第二章

海軍塾

「おはよう、世界──」

 物置部屋で朝を迎え、井戸端で顔を洗う。

 外気はだいぶ涼しくて、目もシャッキリと覚めてきた。


「────」

 ガタン、と音がした。

 鍛練終わりの斎藤が汗だくで寄ってくる。暑いのか、上半身がはだけていた。

「おはよう」

「ああ」

 身体を拭く斎藤の横で、綾乃は手ぬぐいで顔を拭く。

「鍛練のあと見回りなのに疲れないの?」

「──それで疲れるようじゃつとまらん」

「あっはは、そらァそうだ」

 綾乃は快活にわらった。

 それを横目に、斎藤が井戸から水を汲む。汲みながらよくわらう女だ、とおもった。

 反対に綾乃はどんなときも表情の固い男だと思っている。


「斎藤くんって、好きな人いるの」

「────」

 井戸を引く手を止めた。

 そんな浮かれた質問は、そうそうされたことがない。

「例えばさ。もし、いたとしてよ」

 綾乃はまだすこし笑みを浮かべている。

「その人とは叶わないって分かっていたら、斎藤くんは想いを伝える?」

「…………」

 叶わない恋、だと。

 斎藤の瞳がすこし揺れた。

 それが、彼女にとっての土方を意味することは疑いようもない。

(フン。……)

 なんとなくおもしろくなかった。

「なぜそんなことを、聞くんだ」

「えっ」

「ここで俺が伝えると言ったら、……お前は副長に伝えでもするのか」

「ええっいやいやいや」

 首が取れんばかりに振る。

「なんでそうなるの。違うよ、ただ──斎藤くんが恥ずかしがるかなと思って。だいたいわたしの気持ちなんてもはや伝えすぎて受け取り拒否されてるんですけどウケる」

「…………」

 この女。

 斎藤は心のなかでむかついた。それが何に対する怒りなのか、自分でもよくわからない。

「くだらん」

 ムッとして綾乃の腕をつかむ。

「俺は、たとえば、それほど想っていたら想う分だけほしくなるし」

「────」

「欲しくなれば、触れたくもなる」

 掴まれた部分が熱をもつ。

 これが、およそ同い年の男がいう台詞であろうかと綾乃は焦る。

 その男らしさに不覚にもギクリとした時だった。

「三橋」

 縁側から呼ばれた。

 同時に、斎藤が手を離す。

 着物を着直し、

「と、俺はおもう」

 と言って足早に立ち去った。

 縁側に目をやると、呼んだのは土方のようだった。

「あ、土方さん」

「またお前何かしたのか」

「ぶしつけに失礼なこと言いますね」

 ちょっと雑談していたんです、とつっけんどんに言った。

「玄関で徳田が待っている。早くしてやれ」

「あっそうだ。買い物にいくんだった」

「道草食っている場合じゃねえぞ」

 彼のデフォルトは不機嫌である。が、どこか今日は殊更そっけない。綾乃はこれ以上嫌われたくないので、

「わざわざすみません」

 と素直に頭を下げた。

 そそくさと着替え、葵が待っているであろう玄関へ向かう。


「やっと来た」

「ごめんごめん」

 かつて、芹沢からもらった花葉色の着物を着た葵が、勢いよく巾着袋を振り回した。

「何やってたの」

「斎藤一と恋バナ」

 下駄を履く。

「えっ──あの人って好きな人いるの」

「さあ、いたとしたらって話は聞けたけど」

「ふうん」

 葵は口を尖らせながら戸を開けた。

 ちらりと綾乃の着物を見て、ふっと微笑む。

「それ、藤色? かわいいね」

 この世界にきて、五ヶ月。

 すっかり着物が板についたふたりは、近ごろ色や柄を誉めあう楽しさを見出だした。

 芹沢の一件以来どこか元気のない葵だが、こうしてこまめにショッピングに出ることはとても良い気分転換になるようだった。


 ──しかし葵の髪の毛は、目立つ。


 生え際は黒いが、それでも大半は金髪だ。

 壬生界隈ではもちろん、京の中心部でも、何やらメリケン髪の娘と細身の大女がいる、と噂がたっているらしい。

 案の定、

「綾乃、野口さんについでの買い物頼まれた」

「何買うの」

「すずり」

「いいね」

 と、店を探すふたりを人々は好奇な目で見る。


 ────。

「ギリまで値切ってくる、待ってて」

 勇ましく店に入った友人を見届けて、葵は隣にあった駄菓子屋へ足を向ける。

「うわ──おいしそう」

 買い物用のお金は綾乃が持っている。

 平成紙幣ならあるのに。世知辛い──と葵はため息をひとつ。

 よほど物欲しげな顔をしていたのだろうか、

「おう、お嬢ちゃん」

 と知らない男が肩を叩いてきた。

「え?」

「俺が買ってやろうか」

 葵は逡巡する。

 平成人は往来で気安く話しかけられることに慣れていない。江戸時代はそういうものか、と解釈をして葵は笑顔を浮かべた。

「本当に?」

「もちろんさ、何がほしい」

 男は厭らしい笑みを浮かべているが、文久人になりきる葵の目には映らない。

「迷うな……」

「その代わりっちゃあなんだが、これから俺たちと一緒に来てはくれねえかい」

 葵は、駄菓子を眺めている。

「いま連れが買い物、──」

 顔をあげた。

 その申し出はさすがにおかしいだろう。

「そんなことはどうでもいいんだ、なあ?」

 男が周りにいた浪人に声をかけると、彼らは一斉に葵を取り囲んだ。

「────」

 おいおい、なんだよ。

 いつの時代も変わらんじゃないか。

 葵はちいさく舌打ちをした。

 今更、幼いころに言われた「知らない人と口きいちゃダメよ」という母の言葉を思い出す。

「壬生浪士組の縁者だな?」

「変な髪の色だな」

「連れていけ」

「ちょっとやめ」

 葵が声をあげた瞬間。

 男たちは手で彼女の口をふさぎ、素早い動きでその場を離れる。

「んンーーーッ」

 誘拐だ。

 これは俗にいう誘拐である。

 平成の時代でも味わったことがないというのに、さすがは江戸時代である。治安がわるい。

 妙に感心したときだった。

「ちょお待ちィ」

 と、低い声が聞こえた。

 ふり返る。駄菓子屋の前に、町人髷の男となぜか綾乃が並んで立っているではないか。

 なんだてめえらっ、と誘拐犯が声を荒げた。が、男は動じない。

「なんや騒がしいと思うて来てみれば──」

「情けないことこの上ない」

 綾乃もしかり。

 つかつかと歩み寄ると、葵をつかむ男の股間を蹴り上げた。

 さらには葵を引き寄せ、

「あんたなにやってんの」

 と叱咤する。

「ご、ごめんなさい」

 私がわるいの?

 とはおもったが、とりあえず綾乃の腕にしがみついた。腰が抜けたらしくて足に力が入らない。

 町人髷の男は切れ長の瞳を細め、強い口調で言った。

「女を攫うなんざ屑のやることやで。武士の端くれやったら正々堂々勝負せェ」

 浪人は刀を抜こうとしたが、「やるんかい」と男が戦闘態勢をとるやスタコラと逃げていった。


「ありがとう、助かりましたぁ」

 と、頭を下げる綾乃に向けて男は小さく笑んだ。

 しかし葵は目を白黒させるばかり。

「────」

「あ、この人ね。値切るコツを教えてくれたの」

 という説明を受けて葵は彼を見あげた。

 男はとても色白で、口許のほくろが大変色っぽく映える。そう、とても色気のある男なのである。

 小さな口から出てくる関西弁がその色気を増している。

「あんたの連れやったんか」

「そうなんです。ほんと、助かりました」

「……そういや自分ら、壬生村の」

「ええ。新選組のとこに世話になってます」

「成程、ほなまた会うかもわかりまへんな」

「え?」

「そのときは」

 あんじょうよろしゅう、と男はほくそ笑み、足早に立ち去った。

 しばらくそのうしろ姿を見送るふたりだったが、男のすがたが見えなくなったころ、おもむろに綾乃が葵を見た。

「あの人のおかげでだいぶ値切れたよ」

「──名前おしえて」

「エッ────三橋綾乃」

「あんたじゃなくてあの人!」

「知らない」

「は?」

「だっていつの間にか仲良くなってたんだもん。むかしCMにあったでしょ、一緒に遊べば友達、名前なんてあとあと、って」

「大人になったら素性は知っとこうよ!」

 なにより、気になるのはあの一言だ。

 また会うかもわからん、とは。

「次の隊士募集っていつ?」

「もうすぐ」

「────」

「あの人、……もしかしたらもしかするかもね」

 綾乃の脳内にある幕末年表。

 ふたりが心待ちにする、ある男の入隊時期が迫っていた。

 聞き及ぶ特徴も似ていたものだからなおさらである。

「もうすぐわかるよ、多分」

「そうだね、うん、そう。そうだよね」

 期待と不安が混ざり合って、葵は泣きそうな顔をした。

 何故なら今度入隊してくるであろう男は、葵が現代にいたころ、新選組を勉強しはじめて一番に興味を持った人物だからである。つまり推しメンというやつだ。

「どうしよ──いまの人かな、そうだといいな。もしそうなら、もうダメ……さっきのでハート射ぬかれた」

「はははっ」

 綾乃は笑った。


 ──笑ったが、分からぬでもない。


 その日の夜。

 文机に向かう土方の背中を前に、心がもぞりと動く。

「…………」

 自分が三十路の背中に欲情する日がくるとは思わなかった。ため息をついて寝室への襖に手をかけたときである。

 土方が首をこちらに向けて「なんだ」と呟いた。

「もう寝るか」

「はい。おやすみなさい──あ、え? 同衾希望ですか」

「この阿婆擦れが──」

 土方のこめかみがピクリと動いた。彼はこういう冗談を好まないらしい。

 綾乃としては冗談のつもりはなかったのだが。

 これ以上怒られる前に逃げるようと、ふたたび「おやすみなさい」と言った。

「いやそうじゃない」

「じゃあなんすか」

「今朝、どんな話をした。斎藤のやつあれからしばらくふて腐れていやがったが」

「マ? そんなたいした話してねーけど。なにがそんな気に入らなかったかな」

「────」

「絶対に叶わない相手を好きになったら、想いを伝えるかどうか聞いたんです。ね、他愛ないでしょ」

 一瞬、土方の瞳がぎらりと光った。

 しかしすぐに目を細めて笑う。

「そうしたら、なんと言った」

「えっ、そ──それは本人に聞いてください。わたしの口からはとても」

「へえ」

「土方さんは?」

「あ?」

 期待のこもる目を向けて、綾乃は土方の回答を待っている。

 彼は意地のわるい顔をした。

「まず抱くよ」

「えっ、最低──」

「なにが最低なものか。向こうの気が変わるかもしれねえ」

「だから、絶対に無理なんですって」

「色恋に絶対などあるか」

「────」

 なぜか土方が言うと説得力がある。

「それでも、断られたら」

「諦めるさ」

 綾乃はほう、と息をはく。

 微かに頬が上気した。

「フラれたら慰めてあげますよ」

「フラれねえよ。残念だったな」

「キィーッ」

「そもそも俺は、勝てぬ戦は好きじゃねえ」

 土方はわらった。

 やがて、襖に手をかけた綾乃の顔を覗き込む。


「お前のような勝ち戦なら、楽だがね」


 この男。

 綾乃は怒りで顔が熱くなった。

「ば、馬鹿にしてェ」

「馬鹿になんかしちゃいねえよ、言ったろう。色恋に絶対はねえ」

「…………はぁー」

 ドン引き。

 綾乃はそう思った。

 そう、思ったのだけれども。

 惚れた弱みか、それすら愛しいのだからやはりこれは負け戦である。

「もういい。おやすみなさい」

 綾乃はいそいで襖の奥に身を入れた。

 隣の部屋から聞こえる土方の笑い声をかき消すように、頭から布団をかぶって目を閉じた。


 ※

 とある秋の日。

「いいか、明日の亥ノ刻には戻れよ」

「守らないと仕置きですからね」

 副長ふたりの声を背に、淀川をゆく三十石船で大坂の桟橋まで。

 綾乃と葵は外泊許可を得て遠出をした。


「おーい龍馬!」


 大坂の桟橋で綾乃がさけぶ。隣にいた葵が吹き出した。

 現代の名作漫画を思い出したからだ。

 呼ばれた当人は、いつもどおり癖のある歩き方で、

「おう来よった来よった」

 と迎えに来た。

 ある日。

 壬生村の子どもづてにふたり宛の手紙が届いた。その差出人が、なんとかの坂本龍馬だったのだ。彼は彼女たちの噂を聞き、付近の子どもに確認しながらこっそりと書き記したらしい。

 いつもどおりの小汚ない格好でやってきた坂本。

 やあやあ、と掻きむしる髪からフケを飛ばす。

「疲れたろう。神戸まで行ってひと休みしよう。そのあと塾へ案内しちゃるき」

 朝の九時に船に乗り、早舟で六時間。

 ここ大坂へとやってきた。これほど金と時間をかけてまで大坂へやってきたのにはわけがある。

 坂本からの手紙は、ずばり塾への招待状だった。

 塾いってもただの塾ではない。──海軍塾だ。


 ────。

 海軍塾の創設者、名を勝海舟という。

 ここ旧生田川の西側西国街道沿いには、勝が設置を進めたものがふたつある。

 ひとつは、坂本が此度案内すると言った『海軍塾』。これは勝が個人的につくった私塾であり、身分立場に関係なく、海軍操練について学べるようにと万人に門戸をひらいた場所。

 もうひとつは、幕府発令の神戸海軍操練所である。こちらは幕臣専用の学び舎で、現在もまだ着工途中である。

 とはいえ、もともとはこちらが先だった。

 幕府から神戸海軍操練所を設置せよと発令を受けた勝が、操練所の『万人への開放』を目指すも、結局希望は許されなかった。

 ゆえに、この海軍塾を私塾として創設したのだとか。

 私塾には自宅も隣接しているとのことで、ふたりは会えるかと期待したが、どうやら今は不在とのことだった。


「坂本さんがおったぞう」


 坂本が来た、という噂はさっそく塾内に広まっているらしい。わらわらと至るところから男達が群がってきた。

「まったく、塾頭はいつもフラフラと──」

「たれか連れちょる」

 口々になにか叫んでいるが、方言の訛りがキツくて怒っていることしかわからない。

「龍馬さん、みんな怒ってるけど」

「大丈夫なの」

「のーぷろぶれんじゃ」

 と、龍馬は得意気に英語をつかう。てっきり女たちから羨望の眼差しを受けると思ったようだが、

「No problemだよ」

「problemは、rのときに発音強調」

 と一斉に責められ、小さく「はい」と頷いた。

「えげれす語が堪能じゃな。どこで学んだ」

「ええっとね」

「ど、独学」

「独学ぅ」

 葵の言葉に、坂本が驚く。

 と、横を見れば綾乃も驚いた顔をしている。

「なしておまんが驚く」

「いや、そういえばそうだったと思って」

「得意じゃないけど中学英語まではいけます」

「ちゅうがくえいご──」

 この時代に中学という概念はない。

 坂本はうれしそうに、

「学問にも聡いとは。尚更みなに会うてもらいたいもんじゃ」

 と、この場から「こっちに来い」と塾生を呼ぶ。塾生らも物珍しそうに寄ってきた。

「坂本さん、たれですか」

「俺の友達だよ」

「へへ──」

 綾乃から、妙な笑い声が漏れでた。

 坂本龍馬に友達認定されるなど司馬遼太郎でも経験してはおるまい。そんな優越感からの笑みである。

 しかし塾生は不服そうだ。

「女、ですか」

「それがどうした」

「いや──」

 としぶってふたりを睨みつける。

 坂本はまたか、とため息をつく。気をわるくしたかと思い女たちをうかがうと、

「感じわる……」

「は? なんコイツ。うす汚ェツラこっち見せんな。めんたまくり抜くぞオラ」

 気をわるくしたどころではなかった。

 え、と戸惑う坂本をよそに、綾乃はその長身を活かして塾生を見下ろす。

「平塚らいてうにぶっ殺されますよテメー、女がどうとか言うヤツに限ってちいせえタマキンしてんですよこの。いつまでもそういう偏見持ってっから、いつまでたっても国が変わらんのでしょうが。ええッ、この粗チンヤロウ!」

「──、────」

 塾生はあまりの勢いに顔面蒼白になった。

 おおむね同意の葵だが、

「局部的なとこだけボロクソ言い過ぎ」

 とさすがにフォローを入れる。

 坂本は女から出たとはおもえぬ暴言に戸惑い、すこしのあいだ固まった。が、視界の端で塾生が刀の柄に手をかけるを見て、パッと塾生と綾乃のあいだに身体を割り入れた。

「──どけえ坂本さんッ、こんアマ斬っちゃるがァ!」

「まま待てまて待たんか落ち着け、落ち着け!」

 落ち着けったら、と。

 坂本の悲痛な叫びが聞き届けられたのは、それから四半刻ほど経ったころ。ほかの塾生が、その男を取り押さえなだめすかし、ようやく男の怒りが鎮まってきた。

 坂本はぜえはあと肩で息をしながら、

「やあわるい」

 と女たちへ身体を向けた。

「こいつは陸奥むつちゅうて──少しばかりへそ曲がりな男でな」

 ようやく紹介ができた、と安堵する坂本の言葉に、陸奥と呼ばれた男はそっぽを向いた。

 綾乃は目を見ひらく。

「ああ──え。あ、陸奥。あァ、陸奥!」

 無論この女は知っている。

 陸奥陽之助むつようのすけ、のちの宗光は、明治維新後にはじめて神奈川県知事となった男である。

 第二次伊藤内閣のときにはカミソリ大臣と例えられるほどの辣腕で、外務大臣として活躍したと言われている。

 つづいて坂本は、塾生のひとりひとりを雑に指さしていった。

「こいつァ亀じゃ。望月亀弥太もちづきかめやた。こっちが沢村惣之丞さわむらそうのじょうで、こいつが安岡金馬やすおかきんま

 あとは近藤長次郎こんどうちょうじろう新宮馬之助しんぐううまのすけ──と次々に紹介がなされる。これらの名はいずれも、のちに日本初の貿易商社となる海援隊の一員だったと、綾乃は自身の記憶を思い返した。

 最後、坂本は遠くの石段に腰掛ける男を指さす。

「あれが岡田以蔵おかだいぞう。ちくと訳ありだが根はいいよ」

「岡田以蔵ッ」

 葵がさけぶ。

 これは歴史に浅い自分も聞いた名だ、と興奮した。

 そういえば、先々月の九月に土佐勤王党リーダー武市瑞山たけちずいざんが投獄されてから、岡田以蔵が京都に潜伏しているというのは知っていた。彼はいま、幕吏から指名手配をかけられており、新選組にも当然取締対象として話は下りている。

 まさかこんなところにいたなんて──。


 岡田以蔵という男。

 別名、人斬り以蔵と言われる。

 しかし彼は伝わる人物像が様々である。これは綾乃の認識だが──かの岡田以蔵という人間は、啓蒙するモノを見誤った哀れな浪人なのではないかとおもうことがある。

 実際、人斬りという二つ名を持ちながら、人を斬った数は多くない。

 しかしまさか。

 この勝の私塾にいるとは、と綾乃は岡田を凝視する。

「──武市さんに捨てられて、龍馬のところに来るのは本当なんだ」

 という綾乃のつぶやきを、坂本は逃さなかった。眉をひそめて顔を寄せる。

「アギのことを知っとるか」

「あ、いや。うわさで聞いただけ──ホラ、そういう話が入ってくるところだから」

 とわらったが、

(しかし)

 とも思う。

(葵は、土佐の問題をどうおもうか)

 ちらりと葵を盗み見る。

 やはり岡田が気になっていると見える。

 芹沢の一件があってから、葵は人が死ぬことに敏感だ。歴史を変えたいという気持ちを強くしているのは、会話のなかでもつぶさに感じることがある。

 岡田以蔵は幕吏に追われる罪人。

 いずれ捕まれば処刑は逃れられぬだろうが──。

「…………」

 綾乃はふるりと首を振る。

 考えるのをよそう、と先ほど紹介された近藤長次郎に目を向ける。

 彼については、本で読んだ程度の知識であるが──ニヤリとわらった。

「龍馬に憧れて、わざわざ髪の毛も袴も崩してるとうわさの近藤長次郎さんですか」

「なっ」

「まことか饅頭屋」

 坂本の目が光った。近藤長次郎は慌てて

「へ、変なこと言わんとうせッ。なんですかこいつ」

 とさけぶ。

「先も言うたやいか。おれの友達よ」

「む、向かっ腹の立つおんなじゃ。大体そのふざけた頭はなんか、なしてそがな髪の色しとるがじゃ」

 ポニーテールの綾乃とそもそも論外である葵の髪に、饅頭屋と呼ばれた近藤は訝しげな目を向けた。

 しかし葵も、この手の質問には慣れたものだ。染めたから、とあっさり言ってのける。

「染め──」

「布も染めて色を出すでしょう、それと一緒」

 一緒なのだろうか。

 まるで異人のようじゃ、と近藤は気に食わなそうに言った。


 ──結局。

 海軍塾については、勝がおらず船も戻らないため、せっかくの来訪もむなしく船との対面は叶わなかった。坂本はたいそう落ち込んだが、女たちにとっては実りある日になったことには間違いない。

 大丈夫、と葵がさっぱりした顔をした。

「なんなら明日、船が戻るのを待とうか」

「待ってよ。明日の夜十時までに帰れって言われたじゃん」

「口約束でしょ、顔合わさないで翌日しれっと挨拶しときゃいいじゃん」

「そりゃあんたは八木さんちだからいいよ。わたしは土方さんの部屋経由すんだよ。つまり帰宅時間バレんだよ。むりだよ」

「まあ、女中の分際で遠出させてもらってるわけだしね。しょうがないか」

 葵はしぶしぶうなずいた。


 それからしばらく。

 世情の討論をする塾生たちの横で、話し合いにあぶれた塾生数人と鬼ごっこをしたり、坂本の歌を聴いたりした。

 すっかり彼らとも仲良くなって、明日もまた帰る前に寄るよ、と約束までしたその夜のこと。

 床の中で明日の算段をつける綾乃が、半分眠りに落ちながらつぶやいた。

「神戸から京都までは一時間半、明日は夕方にここを──」

「おーい、綾乃」

「うん」

 葵がぺちぺちと綾乃の頬を叩く。

「大坂から京まで、一時間半じゃこの時代帰れないからね」

「うん」

「まさかとは思うけど、ここに来て半年経とうとしているのにいまさらJR利用とか考えてないよね」

「うん──えっ?」

 目が覚めた。

 あっそうか、と綾乃は上半身を起こす。

「船か……」

「うそでしょ」

 朝の船旅は、もう記憶の彼方に葬り去られてしまったのだろうか。綾乃はウワァと布団にころがる。

「じゃあ、明日はとっても早起きしてみんなに会いに行かにゃ」

「うん。早舟使ったって朝の九時に出発しないと──十二時間かかるから」

「はっ。早舟で十二時間──馬鹿じゃん」

「なにが」

「龍馬とか、めちゃくちゃいろんなところ飛び回ってたって史実に聞くけど。その人生の四分の一、移動時間で終わってるじゃん。もうなんか流浪の民的なくらいるろうに剣心じゃん」

「う、うん──でも世に事を成すにはそれしかなかったんでしょ」

「えー。なんかそれ聞いたらわたしでも世に事を成せるような気がしてきた」

「そ、そう?」

「あーいい夢見れそう。寝よ」

「────」

 この、こいつのこういうところ──と奥歯を噛んで渋面をつくり、葵は行灯の火を消して布団に潜り込むのだった。


 しかし。

 翌日は思った以上に朝寝坊をしてしまって、塾についたのは九時を過ぎたところだった。

 塾にはすでに昨日の面々がぞろりと揃っている。

「よ、おはようッ」

「遅い、おまんらもう帰ってしもうたかと思うたぞ」

 望月が寂しそうな顔をして駆けてくる。凛々しい顔だが、走るたびに揺れる髷がかわいくて、綾乃と葵は癒された。

 望月はふたりの肩をポンと叩き、労う。

「よう来たな!」

「うん。じゃ、帰るわ」

「は?」

 もう既に、リミットの時間を越している。

 葵は悠々たるものだが、綾乃にとっては一大事である。ふたりは一通り挨拶を終えるや、バタバタと船着場へ走った。

 嵐のような女たちだな、とだれかがつぶやいた。


 ──それから早舟に乗り込んだのは、午前十一時を回ったころ。

 六人の船曳に「一刻ほど速くつきたい」と無理を言い、全力で声援をかける。船曳の頑張りで、半刻早く上陸できたふたりがようやっと前川邸前の道へ曲がったときのこと。

 綾乃は死にそうな声でうなだれた。

「もう二十三時……終わった」

「平気だって、女中の門限に構っていられるほど暇じゃないよ。新選組だよ?」

「それもそうか! アッハハ」

 前川邸の前に、提灯の光が見えた。


「いいえ、そんなわけはありません!」


 聞き覚えのある声にふたりは「え?」という顔をして閉口する。

「遅すぎます。もしかしたら何かあったのかも──」

「あんたはすこし過保護すぎだ」

「そうは言いますがこんな夜半におなごが歩いていたらなにがあるか」

「だからそれは自業自得で」

「貴方はどうしていつもそう」

「あんただって」

 門の前で言い争うのは──土方と山南。


「…………」


 それを見た瞬間、ふたりは無言で着物と髪をぐしゃぐしゃと乱れさせた。そしてどちらが何をいうでもなく、

「う、う……」

 と、呻きながら前川邸前へよろよろ歩いていく。

「あっ」

 案の定、山南が提灯を放り出して駆けてきた。

「いったい何があったんだ!」

 ふたりはがくりと膝を折り、うなだれたままさめざめと泣き出した。

「さ、山南さ──うう……」

「……お、遅れてしまって、ごめ──」

「どうしました、何かされたの?」

「うゥ……とても口では──」

 と、綾乃がつぶやく。

 そのままうな垂れて動かなくなったふたり。これぞ誤魔化しのひと芝居。コンセプトは、暴漢に襲われた町娘である。

 山南は彼女たちの着物を直してやり、たちまち眉を吊り上げて土方を睨みつけた。

「ほら見たことか、土方くんッ。かわいそうに──」

「…………」

 しかし土方の反応は見えない。

(あれ?)

 と、綾乃が横目でちらと反応をうかがうと、形容しがたい表情でこちらを見下ろす土方とばっちり目が合った。

 目薬で誤魔化した涙の水が、サッと乾くのを感じる。

「…………」

「…………」

「ああ、山南さんよ。たしかにひでえ──」

 土方は唸るようにつぶやく。しかし顔は半笑いだった。

「こりゃあ面の皮ひっぺがして、二度と──こんなことさせねえようにしねえと。なあ」

「そのとおりです!」

「…………」

 嗚呼──。

 ちがいます、山南さん。

 この人がひっぺがしたいのは、我々の面の皮です。

 口をキュッと結び、冷や汗を流して固まるふたりを、土方は怒髪天の形相で、しかし口元には微かに笑みを浮かべて。

 じっとりとした目で見下ろしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る