第18話 繋いだ手

 澪に偶然会ったのはまたしても図書館で、一花との待ち合わせまでの時間つぶしをしている時だった。

「あ」

 彼女は僕の顔を見ると、図書館にはおよそ相応しくない少し大きな声を出した。そして、そのことで一人顔を赤くした。

「松倉さん、お久しぶりです……」

「出ようか?」

「はい」

 僕は小野寺のありがたい忠告を思い出していた。一花の目のつくところで会うのはまずいとそう考えた。それで、学外へ出ることにした。

 僕たちは学校沿いの大通りに面したカフェ、「サウザンドリーフ」に向かった。交わす言葉も少なく、澪は時折、僕の顔色を窺うようにこっちを見た。学校のフェンス沿いに植えられた桜の木は、すでにその勢いを失ったぼやけた緑色の葉をつけていた。

「松倉さん、あの、遼くんと話したんですよね……。なんか、すみませんでした」

「いや、こっちこそ自分の都合で澪の話を勝手にして悪かったと思ってる。澪はそれで困ったことにならなかった?」

「あ、いえ……。人に相談するくらいなら、直接遼くんに話すようにって怒られましたけど」

 澪はその指先で自分の前髪をかき上げた。それは困った時の彼女の癖のようだった。

「相談したの?」

「できないですよ。浮気を疑ってるなんて、我ながらどうかしてるっていうか」

「っていうか?」

「……わたしはこれを期に遼くんと別れようかと考えてるし、遼くんは別れないって言っているし、めちゃくちゃ」

 頭の中で状況を整理する。ここで問題なのはそういうことではないんじゃないかという疑問が拭いされない。

「澪は浮気のこと、はっきりさせないの? 田代もはっきり言ってこないの?」

「はい……。悲しくなるかもしれないことを聞く勇気、なくて。遼くんだって、わざわざ自分にとって部の悪いことを正直に話すとは思えないし……」

 カップの中のコーヒーは、夏に飲んだクラッシュされた氷の入ったものではなくなって、ホットのブレンドに変わっていた。澪は紅茶を頼んだけれど、猫舌なのかポットからカップに注いだっきり口をつけていなかった。

「そうやって、ズルズル続けるの?」

「え?」

 自分が何を言い出したのかわからなかった。変にイライラしていた。普段、そういうことは僕には起こらなかった。

 澪の目を見ると明らかに焦っていたし、僕の話の続きを待っているように見えた。

「僕は直接見たわけじゃないから正直、どの程度の浮気かわからないけど。それでもズルズル好きでもないヤツと続けられるものなのかな?」

「……好きでもない、ですか?」

「もし本当に好きならこんなところで……なんでもない。気にしないで」

「いえ、言わせてください。遼くんのことを心から思ってるなら松倉さんに愚痴ったりしないで、真相を悲しくても確かめていると思います。それでもわたしがうじうじ悩んでここにいるのは」

 そこまで言って澪は僕の目をはっきり見据えた。

「確かに松倉さんと二人きりの時間が、少しは欲しかったのかもしれません。狡いですよね? ごめんなさい……」

「……」

 自分からその答えを引き出したようにも思った。それが自分の望んでいた答えだというようにも思った。が、はっきり言葉にされると正直、怯んだ。真っ直ぐな瞳を受け止められる自信がなかった。

「……松倉さんがそうした方がいいって言うなら、わたし、別れます。きっぱり別れられると思います。でもそれは自分のためで。松倉さんの隣にいるための資格が欲しいとか、そういうんじゃないんです。一花さんと別れてほしいとか言うつもりはないし、今まで通り、たまに、偶然あった時に話ができればそれでいいんです。それがわたしの望みです。おかしいですか? わたしにとって、それが……『恋』だと思うんですけど」

「いや、『恋』なんて……」

「松倉さんは引くかもしれないけど、初めてあの雨の日に会った時、この人は他の人とは違うなって思ったんです。それはやさしくしてくれたから、とかじゃなくて。わたしにはこの人が、って思ったから松倉さんに一花さんがいるのが悲しかったし、わたしがもう遼くんとつき合っていることが段々苦しくなって行ったし」

「じゃあ、浮気は?」

「……それは本当ですよ。遼くんはわたしみたいに地味な女には興味がないんですよ」

 俯いた澪の顔にまた長い髪がかかって、顔に影を落とした。

 僕たちはしばらく黙ったままだった。

「遼くんの浮気相手のことは詳しく知りません。何も教えてくれないし、わたしからも何も聞けないし。でも、わたしが一番じゃないのは確かですよ。やさしいんですよ、二人のとき。なのに会いたいときに会えないなんて。わたしより大事な人がいるなら、わたしを捨ててくれたらいいのに」

「ごめん、何もしてあげられなくて」

「松倉さんのせいじゃないですよ。彼が誠実そうだって勘違いしたのはわたしで。よく本当のことが見えていなくて。大学に入る前は受験、受験で『恋』なんて遠い存在だったから」

 コーヒーのカップは手の中で徐々にその温もりを失っていった。澪の言葉をひとつひとつ咀嚼する。

「松倉さんを好きだって言ったけど、松倉さんがわたしを好きになる必要は無いんです。返事とかもちろんいらないし。一花さんを大切にしてる松倉さんが好きだし。片想いでいいんです、自己満足でも……。それはもう早い者勝ちで、わたしはスタートが遅れちゃったから眺めていることしかできないけど……眺めていることくらいは許してくださいね」

 恥ずかしそうに席を立とうとする彼女の腕に、ダメだと思っても、今度は引き止めようと手が伸びた。テーブルに置かれた澪の細い手首を捕まえる。顔を上げた彼女の艶のある唇に妙に視線がいく。彼女の手は少し冷たかった。

「ごめん、今は何も言えないんだ」

 澪は一瞬遅れて作り笑いをした。首をわずかに傾げて何でもないという顔をした。

「……大丈夫です。片想いは得意なんです。わたしが遼くんと上手く別れられるように応援していて下さい」

 一花さんと待ち合わせですよね、と明るく言うと、澪は伝票を持って立ち上がった。そして、「いつも相談に乗ってくれてるから」と言って一人で会計を済ませてしまった。






 晴れ渡る秋空とは反対に、気温はそれほど上がらなかった。澪は薄着で、上着を貸そうか、というと丁重に断られてしまった。澪との距離を測りかねていた。

「松倉さんはわたしのこと、ほんの少しでも好きでいてくれてますか? ……なぁんて」

 おどけた調子で彼女は笑った。キャンパスの大通りでそんなことを聞かれるとは思わなかったので、こっちもたじたじになる。狼狽えていると澪はまた言葉を続けた。

「こんなことなら、早く遼くんと別れてしまえばよかったなー。でもそうしたら、松倉さんと話をする機会が減ってたかもしれないし、難しいですね」

「澪、僕は一花とは」

「さっきも言ったじゃないですか? そういうの、望んでいません。勝手に松倉さんのこと、眺めてるだけでいいんです。一花さんにやさしくする松倉さんを見て、やっぱりやさしい人だなぁって思えればそれでいいから」

 僕はそんなに価値のある男じゃないよ、と言いたかった。澪が僕のどこを見てそう言っているのかわからないけれど、それに値するような自分ではないことは自分が一番よく知っていた。




 図書館に置きっぱなしにしていた荷物を取りに行くと、一花が現れた。ちょうど講義が終わったところらしかった。

「君は今日はもう帰れるの?」

「一花を待ってたくらいだからね」

 僕たちはそれぞれ荷物を持ってない方の手で手を繋いだ。それはまるで10年もつき合っているカップルのように、違和感なく当たり前に行われた。そのことに気がついた僕は繋いだ手を思わずじっと見た。

「あ、手、ベトベトした?」

「なんだよそれ。今でも手を繋ぐ前は手を洗ってるの?」

「……洗う時もあるよ」

「一花、潔癖すぎ。僕の好きなのは一花で、例え手が汚れていても一花が一花であるという事実は変わらないと思うけどな」

「君だけだよ、そう言ってくれるの」

 繋いだ手をぎゅっと彼女は握り直して、やや僕にもたれかかる形になる。子うさぎのような僕の彼女の温もりを大切に思う。


 なのに、なんであの時、澪の手を取ってしまったのか。そんなことは取るに足らないことなのかもしれない。でも僕にとっては不可解なことの一つで、彼女の手に吸い寄せられるように手を重ねてしまった自分が信じられなかった。

 その重ねてしまった手が、いつまでも熱を帯びていた。


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