疾走

佐藤踵

疾走



「……よぉ」

 僕が机に突っ伏していた顔を上げると、ひらひらと手を振る。焼けた肌に、黒く短い髪。心配性のお母さんが大きめを選んだせいで、制服のズボンの裾はいつも少し引き摺っていた。

 ノックもせず勝手に僕の部屋に入ってくる奴なんて、ただ一人だ。

「遼……」

「久し振り」

 青いエナメルバッグを床に置く。その擦り傷の量に、部活に明け暮れた夏休みを思い出す。短距離走も長距離走も結局、遼より良いタイムを出すことは出来なかった。

「……何の用だよ」

 何の用って……不満げに呟いた唇が少し尖る。

「お前さぁ、そろそろ部屋から出ろよ」

 勝手にテーブルの下のクッションを引っ張り出して座る。遼は見上げながら、またしても勝手に麦茶を注いでゴクリと飲んだ。

 長居するつもりか……。

 椅子を回転させて、対面する。なるべく威圧感の出るように、腕組みなんかをしてみせた。

「嫌だね」

「夏休み明け、大会だってある」

「もう出たって、意味ない」

 冷たくあしらう僕に、遼はにこやかに微笑んだままだ。

「……そっかぁ」

 学校に行ったって、きっと僕の居場所なんて無い。勉強をしたって意味がない。辛い気持ちを抱えたまま、走ることなんて僕には出来っこない。

「お前はさ、ここに居て退屈じゃないの?」

 キョロキョロと部屋を見回しながら尋ねる。無駄を一切省いた僕の部屋には勉強机、テーブル、クッション、ベッド、飲み物……それくらいしか置いていない。

 毎日、さっきみたいに突っ伏しているのだ。退屈じゃないと言ったら嘘になる。

 でも退屈だなんて、遼には言えない。

「別に……」

 良い回答が見つからずに、有耶無耶にはぐらかす。僕の目線が外れたのに気が付いたのか、遼はゆっくりと立ち上がる。昔から人の些細な変化に敏感な奴だ。

 道路側の窓へと進み、白いカーテンを開け放つ。

「ほら、たくさん飛んでるぞ」

 嬉しそうに空を指差す。

 夏の青い空には、鶴が飛んでいた。雲ひとつない快晴の青に、白い鶴。

「知ってるよ……」

 もう見たくない。机に身体を向き直す。

 初めて空を見た時は、この部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。しかし、やはり僕はここから出てはいけない。ここにずっと閉じこもっていなければならないのだ。

「見ようぜ、一緒に」

 今は鶴なんて見たくなかったし、カーテンだって開けたくなかった。でも遼はいつだって、僕に前を向かせる。

「ほら、こっち!」

 椅子の背もたれをグイと引いて、無理矢理窓際へと連れて行く。

「やめろって!」

 慌てて立ち上がると、椅子が滑って壁にぶつかった。おかまいなしに僕の制服の裾を掴んで窓際へと引っ張る。相変わらずの強引さだ。

 根負けして、仕方がなく空を見上げる。

 久し振りに見上げた、快晴の空。外の世界はいつだって晴れていて、羽ばたく鶴の数はまた増えていた。

 遼に悟られないように、ゆっくりと息を吐く。両親、友達……たくさんの僕に関わる人たちの顔が、鶴に乗って浮かび上がって見えた。

 それが辛くて、僕はカーテンを閉じていたのに。もうずっと、ここに閉じこもっていようって思っていたのに。

「……待ってるんだよ、皆」

 窓枠に両手をついて、窓から少し身を乗り出す。短い髪がそよそよと揺れた。

「それに、俺だって待ってる」

 そう微笑む遼の横顔は、教室でたわいない会話をしていた時の笑顔だ。懐かしい。

 声が震えてしまいそうで、みぞおちの辺りに力を入れる。

「でも、僕……」

声にならず、ぎゅっと喉が詰まる。

「どうせ、僕のせいで……なんて言うんだろ?」

 知ってる。そう言って遼はまた笑った。

 見抜かれた僕は、遼の顔も鶴も見れなくて、俯く。

「俺は、ちっとも後悔してないよ。わかってると思うけど、お前のことも恨んじゃいないし」

 もちろんわかっている。遼はそんな奴じゃない。わかっているのだけれど、

「だけど、ここから出たら……」

 もう遼に会えなくなるじゃないか。

 そう言おうと開いた唇は、隙間を残したままで言葉が出てこない。目頭の熱に戸惑って、大きく息を吸い込む。次に吐く息は震えていた。

 遼はただ、隣で空を見上げている。僕が言葉を紡ぐのを待っているのだ。いつでも、こいつはそういう奴だった。

 駅に向かう上り坂、自転車を押してどうにか上りきると、遼はいつも涼しい顔で待っていた。

 部活帰り、先輩に怒られて落ち込む僕を、アイスを食べながら正門で待っていた。

 いつもいつも、気がつくと先にいたし、そのすぐ後には隣にいた。今だってそうだ。

「……本当は僕が、死ぬはずだったのに」

 やっと絞り出すと、我慢していた涙も溢れてしまった。

「げ! 泣いてんのかよ!」

「うるさいな」

 情けなくて慌てて拭う。

「だから、お前のせいじゃねぇよ。そもそも運が悪かったんだ、俺たち」

 夏休み、部活帰り。

駅へと続く坂道を上りきったころ。急にトラックが大きな音を立てながら突っ込んできた。それは一瞬のことで、最後に見たのは僕の前に飛び出した遼のエナメルバッグの青だった。

 気がついたら、僕はここに閉じこもっていた。扉に鍵は掛かっていないけれど、外に出てたらもう遼には会えない。それが怖くて扉を開かなかった。

「俺は、お前が生きてくれて本当に嬉しいよ。だって、俺の分もまた走ってくれるだろ?」

 ずっと追ってきた背中。もう遼がいない世界じゃ走る意味なんてないと思っていた。だからこうして、ただただ机に突っ伏していた。ここから出ないことが、走らないことが遼への償いだと言い聞かせていた。

「……困るんだよなぁ、お前が走ってくれないとっ」

 なんだか身体が鈍っちゃってさぁ、そう言いながら腕を振ってみせる。ふざける時の少しカーブを描いた目元が懐かしくて、二人で目を合わせて笑った。

 笑いながら、涙が止まらなくて、鼻をすすって誤魔化した。遼の目も潤んでいたけれど、快晴の空がキラキラと映っていた。

 ……行かなくちゃ。

 遼は、僕が生きることを望んでいる。僕が作ったこの部屋を見つけて、わざわざ扉を開きに来てくれたんだ。

 閉じこもったままじゃ、親友を裏切ることになる。外に出ることは……遼のいないグラウンドを走ることは怖かったけれど、今ここで一歩踏み出すことが遼への友情だとわかったのだ。

「……わかった、行くよ」

「ありがとう」

 カーテンが、風を含んで揺れた。

 外へ出る扉。ドアノブへと手を掛けるが、遼に会えなくなると思うと決心なんて出来なかった。行かないと、出ないと。そう思い力を入れるものの、手が震えて上手く扉が開かない。

 隣で様子を見ていた遼は、ぷっと吹き出した。

「笑うなよ」

「悪い悪い! じゃあ俺が開けてやろう」

 そう言うと、ゆっくりと扉を押す。だんだんと見えてくる眩しい外の世界に、僕は目を細めた。

「遼、また会えるかな?」

「会えるだろ。友達なんだから」

「そっか、そうだよね」

 背中を叩く遼の手。大会の前もこうして気合いを入れてもらってたっけ。

「じゃあ、またな」

「うん、また」

 眩しい光へと足を踏み出す。

「遼、ありがとう」

 ひらひらと振る手が、だんだんと光に包まれて見えなくなる。

 僕は行くけど、いつでも遼と一緒に走るよ。追い越すのはまだまだ先になりそうだけれど。



 ぼんやりと光が差し込む。

 母さんが泣きながら、先生を呼びに行く。口に付けられた呼吸器からは、変な味がして早く外したかった。

 バタバタと先生と看護婦さんがやって来て、今度は母さんが、父さんに電話をすると言って病室を出る。ずっと閉じこもっていたもんだから、忙しない光景が懐かしく、少しホッとした。

 どうやら僕は、一週間目を覚まさなかったらしい。そして怪我は奇跡的に少ないとのこと。手に巻かれたギプスを見て察してはいたが、左腕の骨折のみで、あとは擦り傷程度らしい。ベッドの中で脚をバタバタと動かしてみて、安堵した。

 次第に先生の顔から笑顔が消えて、話があると切り出す。

 遼の死が告げられた。

 もちろんわかってはいたけれど、やっぱり悔しくて寂しくて、少し泣いた。

 遼が僕を救ってくれた。心の部屋に閉じこもって、生きることを諦めかけた僕の背中を押してくれた。

 最後に会えたのだ。あんまり泣いていると、また笑われそうなのでやめておこう。


 窓から風が吹き込み、カーテンが揺れる。


 天井からぶら下がる色取り取りの千羽鶴も揺れていた。


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