幸福睡眠計画論

@r_417

幸福睡眠計画論

***


 試験期間中、僕は睡眠行為が怖くて怖くてたまらなくなった。

 勿論、寝ることなくして、最高のパフォーマンスを発揮することなど出来ない事実は幾度となく実感している。しかしそれでも試験期間中の睡眠行為に、僕は激しい嫌悪感を覚えて苦しみ続けていた。


「……おっ、もう高校は試験期間かあー。懐かしいなあ」


 僕が単語帳片手に昼間から家の中で深刻な表情をしていたからだろう。夜勤明けのユキ姉は素早く状況を察して、僕に声を掛けてくる。


「じゃあ、トオル。特別にお姉ちゃんが一杯作ってあげようか?」


 そう言って、キッチンに目を向けるユキ姉に返す言葉は一つしかないだろう。


「ユキ姉、ありがとう。だけど、僕は遠慮するね」

「ほー……、このユキ姉さまが直々に作ってあげる千載一遇の大チャンスをトオル君はみすみす逃すわけかな?」

「……うううっ」


 心に訴え掛けるユキ姉の口撃は思いの外、鋭く刺さるものがある。罪悪感も伴い疲弊しかけている僕とは対照的に、ユキ姉は相変わらず飄々とした声で語り続ける。


「てか、トオル。その顔の様子じゃ、思っている以上に寝られていないんじゃない?」

「……」

「やっぱり、そっかー。まぁ、無理に寝なさいとか言うのも、トオルの場合は逆効果だろうから敢えて言わないけどさ」


 全てを語らずとも状況を理解してくれる存在は本当に有難い。歳が離れているユキ姉と家で顔を合わせる回数こそ少ないが、僕を理解してくれる絶対的な存在であると確信しているのは、ユキ姉の類い稀な観察眼に一目置いているからに他ならないだろう。


「でも、うーん……。食べることはおろか、今は飲むことさえ辛いんでしょ?」

「……え!? 何で、それを」

「え? だって、私が『一杯作る』と呼び掛けるものと言えば、コーヒーしか有り得なくない? そもそも私自身がコーヒー淹れることが大好きだし、トオルも私が淹れるコーヒー大好きなの知ってるし。試験勉強してる状況で、コーヒー以外の選択肢はまず浮かばないと思うのよね」

「……」

「コーヒーが大好きな人物が然りとて寝たいと考えている様子も更々ない。……となれば、私の申し出を渋る理由は一つしかないはずよ」


 そう言って、ユキ姉は僕に一際優しく語りかける。


「荒れてるんでしょ、胃が」

「……っ!」


 真面目な顔したユキ姉にズバリ言い当てられ、青白い顔をするしかなかった。

 流石に怒られてしまうのだろうか。無理やりにでも寝させようと、ベッドに押し込められてしまうのだろうか……。


 冷や汗をかきつつ、ユキ姉の続く言葉を待つ時間は本当につらい。


「ろくに寝られず、何日もフラフラな極限状態でコーヒーを飲む行為なんて、刺激が強すぎて更に体を痛める結果になりかねない。トオルが渋った行為は、花マル大正解だわ!」

「……へ?」

「だから、トオルは私のコーヒーを拒否したことについては一切気にしなくていいから」

「は、はあ……」


 にっこり笑みを浮かべ、お褒めの言葉を並べるユキ姉に対して、僕は間の抜けた声しか返せない。だが、そんな僕を構うこともせずユキ姉は淡々と会話を続けていく。


「確かにさ、試験期間中にトオルがベッドで寝る行為を苦痛に感じているのは知ってるよ。だけど、まぁ……。強制することじゃないと思うんだよねえ。そもそもトオルの場合は『全く寝ない』というわけじゃないんだし」

「……」


 ユキ姉の言う通り、試験期間中をずっと不眠不休で過ごしているというわけではなかった。あくまで眠りにつくまでの時間をベッドで過ごすことに激しい苦痛を感じるだけで、一瞬で寝落ちしそうと踏んだ際には素早くベッドに飛び込み、辛うじて睡眠を確保している。しかし、全く寝ないわけではないとはいえ、タイミングが合わなければ、徹夜が続く状況も日常茶飯事。事実、肉体的な休息を何とかギリギリ確保している状況に過ぎず、精神的な疲労は蓄積していくばかりになっている。また疲労が蓄積すればするほど、自ずと夢見が悪化し、目覚めも最悪となる確率が桁違いに跳ね上がるため悪循環に陥りやすい。

 結果、気付けば試験期間中はいつも追い詰められ、悲壮感を漂わせてしまっている。今の状況が異常であることも理解できているし、僕の体調管理能力が悪すぎる自覚もある。けれど、どうしても不甲斐なさばかりが目に付き、押し黙ってしまう。


「…………」

「速攻メンタルに響いて寝られなくなってしまうのは、確かにトオルのウィークポイントかもしれないよ? だけど、トオルは自分のウィークポイントを把握して、リカバーしようとしている。それだけでも立派なことだと思うわよ?」

「……リカバー?」


 ユキ姉のフレーズが一体何を指して述べているのか理解できず、思わずおうむ返しをしてしまう。


「そう、トオルはさ。寝付くまでの時間が苦手だからこそ、一気に眠気が来た際に手放しで寝られるようにいつも前倒しのスケジュールで勉強をこなしてるじゃない」

「……」

「それに胃を痛めていることをキチンと把握して、大好きなコーヒーを我慢して悪化させない機転を利かせることだって出来ている」

「…………」

「確かに気になるイベントに左右されずにコンスタントに寝付くことが出来れば、長い人生とても生きやすいとは思うわよ。だけど、トオルは自分でリカバーすべく考える思考力と実行する行動力を持ってる。だから、そこまで卑下する必要も卑屈になる要素もないと思うんだけどね」


 そう言って、ユキ姉は僕の頭をくしゃくしゃと撫でてくる。温かいユキ姉の手を払いのけたい衝動なんて、これっぽっちも湧かなかった。


「そんなトオルに対して、私が言うことなんて何もないよ。というか、よく頑張ってて偉いと思ってるよ」

「……ユキ姉」

「いつものコーヒーは無理だろうから、胃に負担の少ないもの淹れてあげるから。座って、待ってて」


 試験期間中、僕は寝ても寝られなくても追い詰められ続けていた。不甲斐ない体調管理能力に打ちのめされ、そして絶望ばかりの連続だった。だからこそ、ユキ姉の言葉はとてもうれしかった。僕が出来ないことを咎めるのではなく、僕が出来ないことをフォローする生き方を認めてくれた。そんなユキ姉の純粋な褒め言葉だからこそ、心の底から救われたのだと思う。そして、そんなユキ姉の淹れてくれたコーヒーだからこそ、身体中に沁み渡り、頑なになっている心さえほぐしてくれたのではないだろうか。

 ユキ姉の淹れたコーヒーを飲み、安堵したのか自然と眠りに誘われる。待ち構えているのは試験期間中初となる夢見と目覚めの良さなのだが、その事実に驚愕するのはもう少し後の事。


 ちなみに後日聞いた話では、あの日ユキ姉が淹れたカフェインレスコーヒーは通常の十倍以上薄かったらしい。再現してもらったコーヒーは味なんてほとんどなきに等しいもので、これが最高の飲み物と感じた事実に衝撃を受ける。

 とはいえ、あの日ユキ姉に与えてもらった希望と安心感を忘れない限り、僕に最高の眠りと目覚めを呼び寄せる心の拠り所の最高の飲み物であり続けることに違いないだろう。


【Fin.】

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