第26話 一目惚れ

 田代の言葉の意味を考えていた……。

 まだ深く澪を知らないと言われれば、確かにそうだろう。この出会ってから半年ほどの間、澪は田代の彼女だったのだから。だからこそ今、彼女のことを深く知りたいと思うし、そのためにできる限り時間を割きたいと思っていた。

 ただ、ひとりの女性ひとを好きになった。




 その日は僕の方が授業の終わりが遅くて、澪が図書館で待っていてくれた。時間になって約束のエントランスに向かうと、彼女は難しい顔をして何かの本を読んでいた。声をかけようか、少し戸惑う。そして、何も言わずに自然に空いていた隣の席に座った。

「……丞? 声をかけてくれたらよかったのに」

「読書に夢中だったみたいだから」

「話がちょうどいいところだっただけなの」

 膝の上で本をパタンと閉じ、それをカバンにそっとしまった。さらりとした髪が動きに合わせて揺れる。その動きを見ながら、彼女を待つ。それさえも甘い時間に感じる。ゆっくりと時計の針は流れる。

「どうかした?」

「ううん、何も」

 上着を羽織った彼女は、襟元に入ってしまった髪を両手で軽く払い除け、僕に微笑みかけた。何も問題はなかった。

 僕たちは恋人同士らしく、並木道を肩を揃えて歩いた。自然と手を繋ぐことが「いつも通り」になる。澪が僕の指に指を絡める。言葉はBGMのように後ろへ流れ去り、深い意味をなさなかった。そんなものより、触れた手の体温やちょっとした笑顔、照れくさく伏せた目の方が余程、雄弁だった。

 どことなく影があるように見えたその横顔も、近くで見ると瑞々しさに溢れている。まだ幾度かしか触れたことのない唇はいつも、艶を保っていた。

「澪……田代とまだ別れてないって本当?」

 やわらかかった目元が、それを聞いて突然大きく瞳を見開いた。

「遼くんが? ……うん、前にも話した通りこじれてて」

「そっか」

「……まだ、好きなの?」

「どうしてそんなこと聞くの? まだ確かにちゃんと別れられずにいるけど、丞のものにしてくれるってこの間は……」

 女々しく根掘り葉掘り聞こうとする自分が情けなかった。澪のことになると、自分はまるきりダメだった。

「田代に会ったんだ。澪のこと、全然知らないくせにって言われて、悔しかった」

 二人の手は依然、繋がれたままだったけれど、何かが聞こえない音を立ててギクシャクしてしまった。僕たちの間にある歯車は上手く機能しなくなった。

「確かに遼くんのこと好きだったの、ある時点まで。でも全然心が近づかないし、わたしの心は……丞に傾いてしまったんだけど、丞には一花さんがいたからどこへ向かっていいのかわからなかったの。わかりにくいかな?」

 僕たちが知り合った時、僕たちにはお互い、他の恋人がいた。会えば会うほど意識をして、僕の勘違いでなければ僕たちは急速に惹かれあっていった。でも、お互いの恋人のことは気持ちひとつではどうにもならなかった。

「……一花さんは?」

「うん、相変わらず話を聞いてくれないよ」

「……。まだ、一緒に暮らしてるんですよね?」

「ごめん、追い出すわけにもいかなくて。僕の方がよっぽど嘘つきだな」

 手が、離れた。

 プツリ、と心と心を結ぶ糸が切れた気がした。

「違うんです、責めてるわけじゃなくて。一花さんの気持ち、考えたらそんなに簡単に行く訳ないと思うし。でも……ごめんなさい、嫉妬しました。丞の気持ちは信じてるんだけど、一花さんと繋ぐ手を、わたしが今繋いでいるのかと思うとたまらなくて……。そんなことを責める権利はわたしには多分ないのに」

「澪以外に誰が嫉妬する権利があるの? そこで嫉妬してほしいんだけど」

「一花さんと丞は、ベストカップルですよ。わたしは、今はちょっと丞を借りてるだけで。間に入るなんて狡いんです、わたし」

 さっきまで透き通っていた瞳が涙で曇る気配がする。悲しみが彼女を覆う。

「そういう考え、もう止めよう。僕には澪が一番だし、澪にもそれを認めてほしいんだ。もし僕と一花がベストカップルに見えたとしても、それはたぶん長く一緒にいた分、見慣れていたんだよ」

「……そこのところ、上手く心の中、整理がつかなくて。ずっと、一花さんの隣にいる丞を見てきたから」

 繋ぎ直した手は、外気にさらされたせいか心持ちひんやりしていた。僕たちは言葉少なげに互いの間にある空気を持て余し、駅の改札で別れた。躊躇いながら、彼女の手は少しずつ離れていった。改札を通るとき、不安げな瞳で彼女は振り返った。手を伸ばして引き留めたいと思ったけれど、自動改札の扉は無機質にパタンと閉まり、僕は彼女の視界から弾かれた。






 部屋に戻るともう明かりはついていて、居心地の悪さをドアを開ける前に感じる。ただいま、と最低限のあいさつだけして靴を脱ぐ。

「おかえり。外、今日は冷えたでしょ?」

 夕飯の支度をするいい匂いが部屋の中に充満して、しあわせな温かい空気が心を解すような気になる。ちょっと前までは、それは迷うことなくしあわせの確信だった。

「スマホでレシピ探して、ロールキャベツ作ってみたの。美味しそうだよね」

 えへへ、という顔で一花は笑った。彼女がこんな暮らしの中でもしあわせそうにしていると、僕はいつも何も言えなくなってしまう。ただただ、困惑することしかできなかった。いつまでもループし続ける世界にいるようだった。

 一花は僕と澪のことを知っていてこうしている。毎日の暮らしの延長線上には必ず、望んだ未来があると信じている風だった。そして僕はもう、そんな風には物事を考えられなかった。

 毎日の中に、新しい変化が少しずつ生まれていくことを、もう知ってしまった。

「もう少し煮込むから、お風呂、入ってきちゃったら?」

「うん」

 とにかく狭く区切られた空間に二人きりでいるのは気まずかった。澪と手を繋いで帰ってきたまま、一花になんと言っていいのかわからなかった。浴槽の中でぼんやり考える……これからのことを。もつれてしまった糸を、調えなくてはならない。考えだけは、頭の中で進んで行った。




 風呂上がりにスマホを引きずり出す。ロックを外して通知を見る。いつも通りだ。通知をタップする。

『今日は寒かったですね。……寒かったけど、手を繋いでいたから暖かかったです。丞の手が大きいからかな? 口に出したことはないけど、丞のしっかりした大きな手、好きです』

 ストレートな文面は恐らく初めてで、口元が自然ににやけてしまい、手で蓋をする。恥ずかしさとともになんとも言えないうれさしさが胸の奥から込み上げてくるのがわかる。今、隣に澪がいてくれたら、と思う。

『もし今、隣にいてくれたら』

 なんて言葉を続けたらいいのか迷う。指が考える。

『きっと抱きしめてた』

 よし出来た、という声が聞こえて、テーブルの上に湯気の上がるロールキャベツが現れた。一花がエプロンを外して、席に着く。僕も席に着くよう、目で促される。スマホの画面を伏せるようにして置く。

「スマホ、済んだ?」

「ああ」

 いただきます、を小さくして、二人で黙って箸を進めた。

「……やわらかく煮えてた?」

「うん、よく煮えてる」

「……」

 短い会話がそれ以上進むことなく、言葉が途切れる。静寂の中には冷たい空気しかない。箸と食器の当たる小さな音だけが静寂を埋める。

「スマホ……澪ちゃんだよね?」

「うん」

 一花が小さくため息をついて、ゆっくりと茶碗をテーブルに下ろした。コトリ、と音を立てる。

「澪ちゃんと、別れないの?」

「一花、何言ってるの?」

「だっておかしいよ。澪ちゃんには田代くんがいるじゃん。仲良さそうだったのに、どうして?」

 箸を置く。よく煮込んだロールキャベツは、悲しいことに僕にはもう味がわからなかった。

「澪ちゃんとどうして離れないの? わたしのことはもう好きじゃないの? 好きじゃなくてもいいよ。それでもいいから、こっち、向いて? わたしは丞のそばをずっと離れないよ。ずっと一緒にいたい……いさせて?」

 一花は上目遣いに僕を見た。その瞳は濡れていた。まるで雨の中を歩いてきたかのようだった。

「ごめん、一花。お願いだから話を聞いてほしいんだ」

「やだ! 聞かない」

「聞いてほしい」

「ダメだよ。だって、もし、その話を聞いちゃったら……ごめんなさい、狡くてもいいからこのままで」

 僕の肩に形のいい小さな頭が乗せられた。いつものようにやわらかい彼女のくせっ毛が頬をくすぐる。迷った。それでも、彼女の頭をそっと撫でた。彼女の体重が、僕にかかる。ほんのちょっとの違いが起こっただけなのに、まるで知らない人のようだった。

「一花……」

「まだ好きでいてくれてる?」

「……嫌いになったわけじゃないよ」

「そっか……。嫌われなくてよかった。でも、澪ちゃんの方が好きなんだね?」

 躊躇う。でも、ここで誤魔化したら何も進まない。傷つけたくないと思っても、傷つけないで進む道はない。

「澪が好きなんだ。ごめん、戻れない」

「そんなに好きなんだね、わたしよりずっと? 何が違うの? わたしの方がこんなに長い間一緒にいたのに……」

「なんでかな? 初めて澪を見たとき、不思議なんだけど目が離せなくてそれで。それからずっと会う度にそんなんで」

「……そっか、一目惚れなんだね。理由なんてないんだね。そっか、それじゃ勝ち目ないかな……」

 手のひらの中の頭が小刻みに震えて、か細く彼女はしゃくり上げる。指の間にやさしくくせ毛が絡む。テーブルの上の食事が、次第に温度を失っていく。

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