雨の日

 八月十八日──朝の三時頃。

 着なれぬ甲冑を身につけて、隊員一同は御所の周りへ出動した。

 『壬生浪士組御花畑門警護』である。

 これは、現代にて『八月十八日の政変』と呼ばれた戦のなかで唯一、壬生浪士組が担った任務のこと。

 内容の記録が少なく、名前だけ聞くと「お花畑?」とよく嘲笑されるが、御所周辺にある御花畑門の警護という正式な任務なのだ。

 なにせ夜中のこと、女ふたりはイヤイヤ握り飯の山を作って届けたのち、ふたたび布団へもぐりこんだため、そんな朝早くに御所でなにが起きていたかは知らない。

 加えて、壬生浪士組に出動命令が出たのは正午からだったというから、なおさら疑問である。


「つまりなにが言いたいかというと──」

 綾乃は眠い目をこする。

「そんなに評価されるような仕事をしなかったにも関わらず──この事件の褒賞として容保様から賜ったのが、なんと『新選組』という新しい組織名だったわけよ」

「なるほどねえ」

 眠そうな葵が、神妙にうなずいた。


 先ごろ壬生浪士組は、『新選組』と名を変えた。


 それは、八・一八の政変直後、京周辺に潜伏した過激派浪士の掃討作戦に対する評価によるものだった。

 孝明天皇から松平容保に対しては「過激派の行動を迅速に抑えてくれてありがとう」という深い謝辞の手紙が寄越され、松平容保から壬生浪士組に対しては〝新選組〟という名が下されたのだ。

 とにかくこの八月十八日の政変は、活躍こそそこそこだったものの、この壬生浪士組にとっては歴史的な事件となった。

「歴史的事件も、新選組目線からいくとこれだけの説明で済むんだね」

 葵が目薬をさす。パチパチとまばたきをして眼球を動かしながら「それって」と続けた。

「会津や薩摩の、公武合体派の人が、長州やそれに関連する公家さんを京都から追い出すためのもの──だったんだよね」

「ウン。ただまあ……背景を考えると佐幕派側の悪あがきというか」

「悪あがき?」

「幕府がいつまでも攘夷に踏み切らないから、佐幕派側の中川宮親王たちも気付いているんでしょう。このままじゃあ世間一般から幕府はいらない子認定されちゃうって。──幕府が本当に攘夷をする気があるのかは、別としてね」

 出来もしない約束を天皇とした幕府も幕府だよ、と付け足す綾乃に葵は首を傾げた。

「攘夷をしますって?」

「そう」

「じゃあどうして安政五か国条約なんか結んだの。そもそもすべてはこれが原因でしょう」

「そらァハリスに脅されたからサ。結ばないと戦争しちゃうぞって。日本は昔から、武力で優劣をつけていた国でしょう。強いものに従う国民性があるわけだ。──今回だって、アメリカに太刀打ちできるわけがないとビビったんじゃないのかな」

「…………」

 葵の深いため息を最後に、ふたりはしばらく黙る。

 ちなみに、今日は八月二十一日。

 新選組は三条木屋町に潜伏しているらしい桂小五郎を追放すべく、出陣中である。

 桂小五郎かつらこごろう──長州のなかでも切れ者で、攘夷志士をまとめあげていると噂される人物。

 少し前から浪士組も長州藩を注視している、と感じたことがある。それは、向こうもまた同じように浪士組を嗅ぎまわっていたからだ。


 今から遡ること六月頃。

 浪士組に入隊した四名──御倉伊勢武みくらいせたけ、松井竜三郎、越後三郎、荒木田左馬之介。

 彼らは、芹沢や近藤も気付いていたが、長州の間者であった。

 こちらから動向を見てやろう、と強気な近藤の意見から採用に至ったが、結果的には四名がボロを出し、粛清された。

 この頃はまだ長州藩との対立関係が目立っていなかったが、今回の政変や桂小五郎追放未遂事件で、浪士組──もとい新選組は明らかな幕府側宣言をした。

 同じ攘夷を志していたはずが、破約攘夷を目指す長州は憎き敵となってしまったというわけだ。


「ねえ。桂小五郎のこと探してみない」

 ふいに、葵がぽろりとつぶやいた。

「素敵なこと言うね」

 綾乃の口角があがる。

 ふたりの目はとたんに輝き、八木邸を飛び出した。


 ──のだが。

「それで史実の桂は三条木屋町にいたの?」

「いなかったんよねェ」

「じゃあなんでここに来たの」

 ここ、三条木屋町。

 ふたりは途方に暮れている。

 彼の居場所はわからないし、周りには羽織をまとう見知った顔がうろうろしている。土方に見つかれば「邪魔だ」とすぐ屯所へ帰されるだろう。

 綾乃は、携帯で桂小五郎の写真を出した。

「この写真はイケメンに見えるけど、けっこう白飛びしているから実際に会ったらそんなに格好良くないかも」

「ああ、白黒写真マジックね。あるある」

 あはは、と葵がわらう。

 笑いながら、何の気なしに横道へと目を向け、二度見した。

「えっ」

「どうした」

 ひょいと綾乃が覗き込む。同じく目を剥いた。

 影に隠れるように、女物の着物を着ようとする男がいたからである。

 綾乃が小声で、

「変態だッ」

 とさけんだ。

 葵は申し訳なさそうに眉を下げる。

「あんたに言われたくないと思う」

「やかましいわ」

 とりあえず近づいてみる。

 着物を着終えた男は、鬘をかぶろうと顔をあげてようやく目前に迫る女を認識した。

 周囲に構わず「わっ」と叫び鬘を落とす。

 綾乃がそれを拾う。

「あ、かつら──」

「なぜ俺の名を」

「は?」

 はた、とお互い動きを止めた。

 鬘……カツラ、かつら──。

「桂!」

 ひらめいた。

 と、言いたげに葵が叫んだ。

 アッと綾乃が鬘に目を落とす。

「ヅラ?」

「ヅラじゃない、桂だッ」※ウソやで~

「ほら」

「────」

 男が、わずかに焦った顔をする。

 一瞬のにらみ合い。が、


「こら貴様ら」


 という背後の声によって終わりを告げる。

「こんなところで、なぁにをやっとるか」

「!」

 聞きなれた声。

 女ふたりはぐるりとふり向く。やはりそうだ。坊主頭に白い鉢巻という大胆なスタイル、草臥れた顔つきが渋さを演出するこの男──松原忠司まつばらちゅうじであった。

 その異様な風貌から、今弁慶というあだ名がついたほど。

 助勤の彼は、見た目こそいかついがとても優しい性根をしていて、ふたりともが気を許す隊士のひとりである。

「──ち、忠さん!」

「危なかろうが。外に出るなと言われよったろう、はよう帰り」

「うん──」

「それより、そんな暗いところ見てどうした。なにか居るんか」

 と。

 松原が首を伸ばす。

 葵の心臓がドッと鳴った。おそらくは背後に隠れる男もおなじく鳴ったことだろう。松原は一見すると仁王像のようなのだ。

 綾乃の動きは早かった。松原を路地から押し出して、大通りの方まで彼の腕を引く。

「なーんも、猫がいただけ。それよりお目当てのものは見つかりました?」

「いんやあ、虱潰しに探しとるんだが」

「あは、今弁慶のいう虱はたぶん猫くらいの大きさなんでしょうね。きっと見落としているんですよ。もう京から出ちゃっていたりして」

「うーん、もう少し二条の方を探してみる。ええからはよう帰れよ」

「ハイ」

 かわいらしくうなずき、綾乃はひらひらと手を振った。

 松原率いる部下たちもそれに手をふり返し、今弁慶のあとを追う。

 横道をふさぐように小柄な身体を広げていた葵は「ふう」と一息ついた。桂は彼女の陰に身を縮こまらせている。

「ああびっくりした。忠さんだった──」

「…………き、君たちは浪士組の縁者か。何故斯様な真似を」

「え、いや──とくに深い意味は」

 桂小五郎は、戸惑っている。

 それはそうだろう。彼は壬生浪士組にも名を轟かせている、長州藩の中心人物である。すがたを見たらば最後、捕縛するまで追われるはずだ。

 しかし女たちは告げ口どころか、文字通り身を挺して助力したのだから。

 さらに、綾乃が周囲のひと気を確認しながら戻ってきた。

「とにかくはよ逃げんと。さっきの人たちは二条方面に行きました。着物も整えて──鬘、もね」

「お、恩に着る」

 言われたとおり身なりを手早く整えて、彼は裏の通りへ早足で出ていった。

 桂小五郎。

 ──またの名を『逃げの小五郎』。

 まさか女装まで会得しているとは思わなんだが、しばらくして我に返ったふたりはきゃあ、と手を取り合った。

「本当に会えるとは思わなかったッ」

「鬘と桂って、もうギャグじゃん」

「バタバタしていてあんまり顔が見られなかったけど──なんか、言われてみればたしかに桂小五郎、って感じだったかも」

「分かりみの鎌足。ザ・桂って感じやった」

 その後。

 まもなく土方に見つかったため、強制的に屯所へ帰営する。


「おかしいよね」

 と、葵が八木邸玄関で草履を脱ぐ。

 なにがと綾乃が問う前につづけた。

「同じ攘夷を目指しているくせに──こうして対立しちゃうなんて」

「問題はサ、だれが主導権握って攘夷をやるかってところよね。長州も、今回の七卿もそうだけど、彼らは破約攘夷論だから彼らの思い描く未来に幕府はいないのよ」

「たしかにやるやる詐欺で、ここまでずっと動かないもんね──なんで幕府は攘夷を決行しないの」

「じゃあアンタ、あの未来の世界を知っていてアメリカにたてつこうと思う?」

「思わない」

「でしょ、幕府も同じ。知ってんのよ。どれだけ外国が強いかも、開国するしか日本の未来はないってことも。つまり、攘夷をやるだけ金と命が失われるだけ」

「ああ」

「だけどそれを、天子様にも諸藩にも、我々のような烏合の衆にも、隠しすぎたんだと思うな──」

 と、綾乃は遠い目をする。さらに「長州もさ」と続けた。

「この間の五月に起こした下関事件で、なまじ米仏の船に攻撃仕掛けてうまいこといっちゃったもんだからサ。いまはまだ勝てると思っているんじゃないの」

 というのは。

 幕府が天皇へ攘夷決行の約束としていた期日、文久三年五月十日に長州が仕掛けた米仏への攻撃である。予期せぬ攻撃に、米仏がいったんひるんだ姿を見せたことで、長州藩の士気はようようにあがった。

 しかしながらその攻撃は、当時の国際法に違反するものであり、のちに長州藩は米仏からの報復を受けることとなるのである。


「その報復の集大成が、来年の四国艦隊下関砲撃事件なわけね。どんなものか見ものだわ」


 葵は鼻を鳴らした。

 その後ろで、二人に話し掛けようと黙っていた原田と永倉が、感動したように震えていた。

「ま、まさかこいつらが世の行く末について──は、話しているなんて」

「世も末だ!」

「いやひどいな、その言い草」

 どうやら、深い話までは聞かなかったようである。

 綾乃と葵はお互いに目を見合わせてから、小さくため息をついた。


 ※

 新選組〝禁令〟。

  一、士道を背く事。

  二、局を脱する事。

  三、勝手に金策を致す事。

  四、勝手に訴訟取扱う事。

 これらを破った者は、切腹を申し付ける。


 これは、この壬生浪士組が結成されて間もない四月ごろ。まだふたりが来る少し前に〝禁令〟として制定されたもの。

 未来で有名な局中法度なるものは、この禁令を元に創作されたものである。

 壬生浪士組改め新選組は、不逞浪士討伐人数よりも内輪での粛清人数の方が多かったと言われるほどに厳しい組織であった。

 これに抵触したもの──無論、執行者側からの認識であるため、こじつけもあったと思われるが──は、切腹を申し付けられた。


「新見が切腹」

 祇園〝山の緒〟で、土方や沖田、原田らによって新見が切腹させられたという話を綾乃が聞いたのは、九月も十日をまわった頃だった。

「なんかしら適当な理由つけて、切腹させられたらしいぜ」

 と、つまらなそうに刀をいじるは藤堂平助。綾乃はふーん、と含む言い方でつぶやく。

「新見が。──」

「なんだよ」

「なんでもないよ」

 ざわざわざわ。

 胸元がざわつく。脳裏に、この世界に来る前の光景がよぎる。


 ──この鴨居の傷は芹沢鴨暗殺時に、──。


「顔色わるいぞ。ハライタか?」

「ううん。──ちょっと考えごと」

 綾乃はけろりとわらう。

 が、その胸中はおだやかではない。新見の話から早々に、原田の色恋話へと切り替えた藤堂に相づちを打ちながら綾乃は考える。

(ひとの命を左右する、歴史改変の方法があるんだろうか──)

 と、肚の底をふるわせて。


 ──前川邸局長室。

「とうとう来たよ」

 トシ、と。

 近藤は開口一番にそう言った。

 たったいま、松平容保から呼び出され、とある命を受けて帰ってきたばかりである。が、土方にはもう見当がついている。

「俺は──ほかのやり方を考えたい」

 近藤は弱腰だった。

 いまさら、と土方がため息をひとつ。

「新見殺しといてなにをいう」

「分かってる。けどあの人は」

「ここで弱気になっては、今後新選組をまとめる者として示しがつきませんよ。近藤局長」

 ずい、と膝を寄せるは山南敬助。

 役職付きの三人が雁首そろえての話し合いである。近藤は渋い顔をした。

「新選組、──」

「近藤さん、あんたの言い分だってわかるよ。俺だってすこしは思うところもある。だがこればっかりは、組の未来をおもえば当然の道だとも思う」

 と、土方。

 山南もこくりとうなずく。

 近藤は「やむなしか」とつぶやき、顔を上げた。


「決行しよう。──ちかく雨天日の夜半」

 巨魁局長芹沢鴨を始末する。


 近藤の言葉に土方と山南は静かにうなずいた。


 ※

 九月十八日、雨。

 午後から島原の角屋で会合が開かれるというので、平隊士たちは高揚していた。

 しかし、女ふたりの顔は浮かない。


 つい先頃のことだ。

 話がある、と土方から呼び出しをうけた。

「いいか。俺たちは出かけるが、今宵お前たちはぜったいに前川邸から出るな。理由は話せない。だがいいな」

 絶対だ、と土方が再三念をおしてくる。

 葵は不服そうな顔をした。

「壬生寺にも?」

「駄目だ」

「新徳寺は」

「出るな」

 さらに、

「だから徳田は、三橋と一緒に俺の部屋で寝ろ。いいな。──今宵は」

 遅くまで戻らない、と。

 唸るように言って、土方は出ていった。


 ──外は雨である。


 雨音がバタバタと戸板に当たる。

 すべての雨戸は閉めきられ、外の様子はわからない。

 土方の部屋にて。

「綾乃、私やっぱり」

 葵が言った。

「やっぱりいやだ──」

 しかし綾乃は険しい顔で首をふる。

「わたしたちが行ってなにが出来るの」

「だからって見殺しになんかできないよ!」

 葵は、たまらず部屋を出ようとした。しかしその腕が掴まれる。綾乃に。

 いったいどうしたのよ、と葵の声にいら立ちが混じった。

「綾乃、さいきん変だよ。いつも変だけど──殊更変だよ。ついこのあいだまでは考えてたじゃない。命を助けたいって。歴史改変の方法があるのかなって。それなのに……新見さんが死んでからパッタリ考えなくなったよね。どうして?」

「────」

「そりゃァ難しいよ。だけどいくら難しくっても、なにかしら出来ることがあるかもしれないッ。私は諦めたくない!」

 葵が腕を振りほどかんとする。が、綾乃の手はがっちりと掴んで離さない。

 綾乃、と葵が眉をつりあげる。

 けれど綾乃にもまた、彼女をそこに行かせるわけにはいかない理由があった。

 行かせてよ、と葵は絶叫した。

「じゃあなんのためにここに来たのよッ。ただぼーっと歴史を見ていろっていうの。冗談じゃないよ!」

「ちがうッ」

 と。

 綾乃がさけぶ。

 そうだよ、とつづける声は掠れていた。

「──わたしだってそう思ってた。歴史を知ってる人間が過去に放り込まれて、なにをするべきかなんて、これしかないって思ったよ。だから、新見が死んだって聞いたとき芹沢さんに会いに行った。行ったんだよ、わたしだって!」

「あ、あや」

 めずしく必死な彼女に気圧される。

 だけど、と。

「──ちがった。ちがったんだ」

 綾乃は、うなだれた。


 ──まあ座れ。

 その日、芹沢は珍しく酒も飲まずに刀の手入れをしていた。

 腰を下ろし、綾乃はちらりと顔色をうかがう。彼を助けるためになんと言えばいいか、考えあぐねていたのである。

「なんだ、珍しいなおまえがわしに話とは」

「すみません」

「べつにいい」

 沈黙。

 綾乃は細く息を吐く。緊張している。

 いまさら、芹沢鴨という男の威風に気圧される自分がいた。彼を前にしてなにを言うべきか、もはやなにも分からなくなってしまった。

 こちらがなにを言う前に、芹沢が口をひらく。

「葵は」

「はい?」

「あいつはわしのことをいまだに勘違いしとるようだ。まったく甘ったるい餓鬼で参るな」

 褒めて──いるのだろうか。

 いや、照れているのか。綾乃はくすっとわらった。唐突になにを言い出すかとおもえばかわいいところもあるものだ、と軽い気持ちで相づちを打とうとした。が。

「アレは、だから」

 芹沢は口もとを歪めて、

「こちらに持ってきたのは間違いだった」

 とも言った。

 葵を八木邸に住まわせたことを後悔しているらしい。綾乃は首をかしげる。

「どうして」

「────」

 彼はわらう。

 ゾッとするような微笑みだった。

 その表情に、

(あっ)

 と綾乃の顔が一気に引きつる。

 この男は──分かっている。

「変に肩入れされたもんだ、きっとまた泣くだろうな」

「────」

「あいつにとっちゃ迷惑な話だ」

「どういう、意味です」

「隠さずともわかっておるわ」

「…………」

 なにも言い返すことができなかった。

 綾乃はうつむいた。

「あいつもどうせ知っているだろう」

「──それでも、自分の意思でずっとここにいたんです」

「アレは、わしの意思に従っただけだ」

「そんな殊勝な女じゃないですよ。未来の女は、もっとずっと自由なんだから」

「────」

 芹沢が、打粉を乗せる手を止めた。

 キロリと綾乃の目を見つめ返す。

 未来から来たんです、と綾乃は繰り返す。

「そんな人間が、みんなと関わり合うことの意味を、考えていないとお思いですか。いつかかならず訪れること──覚悟していないとでも?」

 そんなわけはない、という声がふるえた。

「それがわかっていたって葵は、みんなと、──芹沢さんと一緒にいることを選んだんです。だから芹沢さんには生きて葵のそばにいてもらわなくちゃ困るんです。彼女がそれを望んでる。だからわたしがここに来たの!」

「来て、どうする」

「芹沢さんを──助けたい」

「はっはっは、それはダメだな」

 芹沢は背をそらせてわらった。

「どうして!」

「お前たちがなにを知っているのかは知らんが、ひとつだけわかるのは……それが正しい道だということだ」

 綾乃が眉をつりあげる。

「正しいってなんですか──それが正しい道かどうかなんて誰が」

「わしが、正しいと言うておる」

「────」

「だからといって、おのれの行ないが違っておったとは微塵も思っておらん」

「そ、」

「いまのわしのやり方では、誰もわかっちゃくれないとアレは言ったがね」

 芹沢は、慈しむように瞳を落として

「アレが分かっていたのだから、やっぱり間違っちゃあいないのだ」

 とわらった。

「────」

 綾乃は、喉元からせりあがる嗚咽をころす。

 なにも言えなかった。

 彼の笑顔が、今までに見たことないほど幸せに満ちていたから。

 もう、なにも言えなかった。

 

 彼の笑顔を思いだした。

 綾乃がふっと瞳を落とす。いま、葵の顔を見るのがつらかった。

 しかしここで逸らしたら、きっと彼女は揺れたままだ。綾乃は唇を噛み締めた。

「芹沢さんは葵に感謝してた」

「…………」

「あの人だって、自分の行動がそぐわないことくらいわかってた。それでもアンタはいつだってあの人を信じていたでしょ。それが芹沢さんにとっては支えだったの。勇気になったのよ」

「──で、でも」

「他でもないあんたの情で、芹沢さんの覚悟を無駄にしたくない。わかって」

 弱々しい声色で綾乃は言った。

 しかし葵は掴まれた手を握り返して、

「でも、私まだ言ってない」

 と喉を詰まらせた。

 パタ、と畳に涙が落ちる。

「未来から来たって信じてくれたことにも──ずっと、そばにおいてくれたことにも。なんにも、ありがとうって言えてないの」

 ボロボロと涙をこぼす。

 その様が痛々しくて、綾乃は顔を歪めた。

「葵──」

「……お願い、ゆるして。すこしだけ」

 綾乃の手から力が抜けた。

 葵は泣きながら部屋を出る。

 その動きがぴたりと止まった。

 ちょうど廊下の奥から、音を忍ばせ帰営する男たちが見えたのだ。

「…………」

 それが、すべてが終わったという事実を葵に突きつけた。

 胸の底から一気にせりあがる感情が、葵の瞳から涙を押し出す。

 脳みそを、冷やしていく。

「う、あ」

 泣き崩れた。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 葵のか細い声が廊下に響く。

 綾乃はうつむいた。

「──芹沢さん、分かってたんよ。葵」

 つぶやく。

 葵の愛情も、“ありがとう”も、全部。

 それがわかっていたからきっと、あの人は救われたのだと思うから。

 その夜、葵は声が枯れるまで泣き続け、泣きつかれて眠りに落ちたのは空が白みだしたころだった。

 綾乃はずっとそばについて、ただ彼女の泣き声を聞きつづけた。


 芹沢と平山の葬儀は、翌日の夕刻におこなわれた。

 これまでにないほど盛大な式で、近藤、土方自らが弔問客に対応する。

 一方、八木邸のとある一室では、黒い着物を着た綾乃が、葵の手を引いている。

「ほらいい加減行こう。最期のお別れだよ」

「────うん」

 と、言いながら葵は畳の目をなぞるだけで動こうとしない。彼女は朝から脱け殻のようで、食事もろくに摂っていない。

 綾乃は一瞬、躊躇するそぶりを見せた。

「あおい」

「────」

「芹沢さんからの言伝て、聞いてくれる?」

「……え?」

 葵は、力なく頭をあげた。


 ────。

 線香の煙が、ゆっくりとたちのぼる。

 壬生寺の境内は黒装束の隊士で埋め尽くされた。


 頭のなかで繰り返す。

 不器用な侍の最期のことばを。

(病には気をつけ、笑うて過ごせよ)

 あの天邪鬼が、いったいどんな顔でそんなことを言ったのだろう。

「そんな、」

 どうして私は、その場にいなかったのだろう。

「──そんな優しさ、くれるくらいなら、」

 どうしていま、彼はそばにいないのだろう。

(ありがとう)

 どうして。


「生きて、隣にいてほしかったよ──ばかァ」


 ただただ、泣き荒ぶ。


 文久三年九月十八日。

 芹沢鴨、平山五郎死す。

 近藤は、心からの涙とともに弔辞を読み、二人との別れを惜しんだ。


 ※

 あの悲しみから数日。

 史実では、芹沢派がいなくなったことで、近藤や土方、助勤連中が前川から八木へ移り住んだそうだが、いまのところはそのような動きは見られない。

 監察方と勘定方がそちらに移り住むほかは、特になんの変化もなく日々が過ぎようとしていた。あの事件は、隊のほとんどの人間が長州の仕業と考えているらしい。


 綾乃は、前川邸の縁側に腰掛ける。

 大切な人を助けたかった、と葵の心は深く深く沈んでいる。彼女は自分の想いが芹沢を死へ誘ったかもしれない、と思っているのである。

 けれど、死を覚悟した芹沢の顔は、突っ張ったまま生きているときよりもずっと幸せそうだと感じた。

 諦めに近い感情だとしても、死を迎え入れることが、彼の幸せだったのだとしたら。

 必ずしも、生きていくことが幸せでないのだとしたら。

「正しい道なんて──」

 それでも生きろ、と他人が言うのは、きっとおこがましいことなのかもしれない。

「────」

 生きていてほしかった。

 そんな感情だって、きっと生者のわがままでしかないのだろう。

 少なくとも、この時代ではそうなのだ。


「綾乃、どうしたよ」


 いつの間にか、原田がそばにいた。

「ああ、うん。いや──」

 一瞬口ごもる。

 やがて、綾乃はぽつりとこぼした。

「みんなが幸せになる世の中が、あればいいのになって思ってた」

「────」

 単純な願いだとおもう。

 けれど、決して叶うことのない願いなのだろう、ともおもう。

 原田は、綾乃の横に腰をおろした。

「──そうか」

「でも、無理なんだろうな」

 綾乃は、着物の柄をぼんやりと眺めている。

「わたしたちの世界で言われる幸せはね、死なないことだった。だれも死なない、優しい世界。だけど芹沢さんを見ていたら──ちがったの」

「ちがった?」

「うん。…………大事なものを守れるのなら、たとえ行き着く先が死だとしても、それはそれで幸せなのかもしれない」

 と言ってうつむく綾乃の顔を、原田はずいと覗き込んできた。まったく腹の立つほど整った顔だ。

「人様の幸せなんざ考えてッからぐちゃぐちゃになるんだ。自分の幸せだけ考えろよ」

 彼らしい横暴な発言である。けれど、それが真理だとも思う。

 綾乃は吹き出した。

 それから、意地の悪い顔でつぶやく。

「そうよね。経緯はどうであれ、自ら死を選んだ人に同情はしない。まして、幸せに死んだ人なんか」

「────」

「わたしたちはまだ生きてるんだもん。同情してほしいのはこっちよね」

 いつもの、おどけたような笑みを浮かべる。

 原田はその通りだ、とおもった。

 しかしそう言った彼女が一番納得していない顔をしていたものだから、原田はどうにもやりきれない気持ちで彼女の頭を優しく撫でてやるのだった。



(第一章 完)

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