六畳一間の瓦葺造りのこぢんまりとした家、真ん中にこたつが一つ。

太郎、昭子、侍、そして猫夜と犬飼が席についていた。

たまこも太郎の後ろに座っている。胸の前には分厚いノートを抱えている。その顔は不機嫌そうだった。


猫夜と犬飼はすっきりとした顔をしている。優しい笑みを浮かべていた。

その二匹の前に太郎が一冊のノートをすと置いた。

猫夜と犬飼が同じ方向に顔を傾けた。


「これは?」

猫夜が白い手をノートに乗せた。そのまま自分のところに寄せる。

「ふわっふわで気持ちがいい。まるであたしの毛のようだねえ。色も雪みたいに純真無垢で真っ白。これもあたしにそっくりだ。いいノートだね」

喉をゴロゴロ鳴らして目を細めた。

犬飼も頷き、そうだねえ、私もそう思うよと言っている。


「そうかい、それは猫夜と犬飼の人生のノートだよ」

「あたしの人生?」

「そう、犬飼もいるぞ。忘れないでやってくれよ。今触ったそのノートの感想が自分の人生すべてってこった。この人生をどう思ったか。猫夜は自分が大好きな人生だったってこったな。犬飼はそれに便乗している。本当に猫夜が好きなんだな」

太郎が珍しく微笑ましい笑みを浮かべた。

それを見て昭子が感心したように鼻声を漏らす。

侍は首を首肯させている。

「あたしの人生はあたしのものだけど、なんで犬飼が」

ちらりと犬飼を見やる猫夜は耳がなぜか悲しげに下がっている。


それを見て犬飼が優しく頷き、

「私は猫夜と初めて出会ったときにね、昔の私と重なったんですよ」

自分のことなど話したことのない犬飼であったが、ここへ来てぽつりと言い始めた。猫夜は犬飼の方に耳を向けた。


大きくなった耳と目を見て昭子が触りたくてたまらない表情になるが、また触ろうとして怒られて嫌われたくないので、鼻で荒く呼吸をしてその欲求をおさえていた。手をもじもじさせながら疼くように体が揺れている。太郎もまったく同じであった。そんな二人を横目に侍は眉間にしわをこしらえ目を細めて首を左右に振っていた。

犬飼は続けた。


私がまだ子犬の頃の話です。

私は捨て犬でした。猫夜を拾ったあの公園で私は捨てられたんです。同じ場所でした。同じく冬の寒さに凍えていたのを巨大な猫が助けてくれたんです。今となっては自分が小さかっただけなのかなと思いますがね。何日も食べていない私はもうダメだと思いました。そんな矢先、猫に助けてもらったんです。


猫には赤ちゃんがいました。私もそこに混じって乳を貰い、獲物の狩り方を教わりました。しかし、猫ってもんは一通り自分の力で生活していく力を身につけると母猫に追い出されるんです。兄弟猫と私は戸惑いました。いつまでも母猫のところにいたかった。

何回も戻ろうとする私らを母猫は威嚇し遠ざけました。

ある朝、兄弟猫とともに目覚めて母猫のところへ行ってみたらもうそこには母猫はいなかったんです。近所を探しましたがどこにも母猫の姿はありませんでした。


「それ以来一度も母猫には会っていません」

犬飼はしゃんと背筋を伸ばし、

「それでよかったんだと思います。今ではその気持ちがよくわかる」

自分自身に納得させるように言い、「誰かが困っているときには助けよう」そう思ったんです。と、つけくわえた。

兄弟猫も散り散りになり、私はあの公園に戻りました。

でも、猫みたいに上手に獲物を捕らえられない私はゴミを漁る毎日でした。そんな時、あの男に会ったんです。猫夜と同じように最初は優しくされ、家に連れて行ってくれて、回復するまで大切に育てられました。病院にも連れて行ってくれて治療もしてくれた。やさしく撫でてもくれた。だから、酷い目にあってももしかしららまた優しくしてくれるんじゃないかっていう期待があったんです。だから逃げなかった。


「しかし、結局最後に見たあの人の目は私を殺す楽しんだ目をしていた。そこに愛情は見出せなかったんです。猫夜には悪いことをしたと思っています。猫の中に好奇心が住み着いているのを私はよく知っていたのに拾ってきてしまったんですから」

本当に申し訳なさそうに猫夜に頭を下げた。

「何をいうか犬飼。あたしはあたしの意思であの家に行ったんだ。おまえに同情されるいわれはないよ」

ぴしゃりと言い退けた猫夜であったが、その小さい手から伸びる爪はノートに深く入り込んでいる。泣きそうになるのを堪えていた。犬飼には見られたくないのだ。


犬飼がありがとうと言うように優しい目を猫夜に向け、「そのノート、私にも見せておくれ」とノートに目をやり、手を伸ばそうとした。猫夜は食い込ませている爪のあとを見られると思って一瞬体が強張る。犬飼は猫夜の気持ちに気づいていない。しかし、そういう気持ちの部分だけは汲み取るのが上手な犬飼だ。きっと猫夜の気持ちもすぐに感じ取るだろう。


「いい話だわあ! 感動した。猫ちゃん、あたしにそのノートを触らせて。あなたを触れないならかわりにそのノートでいいから」

昭子が猫夜の気持ちを察し、自分の目に涙を浮かべてノートに素早く手を伸ばす。

猫夜は自分のノートを取られると思い、伸びた手に無意識にパンチを入れたが昭子が華麗に避ける。ノートを引く。爪が刺さったまま引きずられ、犬飼がああと声を漏らす。

昭子の手を止めようと猫夜が反対の手で昭子の手をパンチするもするりとかわされノートに爪が入る。昭子がノートを引くと食い込んだ爪も一緒に引かれ、新たに爪痕が入る。

数回そんなことを繰り返し、

「やめてください、ノートが破れちゃいます」犬飼が泣きそうな声を出す。

昭子がぱっと手を離す。犬飼が素早くノートを自分の元に滑らせる。猫夜が咄嗟に犬飼の手元を見る。

「ほら、こんなに傷だらけ」

犬飼が昭子に抗議の目を向け、「悪かったわね。でもわざとじゃないんだから許してちょうだいね」と昭子が胸の前で手をきれいにちょこんと合わせた。

最初に自分が立てた爪痕はうまい具合に引っ掻き傷で隠されていた。


猫夜が息を飲んで昭子に目を向ける。

まん丸い瞳に見つめられて昭子が「はう」とたまらん声を漏らす。お目目がまん丸の猫夜が可愛くて仕方ないのだ。

猫夜は昭子がわざとノートを引っ張ったのだと気づいた。しばらく昭子の顔をじっと凝視し、昭子は頬を膨らませて眉を垂れ放題に垂れさせて猫夜を見つめていた。


「なんにせよだ、復讐はできたんだからよかったってことだな」

太郎が猫夜と犬飼に言い、温かいミルクを出してやる。

二匹は気が晴れましたとばかりに笑みを浮かべた。


ミルクを見ると、猫夜のヒゲがぴくっと嬉しげに跳ね、喉がごろごろと鳴る。

犬飼も尻尾をぶんぶん振った。悪気はないのだが体が巨大な分力も強くなる。その尻尾が猫夜の背を打ったものだからまたしても猫夜のパンチをもろに尻尾に食らうことになる。腰を浮かして尻尾を腹の内に収納すると尻尾の先がまだ嬉しさに左右に振れている。


穏やかな表情の二匹はお互いの背をピタリとつけた。猫夜はこたつのテーブルに前足を乗せて立った格好で、犬飼は顔をこたつに近づける状態で温かいミルクを飲み始めた。

無意識に揺れている猫夜の真っ白くてきれいなふさふさの尻尾が犬飼の背に優しく当たる。


ミルクを飲み干す頃になると二匹の姿とノートは透き通りはじめ、本人たちも気づかぬままに行くべきところへと逝ったのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る