第27話 振り出しに戻る

 いってきます、と口の中で小さく呟いて、それぞれ別々に学校に行くようになってからずいぶん経った。一花が「一目惚れ」と言ったあの日から1週間が過ぎようとしていたけれど、彼女は僕と一緒に行動しないということ以外は、まるでそれまでと同じように暮らしていた。

 たまに自分の家に帰る日があっても、何事もないように彼女は次の日には戻ってきて、僕の布団で当たり前のように一緒に眠った。それはどうなんだろう、と疑問に思わないわけではなかったけれど万事それと同じで、話し合おうにも取り付く島がなかった。

 鍵を閉めて、部屋を出る。






「妬けるというか……自分にこんな感情があるなんて思わなかったって言ったら、引きますか?」

 そっと顔の脇の髪が落ちてこないように手を当てながら、俯いて澪は言った。僕はコーヒーカップに手を伸ばした。

「でも、田代が浮気してた時もずいぶん沈んでたでしょ?」

「ああ、あんなのとは全然比べ物にならない……。丞の温もりが届くところにいる一花さんがうらやましくて」

「ごめん」

「いえ、わたしこそこんなヤキモチやくつもりはなかったんだけど、なんでかな? わたし、丞の腕の中に入っていたい、かも……」

 そっと目線を上げると、いつも憂いを帯びて伏せ目がちな彼女の瞳に違う色が見えた。彼女自身、自分の言ったことに動揺しているように思えた。髪を一筋、耳の裏にかけると、赤く色づいた頬が見て取れた。

「あの、そんなに見ないで。恥ずかしいことを言ったのはわかってるので。たぶんそういうのって流れがあって、突然自分から口に出して言うことではないんですよね。ああ、何言っちゃってるのかよくわからなくなっちゃってすみません」

 僕は彼女の横顔を肘をついた姿勢で、バカになったようにぼーっと見ていた。こんなにまくしたてて話す澪を見るのは初めてのように思ったし、自分の望みを話す彼女を見るのもおそらく初めてだった。強く、願い事を口にしない女性だった。

「……あの。さっきから何も言わないで狡いです」

「あ、ごめん! 澪がすごい勢いで話すから驚いて。それで、なんだっけ、本題は……。抱きしめていいって言ってくれた?」

「……」

 下を向いた彼女の顔を、急にすとんと流れる真っ直ぐな髪が覆った。表情が見えない。指に髪をかけてかき上げてくれたらいいのに、と思う。

「……抱いて欲しいなって、そう言ったつもりなんです」

 膝の上に置かれた彼女の指先がピアノを弾く人のようにわずかに動いていた。落ち着かずにいるのだとわかった。我慢できずに、僕の方から彼女の髪をかき上げる。彼女の顔は艶やかだった。ぐんと僕の気持ちを惹きつける。

「抱きたいって、ずっと思ってるよ。全部僕のものにしたい」

「……言葉だけでもうれしい」

 小刻みに動いていた彼女の指が僕の手にやって来て、指を絡める。空調の効いた店内には外の寒さは伝わらず、彼女の指先は温かだった。


「それで……田代との話は上手く行った?」

 できるだけ気をつかって口にする。小さいことをいつまでも気にし過ぎる男だとは思われたくなかった。

「……。遼くんに何を言われたんですか、この前?」

「僕には澪のことをわかっていないって。夏休みにアイツと会った時、何かあった?」

 澪は黙った。

 答えを探しているというよりはむしろ、言葉を探しているようだった。

「あの」

「うん?」

「あの……夏休みに何度か偶然会って、お話しましたよね?」

「ああ、田代の話?」

「わたし、夏休みにも何度か遼くんに会って、それで……」

 話はそこで途切れた。まるでラジオのボリュームがいきなりすっと落とされたかのように、沈黙が僕らを浸した。それはあまり気持ちのいいものではなかった。彼女は懸命に言葉を探していた。たぶん、事実はたったひとつで、上手な伝え方を模索しているようだった。

「別れたくないって泣いて……あの人に抱かれました。相談してたことからは想像つかないでしょう? 彼とは別れてもいいんだって話してたのに」

 彼女の笑いは自嘲気味だった。

 僕はすぐには口を開けなかった。「嫉妬」という言葉が今度は僕の頭の中を目まぐるしく駆け回る。

「遼くんのこと……すぐに手放したくなかったんです。あの夏の日も、できれば繋ぎ止めておきたかった。彼を好きだって気持ち、今だって少しも無いって言ったら嘘になると思う。そういうのは丞には一言も言わなかったから……だから、遼くんの言うことも間違ってはないんですよ」

 気がつくと、大きくため息をついて頭を抱えていた。上手く行かないとはこのことで、まさか今でも澪が田代を想う気持ちを持っているとは思っていなかった。想像力の無さを呪った。

「まだ、会ってる?」

「……たまに」

「今でもそういう気持ちがあって会ってるんだ?」

 自然、責めるような口調になる。自分があまりにイヤになって、頭の中が沸騰しそうになった。何を考えてもいい方になんか考えられるはずはなく、すべてが絶望的に思えた。自分以外の男が澪に触れることをもう今さら、許せるはずがなかった。

「無理に連れて帰って今すぐ抱くのは簡単だけど、そういうあてつけみたいに抱きたくはないんだよ。もう、田代とはきっぱり別れろよ。どんな顔をしてアイツに会ってるのか考えたくなくても頭に浮かぶ。澪は僕を好きなんだと思ってた。過信だった」

「……丞のことが好きなの。それは間違いないんだけど。今まであったものを断ち切れない弱い自分もいて……ごめんなさい。わたしたち、やっぱりこんなんじゃダメですよね……」

 彼女の目に涙が見えた。今にもこぼれそうなそれをそのままにして500円玉をテーブルに置くと、ブーツの踵の音と一緒に澪は去って行った。引き留められなかった。自分をどうしようもないバカだと思ったし後悔もしたけれど、呼び止めることも追いかけることもできなかった。

 僕をそこまで押し留めたのは、くだらないプライドというやつなんだろう。






 一花とは相変わらずで、澪とはまるで会わなくなってしまった。スマホからメッセージを送っても、何の返事も来なかった。図書館前に何度も座り込んでも、いつもの時間に彼女を見かけることはなくなってしまった。食堂にも、カフェにも彼女の姿を見つけることはできなかった。まるで最初から、いない人のようだった。




「丞、ちゃんと食べてる?」

 ある日一花が唐突にそう尋ねてきた。

「うん。一花と夕食、食べてるでしょ?」

「……そういうんじゃなくて、何を食べても同じ顔してるし。具合が悪いの?」

「いや……」

 テレビを見ているふりをして視線を逸らす。僕を心配している彼女を見たくはなかった。

「丞」

 目の合わない僕のそばに一花は進んできて、僕の頬を両手で挟んだ。僕は必然的に一花を見てしまった。

「君のそんな顔、見てられないよ。君にそんな顔をさせるなんて許せないよ。こっち、見て」

 そこには、いつも通り何もかも小さくてか細い、やわらかい髪をした僕のが座っていた。体温が、彼女の指先から伝わってくる。僕はひとりではなかった。

「丞、こっち見て。わたしはここにいるよ?」

 動けずにいると、一花の頭が近づいてきて僕たちは何日かぶりにキスをした。やわらかい唇の感触はなにも変わっていなくて、懐かしささえ感じさせた。その感触が欲しくて、首を傾けて今度は僕から二度目のキスをした。甘くて深いキスだった。

 キスの途中で彼女は僕の手を捕らえ、自分の小さな膨らみに導いた。与えられたものに怯えながら触れると、僕の好きだった小ぶりの胸がそこにはあった。

 キスは彼女からの癒しのように止まることはなく、彼女は僕の首の後ろに回した腕をゆっくり引いて、自分は背中から倒れていった。

 つまりはそういうことで、何の言い訳もない。

 一花の途切れ途切れの小さな声を、耳元で感じていた。






 まるで何事もなかったかのように、とは行かないまでも、僕と一花はそれまでとかなり近い親しさを取り戻した。手を繋いでどこへでも一緒に行ったし、毎晩、気まずい思いをすることなく安心して同じベッドで一緒に布団にくるまって眠った。

 一花はまったく一花のままで、何一つ変わらず、花のようにやさしく微笑んだ。ただひとつ変わったのは、少しずつ伸びた襟足の髪が肩口に付くようになったことだ。襟足に指をやった時の違和感にまだ慣れない。けれども彼女の微笑みは相変わらずでそんな時、辺りがぱっと明るくなったように感じたのは僕だけではなかったに違いない。






「ねえ、帰りに図書館で少し勉強していかない?」

 レポートに取り組んでいるらしい一花に誘われて、僕はもちろんいいよ、と答えた。

「何か読むものでも探してくるよ」

と告げて、特に差し迫ったレポートのなかった僕は一般文芸のコーナーに向かった。まだ読んでいない本がたくさん僕を待っていた。その中から面白そうな本を数冊、ピックアップした。

 一花の待つテーブルに向かおうとすると、階段前で澪にばったり会った。

 澪は、田代と一緒だった。過ぎたことだとどこかで思っていたのに、頭がおかしくなりそうだった。

「松倉もレポート?」

「いや、僕は……」

「早いな、もう終わったんだ? 俺は今からやっつけで書くところなんだ。どこに座ってるの? わからないところがあったら聞きに行ってもいい?」

「……参考文献ならあの棚にあったよ」

 澪のことがなくてもたぶん、僕は田代が苦手だった。本当のところ、何を思っているのかわからない人間の相手をどうしたらいいのか混乱してしまう。結果、何も答えなかった。

「見てみるよ、ありがとう。行こう、澪」

 レポートの提出期限ギリギリに、教授が示した参考文献がまだ誰にも使われずに棚に残っているとは考えづらかったけれど、僕の使ったものを田代に教えた。

 二人は一般文芸の棚の近くのテーブルに歩いて行った。澪が、途中でちらりと振り返った。前髪の奥に、よく知った濃い茶色の瞳が悲しそうに揺れた。引き止めたい衝動にかられたけれど、すべてが遅かった。……澪は僕を見てただ、小さく頭を下げた。いつかのように。

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