たまこは大きく深呼吸をすると、氷が溶けきってオレンジジュースと水に分離した残りの薄くなったジュースを綺麗に飲み干した。


太郎が新しく冷たいオレンジジュースをたまこに出してやり、飲み干した空のグラスを持ち上げた。

たまこがそれを取ろうとする。それを太郎が手で制した。

空いたグラスを洗うのは自分の仕事なのだ。いつもの癖だったが、太郎の行動を見て、そして、私はもうこの仕事はできなんだと悟った。心が痛くなった。

たまこは冷たいオレンジジュースを一気に半分ほど飲み干し、また続ける。


「あの男はそのまま私を二、三日放置しました」

水も食べ物もなく、外にも出られない。

朦朧とした意識の中で私は死を覚悟しました。

そんなときでした、黒い大きな靄が目の前を通って行ったんです。でも……


「靄ときたかい。靄っていったらなんだと思う? どいつだと思う?」

「黒い大きな靄ねえ。俺らは影に潜めば何にでもなれるから一概にこれとは言い難いけど」

「靄だろう、なんだろうねえ、でかい靄っていったら、あれだよ、あたしが思い浮かべるのは一つしかないね。太郎はどうだい?」

「ああ、でかい黒いのっつったらあれしか思いつかないけどねえ」

「そうだろ。死神だろう。あいつじゃないのかい?」

「あいつならやりかねない」

「時々人で遊ぶからねえ」

「まったく仕方のねえやつだよ」

「だからまた始まったよ。昭子さん、太郎、今はたまこちゃんが話してるんだから最後まで静かに聞きぃよ。まったくあれこれとこうるさい」

昭子と太郎が待ってましたとばかりに話に割り込んだのを止めた侍は、たまこに話の先を促す。

なんだい、最初はあんただってあれこれ言ってたじゃないか。それに、たまちゃんの話を聞いてると、あんたが言ったことと少し違ってるところがあるのはなんでだい? という昭子の不満は聞かなかったことにした。


「空腹と喉の渇きと体の痛さにもうダメだと思ったときでした、あの男が姿を現したんです。私は怖くて逃げようと頭では思いましたが体はぜんぜんいうことをきかなかったんです。動かしているつもりでしたがまったく動いていませんでした」

あの男が大きなノコギリを持っているのが視界の片隅に見えました。

男が私の腕を掴みました。腕にチクっとするものを感じ、すぐに視界がぐにゃりと歪みました。

ああ、もうダメだ。あのときの時間に戻って欲しい。そうしたら道案内なんかしない。描いてやった地図だけ渡してすぐに帰るのに。親切になんてしなきゃよかった。家に帰りたい。なんであのとき逃げなかったの。戻れるのなら同じ失敗はしないのに。そう思ったのを最後に意識が途切れたんです。

あの男は何か言っていましいたが私の耳にはもう何も届きませんでした。そのまま暗い闇の中に落ちていきました。


次に起きたとき、両足に激痛が走ったのを覚えています。

動かそうとしても動かなかった。手が自由に動くことに驚いたのと同時に逃げようとしました。立ち上がろうとしたときに異変に気づいたんです。

 激痛で足が動かないんです。相変わらず真っ暗なので痛みを和らげようと足を揉もうとして手を伸ばしましたが、あるべきところに脚はありませんでした。触れたのは地面でした。悲鳴をあげました。声が枯れるくらい悲鳴を上げ続けました。足がないんです。私の足は切り落とされていたんです。腿の付け根あたりからばっさり。悲鳴を上げ続け、私はいつの間にか気を失いました。


 ようやく気を取り戻したとき、わたしは自分の着ている服で両足を止血されていることに気づいたんです。血が出ているところを恐る恐る触ってみました。激痛が走ったのを覚えています。

 最初は誰がやったんだか検討もつきませんでした。でもすぐに、あの男がやったんだって思うと、わざと生かされているみたいですごく怖かった。もう死んじゃえばいいのにって本気で思いました。


 小屋の外から誰かが戸を叩く音がしました。

 あの男かと思い、恐怖に体が凍りつきました。声を潜め、外の音に全神経を尖らせました。

 それは女性の声でした。女性は小屋の周りをぐるぐる回っているようでした。だから私は枯れて出ない声を振り絞り、助けてと言い続けました。爪で地面を叩いたり引っ掻いたりして気づいてもらえるようにひたすらに助けを求めました。

 すると、しばらくすると声が女性に届いたんです。その女性は、鍵を取ってくるから待っててと言いました。よかった、これで助かると思いました。

 しかし、いくら待っても何日経っても彼女がここへ来ることは二度とありませんでした。


 あの男に、「あの女を殺した。お前のせいだ」と言われて、私は身体中を針で刺されたような感覚に陥りました。私があの女性を殺してしまったんだ。そう思えば思うほど、悔しくて悲しくてどうにかなりそうで、泣き続けました。後悔が募るばかりでした。

 そして、これで終わりだと実感しました。だって、もうどこにも助かる見込みはなかったんです。

 男は鼻歌を歌いながら私の襟首を掴んで引きずり、私を助けようとしてくれた女性が埋まっているという畑に連れて行きました。

 歩けない私は小屋から畑までずっと引きずられていました。両腕はなぜかまったく力が入りませんでした。私が落とした物干し竿がまだ転がっていて、無性に悔しくなりました。それに、自分の足がないのを見るのはとてつもなく惨めでした。


 あの男は土を掘り返し、あの女性の頭を私に見せつけました。恐ろしかった。自分もこれからこうなると思うと体が震えました。涙もよだれも垂れ流し状態で泣き叫びました。

 でも、少し違和感がありました。私が見た頭は半分骨が見えていたんです。

 私とあの女性が話してから数日程度ではないかと思いました。記憶がなくなっていたし時計もなく、真っ暗で時間はわかりませんが、そんな少ない日にちで骨になるだろうかと、冷静に考えている自分もいました。


 男は私を土の上に腹這いにさせ、見えるようにノコギリを目の前に出しました。刃には血の跡がこびりついていました。まだ新しい血もありました。涙がとめどなく流れました。

 恐怖でした。生きたまま切られるのかと思うと、止めようにも身体の震えは止められませんでした。

 男は畑を掘り返しました。私はまだ切られませんでした。

 掘り返した畑の中から出てきたのは、土色に変わった長い物で、男は土を払うと気持ちの悪い笑みで私にこう言いました。


「おまえの右足だ」

 私はこの信じられない状況に発狂しました。

 自分の悲鳴で鼓膜が破れればいい、喉が切れればいい、頭が張り裂ければいい。ここから消えたい。もういい。もうやめて。そう思いました。

 男は私の右足を私の前に投げつけました。そしてノコギリを持ち上げたんです。

それが私の最期の記憶です。


 たまこは言い終えると、心なしかスッキリした顔をした。笑顔さえ見える。

 そうだ、そういう人生だった。と最期まで思い出せたという気持ちがたまこをすっきりさせたのかもしれない。


「あの男、やっぱりあたしが殺してやりたかったわ」

 昭子が歯ぎしりをし、両の拳を握りしめてこたつテーブルを叩く。

「そりゃ俺らみんなが思ってることさ。昭子さんだけじゃあねえよ」

 侍も鼻息荒く「ちくしょうめ」と吐き捨てた。

  太郎はただただにんまりと笑っている。

「私のせいで瑞香さんは殺されたんですね」

 三人の顔を真顔で見つめ、たまこがぽつりと確認するように言う。

「おまえのせいじゃあない。あの男は遅かれ早かれみんな殺すつもりだったんだよ」

 侍が間髪入れず返し、

「自分のせいだと思うのは間違いよ。それはあの男が言ったことでしょう? そんなこと思っちゃ瑞香さんが可哀想ってもんよ」

 昭子がたまこの考えをやんわりと変えて、殺されたのは瑞香だとするりと言って退ける。


 たまこが両目を見開き、ゆっくりと顔を昭子に向ける。

「瑞香さんて、この前来た、あの人のことですよね」

 声が震えていた。

「そうよ。この前ここへ来たとき、たまちゃんは瑞香さんが見えてたけど、瑞香さんからたまちゃんは見えていなかったはずよ。黒い靄に見えてると思うけど」

「なんで瑞香さんには見えないのに私には見えるんですか」

 涙声になっている。


「たまちゃんは畑で自分の足と別の人の頭のほかに、どこかで瑞香さんの一部を見てるはずなのよ。たぶん。思い出せないだけで見てるのよ。だから、彼女が見えたの」

 昭子は何事もなかったように軽く言う。

「私が助けてって言わなければ瑞香さんは殺されなかったんですよね」

 たまこが涙も鼻水も垂れ流して拳を握りしめながら、やっぱりそうなんだと思い込む。


「それはないわね。彼女はあの小屋の中の様子が知りたくて中に入れないか、どこかに隙間がないか探してたの。たまちゃんが助けを呼ばなくても、遅かれ早かれ、彼女はたまちゃんを見つけてたわ。で、彼女によって助け出されてたかもね。でも、それもあの男は見越してたのよ。どうせ二人とも殺すつもりだったんだから。わかった?」

 昭子は優しく微笑みかけ、たまこの目元を拭ってやり、鼻水も拭いてやる。

 昭子の言葉を真剣に聞きながらたまこは顎を下に何度も引き、うんうんと鼻返事をする。

 心のどこかで、自分のせいじゃないと思いたかったのだ。そう思ってしまう自分自身にどうしようもなくやるせない気持ちにもなっていた。

 そんなたまこの気持ちを昭子はうまく取り去ってやったのだ。


「たまこちゃんが見たっていう黒い靄だけどね」

 太郎がわかったとばかりに口を開く。薄気味悪い笑みを浮かべて一人でニヤついている。

「おや、あんた、なんか思い出したね」

 昭子もそんな太郎の態度に、目を細め口を両に裂けるように広げた。

たまこは涙目で鼻水を啜りながら、無防備にきょとんとした顔を太郎に向けた。

「その靄、ほかになんかあっただろう。思い出してみな」

 楽しんでいる太郎に昭子が、なんだい太郎、わかってるなら早くお言いよ。とまたしても言い合いを楽しみ始めた。


「黒い靄は人の形になったり黒い塊になったりしました。時折体が炎に包まれてたし、時折黒い靄で体が覆われてたし、最後には人みたいな形になって歩いてたと思います」

「ああ、なるほど。たまちゃんはその正体が知りたかったのね。それで、幽霊ってもんはああいうものじゃあない。幽霊が火を纏うなんて聞いたことがない。そう思った。だから行き着くところは妖怪になった。そんなところかい?」

 昭子のことばにたまこは大きく頷いた。

「まあ、その答えは今からそいつに会って確認しにいくとしようぜ」

 ニヤッと意味ありげに笑った太郎は、昭子と侍にも笑みを見せる。

「悪い奴だねえ太郎は」

「いやいや昭子さんには負けますよ」

「もういいからそういうの。俺とたまちゃんだけわかってねえじゃねえか」

 侍が二人の掛け合いを遮った。

「たまちゃん、あんた、面白いものに会えるかもしれないよ」

 昭子が、それはもう面白いというように恐ろしい笑みを貼り付けた。

「やめろよ昭子さんその顔。たまこちゃんが怖がってるじゃねえか」

 侍の後ろにこっそり隠れたたまこは侍の着物に顔を隠している。

 あらやだ、あたしとしたことが、いやだようまったく。と、袖で口元を隠してしおらしく笑ってみせたが、もう遅い。

「遅えってんだよ、なあ」

 侍がたまこの頭をやさしく撫でていた。

 太郎はくくくっと喉の奥で笑ってそんなやりとりを眺めていた。


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