第17話 年下になりたい

『今日は突然、引き止めてしまってすみませんでした。彼とのことはもう少し、考えてみようと思います』

 その夜届いたメッセージを、それでいいのか疑問に思いながら眺めていた。

『それがいいと思うよ』

 僕の返事はその一言だった。結局なんの意味も成さないに違いない無難な言葉を選んで送信する。澪の言う通り、僕と澪のスマホでのやり取りは形だけの物だった。そこには見て取れるような心情もなければ、言葉にしなくても伝わる行間のようなものさえ存在しなかった。スマホなんて、この情報化された世界でも最後は結局、無意味だった。

 画面を見て、一花に聞こえないくらいの小さなため息をつく。胸の中の重い気持ちを吐き出すように。

 画面がブラックアウトして、澪からの返事はそれ以上来なかった。




 実際、田代と澪の仲が上手く行ってなくてもそれに僕が振り回される必要はなかった。振り回されているのは田代のせいでも澪のせいでもなく、紛れもない自分の気持ちのせいだ。澪の言葉に、簡単に心を揺さぶられていた。田代と別れたら、もう澪に会うこともほとんどなくなるだろう。そうしたら、こんなことで揺さぶられる必要もなくなる。

 別れて欲しいのか、そうでないのか、自分のことなのにはっきりしなくてもどかしい。よくわからないことは保留にしておこうと心に放った。






「松倉さ、ああいうの気をつけろよ」

「何のこと?」

 振り返ると後ろの席にいた小野寺が声をかけてきた。小野寺は相田さんとつき合い始めてから彼女を大事にしているらしく、すっかり僕たちとつるむことは少なくなっていた。「自保研」での活動も今まで通りではないようだった。

「この間、田代の彼女と手、繋いで歩いてたじゃん。見えたよ。オレはそういうの、どうでもいいんだけどさ、やっぱ一花ちゃんを傷つけるのはどうかと思うよ」

「いや、手を繋いでたわけではないよ」

「そういうことじゃなくてさ。誰かの噂になるようなことは慎めよ。一花ちゃんの耳に入るのもすぐだよ。どこかで二人で会うのは勝手だけどさ」

「それはいいわけ?」

「それは個人の自由だよ。オレがどうこう言える立場じゃないっしょ。ま、あんまりいいことだとは思わないけどな」

 いいことじゃないことはわかっていた。けど、現実はそういうふうに割り切れる訳ではなく、澪と田代はいつも不安定だったし、僕は澪の「お兄ちゃん」になってしまっていた。田代は……僕たちの間に何かあるとは思っていないんだろうか?

 もう少し、僕と澪のことを気にしてもいいんじゃないだろうか。つまり、田代自身の彼女のことを。






 部屋でドイツ語の難しいテキストをやっつけていると、隣でくつろいでいるように見えた一花が何か言いたげな顔をしてこちらを見ているのに気がついた。見ているのに何も言わないことに注意が逸らされて、こちらから声をかけることにした。

「一花、どうしたの?」

 ちょうど訳の分からないドイツ語の仮定法にうんざりしていた。「もし僕が鳥だったら……」というやつだ。

「あのね」

 彼女は意を決したように思いつめた表情で僕の目を見た。その意思の強い瞳は、僕の何かを貫いてしまうように思えた。

「澪ちゃんと、何かあった?」

「小野寺?」

「小野寺くんと関係あるの?」

「いや……」

 小野寺から何か言われたのかと思った。何しろ小野寺は一花贔屓だ。僕との友情は紙のように薄くて、一花とのそれは強固な信頼という名の繋がりがあるように思えた。

 一花の目から強さが瞬時に失われて、そこには小さくてか細い、いつもの女の子が座っていた。一花の言いたいことは、言われなくてもわかっているように思った。つまり思い当たることがあるということで、小野寺の言う通り、そんなのはいいことではなかった。

「田代くんが」

「うん」

「田代くんが、丞と澪ちゃんの間に何かあるって言ってきたの。確かめてみろって。……あの、田代くんの言うことを信じたってわけじゃなくて、でも、不安になったっていうか」

「いつ?」

「……おととい」

 それは僕がちょうど小野寺に話しかけられたのと同じ日で、まるで僕と小野寺の会話を、アイツが聞いていたんじゃないかと思わせた。そして、何で僕に直接聞いてこないのかと腹立たしく思った。

 手を伸ばすと一花は僕のところまでやって来て、そのやわらかい頬を僕の胸に押し当てた。寒い冬の日のウサギのように、彼女は小さく震えているように思えた。右手でそっと、背中をさすった。

「一花が気にするようなことは何もないよ」

「そうだよね」

「もちろんだよ」

 その通りだった。僕は澪から相談を受けただけで、一花にも田代にもやましいことは何も無かった。むしろ、田代こそやましいことがあるんじゃないかと思った。澪を泣かせた上に一花も不安にするなんて。

「……一花、髪、ひょっとして伸ばしてる?」

「気づかなかったんだね」

「いつから?」

「夏休みが終わってから。美容室に行っても、長さは短くしないでもらってるの」

 一花の背中は、しんとした秋の夜長にたったひとたつだけの温もりを放っているように思えた。この前までは髪を梳くことのできなかった襟足の髪に指を通す。何故か知らない人といるような違和感を感じた。






「田代」

 昼休み前の講義が終わると、僕は田代を呼び止めた。黙っているわけにはいかなかった。

 都合よく今日は澪の姿が見えず、一花もMキャンパスに行っている日だったので話すのにちょうどよかった。田代は一瞬驚いた顔をして立ち止まり、あやふやな笑顔を僕に向けた。

「松倉、どうしたんだよ?」

「ちょっと。すぐ済むよ」

「約束があるから少しなら」

 僕たちは人の流れから飛び出して、あまり人の来ない静かな場所へと移った。人々の喧騒が向こう側に聞こえる。

「一花に何か言った?」

 田代はパッと顔を上げて僕の目を自信ありげに見た。どうしてそこに自信を持つのかわからなかった。

「そのこと? 一花さん、本当にその話、松倉にしたんだ。驚いたな」

「一花が不安になるから適当なことを言わないで欲しいんだ」

「……不安にさせるようなことをしなければいいんじゃないの? 澪とこそこそ会って、何してるんだよ? 俺だって不安になるよ」

「澪のことはお前の問題だ。お前が澪に聞けばいいんじゃないか? 一花は関係ないし、お前にしてみれば僕は関係ないと思うだろうけど、澪をあんまり泣かせるなよ。もっと澪と話をする時間を作れよ」

「『澪』って呼び捨て? 俺の女だよ」

 僕は一花のことを「僕の女」だと思ったことは一度もなかった。所有欲というものは無く、いつでも一花には一花らしくいてほしいと思っていたからだ。けど、目の前の男はそうではないらしく、澪を自分の物としてあたかも見下しているように見えた。

「……他に女がいるのか?」

 僕が聞いていいことかはわからなかったけれど、咄嗟にそれを言葉にしてしまってハッとなる。田代は何か後ろめたい顔をした。

「澪が?」

「相談されたんだ。それだけだよ」

「……澪と別れるつもりなわけじゃないよ」

「さあ、それはお前と澪の問題で僕の問題じゃない。だから僕と一花を振り回すのは止めてくれないか? 僕はともかく、一花は傷つきやすいんだ」

「傷つきやすい、か。一花さん、か弱くてかわいいよね」

 それじゃ、と言って田代は去っていった。約束をしているのは澪だったのかもしれないけれど、どの道それは僕には関係のないことだった。






 アパートに帰ると、今日は5限までびっしり講義があるはずの一花が先に帰っていた。一花は台所に立ってカレーを作っていた。

「カレー?」

「そう、最近、夜はちょっと冷えるからいいかなと思って」

 なるほど、と思う。秋の空気は次第に僕たちを覆って、夏の暑さを消し去って行った。

「今日さ、田代と話したよ」

「田代くんと?」

 一花の細い肩がぴくりと動いた気がした。それでも僕は話を続けた。

「もう一花に変な話をしないように言っておいたから」

「……丞が澪ちゃんと仲良くしてるんじゃなくて?」

「仲良く、というか、相談に乗ってたんだ。田代のことで。だから、二人で話をすることは確かにあったんだよ。でも、それ以上でもそれ以下でもないから」

「……じゃあ、なんでもないってこと?」

 ルウを割り入れた鍋からそっと離れて、一花は僕の袖を軽くつまんだ。僕は一花の肩に腕を回すと、自分の方に彼女を抱き寄せた。鍋からは温かい湯気が上がっていた。

「なんでもないよ。僕は『お兄ちゃん』だって、澪は言ってるよ。実際、年も上だしね」

「……なんか狡い。わたしはどんなにがんばっても君より年下になれないもの」

「なりたいの?」

「なりたい。年上なの、ずっと本当は気にしてて」

 バカだな、と呟いて彼女を抱きしめた腕の力をぐっと入れる。やわらかいその感触を僕の指は覚えている。一花のことしか知らない。

 思い切り長い口づけをして、二人でため息を紡ぐ。深い呼吸をして、彼女のことを今よりもっと知るために彼女の内側を奥へ、奥へと進む。絡み合った心が離れることはないと、そう信じていた。

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