最終章

葵一葉

 すこし前の話になる。

 慶応元年閏五月。


 徳川家十四代将軍徳川家茂いえもちは、第二次長州征討の趣旨を天皇に奏上するため、京に入ることになった。

 この時、家茂公は十八歳。

 仲睦まじいことで知られるこの夫婦、妻は孝明天皇の妹御、和宮かずのみやだ。

「和宮、京の土産は何がいい」

 と、にっこり笑う家茂に和宮は甘えた顔で小首を傾げる。

「あなたが持ってきてくださるなら、なんでも」

「そなたは──」

 家茂は、和宮の手を優しく握った。

「本当に何が良い。お前にとって久しぶりの京物だろう、好きな物を言って」

「……では西陣織を」

「西陣織か、相わかった」

「無理はなさらないでね」

「うん。帝にお言付けはあるか」

「お身体にお気をつけて、と」

「承った」

 家茂は快諾した。


 さて、出立した家茂一行は間もなく、孝明天皇の勅語により出鼻をくじかれる。

「しばらく大坂城に留まり、長州征伐は待て」

 と。

 理由は、時期尚早であること。

 長州を征伐するための軍備も揃っていない上に、いま幕府に味方しようと思う諸藩は少ない。

 だから待て、というのだ。

 そんな勅命を受けたものだから、幕府はこれから勅許が出るまでの約一年間、数万という大軍と共に、大坂で待機をするはめになる。

 しかしこの一年間の猶予が、長州にとって大きな好機をもたらす。

 慶応二年、一月。

 坂本龍馬の仲介によって薩長同盟を結び、長州征伐に向けて軍備をしっかりと整えたのだ。おまけに、その同盟のおかげで薩摩は長州征伐での出兵を拒否。

 五方面から攻め込もうと思っていた幕府は、九州方面からの援軍が無くなったことで、四方面からの攻撃にせざるを得なくなる。

 これが、第二次長州征伐──いわゆる四境戦争である。


 ────。

 さて。

 慶応二年、七月に戻る。

 近ごろ綾乃はそわそわと落ち着かない。

 もともとおとなしい方ではないが、あまりに不自然な様子に土方は睨みを効かせていた。

「おまえ、落ち着かんぞ」

「えっ。そんなことないです」

「どうした、便秘か」

「お陰さまで快便ですわ。漬物がいいみたい」

「知らねえよ」

 と、嫌そうな顔をする。

 いつもならさらにふざけて土方に「いい加減にしろッ」と怒鳴られるパターンだが、やはりどこかおかしいのだろう。

 綾乃はふいにヨシ、と気合いをいれて唐突に立ち上がった。

「ちょっと大坂まで行ってきます」

「は?」

 戸惑う彼の声をよそに、綾乃は少量の荷物のみを引っ付かんで、縁側から外に飛び出した。


 大坂へは、坂本龍馬とともに海軍塾へ赴いた際、降り立ったとき以来である。

(船酔いする前に寝よう)

 と、早舟六時間の船旅を綾乃はほとんど寝てすごす。

 今回、大坂へ行く目的はただひとつ。


 ──徳川家茂を一目見ること、である。


 我ながら無理だろう、とおもう反面、これまで多くの主要人物と相まみえてきた綾乃にとって、もしかしたら──という期待もあったのだろう。

 すっかり日も暮れた大坂に降り立ち、綾乃はホッとため息をついた。

「さて、」

 目に留まった近くのうどん屋に入り、素うどんを頼む。待つ間、綾乃は目を閉じて年表を思い浮かべた。


 ──世の中が、これほどまでに目まぐるしく変わるとは。


 綾乃がそう思う理由のひとつには、やはりその四境戦争にある。

 文久年間に起きた第一次長州征伐。

 当時味方であったはずの藩たちが、いまではまるで変わり、やる気がない。

 そうなるに至ったのは紛れもなく、多くの志士が動いたことによるものだろう。

 人の意志の力とはとてつもない──と、綾乃はしみじみお茶をすすった。

「素うどんおまち」

「ありがとう」

 主人は、弾けるような笑顔でうどんを出した。

 さすがは商人の町。

 ホスピタリティが違う、と綾乃は満足げにうどんの汁を飲む。

 さて、家茂である。

 この時勢のなか、指揮を執らされた家茂は丈夫ではないその身体に無理を虐げ過ぎたのだろう。

 七月中旬頃、病に倒れるという。


「嬢ちゃん、どこから来たん」

 突然声をかけられて、綾乃はびくっと肩を揺らした。

 声の主は、うどん屋の主人だった。

「京市街──御所とかあのあたり」

「へええ、そら大変やったな」

「まあね」

「どっか親戚がおるんか。どこで寝るん」

「ううん──これが生憎宿無しで。おっちゃんいいとこ知らんかね」

 素うどんをぺろりと平らげて、綾乃は腹をさする。

「ほんなら隣の宿屋に泊まったらええがな。俺の口添えやっちゅーたら、部屋がなくても開けてくれるさかい」

「おっちゃん何者」

「がははは。ただのダチだよ」

 ふうん、と綾乃は器に目を落とす。

 すると暖簾をくぐってひとりの男が入ってきた。

 男の顔は、少しだけ疲れて見える。

「おこしやす」

「素うどん」

「あいよ!」

 綾乃は、ぼんやり男を眺めた。

 京阪者とは異なる雰囲気を感じたゆえだ。自分でおもう以上に見つめていたらしい。男は、

「──なにか用かい」

 とつぶやいた。

 射抜くような目線である。

 とくに用はない。ないが──。綾乃はふたたび器に目を落とす。

「いえべつに。ただ」

「ただ?」

「素うどんを頼んだから」

「…………」

 声にこそ出さぬが、男の目は明らかに怪訝な色を浮かべている。綾乃はあわてて弁解した。

「わたしもさっき素うどん食べて──なんか親近感沸いたっていう、ね。それだけなんですけれど。いやほら、」

 綾乃は器を持ち上げた。

「出汁がね、美味しいんですよここ」

「ほう」

「召し上がったことは?」

「いや、オレも東国だもんで。初めて」

「も?」

「あんたにゃ訛りがねえだろ」

「ああ──」

 と、綾乃が納得したところで、主人が素うどんを持ってきた。

「へいおまちっ」

「どうも」

 汁を、一口。

 男は唸るようにわらった。

「うまい」

「ねっ、ね!」

「うん」

 思わずはしゃぐ綾乃に、男は微かに笑いながらうどんをすする。ふたりから褒められた主人は、デレデレと破顔った。

 男はうどんを呑み込み、綾乃を見る。

「あんた女一人でこんな夜分に──うどんを食っていたのか」

「うん。さっきついたんですよ。伏見から淀川くだって、さっき」

「ふうん。宿は」

「隣の旅籠。おっちゃんの口利きで泊めてくれそうだから」

「そうかい。──」

「お兄さんは、こんな夜遅くまでなにしてたんですか」

 と。

 聞いた瞬間、男の顔がすこし曇った。

「オレァ──主人がね。ちと病に臥せっているもんで、その看病をしていたのよ」

「病って」

脚気かっけだと」

「────」

 嗚呼、と綾乃は思った。

 この時代、二大死亡原因として『労咳』ともうひとつ挙げられたのが、この『脚気』という病だったそうである。

 現代にて、ビタミンB1の不足による病と言われる病気だが、当時は原因不明であった。

 白米を食べる習慣が庶民に普及していた江戸にて、高確率で発症していたことから『江戸患い』などとも呼ばれていたそうだ。

 綾乃はふうむ、と唸って男を見つめた。

「玄米、食べないとね」

「なに」

「脚気。治すなら栄養とらなくちゃ」

「────」

「豚肉は食べないんでしょ、だから玄米」

 ガタン。

 男は立ち上がった。

 うどんはもう食い終わっている。

「玄米ッ、玄米なら──脚気は治るかっ」

「え──ま、毎食一月くらい食べ続けたら、症状は軽くなるんちゃいます? 知らんけど」

「そう、そうか──玄米。玄米か」

 この店に入ってきたときと打って変わり、至極嬉しそうに思案する。それから男は「あんた医者かい」と、弾んだ声で聞いてきた。

「まさか。知識として知っているだけで」

「こうしちゃいられん、あんた──明日もここにいる?」

「いや明日は──帰らないと」

「昼頃ここにいてくれ。おやじさんいいか」

「おお。好きにしな」

「えっ、話聞いてた?」

「早舟で帰りゃいい。金は出すよ──おやじご馳走さん。あんた、また明日」

 それから、男は慌ただしく金を置いて店を出ていった。

 それほど大切な主人なのだろうか。

 結局名前すら聞くことができぬまま、綾乃はしばらくその場で、呆然と立ち尽くした。


 翌日。

「玄米、買い占めた」

 十一時頃である。

 同じうどん屋の前で落ち合った男は、興奮したようすでそう言った。

「か、買い占めたって──昨日の夜、あれから?」

「ああ。半月分はあらァな」

「ひ、ひえぇ」

 適当に言ったのに。

 これで治らなかったらどうしよう。

 綾乃は、冷や汗が出る。

「今日帰るのか」

「乗りかかった船だし。もうちょっと居ようかな」

「頼もしいぜ。──名前、聞いたっけ」

「ううん。お互い知らない」

「ふむ、これも奇縁だ。そのまま名前を知らんでおくのも乙じゃないか」

「え。じゃあ好きに呼ぶよ、いいの」

「いいとも」

「玄米の君」

「やっぱり名乗るがいいや。オレは村垣だ」

 あっさりと前言を撤回した。

 村垣というらしい。

 綾乃は脳内を高速フル回転させる。

「村垣、ってーと──東国の村垣って御庭番の……なわけないか」

「よく知っていやがる。そう、その家だ」

「村垣範正さんの息子さんッ?」

「ああ、佐兵衛さへえという。よろしく」

 上機嫌にわらう村垣に、カチ、カチと頭のなかのピースがはまっていく。

 御庭番の彼がここで何をしているのか知らぬが、もし将軍のお付きで大坂まで来ているのであれば、昨日言っていた『脚気の主人』というのは、徳川家茂その人のことであろう。

 これは綾乃にとって、千載一遇のチャンスである。

「それより名は?」

「は、あ──三橋綾乃」

「綾乃か。さっそく今朝、主人が玄米を召し上がってよ。少量ずつだから治るのはすこしかかっちまうかもしれねえが──しかし希望が持てたよ」

 まぶしい笑みを前に、綾乃は瞳を伏せた。

 今日は七月十六日。

 史実通りならば、さらにその主人が綾乃の思うとおりの人ならば。

 主人の命はもってあと──四日間。

 もう手遅れかもしれない、などこの男の顔を見てだれが言えるだろうか。結局ありきたりの、しかし精一杯の気持ちを伝えた。

「わたしで出来ることがあれば、言ってね」

「ああ。頼りにしてるぜ」

 村垣は音も立てずに立ち去った。


 この、徳川家茂の病に関して。

 幕臣はもちろん、孝明天皇すらもご心配なされ、朝廷お抱えの医者や和宮担当の医者などを派遣したと聞く。

 公武合体を目指す孝明天皇から見て、徳川家茂という将軍はなくてはならぬ存在だった。

 翌朝、苦手な早起きをして宿を飛び出した綾乃は、ただひたすらに、歩く。

 あと三日。

 なにも出来ないのに、心が焦った。

「玄米だけでよくなりゃァ医者はいらねーよな──」

 地図アプリを使用して、なんとか大坂城の近くまでたどり着いた綾乃は、ぼやきながら周囲を見た。

 すると、駕籠がぞろぞろ並んで大坂城へと入ってゆく。

「あれは──」

 宮中から送られたという医者軍団のようだ。ところどころで脚気という言葉が聞こえてくる。

 その後ろについて忍び込むことも考えたが、漫画のようにそううまくいくわけはない。ここはぐっとこらえて、ひたすら村垣の姿が見えるのを待つ。


「おい、本当に信用できるのか──あの医者ども」


 ほどなく、聞き覚えのある声が聞こえた。

「そうピリピリするなよ。宮中医師だぜ、間違いねえ」

「────本当かよ」

「大丈夫だって。お前もたいして休んでないんだろう。すこし寝ろ、──じゃあな」

「…………」

 目の下に隈をつくった村垣がそこにいた。どうやら話していたのは、幕臣の仲間らしい。

「村垣さーん」

 仲間の幕臣が離れるのを待って、綾乃は大きく手を振った。彼はハッとこちらに駆けてくる。

「どうしてここが。あぁ、村垣という名から想像したな 」

「そんなところです。どうですか、ご主人のご様子は」

 つとめて明るく言った。

 すると村垣は、興奮したように瞳を輝かせる。

「それが聞いてくれ。昨日、夜も玄米を召し上がっていただいたら、今朝すこしだけ足のしびれが良くなったと仰っておられた。もしかしたら──効いているのかもしれねェ」

「マ? 玄米パネェ~」

「今朝も召し上がられた。すこしずつだが、快方に向かいそうだ──お前のおかげだよ。ありがとう」

「なんの。お礼なら玄米を恵んでくれた人たちに言ってください。それより、さっきの人たちは──お医者ですか」

「みてえだが、正直いまは余計なことをしてほしくはないな。せっかく玄米で効果が見えてきたってのに」

 すこしふて腐れたように言った。

 その言葉に、突然の焦燥感が綾乃を襲う。

 なにか大切なことを見落としているような気がする。

 なんだっけ。なんだっけ──。

「とにかく、明日もまたあのうどん屋で。さすがにオレも今日はすこし寝ようと思う」

「えっ、あ」

「じゃあな」

 結局、思い出せぬまま。

 心にしこりを残しつつ、綾乃はとぼとぼと帰途につく。

 歴史についての知識には、多少なりとも自信がある。この世界に必ずしも適応するとは限らないが、いまのところはすべてからだ。

 だからこそなにかが抜けると不安になる。とはいえ、彼の存在は綾乃の知るかぎり歴史に残ってはいないのだが──。

 それなのにも関わらず、綾乃はどこかで彼を知っている。──ような気がしていた。

 

 翌日、村垣はうどん屋に来なかった。

 いくら待てども彼は来ず、綾乃はとうとう三食うどんという一日を送るはめになったのである。

 何かあったのだろうか。

 綾乃は、そわそわと落ち着きなく夜更け頃に布団へ入った。

 静謐な部屋。

 瞳を閉じて、深呼吸をしたときであった。

「あッ」

 がばりと綾乃が飛び起きた。

 思い出した。

 唐突に、心のしこりの原因を。


「どうしよう──もう、遅いっ」


 宮中から送られてきたという医者。

 それはいったい、だれがどう判断をしたのだろう。かつて未来にいたときに、綾乃が疑問に思ったことだ。

 孝明天皇や、皇女和宮は確認できるはずもない。なにより、医者の名前の記録がないのである。

 時の将軍を診察した医者の名前など、幕府文書のどこかしらに載っていてもいいようなものだが。

 さらに、その医者が診察をした三日後、徳川家茂の病状は急激に悪化し、史実では死に至っている。

「──たいへん」

 綾乃は、寝巻きのまま旅籠を飛び出した。

 まだ猶予は一日あるはずだ。

 いまからでも一切の薬を絶ち、口にするものは信頼のおける者からのみにして。

 まだ、希望はあるかもしれない。

 綾乃は走った。

 闇が深く落ちる夜の街をただ、ただ、ひたすら。

 ──。

 ────。

 大坂城につく頃には、空がわずかに白みだしていた。

「は、っはァ」

 汗をぬぐう。

 守衛の姿をちらほらと見かけるのみで、村垣の姿は当然見つからない。

「──どうしよう。村垣さん、どこに」

「お前はいつも、唐突に居るんだな」

「っ」

 後ろから声がして、綾乃は肩を揺らす。

 そこにいたのは微笑む村垣である。

「昨日は悪かった。公務があって──」

「村垣さんッ、よかった──会えたッ」

「な、なんだ」

「あの、せ、先日ここに来たお医者様たちなんですけど」

「うん」

「本当に宮中のお医者様なんですか。証拠はありますか?」

 綾乃は、村垣の両腕をがしりと掴まえて、ぐんと顔を近づけた。

 身長はわずかに村垣の方が低い。

 大女の勢いにたじろぎ、村垣はうなずいた。

「そ、そりゃあ」

「わたし不安なんですよ。本当に大丈夫なのか、絶対に村垣さんから以外のものは口にさせるべきではないのじゃないかって」

「──しかし、もう昨日も一昨日も、薬を口にしているが平気だ」

「ヒ素って毒があるんです。摂取量によっては一回じゃ死なない──だけど、ごく微量でも複数回摂取したら、死ぬ薬!」

「…………」

 村垣は、サッと顔色を変えて大坂城を振り仰ぐ。

「今後一切、家茂さんに食べさせるものは村垣さんを通さないとダメですッ。薬は、飲ませるふりをすればいい。玄米で症状は緩和されるんだからっ」

 と必死で訴える綾乃に、やがて村垣が向けたのは、不信の目だった。

「──君はいったい、何者だ」

「は、?」

 今さらなにを言うのだという顔で、綾乃は閉口する。

「なぜそこまで言い切れる。まさかとはおもうが、薬を飲むなと言って上様の病を長引かせる、あるいは悪化させようと画策するなどでは──あるまいな」

「あ、あんた……」

 綾乃は絶句した。

 もちろん、彼の気持ちはわかる。

 村垣の現状をおもえば、周りにいる誰が本当の味方なのか分からぬ状況にあることは、綾乃も理解しているつもりだ。

 とはいえいまの言葉が、綾乃にとてつもないダメージを与えたのは間違いなかった。

 バカじゃねーの、と声をふるわせる。

「なに、だ、だれが──だったら玄米なんて言うわけないし。あんたが、助けたいって……いうから。いや、それだけじゃなくて」

 声は尻すぼみ、やがて悔しさのあまりうつむいた。

 村垣がハッと顔を上げる。

「あ、いや──そう、その通りだ。玄米について教えてくれた恩人に、言う言葉ではなかった。すまん」

 しかし綾乃は立ち直れない。

「もういい、どうせもう帰るから」

「帰るって」

「京に。もともとこんな長逗留するつもりじゃなかったの。──なんかすみませんね、余計なお節介焼いちゃって」

 と、背を向けた綾乃がふと眉を潜めた。

 城がざわついている。

 村垣もそれを感じ取ったか、緊張したように唇を結んだ。綾乃はふたたび村垣を見て、城を指さす。

「早く見に行ったほうがいい。いまは、一分でも離れないほうがいいと思うから」

「…………」

 村垣は一瞬ためらいを見せた。が、やがて深く深く頭を下げる。

 去り際に叫んだ。

「今日は行くッ、だから、まだ帰らずにあそこで待っていてくれ! 必ずッ」

「…………」

 綾乃は、返事をしなかった。

 うどん屋になど来なくてもいいから、家茂のそばにいてほしかった。

 だから、村垣の姿が見えなくなった頃に、綾乃は門の守衛に近付いて言伝てを残してその場を立ち去ったのである。


 城内は騒然としていた。

「何事だ」

 と、村垣が幕臣を捕まえる。

 話によれば突然家茂が「腹が痛い」と言い出したという。

 あわてて主人が療養する部屋にもどる。そこには胸の辺りに紫色の斑点を出して、腹を抑える主がいた。

 横には、徳川の主治医もいる。

 どうやら痛みを和らげる薬を投与したらしかった。

「上様ッ」

「────」

 家茂の手は、ひどく細い。

 村垣は切なくなった。

 時代の波に翻弄され、将軍に無理矢理就任させられてからは『能なし将軍』と罵られた。

 けれどもそんなことはない。村垣は一番そばで見てきたのだ。だれよりも知っている。彼が必死に、自己犠牲を払ってでも、筋のとおった将軍を目指したことを。

 そんな家茂であったからこそ、支えたいと思ったのだから。

 あまりにも、不憫だ。

 思えば思うほど、村垣の瞳には悔しさからか涙がにじむ。

 布団にころがる家茂がうめいた。

「和宮、……土産を」

「ええ、ええ!」

 良夫の右手には、土産に渡すはずの西陣織が弱々しく握られている。

「お気をたしかに、上様ッ」

 ちがう立場で和宮と出逢って、結婚して。

 子どもを作って、働いて。

 そんな人生だったならば、彼は──家茂は、もっと元気に永らえたのではないか。

 村垣の心のなかで、そんな幻想がぐるぐる巡る。

(裕福など、名声などいらぬ。ただ小さな幸せがあるだけでこの人は──幸せになれる人なのに)

 もはや、なにを恨めばいいのかもわからぬ。村垣はただただ虚無感に襲われた。

「…………」

「薬が効きましたな、眠っておられる」

 ぱったりと呻き声が途絶えた家茂に、主治医が優しく言った。

 瞳からこぼれる涙をぬぐい、村垣はしばらく、家茂の手を離すことができなかった。


 主人の寝息が安定したころ、村垣はようやく立ち上がる。

「すこし、出て参ります」

「なるべくはやく戻られよ」

「承知しています」

 その言葉の意味を考えることすら、いまは嫌だった。

 外に出ると、もうすっかり夕方である。

 目を泣き腫らしたまま村垣が城門から出ると、ひとりの守衛が「村垣どの」と声をかけてきた。

「なんだ」

「先ほど、女が一人──村垣どのへ伝言を」

「なに」

「江戸っ子ならば、うどんよりもそばにせよ、と」

「…………」

 はた、と動きを止めたが、やがて村垣はくつくつと肩を揺らして、笑う。

「江戸のそば、ね──」

 うどん屋に来るひまがあるならば、江戸の総大将のそばにいなさい、ということか。

 きっと、あの女は京に戻ったのだろう。

 もう一度顔を見て謝りたかった、とぼんやり思いながら、村垣はきびすを返して大坂城へと戻った。

 

 その夜から、朝にかけて。

 家茂の容態は急変した。

「上様がッ」

「医者を呼べ」

「薬、薬をっ」

 村垣は、あわてふためく周りの者を押しのけて家茂の手をつかむ。

「上様、しっかり。上様!」

 吐くものがなにもないのに吐き気でえずく家茂の手を、背中を、必死にさすることしか出来なかった。

「土産を──和宮様へ。西陣織を渡さねばならんのでしょう、上様」

 心の臓がドクドクと早鐘を打つ。

「ここで貴方がいなくなっては、」

 ポロポロと村垣の瞳から零れ落ちる涙が、家茂の手をつたう。

「生きて──」

「…………」

 生きてくだされ。

 涙声で呟いた村垣の声に、家茂は微かに微笑んだ。

 ──ような気がした。

 瞬間、握った手から力が抜ける。

「あ」

 慌てて強く握るも、もう遅い。

 涙や唾液にまみれた家茂の顔は、先ほどとはうって変わって穏やかなものだった。

「────」

 家茂の手を頬に当て、村垣は泣いた。

 声は出さずに、しかし涙はとどまることを知らず。しとどに流れる涙をぬぐい、村垣は静かに合掌をした。


 慶応二年、七月二十日。

 徳川家茂、病死。


 彼の死は、公武合体を願う孝明天皇サイドには大きな痛手となった。

 快方に向かっていたところでの早すぎる死に、暗殺されたのではないか──という噂も立ち昇ったが、その後も真相は闇のなか。

 宮中から送られたという医者は、気が付けば姿を消していたとか、いないとか。


 ※

 今日、京に帰ります。

 昨日の夕方。

 そんな一言メールがきていた。

 葵は出迎えてやろう、と伏見へ向かう。

 淀川から上ってくるならば、必ずあのあたりの船着き場へ来るはずだと踏んだのである。

「あっつ──」

 現代では八月末ごろのいま、京は殊更残暑が厳しくて、葵はくらくらと目眩がした。

 西本願寺から歩いておよそ一刻。

 随分と体力もついたな、とぼんやり思っていたとき。

 目の前を、小直衣を纏う貴族然の男が通過した。

「わあ──」

 平成から慶応の時代にやってきて言うのもなんだが、時代錯誤にすら思える。

 さらに昔の時代からタイムスリップしてきたのではないか、と思うほどの雰囲気である。──身長もあるからか異様にさまになっているのもまた、事実なのだが。

「あ、でも」

 朝廷貴族は、宮中ではあのような格好なのだろうか。

 それにしてもどこかで会ったことがあるような──という気がして、葵はぼんやりとその姿を目で追った。

 男は急いでいるらしい。早足で船着き場へ向かう。

 大坂まで、下りは六時間。

 あの貴族然とした男が、六時間も庶民とともに船に揺られるのだろうか。

 そう思うと、なんだかシュールで、笑う。


「────!」


 船頭が一声かけて、船は出発した。

 それを見届けて辺りを見回す。

 綾乃が早舟で帰ってくるとして、あとどのくらい時間がかかるのか。

「どうしよう。いまどの辺りかなぁ」

 駅名なら「いまここだよ」と分かるものだが、果たして淀川を上がる道程が、彼女にわかるだろうか。

 ふいに、乗換案内を駆使して電車に乗っていた時代を思い出す。文明の力というのは恐ろしいものだ、と葵はちいさく笑った。

「おうい、もうすぐ船がつくぞう」

 波止場の親父が、声をあげる。

 まさかこれには乗っているまい、と思いつつゾロゾロ降りゆく人々を眺めていると、最後の方に見慣れた姿を発見した。

「いたッ」

 少し、船酔いしたのだろう。

 顔が青い。

 向こうがこちらに気づくと、その青い顔に驚きの表情を浮かべた。

「あれ、葵じゃん──迎えに来てくれたの。なにその優しさ。槍でも降るんじゃない」

「会って早々、そういうこと言うかね」

「マイケル・ジョーダンだって」

「ふざけんな」

「すんません」

 葵はため息をついた。

 脈絡もないところから、平成時代での時代遅れなギャグをかますとき、綾乃は何かしら落ち込んでいるときだ。

「なにしに行ってたの」

「徳川家茂に一目会いてーなって思って」

「いま大坂にいるんだ」

「うん」

「会えたの」

「会えなかった。まあ──当然だわ」

「なにかあったんだね」

「うん」

 と言って、綾乃は黙ってしまった。

 無理に聞き出すことでもないか、と葵は沈黙を待つ。

 綾乃は、船旅に疲れた様子だった。

 それはそうだろう。

 早舟とはいえ、慣れない川上を十二時間もかけて上ってくるのだ。身体は相当辛いはずである。

「どっかで休もう」

「船で寝たから大丈夫だよ」

「大丈夫じゃない顔してなに言ってるの」

「うん。────」

「もうやだ、おとなしい綾乃なんて天変地異が起こりそう。はやく休んで」

 理不尽に近い理由で言いくるめた葵は、近くの旅籠──寺田屋に入った。

 思えば、この辺りにはよく来たものの、実際に中には入ったことがない。この付近で焼死したのも、いまでは良い思い出だ。


「すみません、今日一部屋空いていますか」


 寺田屋の番台に腰掛けて、帳簿とにらめっこする女性に、綾乃は疲れきった声をかける。

「まぁどうも。おくたぶれさんどす、部屋なら空いてはりますよ。一晩おふたりで?」

「ええ、お願いします」

 綾乃はホッと息を吐く。

 眉のない勝ち気なしゃべり方をする女性は、お登勢と名乗った。

 彼女についての逸話も、諸々聞きかじったことはある。が、いまだに船酔いを引きずって視界が揺れるためそれどころではない。

 おかげで、部屋につくまでに何度か転びそうになったほどだ。

「ほな、ゆっくり休んでいきなはれ」

「恐れ入ります──」

 と、部屋についた途端、畳に転がる。

 葵はとなりに腰を下ろした。

「ねえ、ほんとに大丈夫」

「うん──ちょっとね、過酷な旅だったね。身も心も」

「あんたがそんなにへばるなんて、珍しいじゃん」

 綾乃は無言のまま微笑む。その目は天井を見つめて動かなかったが、やがて「うどん屋で」と呟いた。

「うん?」

「うどん屋で、玄米の君と会ったの」

「…………うどん屋で玄米?」

 眉をしかめる。

 が、綾乃はぼんやりと天井を見つめたまま頷いた。

「うん。それで──いろいろあって、帰ってきたんだけど……」

「まって」

「きっと泣いてる、だろうな──って」

「端折りすぎじゃない?」

「──うん」

「ちょっと。……」

 いまにも寝落ちそうな彼女に、葵は苦笑した。寝かせてやるか、と布団を敷くため立ち上がったとき。


「もう、許さない──」


 と、つぶやきを残して。

 綾乃は寝息をたてた。

「不穏なこと言って寝落ちるんじゃないよ、ったく」

 明日になれば、容赦はしない。

 根掘り葉掘りと聞きまくってやる、という気持ちを込めて綾乃を睨み付け、葵は布団を敷いた。

「許さない、か──」

 誰に対して言ったのか。

 いまはまだわからない。

 が、この正義感が強い友人がそう言うのだ。よほどのことがあったのだろう。手持ち無沙汰になった葵も、少し早めの就寝についた。


 ────。

 ──チュン。

 チュン、と雀が鳴いている。

 朝か、と目を覚ますとそこに友人の姿はすでになかった。

「……綾乃?」

 寝ぼけ眼で立ち上がり、布団を畳む。

 部屋を出た瞬間に耳に届いたのは、聞き慣れた弾けるような彼女の笑い声だった。

「いやだなぁ違うんですよッ。じつは昨日大坂から帰ってきたんだけど、早舟は早舟でもJRの速さ知ってるとさ、どうもね?」

「────」

「遅いなって思うわけでしょ、そしたらあの──なんだっけ。オール。漕ぐやつ! ……あ、そうそれ。それがもう一個あるっていうから、めちゃくちゃ張り切って漕いで」

「────!」

「うんそう。それを四時間。もうしんどい。ゆうて内八時間は休憩だったけど、もうしんどいわ。もう船頭さんに二度と足向けて寝らんないですよ、ほんと尊敬する。ありえん、マジバケモノ」

 話し相手は、どうやらお登勢らしい。

 すっかり元気になって、まぁ。

 と、葵は心配した気持ちが急に惜しくなり、呆れ顔で階下に降りた。

 すると、綾乃はパッと顔をほころばせた。

「あっおはよう」

「おはよ──すっかり元気だね」

「元気じゃねーよ。腕筋マジバブリシャスだよ。死ぬよ、これ」

「死なねえよ。ほら、帰るよ」

「あ、はい。じゃあお登勢さん、お龍さんと坂本龍馬によろしく!」

「おおきにね、またいらっしゃい」

「うん、ありがとう!」

 着の身着のままで泊まったものだから、これといってなにを持つわけでもない。金だけ支払って、ふたりは手ぶらのまま寺田屋を出た。


「で、──ようやく聞けると思うと感慨深くて殴りたくなってくるね」

「えっなんで」

「結局、この大坂旅行はなんだったの。なにがあったのさ」

 詰めるように聞く。

 うん、と綾乃はポリポリ頭をかいた。

「家茂さんに会いに行った、って言ったべ」

「うん」

「家茂さんがね、史実では七月二十日──つまり、今日死ぬ予定だったの」

「へっ」

「命を助けよう、なんてことは思わんかったけど、うまいこと一目お会いできねーかなぁなんて思いながら、大坂に行ったの。そんで、うどん屋に入ったわけさ」

(何故そこでうどん屋に)

 葵は、心のなかで首をかしげた。

 湿度の高い風に眉をしかめながら、綾乃は続ける。

「そこで、偶然にも徳川家茂に仕える御庭番の人と会ってさ──家茂さんが脚気だって悩んでたから、脚気には玄米だってすすめたの」

「それが、玄米の君だ」

 葵は、ハッとして呟いた。

 聞こえなかったのか、綾乃はぽつりぽつりとひとつひとつを思い出すように言っている。

「──玄米はよく効いたんだって。だから、それ続けていたら治るんじゃねって話してたんだけど。宮中からお医者がやってきて、容態が急変した」

「死んじゃったの?」

「そうなる前に、帰って来た」

 と、綾乃は口をつぐんだ。

 何故最後まで付き添ってやらなかったのか。

 葵は合点がいった。

 昨夜、「泣いているだろうな」と気にしていたのは、その御庭番に対する言葉だったのだ。

 ならば。

「許さない、っていうのは──なにに対して」

「ん?」

「昨日、寝落ちする前に言ってたよ。もう許さないって」

「そんな物騒なこと言った」

「言った」

「────」

 葵は、じっと見た。

 その強い視線から逃れるように、綾乃は空を見上げる。

「言葉にするのは難しいよ」

「……え?」

「国を変えて──実現させたいものはなんだろね」

「…………」

「吉田松陰、井伊直弼、佐久間象山、みんな、みんな殺して──」

 徳川家茂を、殺して。

 その多くの犠牲のうえで、いったいなにを。

「もう、許せないって思うのは」

「…………」

「だれかの未来すべてを、自分のために奪う人が──その後の未来を歩むことが、わたしは本当に、許せない」

「……あやの」

「そこにどんな大義があったとしてもね」

 と、綾乃は空から視線を葵に移す。

 その顔は、いつもの能天気なものであった。

「徳川家茂はたぶん亡くなった。──それが病のせいなのか、だれかの手にかかったのかは分からないけど。結果はそうなった」

「どうするの」

「どうもしないよ。できない。だけど土方さんに会ったら、ちょっと泣こうかな──」

 と、綾乃は小石を蹴った。

 その小石が転がる様を、葵は黙って見守る。

 悔しさや悲しみ、怒り。

 いろんな感情が彼女を支配しているのだろう、とおもった。

 この時代の行く末に一切の責任を持たない立場ゆえ、なにもできない歯痒さがあるのだ。未来を知っているところで──実際は足掻くこともままならぬ。

 葵にはよくわかる。

 だからただ黙って、うなずいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る