菊一輪

 慶応二年、九月頃。

 三条大橋西詰に立つ幕府の制札が、だれかに抜き取られて壊されるという事件が発生した。

 幕府の体面を保つためにも早急に犯人を捕獲しろ、という京都守護職松平容保の命を受け、新選組はさっそく行動を開始した。


 ──ここは三条大橋である。


 作戦が開始されてから、すでに三日が経過したある昼のこと。

「あ。浅野さんと橋本さんがいる」

「どこ?」

「橋のたもと」

 綾乃がくいと顎で示す。

 寄らねば見えぬところに、新選組隊士である橋本皆助はしもとかいすけ浅野薫あさのかおるむしろを引いて座っていた。

 物乞いに変装しているらしい。

「あれも任務だ、話しかけたら怒られるやつだね。そっとしておこう」

「うん」

 このとき、ふたりは知らなかったのだが、およそ三十四名の隊士が周辺の至るところに潜んでいたという。

 たしかに、近ごろ屯所が広かった。

 それだけの人数がここ三日ほど、この一帯で目を光らせているのだ。綾乃はちらりと周囲を見る。そのとき。

 おい、と後ろから声をかけられた。

「えっ?」

 声をかけたのは、大石鍬次郎である。

「ああ大石さん」

「あんまりここいらでうろうろするな。あんたたちは目立ってしようがねえ」

 大石はムッとした顔をしている。

 しかしそれは顔だけで、中身は優しいということを綾乃と葵は知っている。

「あ、ごめんごめん」

「いやそれより──原田さんがお呼びだぜ」

「原田、左之助?」

「ああ」

 ふたりは顔を見合わせた。いったいなんの用だろうか。


 大石に連れてこられたのは、先斗町の会所である。ちなみにこれは、ぽんとちょう、と読む。

 会所には十二名の隊士が詰めていた。

 そのなかに原田はいた。

 何故か髪結いに髷を結ってもらっている。

「なによ、呼びつけて」

「ワリィな。ちっとひらめいたんだよ」

 と、大きく前のめりになった原田に、初老の髪結いが「動かんでください」と叱咤する。

 大人しく定位置に戻るやお前たち、と笑った。

「遠方地からでも連絡を取れるのだったな」

「え?」

「からくりがあろう」

「ああ、あるよ矢文」

「それを使いてえんだ」

「…………」

 口をつぐむ。

 綾乃の反応を見て、葵も眉を下げた。

「だめだよ、これは」

「そう──そうだよ。これはだめ」

「なんでだよ、まだ何に使うのかも知らねえくせして」

 聞くだけ聞けよ、と原田は答えも聞かずに話しはじめた。

 彼の言い分はこうだった。

 現在の作戦には、三十六名もの隊士が参加している。

 原田左之助率いる十二名がこの先斗町会所に、新井忠雄率いる十二名が河原町の方角にある町屋に、そして大石鍬次郎率いる十名が川向こうの町屋に控える。

 そして橋のたもとで物乞いに変装した橋本皆助と浅野薫が、犯人グループの現行犯を視認次第、その三チームをそれぞれ呼び出す手筈である、と。

「ここ先斗町は、橋から声をあげりゃあすぐにわかる。しかしあとのふたつは届かねえ。だから新井のところは橋本が行って、大石のところにゃ浅野さんが呼びにいくことになってるんだ」

「その連絡を矢文で取りたいと、そういうこと」

 綾乃の言葉に原田は、そのとおりと満足げにうなずく。

「どうだ、悪かねえだろ」

「うん──だけど仮に葵が先斗町に詰めたとして、わたしが詰められるのは新井さんか大石さんのどちらかのみだよ。もう一方はどうするの」

「もう一方は橋本か浅野さんに頼む。そうすりゃあどちらかが捕縛に参加できろうが」

「そもそも二隊が集まった時点で二十数名もいるわけでしょう。そんだけいたら捕まえられるんじゃないの」

 いちいち否定的だな、と原田は不服そうにつぶやく。

「相手がどのくらいか分からねえし、よほどの剣豪揃いだったらいくら新選組とはいえやられちまうぜ。手負いをひとりも出さずに遂行するにゃこの方法が確実なんだ」

「────」

 そうなのだろう。

 それは綾乃も知っている。

 なんせ史実では、この事件についての記録が実際に残っているのだから。

「分かった、いいよ」

「綾乃!」

 葵が驚いた声をあげた。いつもならば歴史に手が加えられるようなことは、絶対に避けるはずだが。

 しかし綾乃は慎重な顔で葵を見つめた。

「じゃあわたしは新井さんのところに詰めるから──葵は先斗町で、左之の陣が出陣したら電話ちょうだい」

「…………」

 ハッ、と葵が顔をあげる。

 綾乃はだから、と付け足した。

「大石さんの陣には、浅野さんが呼びに行ってね」

「おう。助かるぜ」

 原田は嬉しそうにうなずいた。

 それから、上手くいくことを願って酒を飲もうぜ、と隊士に酒を調達させる。

 しかし綾乃と視線を交わした葵は、緊張を紛らわすために唇を舐める。

 やはりそうきたか。

 葵は思った。


 事が動いたのは、その日の深夜。

 あろうことか隊士一同が深酒を召したなかでのことである。

 橋に、犯人らしき集団が現れたのだ。

 変わらずその場で物乞いに徹する浅野と橋本は、固唾をのんで状況を見守る。

「…………」

 一、二、三──暗闇で定かではないが、おそらく八人ほどいるだろう。橋本は唇を噛み締めた。

 犯人のひとりが制札に手を掛ける瞬間を見届けるや、大きな声を出す。

 先斗町会所から、その声ははっきりと聞こえた。

 酒に酔った原田であったが、声を聞くや槍をひっつかみ「行くぞっ」と隊士を引き連れて会所を飛び出す。

 その姿を見るや葵もすぐさま電話を掛けた。無論、新井忠雄らとともに控えている綾乃に、である。


「ジリジリ焦らせやがって、覚悟しやがれッ」


 原田の威勢を合図に、男たちは刀を抜いた。

 先手を取るは新選組。

 橋本の読みどおり、八人いた犯人グループのひとりを斬り殺す。それを見た犯人らは河原町通方面へと駆け出した。

 しかし、

「甘いんだよ!」

 と駆け付けてきた新井忠雄ら十二名がその逃走を妨げた。原田の考案した矢文作戦は功を奏したようだった。

 しかし、それから四半刻ほど待てども最後の一隊が来ない。

 川向こうの町屋で待機する、大石隊である。

「──大石隊はどうした」

 乱闘のなか、背を合わせた橋本に小声で尋ねる。

 町家で待機する大石鍬次郎の隊十名が来ない。橋本はハッとして周囲を見渡す。

「浅野さんが呼ぶ手筈のはず──」

「浅野ッ」

 原田は怒鳴った。

 暗闇のなかに浅野の姿は確認できない。しかし「はよう大石隊を呼べ!」と原田が叫ぶや、暗闇から「はいィ」と叫び声が聞こえた。

 なんてことだ、まだここにいる。

「……ひよったか」

 原田はつぶやいた。

 浅野が向かうべきは乱闘先の川向こう。おそらく彼は、その乱闘のなかを駆け抜ける勇気がなかったのだ。

 結局、浅野は回り道をして大石隊を呼びに行ったが、隊の到着は予定よりも大幅に遅れた。

 ゆえに三方包囲網の作戦が崩れ、犯人グループのうち六名に逃げられるという惨憺たる結果に終わったのである。


「おつかれ」

 一方その頃、先斗町会所で待機していた葵のもとに綾乃が合流した。

「……わざと?」

 葵が問う。

 綾乃の選択についての問いだった。

 史実では、浅野薫は川向こうの町屋に駆けることができず、大石隊の到着が大幅に遅れたことになっている。綾乃はその事実が覆らぬようにと、新井の待機する方を選んだのだろう。

「犯人は、土佐藩だって?」

「たぶん」

「なら、池田屋のお返しになったね」

 綾乃の言葉に、葵はうめいた。

 元治に起きた池田屋事件は、この世界においては葵が「桝屋にあり」と進言させられたことからはじまった。──無論、それはもとの世界の史実でもたどり着く答えではあったけれども。

 しかしそれにより失った土佐藩浪人に、望月亀弥太がいる。

 今回、もしも綾乃が大石隊の方を選んでいたなら、さらに多くの土佐藩士の命が失われていたかもしれない。

「結果的には、土佐藩の味方をしたんだね。私たち」

「とんとんだよ」

 綾乃がつぶやく。

 そう、これが正史である。

 いたずらに人が死ななかったと思えば、まだ救われた。


 それから数日後。

 捕縛した男は土佐藩の宮川助五郎といった。

 それにより犯行が土佐藩士によるものであったことが判明。

 幸いに初犯だったこともあり、近藤や土佐藩の面々はこの問題をこれ以上長引かせるのは得策ではないと、十九日に祇園の料亭で酒宴を催して和解することになる。


 しかしこちらは和解どころか、喧嘩が勃発した。

 ──事件の夜、屯所で。

 原田は憤怒の表情を浮かべて綾乃に詰め寄る。

「綾乃ッ、お前ェってやつは!」

「なによ」

「おまえ──お前知っていたんだろ」

「なにを」

「浅野の失態だよ!」

 原田が綾乃に声を荒げるなど、初めてのことだ。近くにいた永倉が驚いた顔で近づく。

「知っていて、新井を選んだんだな」

「作戦が成功しなかったことを人のせいにしないで」

「てめえ!」

「おい落ち着けよ左之助。なんだなんだ」

 掴みかかろうとした原田を、永倉が後ろから羽交締めにした。ふたりの身長に差があるため、永倉の顔は懸命なあまり赤くなっている。

「責めるべきは、任務を遂行しなかった浅野さんだろう。綾乃を責めるこたァねえ」

「けどこいつは未来から、────」

 と、言いかけて原田が止まった。

「…………」

「左之、どうした」

「──いや、そうじゃねえ」

「はあ?」

 永倉は眉をしかめた。

 そろそろと、原田の身体に巻き付けていた己の腕を外して彼の顔を覗く。

「おい、」

「それは──くそッ」

 原田はがしがしと頭をかきむしり「帰る」と踵を返した。

 帰る──というのは、結婚して所帯を持った原田の持家に、という意味である。永倉はいよいよわからない。

「おい、帰るったってお前──なんだったんだよいまのは」

「なんでもねェッ」

 床を踏み抜く勢いで廊下を去る原田を、困惑したように見てから、永倉は綾乃に視線を移す。すると今度はそちらにぎょっとした。

 綾乃がぐっと涙をこらえているではないか。

「今度はなんだ!」

「────帰る!」

 綾乃は駄々っ子のようにそう言った。

 永倉が、

「おまえの家はここだろうが……」

 と、呆れたように言うと綾乃は何故かさらに涙をためて、永倉に泣きついた。

「なんだなんだ、なんなんだ。もう!」

 永倉は、自分よりすこし丈のある彼女の頭をただ撫でてやることしかできなかった。


 ──こいつらは未来から、──。


 その原田の言葉で、いったい綾乃がなにを感じたのか。永倉には知る由もない。

 後日、葵に聞いてみたことがある。

 そのときの彼女が「ああ、そう──」と呟いたときのどうにも寂しげな顔を、永倉はおそらく忘れないだろう。

 彼女には、なにか悟るものがあったのかもしれない。

 それ以降、そのことに関して永倉が首を突っ込むようなことはしなかった。

 しかし原田と綾乃に流れるぎくしゃくとした距離感は、しばらくの間続くこととなる。


 ※

 閑話をひとつ。慶応二年九月のことだ。

 新選組とともに、会津預りで京都守護を担う組織としてもうひとつ、見廻組があった。

 この頃、見廻組幹部であった大沢という男──どうやら薩摩藩士と手紙のやり取りをしていたらしい。

 京都守護職より、大沢捕縛の命を受けた新選組ともう一方、奉行所からも同じ命を受けた者がいた。

 それが、後の現代で「日本資本主義の父」とも呼ばれる渋沢栄一である。

 新選組の土方、沖田、永倉の三名と、渋沢──当時は渋谷と名乗っていた──がタッグを組むことになったのだ。


「我々が先に大沢を捕縛してきます」

「渋谷どのはここでお待ち頂きたい」

 打ち合わせのために入った鰻屋で、沖田と永倉が言った。しかし渋沢は反論する。

「いや、私が命を受けたのだ。私が行く」

 もともと奉行所から命を受けたのは、渋沢だ。この言い分ももっともである。

 チッ。

 と、沖田の舌打ちが聞こえたのか、渋沢もぎろりとそちらをにらむ。

 土方は思案しているのか、一言も喋らない。

 沖田は最大限に眉をしかめて、言った。

「こちとら場数踏んでるんですよ。あんたみてえにド素人が手ェ出したら、捕まるもんも捕まらねえでしょう」

「場数なら、まだ若い君よりも充分私の方が踏んでいる、ぶっちゃけ」

「そんなたかだか二、三歳変わりますかい。なんですかそのぶっちゃけって──腹立つなぁ」

「総司、論点がずれて」

「永倉くんなんか、捕縛って言っているのに斬っちゃいそうだな」

 と、沖田をなだめた永倉に、渋沢はにやりと笑う。それを聞くや永倉は普段眠そうな目を剥いて、鍔に手をかけた。

「ちょっとドタマがいい子だからって調子づいてんじゃねえぞ」

 珍しくも永倉が小さく毒づく。

 それを見てようやく土方がわかった、と声をあげた。

「──あんたもなかなかの嫌味な野郎だな。わかった、あんたに大沢捕縛は任せよう」

「土方さんッ」

 沖田が、非難するように身を乗り出す。

「落ち着け総司、この人だって武士の面体に関わるんだろう。情けをかけて、譲ってやろうぜ、な」

「…………引っかかる言い方だな」

 渋沢は、ムッとした顔で土方をにらむ。

「俺たちは不逞浪士捕縛なんざしょっちゅうだ。やりてえってこの人が言うなら、一度くらいやらせてやろうじゃねえか」

「土方くん、君ね」

 途端に、沖田は身を引いた。

「そうですねッ。わかりました渋谷さん、どうぞ!」

「ああ。俺たちの配慮が足りなくて申し訳なかった、すみません」

 永倉もにっこにこである。

 渋沢は困惑した顔で土方をちらりと見た。

 見事なまでにわるい顔だった、と。

 渋沢は後年に語ったという。


 ※

 閑話休題。

「だるい……死ぬかもしれない──」

 綾乃は言った。


 彼女は季節の変わり目によく風邪を引く。

 今日も寝起きに寒気がした。ぼんやりと身体は熱いが、そのくせ動くと寒い。関節も、痛い。

 完璧に熱である。

「そんなことで死ぬたまかよ」

 と、笑うは藤堂平助である。

 医者を訪ねる道中で、行き会った。あまりにも前後不覚な彼女のようすを心配してか、肩を貸してくれたのだ。

「お前、丈がでけえからおぶってやろうにも難しいんだ。しっかりしろよ!」

「……やーい、チビ……」

「はったおすぞ!」

 なんとか医者の元へ辿り着いた頃には、冗談を言う元気もなくなっていたが、診断はただの風邪とのこと。

 心配かけるなよ、と藤堂にどつかれながら帰途につく。

 それは、帰路で起きた。


「てめえ──この間死んだはずじゃあッ」

 突然、目の前に数人の男たちが立ちふさがったのだ。すこし十津川訛りがある。

 そう、綾乃と葵が三条大橋からやむなく飛び降りるに至った所以の奴らだ。

 藤堂も、男の言葉からそう認識する。

 鍔に手をかけ鯉口を切った。

「どきな。こいつはいま病人だ──それ以上近付くと、俺が黙っちゃいねえぞ」

「てめえが誰だか知らねえが、俺たちはその女に用がある。邪魔立てすれば命はねえぞッ」

 という男たちの言葉に、藤堂はクッと馬鹿にしたように小さく笑んだ。

 綾乃を自分の背中へ隠しつつ、まだわからねえか、と鼻をならす。

「新選組八番隊隊長、藤堂平助。……これ以上楯突くってえんなら、その首もらうぜ」

 美男子の凄みは、迫力がある。

 唇を舐める藤堂を見て綾乃は背筋がひやりとした。

「……し、新選組」

「所詮は幕府の犬だ。斬れッ」

 と、浪士は襲いかかってくる。

 藤堂は北辰一刀流の基本である鶺鴒の構え──剣先を上下に小さく揺らした正眼の構え──で待ち受け、向かってきた三人の男を左に、右に払いのけ、素早く右上から袈裟斬りに倒した。

「で……できる」

「おら、どうした」

 来いよ。

 その声が、まるで藤堂平助ではない。

 思えば、隊務中の隊士たちを見ることが少ない綾乃にとって、藤堂のその姿が見慣れないのも当然だった。

 藤堂は、挑発するように剣先を揺らすも、十津川郷士は恐怖を感じたか、一目散に逃げ出した。

「あっ逃げやがった。くそ、一匹くれえ捕縛しときゃあよかった」

「…………」

 綾乃は恐る恐る、倒れ伏す十津川郷士にふれた。

 既に絶命している。

「峰打ちじゃないの」

「んなことしたら、俺が隊規に背いて切腹しちまわぁ。俺だってやりたかねえや」

 往来のなかの乱闘に、野次馬が増えた。

 商人に「奉行所の役人を呼べ」と伝えて、藤堂は綾乃の手を引いて歩きだす。

「……ごめん、わたしのせいで」

「ち、違う。俺が言いてえのはそういうことじゃなくて、だから」

「わかってる」

 ありがとう、と言った綾乃の声は明るい。

 藤堂は照れ臭そうに頭をかく。

「早く帰ろう。そんで風邪、治せよ!」

「うん」

 季節は、秋から冬に近付く。

 慶応二年もあとすこし。

 綾乃はそれがとてつもなく憂鬱だった。


 ※

 秋が終わって、冬が来た。

 師走に入って町中が騒がしくなる。

「平成は、町中がイルミだしクリスマスソング流れているから実感もわくけど、──ここはどちらかというと取り立ての月だから、クリスマスって感じしないね」

 これといって取り立てられる支払いのない綾乃が、西本願寺の境内を掃き掃除しながら言った。

 葵は、ちりとりを手にスタンバイする。

「キリスト教、禁止だしね」

「踏み絵で本気度推し量るとか陰湿じゃない? わたしはわりと土方教なところあるけど、踏み絵なんか出されたら喜んで踏みつけるよ。土方さんを踏むなんてなかなか出来ることじゃないし」

 なぜか嬉しそうである。

 葵はうんざりした顔を向けた。

「土方さんとキリストを一緒にしないで──神聖なものにおしっこひっかけるようなものなんだよ」

「スカ……」

「おまえいい加減にしろよ、ほんと」

 ちりとりを振り上げて殴りかかった葵を押さえつつ、弁明した。

「いや、ていうかね。お地蔵さんだって、別に信仰しているわけじゃないけどおしっこは無理でしょ。そもそも得たいの知れない磔のおじさんの銅絵を踏むって、祟られそうとか思わないかな」

「でも、それで獄中に入れられるって言ったら迷わず踏むよ。私は」

「うーん、──そうだ。たしかに」

「それでも踏めないのは、もはや意地だね」

「なるほどね」

 寒風が身を襲う。

 集めた落ち葉が巻き上がらぬよう、素早くちり取りで掬い上げ、カゴの中へ放り込んだ。

「さてと──賄い方が買い物手伝ってって。落ち葉片付けておくから用意しておいで」

「うん」

 ちり取りと箒を受け取って、葵はパタパタと屯所内へ戻っていった。

 その姿を見届け、カゴを持ち上げようとしたときである。


「綾乃」


 不意に、背後から聞こえた声。

 綾乃は肩をびくつかせて振り返った。

「あ、村垣さんッ」

「──久しぶりだな」

 村垣佐兵衛が、そこにいた。

「どうしてここが!」

「オレの調査能力をナメんじゃねえ。京の三橋綾乃と名を聞けば、たやすいことだ」

「おぉ…………」

「改めて、謝りに参った」

「え?」

「疑うようなことを言った。すまん」

 と頭を下げた村垣の髷が揺れる。

 およそ、五ヶ月も前のことだ。

 彼に疑惑の目を向けられたことに悲しんだことも、いまとなっては懐かしい思い出だ。

「い──いいですよそんなこと。それより家茂様は?」

「あれからすぐに亡くなられた。それから間もなくオレは江戸へ発ったんだ」

 江戸へ帰還後、なにがあったのかを、村垣は軽く教えてくれた。


 和宮は、家茂の死を大変に悲しんだ。

 無言の帰還を果たした家茂に一目会うことすらできず、代わりに渡されたのは、家茂が買っていた西陣織であった。

「貴方がいなくては──こんなもの……」

 西陣織を胸に抱え、絶叫に似た嗚咽をあげる和宮に、みなかける言葉がない。

 その後和宮は「家茂以外の男と添いたくはない」と、慶応二年十二月九日に出家して、静寛院と名乗るようになったとか。


 大変な人を亡くしたものだ、と綾乃は思った。

 暗い雰囲気を払拭するように、村垣はパッと顔をあげて「しかしな」と微笑む。

「──先日、慶喜様が将軍にご就任なされたよ」

「いまは、慶喜さんについてるの」

「ああ。ただ──もう普通の御庭番に戻るつもりだ」

 綾乃は首をかしげる。

「今日は、何しに?」

「こっちに知り合いがいるんだ。今度はそいつの主人が病でね、天然痘だそうなんだ。しょげていやがるだろうから、様子を見に」

「へえ──天然痘か」

 この時期、天然痘にかかっているとして有名なのは、綾乃の知るところでは孝明天皇がいる。

 さすがに、まさかな。

 と、ひとりで自嘲し「頑張って」と意味のないエールを送った。

「天然痘についての助言はくれねえのかい」

「天然痘はウイルスだから、免疫力がつけば治ると思う。種痘はしたの?」

「さぁ、そこまではまだ」

「というか──箱舘奉行のお父上の方が、天然痘に関しては詳しいでしょう」

「おまえは──本当になんでも知っていやがるな」

 村垣は舌を巻いた。

 箱舘奉行であった村垣範正は、アイヌ民族に天然痘が今以上に流行することがないよう、約二年間でおよそ一万三千人ほどの人間に種痘を施したと聞く。

 種痘とは、対天然痘ワクチンのことである。

 主にネコ科動物や牛にかかる天然痘の近縁、牛痘ウイルスは、人にも感染するが、症状は非常に軽い。

 天然痘に対する抗体も出来るということで、この時期に大変多くの人間が接種したそうだ。

「とにかく、ウイルスを倒すためには免疫細胞強化が必要不可欠ですから。たしか──発酵食品が良いって聞くから、漬け物とか味噌とか。ね」

「言っていることの半分は分からんかったが、分かった。味噌と漬け物だな」

 村垣は、瞳を輝かせて頷いた。

 やがて「またな」という一声とともに、音もなく立ち去る彼をおもって綾乃は腕組みをする。

「なんか、前から思ってたけど……あの人」

「いまのだれ?」

「うわっ」

 不意に、音もなく後ろに立っていた葵に、綾乃は飛び上がるほどにおどろいた。

「あんたいつそんなステルス機能を──」

「声かけるタイミング逃しちゃった」

「さっきの人は、その──玄米の君だよ」

「ああ! なにしに?」

「ちょっと、喧嘩別れみたいになっていたんだけど。わざわざ謝りに来てくれて」

 へえ、と葵は驚いた。

「珍しい。綾乃が親しくない人と喧嘩するなんて」

「……うん。でも、たぶんもう親しいよ」

「ふうん──ていうか落ち葉片してないじゃん。もー」

「あ、ごめんごめん」

 綾乃はわらった。


 天然痘。

 膿疱が体中に現れ、身を焼かれるような痛みが全身を襲うらしく、かかった者は大人しく横たわるのも辛いそうだ。

 この膿疱は、引いてものちのち痘痕が残ってしまうため、世界中から恐れられていた。

 幕末期に、緒方洪庵らが尽力して種痘を広めたことでも有名なこの病は、それでもまだ多くの人を苦しめたという──。


「塩、米──あとこれも。よし、忠助さん帰ろう。荷物たくさんになっちゃった」

「はい。今宵の味噌汁は具をぐっといれたものにしますね」

「具をぐっと──ぶふっ」

「えっ、なにか面白いですか!」

 賄方、忠助との買い物は思ったよりも早く終わった。

 京野菜と米を抱える忠助とともに、綾乃は帰途につこうとした。が、葵は未だになにかを探している。

「葵、帰らないの」

「近清さんで漬物見てから帰るから、さきに帰ってて」

「よろしく。たくあんもね!」

「はいはい」

 たくあんを所望するのは綾乃ではない。

 みんな大好き、土方歳三である。

 さて。

 ようやくひとりになったぞ、と言いたげに葵はにやりと笑った。

 じつは最近、ひそかに楽しみにしていることがあるのである。


「あっ、──いた」

 近清という漬物屋で、店の主人から試食を促される小直衣の男。

 先日船着き場で目撃したその人である。

 数日前、新選組御用達の漬物屋近清で、ばったり遭遇したのだ。

 綺麗なマスクのお公家様が漬け物屋にいることがおかしくて、葵はここ数日また会えやしないかとこの近清に通っていた。男は瞳を細めて笑うと、中にいた近清主人に声をかける。

「しば漬け」

「おおきに。いつもえろう助かっとります」

 常連なのか、と葵がたくあんを吟味しながらぼんやり考える。

 いったいなんの仕事をしているのか──とおもいつつ、土方が特に好物だというたくあんを手に取り、主人に渡した。


「たくあん」


 突然、声をかけられた。

 顔をあげると、男がしば漬けを主人から受け取りながらこちらを見ている。

 葵は動揺した。

「えっ?」

「ここのは旨かろう」

「は、──はい。それが好きな人がいて」

「いいな」

 何がいいのかわからないが、男はそう言って近清の主人に「それの分」と小銭を渡す。

「へい」

 たくあんを葵に渡して、男はじっと顔を覗きこんでくる。

「ま、待ってください。お金!」

「以前会ったな」

「…………え?」

 男はにやりと笑う。

「草履の鼻緒」

「ぞう──あ、あー!」

 葵は、叫んだ。

 そうだ。船着場で見かけたときからどこかで見たような気がしていた。

 あの、鼻緒が切れたときに結い直してくれたあの男だったのだ。合点がいき、葵は瞳を輝かせる。

「あのときはありがとうございました!」

「奇縁ってなァこういうことを言うんだね」

「あの、それにたくあんも──ありがとう」

「いいってことよ」

 男はにっこりと、女を溶かす笑顔を浮かべた。これほどの美丈夫はそういない。

 その後ろから、主人が顔を覗かせた。

「それでヘイジさん。うちの漬け物──ちいとはお役に立ってはりますか」

「ああ、そらァもう」

「嬉しいわ。そのまま、病もふっとんでいかはったら幸いやけど」

「種痘は受けたがなかなか──そううまくはいくまい」

 頭が痛ェや、と涼しげに微笑む。

 どうやら彼は平次というらしい。

「ご病気なんですか」

「俺の主人が天然痘でな」

「流行っとるしなぁ」

「天然痘──」

 今日は、よくきく名だ。

 現代ではウイルスが原因として言われているが、この当時、なにも分からないのだから、よほど恐ろしかっただろうと思う。

 先ほど綾乃が密会していた男も、天然痘についてのアドバイスを綾乃からもらっていたのを思い出す。

 たしか、綾乃は“発酵食品がいい”と言っていた。

「発酵食品──ぬか漬けなんか、いいでしょうね。早く治すには」

「ぬか漬け」

 ぬか漬けが良いのか、と嬉しそうに追加で近清の主人にぬか漬けを適当に選ばせる。

「博識だァな」

「──ま、豆知識です」

「覚えておこう」

 ぬか漬けを受け取り、葵に向き直ると涼しげに微笑んで、平次は「じゃ」と店を出ていった。

「ご主人」

「うん?」

「平次さんって、なにされてるんですか」

「いやあ、わしもよう知らんで。ただ、お公家さんのような格好してはるやろ。お公家さんか聞いたら違う、ゆうて。まあでも言葉はお江戸やろ──不思議なお方やねん。あれでたまに京言葉が出るんやからまたおもろいで」

「ふうん。──」

 葵は店の外に顔を出す。

 彼の姿を目で追うと、御所方面に向かっているようだった。

 いよいよ気になる葵は、

「これも、奇縁」

 とつぶやいて駆け出した。


 ※

「うわ、野狂や──」

「ほっとけほっとけ」

「触らぬ変わりもんに祟りなしやな」

 御所の周りで、ひそひそと声がする。

(…………)

 むかしからなにかと公家には煙たがられる。かなりの長身で、かつこれほどの美形だ。いやでも目につくのだろう。

 出自も年齢も、本名すらも不明。

 公家などという立派な身分もないくせに、何故か時の帝、孝明とは竹馬の友であるとのたまう。

 そんな彼は、自分の友達でもあるのだ。

 ────と。

 御所の周りをうろついていた葵を取っ捕まえたひとりの公家が、詰問するでもなく剽軽な顔でそう言った。

「賀陽宮と申す。おのれは?」

「と、徳田葵です」

「徳に葵とな。大層な名ァしとるのう。まあええわ、なにしとったん」

 賀陽宮と名乗った男はじろじろと上から下まで葵を眺め回している。

「──あの、へ、平次さんがどういう人なのかを知りたくて」

「なんや、平次に惚れとんかい!」

「ちがう、違います。そうではなくて──」

 葵は口ごもり、うつむく。

 奇縁からくる好奇心にろくなことはない、と己を呪いたくなった。しかし意外にも賀陽宮は「そうかそうか」と頷いて、嬉しそうに手をあげる。

「おうい、平次!」

 そして突然叫んだのだ。

「きゃーッ!?」

 なにしとんじゃこのジジイ、と葵は顔を赤くしたり青くしたりしてその手を下ろそうと必死になるが、その前に呼ばれた平次は振り返った。

「宮さま──と、こりゃさっきの」

「あう」

「葵ちゃん、というらしい。めんこかろ」

 賀陽宮は葵の肩にいやらしく腕を回した。

 その手を払って、平次は葵を引き寄せる。

「宮さまは女となりゃァ節操がねェ。この娘はいけませんぜ、どうにも俺とは奇縁の仲だ」

「なァにが奇縁やと。えらそなこと言いよってからに」

「ほんまのことや──なァ」

 平次はうっとりわらった。


「まさか、平次さんのご主人が帝だったなんて」

 彼の手には、いまだに漬物が抱えられている。葵の驚いた声に賀陽宮はかかかと笑った。

「こないがさつな風来坊がお側にいてええお方でもあれへんねんけどなァ。なんや帝はこの野狂がお好きらしい」

「なんでェ、宮さまも類友サね」

 平次もくつくつと笑う。

 話によれば、彼はこの御所内で寝起きをしているそうである。

 氏もなく、ただ平次とだけ名乗る彼は、己のこともよく知らぬ変わり者であった。

「これ以上油を売ったら、また怒られますぜ。宮さま」

「わかっとるわい、はあ──十四代の若将軍が鬼籍に入ってから雲行きが怪しいわいな」

 賀陽宮が呟く。

 平次は途端に眉を歪めて「まこと」とだけ言った。それからパンパンと手を叩く。

「ほうれ、はよう」

「なんやねん。人を犬みたいに」

「犬のがまだかわえェだろう」

 クククとわらう平次に、賀陽宮は舌を出す。

 あっ、と声を出して平次を振り仰いだ。

「犬と言や──またあの妙なのが来とったで。以前、わしを殺しに来た男」

 物騒なことを言う。

 しかし合点がいったか平次は嬉しそうにそうですか、と笑った。

 賀陽宮が仕事に戻っていくのを見届けて、葵は平次を見上げる。

「殺しに来た──?」

「昔の話だ、いまはないよ」

「…………」

 葵は、綾乃ほど歴史に詳しいわけではない。彼女なら知っているだろうか──と顎に手を当てる。

 そのとき、頭上から

「ぬか漬けの君」

 と声が降る。どこかで聞いたネーミングセンスだ。

「と、徳田葵です」

「なるほど大層な名ァだ」

 言ってから口をへの字にしてつぶやく。

「井伊の赤鬼を知ってるか」

「はい──安政の大獄をやった人」

 ククと笑い、平次はうなずいた。

「その赤鬼がな、あの宮さまを狙うて刺客を寄越したことがあった──それが犬」

 幕府の、という意味だろうか。

「その人がまた来ているんですか」

「なに、いまじゃァ俺のマブダチよ」

「…………」

 妙に楽しそうだ。

 葵はハッと緊張したような顔で頭を下げた。

「あの、すみませんでした。後なんかつけて」

「ああ、俺になにか用だったかい」

「そういうわけじゃ、ないんです──」

 口ごもる葵にまあエエ、と平次がうなずき周囲をちらりと見る。

「どうやらその犬が俺に会いに来たようだ。今日は残念だが、また近清で」

「あ、は、はい」

 早く退散して、綾乃に聞こう。

 葵はそう思って頭を下げるや足早に御所の前を後にした。


「──だれがマブダチだ。適当なこと言いやがって」

 平次の後ろから、声がした。

 村垣佐兵衛である。

 綾乃と西本願寺で話してから、諸々寄り道をしたようだ。手には大きな包みを抱えている。

 平次は嬉しそうに目を細めた。

「よう、来たのか」

「どうせ貴様がしょぼくれていやがるだろうと心配してやったんだよ」

「そうか、そうか」

 つん、とそっぽを向く村垣に構わず、平次は馴れ馴れしく肩を抱く。

 安政の大獄以前、賀陽宮──当時は中川宮と名乗っていた──の刺客として送り込まれた村垣と、宮の護衛のために張っていた平次は相国寺にて出会った。

 当時は立場的に犬猿の仲であったふたりだが、諸々和解したいまでは、数少ない心を許せる友人である。(※第零章参照)

「ほら」

 村垣は大きな風呂敷を渡した。

「天然痘には、発酵したものが良いってなことを聞いた。味噌とか、ぬか漬けとか」

「──巷では流布しているのか、それ」

「なんだって」

「俺も先ほどあの娘に聞いた。おんなじことを」

「へえ、そいつは奇遇だ」

 とにかくありがとう。

 と、平次は嬉しそうに風呂敷を受け取る。

「はやく──御身が良くなられるといいな、帝も」

「うん」

 村垣の言葉に、平次はこくりと頷いて御常御殿を見上げる。

 村垣の主人家茂が亡くなったとき、平次は大坂へ駆け付けた。床で静かに目を閉じる家茂の姿に、なんとも言えぬ焦燥を覚えたことを思い出す。

「あのときは、お前に世話になったからな」

 村垣はつぶやいた。

「その返しだよ」

「律儀なやつだ」

 平次は笑った。


 数日後。

 再び近清で平次に会った。

 あの日以来、会っていなかったこともあり、葵は嬉しそうに駆け寄る。

「平次さん」

「お──ぬか漬けの」

「葵ですってば」

「うん、いい名だ」

 しみじみ呟いて、左手に持っている扇子で口元を隠した。

 口調は江戸っ子のくせに、仕草はまるで平安貴族である。どうやらすこし機嫌もいいようだ。

「なにかいいことでも?」

「ああ、実は」

 ぬか漬けと味噌。

 もちろんそれだけでは足りぬだろうが、とにかく少しでも口にできるものは、召し上がっていただいたそうだ。

 そんな平次の献身的な世話もあってか、孝明天皇はいま、ぐんぐん体調を取り戻しているらしい。

 十七日には熱も下がりはじめ、便通も、食欲も戻ってきた、と。

「膿も、ほとんど出なくなった」

「スゴいじゃないですか! 種痘をしたとはいえ、天然痘から生還するなんて」

「葵も命の恩人だ、治ったらこっそり謁見してくれ」

「えッ、無理無理無理です」

「そう言うなィ。感謝していたぜ」

 今日は、十二月二十三日。

 良い知らせだった。

 まるで、サンタクロースから少し早めのクリスマスプレゼントを貰ったような気持ちである。

 そんなこと、平次に言っても伝わらないだろうが。

「いやぁ、うちのぬか漬けも捨てたもんやないですな!」

 と、近清の主人でさえ自分のぬか漬けが誰かを救った、とはにかんでいる。

「ほんとよかった──」

 けれど葵の頭の中で、どうしてもちらつくものがあった。

 それは、史実という残酷である。

 先日御所から屯所へ戻り、綾乃に問うたことがあった。

 孝明天皇はいつ死ぬのか──と。

 そのとき綾乃は、ハッとしたように口元を抑えて「クリスマス──」とだけ呟いたのだ。

 もし、その通りになってしまうのならば。

 葵はどうしても、帝のいまの快復を手放しで喜ぶことができなかった。


 ※

 時は、十二月二十五日。

「…………」

 嫌な噂を聞いた村垣は、足早に京都御所へ向かう。

 普段は衣擦れの音ひとつ立てない村垣が、音を消すことも忘れて、ひたすらに駆ける先は平次のもとだ。


 帝が御危篤である。

 と、話を持ってきた使いの言葉を受け、村垣はなにも言わずに駆け出した。

 そんな馬鹿な、と歯を食い縛る。

 やがてたどり着いた御所のなか、右近橘の樹を横目に平次を探した。

 孝明天皇がおわすであろう御殿の前で息を整えてから、村垣はそっと中へ入る。

 平次は、探すまでもなく、そこにいた。

 孝明天皇の変わり果てた姿を見つめ、入口で立ち尽くしている。

「!」

 村垣の位置からでは、御簾に隠れていてあまり見えないが、微かに漂う臭いで察した。

(死臭──)

 周りの公家がおいおいと嘆き悲しみ、祟りじゃ、と騒ぐもの、お触れを出すために駆け回るもの。

 ──様々な動きがあるなか、平次の周りだけ時が止まっているように、彼は微動だにしない。

「平次」

「…………」

 ただその遺体を瞳に焼き付けるかのように、瞬きもせずにジッと見つめている。

 孝明天皇の最期は、かなり壮絶なものであったと伝わる。

 二十四日の夕餉後嘔吐し、翌日に入って激しい下痢と嘔吐、もがき苦しみ暴れ回った上に最期には全身の穴から出血をし、崩御した。そのとき、平次は歯を食い縛りながらずっと孝明天皇のお身体を拭いていた、と他の公家は気の毒そうに語る。

 それしかできなかった、と。

 手を施そうにも、もう、何も出来ないことなど目に見えていた。

 快方に向かっていたはずの孝明天皇の突然死は、公家の間でも暗殺疑惑が浮上する。

 最有力と噂されたのは岩倉具視いわくらともみだった。

 孝明天皇崩御の直後、彼の権力は復活し、長州征討軍も解兵。現在ではその岩倉の更にバックに、長州藩伊藤俊輔が関与しているのではないか、という疑いもあるそうだが──。

 しかし、そんなことは知らない。

「もう見るな、平次」

「…………」

「おい」

 しかし、彼は動かない。

「なぁ、外に行こう」

「…………」

「くそッ」

 村垣は、無理矢理に平次をそこから連れ出した。


 ──。

 ────。

「…………無力」

 と。

 外に出て、彼はやっと口を開いた。

「己がこれほど、無力とは──知らなんだ」

「平次、」

「俺が殺した。……俺が」

「違う。平次、それは違うぞ」

 村垣は平次の両腕を掴む。

 何度も首を横に振る。

 怒りに声を震わせて、違う、とまた言った。

「お前は護った、病の死手から帝を護った」

「…………いいや」

「護ったんだ。でもオレはあの日、知った」

 村垣は、滲む涙をそのままに平次を見つめた。

「いくら病の死手から護ろうと、それを邪魔するやつがいる」

 いくら死手から逃れようと──村垣は言った。

「逃してくれぬ者どもがどこかにいる」

「…………」

「本当に護りてェのなら、すべてを殺す覚悟で臨まねばならぬと」

 でなければ護ることなどできやしねェ。

 彼は、双眸から涙をこぼした。

 平次は崩れ落ちて膝をつく。

 ついて、扇子で顔を隠し、聞こえぬほどの嗚咽を漏らした。


 慶応二年、十二月二十五日。

 孝明天皇、崩御。


 その日から、葵が平次を近清で見かけることはなくなった。

 風の噂で孝明天皇が崩御したことを聞く。

(……無力)

 とは、この世界に来たときから感じていたことだが。

 いま泣いているかもしれない彼のそばに、誰かがいてあげていることを祈って。

 葵は綾乃とふたりで、ひっそりと献杯をした。


 ※

 年が明け、慶応三年。

 一月一日のことである。

「あけおめ」

「ことよろ」

 とうとうここに来て、通算四年ほど経ったか。

 ふたりは感慨深げにそう思う。

「ここまで長かったね」

「いやあ──四年もいれば、余裕で心のふるさとっすわ」

「そういえば、今日って斎藤一氏の誕生日では」

「わお、めでたいやつ」

 と、綾乃は斎藤を探す。

 とはいえ、昔の人は月末月初に生まれた子どもの誕生日を、分かりやすいように一日とすることもあったため、本当かどうかは定かではない。

 玄関先に向かうと斎藤がちょうど出ていったところだった。

「あ、いた……けど行っちゃった」

「どこかに行くみたいだね。──なんか、変なメンツで」

 葵の言葉に、綾乃は眉をしかめる。

 その先にいたのが永倉と伊東だったからだ。

 綾乃が知る限りでは、今日から四日間ほど、永倉と斎藤は伊東に角屋へ連れられて無断宿泊をしてしまうのである。

「…………なんでなんだ」

「角屋──さすがにアポなしで天神気取るわけにもいかないし。そもそも相手は身内だし」

「もう少しはやく思い出していたら──盗聴器とか録音機器とか仕掛けられたのにッ」

「発想がメンヘラだよ」

 と言いながら、葵はうなだれた。

 すると、正門の前がなにやら騒がしい。

 どうやら朝番の一番隊が帰ってきたようだ。

「あっ、沖田隊が帰ってきたよ」

「そうみたい」

 すこし嬉しそうに笑った葵の背中をバシリと叩いて、綾乃は促した。

「ち、ちょっと出迎えてくる」

「行っといで!」

 最近は、沖田の隊務あがりにふたりで甘味屋をめぐるのが、習慣になっているらしい。

 紅い顔をして走り出す葵を見送って、綾乃はポリポリと頭を掻いた。

「幸せ者め──」

「葵にフラれたか」

 ふと声がする。

 縁側の方に目を向けると、ぎこちない笑みを浮かべた原田がいた。

「…………」

 浅野薫のことで喧嘩をしてからしばらく、顔を合わせることが少なかった。そのためなんとなく仲直りをする機会もなかったふたりである。

「サノ──」

「俺も新八っつぁんにフラれた。……フラれた者同士、どっか行こうや」

 妙に明るく言った。

 原田は、優しい。

 いつも綾乃は彼を見るたびそう思う。

 だからその申し出はとても嬉しくて、綾乃は笑ってうなずいた。

「──お墓参りに行きたい。壬生寺と光縁寺」

「ああ、いいな」

 原田も笑った。


 寒気せまるなか、墓参りに赴くふたり。

 原田は寺にいたのら猫を拾い上げて懐に忍ばせた。

 思ったより大人しくくるまるところを見ると、猫も暖を取りたかったと見える。

「不思議な面子だよな、角屋に行ったやつらよう」

「ん」

 綾乃は膝を折った。

 壬生寺に眠る芹沢、平山、野口、新見に花を供えて線香を焚く。

 立ち上る煙を目で追って、綾乃はぽつりとつぶやいた。

「ごめんね」

「あ?」

「三条大橋のやつ……」

「──あ、ああ。ああいや、あれは俺も悪かった。永倉の言う通りだった。怒るべきは任務不遂行の浅野だったんだ」

「ううん、でも──わたしあのときにやっと気付いた。あの決断は、サノの気持ちを裏切ったんだって」

 珍しく真剣な声色の綾乃に、原田はうろたえる。

「な、なんだよそれ」

「サノはわたしたちのからくりを使って、任務を成功させたかった。それは分かってたのに──未来ではなんたらって考えて確実に成功する道を選ばなかったのはわたしだから」

「そんなのわからんだろうが。お前があのとき大石の方についたとしたって、橋本がなにかがきっかけで呼びに行けなかった可能性だってあるだろ」

 さあ山南さんのところへ行こうぜ、と原田は立ち上がった。

 壬生寺へ向かう途中で、あのなあと原田は笑う。

「お前はいつも考えすぎだ。馬鹿なフリして繊細なんだよ、俺と同じだな──」

「え、繊細って意味知ってる?」

「うるせえ! それでもってお前は、阿呆なんだ」

 仲直りするや、原田はズケズケと物申してくる。綾乃は額を赤く染めて「なによ」と言った。

「サノには阿呆って言われたくない」

「だってよ、すべてにおいて可能性ってのはあるだろうが。お前らが未来で知っていたことと違うことが起こる可能性がない、なんてだれが言った。もっと言やぁ、未来に伝わるそれは本当に正しいのか? それだって分かるはずねえんだ、だってお前らは過去を見ちゃいねえ。でも俺にだってわからない。俺にとっちゃ未来の話だからな」

「…………」

 光縁寺の山門をくぐってもなお、原田は続けた。

「つっても俺あのときお前のことを、未来から来たくせに知らぬふりをしやがった、と言いそうになったんだから、人のことは言えねえけどもよ」

「……ん」

「だけどあれだけは言っちゃァいけねえと思ったんだ。あとから反省したよ、俺も──悪かったな、ごめん」

 ふたりは黙った。

 しばらく墓地を進み、山南敬助の眠る場所までやってくる。

 この場所は、現代において多くの隊士が眠る場所である。これからさらに、ここに人が眠ることになるのだ。

 原田が、墓石についた枯葉を払う。

「新選組をどう思うか」

「……え?」

「沖田が、山南さんに聞かれたんだとよ」

 掠れた声でつぶやいた。

「脱走の二日前だったそうだ。俺から言わせりゃ、なんでそんなことを沖田に聞くんだって思ったけどよ──だけど、沖田だからこそ聞きたかったのかもしれねえな」

 線香を取り出して、その場にしゃがみこむ。綾乃も腰を折って花を渡した。

 それを受け取り、最近、と原田がつぶやく。

「平助の野郎も少しおかしいぜ」

「平助?」

「おう。俺と永倉が近寄っても逃げるんだ」

「…………」

「山南さんのこともあって、伊東の甘言に絆されて──挙げ句に俺たちのことまで嫌いになったのかな」

 新選組も大層嫌われたもんだぜ、と原田はけたけた笑った。

(嫌い──?)

 綾乃は山南敬助の墓石を見た。

 山南はいったい、新選組のなにが不満だったのだろう。

 どんな新選組となれば、彼は脱走などせずにいまも近藤や土方と肩を並べて指揮を執っていただろう。

 あの肩の傷さえなければ──。

 もはや、そんなことはわからない。

 たらればを挙げて、その先にある可能性を考えることのなんと虚しいことか。

「ごめんね──」

 綾乃は、謝った。

 なにに対してなのかは自分にもわからなかった。けれど沸き上がるのは、この上ない罪悪感である。

「わたしいつも引っ張られるの。なまじ勉強したもんだから、みんながこれからどうなっていくのか、なにを目指していくのか──そんなもの、見たこともないのにね」

「…………」

「いまは、今を生きているのにね……」

 綾乃の胸によぎるのは、藤堂平助の笑顔だった。

 光縁寺──この場所で彼の話をするのは、あまりにもつらい。

 胸が潰されるような息苦しさに、綾乃はごめんね、と再度つぶやいた。

 原田は戸惑って立ち上がる。

「ばか、墓の前でしんみりすんなよ。ただでさえ暗いところなのに、もっとどんよりするじゃねえか!」

「ごめん……」

「どうしたんだよ、お前らしくもねえ」

 綾乃はいまにも涙をこぼしそうだ。

 原田は焦るあまり、花に火をつけ、線香を水につけた。

「うおお!」

 儚く燃え散る花に気付いて、慌てて水をかける。

 こんな失敗も、いつもならけらけらと笑う綾乃だが、今日は黙って墓石を見つめるだけである。

「なんだよ、綾乃ってば」

 焦げ落ちた花のカスをひとつ、とる。

「笑ってくれよ」

 と、もうひとつ手に取って、

「最近お前のそんな顔しか見てねえよ」

 綾乃の頬にもう一方の手を伸ばす。

 情けないほどに眉を下げた彼女は、言った。

「平助は」

 ぽろりと泣く。

「みんなのこと、好きだよ」

「…………」

「新選組のことは嫌いになったって、これから先になにがあっても、きっと、それは変わらない。変わらないはずだよ……」

(あ。…………)

 原田は、そのとき理解した。

 彼女が抱える暗い荷物がどんなものかを垣間見た気がした。

 だから「当然だろ」と、逞しい腕を綾乃の頭に回して自分の胸に押し付ける。

 懐に入れたのら猫が、にゃあと一声鳴いて飛び出した。

「大丈夫、大丈夫」

「────」

「またみんなで酒でも飲んだらァ」

 腕のなか、綾乃の肩が震える。

 小さく嗚咽が聞こえたとき、原田はぶっきらぼうに呟いた。

「大丈夫だよ」

 声とは裏腹に、優しく頭を撫でてくれた原田に身を預け、綾乃はやがて大きな声で泣きじゃくる。

 この世界に来て、はじめて堪えず流した涙であった。


 ※

 ──角屋。

 女もおらぬ座敷で、伊東は斎藤と永倉を相手に、独壇場で語っていた。

「君たちはその価値が分かってはいない。私は気付いたのですよ。新選組の方たちの志は確かに素晴らしい。しかし、そこからさらに先を見てみたらどうです。ただの殺人集団が、国を変えられると思いますか」

「…………」

 一瞬。

 永倉の眉がぴくりと動く。

「そう、無理なのです。なにせ新選組には──頭脳が居なくなってしまったのだから」

 この伊東の言葉で、永倉と斎藤の脳内にちらつくのは山南の影。

 あの日、山南の最期を見届けた日を思い出す。

「ちなみに藤堂くんはこちらにくると言っています」

 えっ、と永倉は焦ったように顔をあげた。

「平助は伊東先生につくと言ったんですか。本当に?」

 それから、斎藤の顔をちらりと見る。

 いまいち無表情で読み辛いが、長年共にいる永倉には分かった。やっぱりか、という顔だ。

「ええ。藤堂くんは元々北辰一刀流として親しくしていた間柄ですし」

「…………」

 と、嬉しそうに酒を煽る。

 彼の狙いはただひとつ。

「さぁ──新たな組織を、共に始めるのです。我々の手で!」

 のちに誕生する新選組分隊、高台寺党御陵衛士。

 伊東の勧誘作戦が始まったのである。

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