こういう音楽しらないんだろうな、とつぶやき、マスター、Killer Queenかけてよ、と言う。

 流れてきた音楽は、英語で恐らくロックだった。

 モエ・エ・シャンドンってなんですか?

 私が問いかけると、あれ、聞いたことあったの? と彼は驚く。聞いたことがあるもなにも、今歌っていたので、と言うと、面白そうに笑った。

 シャンパンの最上級品だよ。僕じゃおごってあげられない代物。

 それから、killerと呼ばれるほど、男の人を次々虜にしていく女性の歌に耳をすませた。

 昔の花魁もそうだけど、とその男の人は言う。いくら身を売る女性でも、頂点に昇り詰めるには教養が回転が必要で、そこに美しさが備わったら、男なんて敵わないだなって思わされるよ。社会じゃ、男ばっかが偉そうな顔をしているけどね。

 ひとしずくの涙が、ふいにこぼれた。そうしたらもう止まらなかった。静かに泣き続ける私に、彼はかわそうなくらい往生して、それからつと手を伸ばすと、急に唇を押し当てた。


 キスで目が覚める。

 もう出かける時間じゃないの? そう言った人を、私は抱き寄せる。ここは、最安値のワンルームのアパートで。父と母もいなくて、あの夜出会った最愛の男性と私の二人きり。

 あなたと出会った夢を見ていたの。言いながら、私は起き上がり、枕元のデジタル時計で日付を確かめる。

 2019年3月25日。私が大学を卒業する日。

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